二兎を追うなら絶滅させる勢いで
人間だって動物だ。
どれだけ着飾り、知恵を着けても、本能から発生する欲望からは逃げようがない。
眠らなければ死ぬ。食わなくても死ぬ。そして種の存続のために恋をする。いくら紳士だ淑女だと言っても、トイレには行くし鼻毛も生える。
そういう抗えない真実から、目を背け、耳を塞ぎ、お行儀よく生きているのが悪いとは言わない。
ただ、僕はその限りでは無いというだけだ。
発生する欲望から目を背けずに、自分のしたい事にはとことん付き合ってやろう、と決めただけだ。
けれど現代社会はそういう人に厳しくて、ルールや法律を守らなければ色々と不都合が発生する。飯を食うには金が居るし、おっぱいを揉めば叩かれる。眠い時に寝ようとしても、授業をサボれば叱られる。
そういうデメリットを無視してまで自分の欲を通しても、総合的に損になる事が多い。
なので僕は涙ぐましくも、真面目に高校に来て授業に出席している。
とはいえ、実はあんまり苦ではない。先生の声は耳に心地良く、飽きないからだ。
「日本にキリスト教が伝来したのは、1549年。スペイン生まれの宣教師、フランシスコ・ザビエル氏による功績です。彼によって日本にはキリシタンが生まれ、鎖国時代の紆余曲折あれど、今の時代に根付いているのです」
現在は世界史の時間だったけど、教壇で語られるのはどちらかと言えばキリスト教史。
それというのも、世界史担当の講師であるエル先生の趣味のせいだ。
金髪碧眼のれっきとしたイタリア人であり、いつもシスター服を着用している。敬虔なクリスチャンだが日本マニアで、お聞きの通りに日本語も流暢だ。
なんでも、現代の高校生にキリスト教の文化を再度伝来したくて来日したそうだが、僕としては先生は、修道服の素晴らしさを伝来しに来たのだと思う。
先生はおっぱいが大きい。
清楚で飾り気のない修道服の下からでも、喧しい程に自己主張している。
むしろ、飾り気がないからこそ良い。あの地味で肌を隠しまくる修道服だからこそ、先生のボディラインが悩ましく輝くのだ。素晴らしいね。正直言って宗教にはなんの興味も無いんだけど、宗教関係者の服って素晴らしいよね。巫女服に匹敵する破壊力を秘めていると僕は思うね。禁欲的だからこそ、こう、抑えられた破壊力を感じてしまうよね。
「日本に伝えられたキリスト教にも、七つの大罪という概念が含まれていました。元は八つありましたが、現在では整理され、七つとなっています。日本には百八つの煩悩という概念もあるそうですね」
しかし、僕は先生ばかり見ている訳にもいかない。授業中とはいえ、忙しいのだ。
僕の席は窓側最後列であるのだが、このポジションの素晴らしさは、学生時代を過ごした者なら解るだろう。
季節的に日差しも心地よく、程良くぽかぽかと照りつける太陽が、僕のコンディションを最高潮に引き立てる。バイオリズムが安定すれば、心も活発になるものだ。
前の席には大柄な同級生、室井が居り、先生からは死角になりやすい。とはいえ二重三重の防護策は必要なので、教科書を立てて身を隠している。
「大罪とされる七つの欲望は、人間を罪に導く種とされています。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲……」
鼓膜に、先生の咳ばらいが届いた。同時に、脳内に赤信号が灯り、警告音が頭蓋に響き渡る。何度も経験したパターンであり、この後の展開も大体は決まっている。。
うん、バレてますね。観念するしかないですね。
「それを踏まえて……光橋くん。光橋誠二くん」
「はい、なんでしょう先生」
「貴方が今している事を、細かく、理由もつけて言って御覧なさい。ちなみに全部把握してますよ。いつもの事なので」
「……校庭で体育の授業をしてるので、女子のおっぱいが揺れるのを眺めてましたが、うち一名が彼女らしき女とイチャつきだしてムカつくので呪いを込めつつ、授業もめんどいし腹も減ったので弁当を食べてましたけど、罰は無しにしてくれると助かります」
