強欲な僕と
僕はルキさんからヘアゴムを借りると前髪を上げ、後ろで括るようにして縛った。
ルキさん曰く、林檎書店を出ればすぐにウリエルに見つかってもおかしくないという。
だから、僕はいっそ自分からウリエルを目指して進んでいった。ついでに、ルキさんの家からいくつか道具を貰っていく。代金はツケだ。
僕の家から転移させられたあの場所は教会のように見えたが、この町に教会と呼べる建物は一つしかない。
学校の付近にある、管理者のいないはずの廃教会。扉が常に固く閉ざされているものの、建物に朽ちた様子が見られない不思議な場所。そここそが、ウリエルの待つラストダンジョンであるという僕の推測は、彼女本人に迎えられたことで肯定された。
「突然逃げたと思ったら、自分の方から戻って来るとは……何か、策でも考え付きましたか?」
「……」
僕は先生の問いに対して、その場に跪き、両手を組むことで応える。
「………………違います、先生。むしろ、僕は諦めたんです」
「な、なんですって?」
「少し考えて、先生の言ったことが正しいとわかりました。けれど、僕の中にはまだ欲望の火がくすぶり続けているんです……頭では理解しても、一度悪魔に触れた身では、心の底から真っ当になれないんです」
「……そ、そうですか。悔い改めたのなら、私も吝かでは無いですが」
僕がどんな表情をしているのか、自分でも解らなくなっている。だから、ウリエルに顔を見せないようにして頼んだ。
「だから先生……僕の中にある欲望を、徹底的になくして下さい。きっと、僕が欲深いから、悪魔の死に動揺するんです。もう悲しくならないように、残らず欲望を吸い上げて、浄化してください」
それを聞くと、ウリエルは一瞬だけ戸惑ったように動きを止めた。
肩越しに視線だけを向けると、ウリエルはきょとんとした表情を次第に微笑みに変え、これでもかと慈愛に溢れた笑顔を作り出す。
「誠二くん、やっと改心してくれたのですね……! 解りました。あなたの中の悪しき心を、全て浄化して差し上げましょう」
ウリエルが僕の背後に回り、その翼を大きく広げる。掌が背に触れるのを感じ、僕は目を閉じて、深く心の底へと意識を沈めていく。
そうして、ウリエルは僕から欲望を吸い上げはじめた。
僕の中から得体のしれない物が抜けていき、それがウリエルへと流れ込んでいく。そのたびにウリエルの翼が光の飛沫らしきものを散らしていく。あれが浄化された後の、僕の欲望なのだろうか。
ウリエルは絶え間なく、その浄化の力を行使した。
その様は、本当に心から僕を救済しようとしているように見え、実際に彼女はそのように奮闘していたのだろう。
――――が。
「……え、あ、あれっ……?」
ウリエルが戸惑いの声を上げた。
合わせて、その表情がだんだんと苦しそうになっていく。やがて、その手を僕から離そうとするのを――見逃すはずがなかった。
僕は腕を回してウリエルの手を掴み、自分から離れられないようにする。
「な、何をっ……」
「どうしたんですか、先生。完全に浄化してくれるんじゃ無かったんですか?」
「ちょ、ちょっと待ってください、こんなっ、こんなっ……」
先生の腕の周りに、淀んだ黒い靄がまとわりつきはじめる。おまけに、翼から放たれていた光がくすみ始め、ドス黒い瘴気へと変貌していく。
「や、やっ……なにこれ、入りきらないっ…………!」
ウリエルの足に力が入らなくなり、へなへなと座り込んでいく。僕は先生と自分の間にまだ、欲望の流れが繋がっているのを確かめて、その手をしっかりと抱え込んだ。
「やっ……も、もう要らないっ、吸えないですっ……何で勝手に流れ込んでくるんですかっ……!」
「職務放棄はいけないでしょう先生……ほら、僕に溜まって溜まってどうしようもない物をガンガン吸い上げてくださいよ、ほらほらほらぁ!」
「い、いや、駄目ぇっ……入ってこないでぇえええええええっ……!」
何やら不穏な会話になってきた気がするが、明らかにウリエルの様子はおかしかった。
空気清浄器や濾過装置だって、許容量以上の汚れを吸い込めば壊れる。
他の連中はともかく、僕の欲望は悪魔がサジを投げた代物だ。
悪魔のマモンにすら、「謙虚になれ」などと言われた物だ。
ならば、天使ですら扱い切れない可能性は、十分に考えられた。
「……散々上から目線でしゃべってくれたけどなあ、天使ごときがあんまり人間を舐めるなよ……!」
「だっ、騙したんですね……?」
「あれだけ人のパートナーを散々貶めておいて、敵意が無いとでも思ったのかよ! 平和な天国生活でボケてんじゃねえか? 少しは社会を知るんだな!」
ばちっ、と火花が散って、ウリエルの羽が黒い煙を上げていく。すると、真っ白だったその羽が、次第に黒ずんで羽毛を散らしていく。
僕は確信した。
危ない橋ではあったが、この突発的な閃きはおそらく間違ってはいない。
「爺さんは言っていた。『人を騙してはいけない』と」
「い、今騙したじゃないですかっ……!」
「爺さんは言っていた。『定められたルールには従うべきだ』と」
「る、ルールに反逆してる真っ最中じゃないですか……!」
「爺さんは言っていた。『女の子には優しくしろ』と」
「…………だ、だから何一つ守ってなっ……」
「そして爺さんは、爺さんは言っていた……『ただし、敵と認めた相手にはその限りではない』と!」
ウリエルへと満ち始めたドス黒い靄が、よりそのペースを速めて体を蝕んでいく。
「天使って、神に背いたり煩悩に支配されると、悪魔に堕ちるらしいな……僕の欲望を吸いきれなくなったあんたは、浄化できない煩悩を貯め込むしかないよな?」
「なっ、ま、まさかっ……」
「駄目押しだ、こいつを食らえっ!」
ズボンのベルトに挟みこんでいた本を抜き取ると、片手でページを開き、ウリエルの眼前へと突きつける