先生はにっこりと笑うと、僕の席の傍までつかつかと歩いてきて、クラス中に向かって言った。
「はい、先ほど言った七つ全部兼ね備えているのが光橋くんですね。ふふっ、悪い見本がいると先生、説明が楽でとっても助かりますよ」
「本当ですか! じゃあ感謝の印として僕を許してください!」
「廊下に立ってろ」
はい、いつもみたいにバケツ一杯に水を入れてくれば良いんですね。解ります。
でも先生、聖職者なのに口が悪すぎると思うんですけど、そういうのってシスター的に
良いのでしょうか。
◇
「うっへぇ、疲れたぁ……」
昼休みを迎えたが、僕の両腕は痺れて箸も持てなさそうだ。まあ、弁当はさっき食べてしまったのだけど。
教室はすっかり乱雑としていて、みんな席を思い思いに移動してグループを作り、食事を始めて居る。人の数が少ないように見えるが、それは購買組が授業終了と共にダッシュしていくからだ。我が校の購買は商品の人気が極端で、いつも激しい争奪戦となるので、教室が本当に賑わうのはそれが終わってからとなる。
そんな中、弁当組はのんびりとゆとりのある教室で、優雅に食事を始めるのだ。
「相変わらずだなあ、光橋。なんでお前は懲りないんだ?」
弁当組である室井が逆向きに椅子にすわり、僕の机で食事を始めている。今どき男らしい角刈りが、がつがつと弁当を貪る姿によく似合う。
「室井、僕はいつも言ってるけどね、怒られるからって自分の気持ちに嘘をつくのは行けないと思うんだ。そりゃ、単位や出席日数があるから授業には出るよ。でもテストが良ければ授業中に何してようが自由じゃないか」
「お前はテストも悪かったじゃねえか」
「次のテストはまだ解らないだろ! 未来は未知数だぞ!」
「うん、でも予測は出来るよな」
相変わらず面白くない事を言う奴だ。憐れむような温かい目が特に腹立つ。腹が立つと腹が減るので、室井の弁当から卵焼きをかっぱらう。
「あっ! テメーはさっきメシ食ったばっかだろ!」
「まだ育ち盛りなんでね、あの程度じゃ足りないだよ」
「じゃあ購買でパンでも買ってくりゃ良いじゃねえか」
「ははは、今からじゃ無理だろ。ってか廊下に立たされた時点で詰んでる。それに昨日の帰りに林檎書店に行ったら、欲しかった漫画が全巻揃っててな。大人買いしたんでもう金が無いのだよ」
「おまっ……ほんっとその場の欲求に逆らわねえな、お前は……」
呆れたように瞼を細める室井。この反応もとっくに慣れている。
というか、室井の場合は小学校からの同級生なので、高校一年の今に至るまでの十年近くはこの反応を見続けて来た。僕もそれだけ変わらないと言う事だ。
「僕はね、今ってやつを大事にしたいんだ……今。思い立ったら今なんだよ。躊躇したら今ってのは逃げていくのさ。漫画だって買うのをためらったら、別の奴が買っちゃうわけだよ。それは掛け替えのない今を逃がした事と同じなんだ」
「そっか、俺は今より未来が好きなんだ」
「ホント面白くない奴だなあ! お前はあれか? 今時期から進路を進学に決めて、将来は公務員になって、老後に向けてコツコツと貯金をしていくタイプの人間かぁ⁉」
「ああ、出来れば定期預金にしたいと思ってるんだ」
駄目だコリャ。いくら長い付き合いとはいえ、こいつとは根本の価値観が違う。まるでひっそりと成長する草のような奴だ。
室井の発言に溜め息をついていると、横から近寄って来る影があった。
顔を向ければ、見知った女子がそこに居る。
「芹香じゃん、どうした?」
というか、僕の所へ何の抵抗もなく近づいてくる女子と言えば、守山芹香くらいしかいない。室井同様に小学校からの付き合いである。それ以外の女子は僕を便所コオロギのような目で見るので、普通に接してくれる芹香は貴重な存在だったりする。
芹香はいつも通り、茶色いセミロングの髪を赤いヘアピンで纏めていた。他に目立ったお洒落はしていないけれど、小さな卵型の輪郭に、ぱっちりとした猫のような瞳が今日も見栄える。ポテンシャルだけで十分に人目を引くタイプなのだ。
小学校の頃は意識していなかったが、中学くらいから「こいつ美人じゃね?」と気付いたものの、幼馴染と言う関係のせいで異性的な感覚がすっかり失せてしまった。
おかげで気楽に話せるのは、それはそれで有りがたい。
「箸を忘れてきちゃったんだよ。みっくん、お箸ちょーだい」
みっくんと言う呼び名も小学校から変わって居ない。
他の女子もこの名で呼んでくれるとちょっと嬉しいのだが、奴らは僕をみっくんではなく、ミミックと呼ぶ。外見が人畜無害そうだから騙されそうなのが由来、などとほざいて居た。じゃあ僕の中身は有害だとでも言うのだろうか。
それはともかく、僕は鞄のほかに用意してあるナップザックから、いくつかの割り箸とケースに入った箸を取り出した。
「切れ目がハンパなのが一円、普通のが三円、つまようじ付きは五円、普通のレンタル箸は十円」
「足元を見おってー……五円のちょーだい」
僕は五円玉を受け取って、コンビニのロゴ入りの割り箸を差し出した。売買契約はしっかり成立したのに、芹香は口をとがらせている。
「貰う側でなんだけどさー、みっくん、こう言うのもうやめた方が良いよ? セコすぎるよ。だからセコムとか呼ばれちゃうんだよ」
「また僕の仇名増えたの⁉ って、それはともかく……売買が成立してるんだから文句言うな。買った後じゃ説得力無いぞ」
「でもさー、あんまりだよ。シャーペンの芯は一円、消しゴムのレンタルは一時間につき百円、別のクラスへの教科書のレンタルは二百円、がめつすぎるよ。ケチだよ」
「皆それで助かってるじゃん。僕はきちんと商売としてやってるわけだぜ? 商品の対価にお金を貰って何が悪いんだよ」
当然の論法だと思うのだ。
僕のように欲求に任せて生きていると、非常に金がかかる。その資金の供給は、小遣いとバイトだけではちょっと追いつかない。なので機会さえあれば、せっせと小銭を稼ぐのだ。これでもジュース代くらいにはなる。
別に盗んだり、だまし取ったりはしていない。ルールに乗っ取り、合意の上で稼いでいるのだから、とやかく言われる筋合いはない筈だ。
「そういうゆとりのない心だから彼女ができないんだよ」
鈍い効果音が、僕の心臓あたりから響いた気がした。室井が僕の顔を覗き込んで「あ、クリティカルヒット」とか言ってやがる。ぶん殴るぞ。
「女の子はね、大きな男に憧れるんだよ。別にデートで奢れとか言わないけどさ、みっくんみたいにお互いの食べた分量を計算して、一円単位で割り勘しようとするのはちょっと、うん、無いよ」
「じっ、自分の食った分だけ支払うのは何も間違ってないだろ⁉」
「論理的にはともかく、人としてちょっと間違ってる感じだよ。エル先生に言わせれば、強欲って奴だよ」
芹香と僕の間には遠慮が無い。その上に素直な女なので、こう簡単に人の精神を痛めつけて来る。
鳩尾に膝を叩きこまれたような鈍痛が、心の深い所から響いている。
「ち、ちくしょうっ……なんだよ! 対価なしでサービス受けようなんて女子はみんなビッチじゃねえか! 僕は悪くないよ! なのに中学も高校も彼女ナシ童貞野郎のまま、この先も可能性が見えないのは僕のせいだって言うのかよ!」
「言うんだよ」
言われてしまった。
いや、おかしいよね。ほら、誰だってさ、進学の時には夢見るじゃない。
僕はさ、中学生になれば自然と彼女が出来ると思ってたんだ。なんかこう、普通に生きている上でそれが当然の人間的生活だって思ってたんだ。
が、何故か僕の中学生活は女子と言う女子を寄せ付けぬままに終了。
アニメやマンガのようなドキドキラブラブなストーリーは展開せず、女子達は僕を見るなり、エロ方面では「野猿」だの「ドスケベジャングル」だの「エロの不快魔」だの、ケチ方面では「サラ金」だの「タクシーメーター」だの「タカリ魔クリスティ」だの不名誉な名前ばっかりで呼びやがってさ!
高校生にさえなれば、ハイスクールライフでなら、恋に飢えた女の子たちとの甘い展開が期待できると思ったのにさ、これだからね。何が悪かったんだろうね。
「ちっきしょおおおお……いくら払えば彼女ができるんだよぉおおっ……」
「光橋、その発言はいろいろとな、危ないからな」
室井がぽんぽんと肩を叩いてくる。しかし、なぜこいつはこんなに余裕なのだろう。
つれない態度に不満を募らせながら、僕は願望だけをべらべらと垂れ流していく。
「あー、もういっそ彼女とか贅沢言わないからさ。最初はワンステップだけで良いからさ、とにかく女子と触れあいたいよ」
「まあワンステップだけなら付き合ってあげないでもないよ」
と、芹香が言ってくれるので。
「マジか、じゃあまずはおっぱい揉ませてくれ!」
「死ね」
「だ、騙したんだなッ⁉ くそぉおおお……!」
悪質な詐欺にあってしまった。
そりゃね、机に突っ伏して号泣もしますわ。室井の弁当に鼻水とんだけど関係ないっすわ。
「っていうか光橋、お前にとってワンステップめが胸なのか?」
「一段どころか五、六段くらいは飛ばして踊り場に上ってるよ、みっくん……」
のたうち回る俺に、二人の冷たい視線が突き刺さる。
いや、これはクラスの女子全員から来てるな。バシバシ来てる。誰も喜んで揉ませてくれそうにはない。寒い時代になったものだ。
「いいよ、いいよもう、キャンパスライフに全てを賭けるよ……」
「そう言う問題じゃ無いんじゃないか?」
「仕方ねえさ、僕達の高校生活はきっと寂しく終わるのさ。でもよ、友情は愛情よりずっと堅牢だよな! 室井、この寂しく厳しい時代を二人で乗り切って行こうな!」
号泣しながら室井の手を力強く握りしめる。
こいつは僕と同じ、中学時代を恋愛もせずに寂しく過ごした男だ。毎日その寂しさを野球にぶつけて紛らわしていたんだ。僕だけはお前の孤独を知っているよ!
――あれ?
室井、なぜ目を背ける? その気まずそうな顔はなんだ? どうしてバツが悪そうに鼻を掻いている?
「いや、光橋。実はさ」
「……………………お前……そんな、いや、まさか……」
「うちのクラスの遠藤さ、中学の頃、野球部のマネージャーでよ。割と絡みはあったんだがー……まあ、その、な? ちょっとこう、雰囲気っつーか、ほら、付き合ってみようかっていう話になってよ……」
「ちょ、マジそう言うの勘弁なんだけど……体力馬鹿のお前に彼女が出来るとか……」
「すまん、実は先月から付き合ってたんだ」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおらっしゃあああああああああああああああああああああああああああっ!」
渾身の手刀を室井の喉にブチ込む。
鶏を絞めたような声が出ていたが、もう気にしているだけの余裕はない。
「この裏切り者がぁああああああっ! 僕をっ、僕をそんな長期間にわたって欺きやがってぇええっ! 爆発しろっ! ケツにセメントが詰まれっ! 幸せになれぇっ!」
自分でも訳のわからない罵倒を叩きつけ、教室から走り去る。
芹香が引き留めようとしていた気がするが、もう涙で何も見えなかった。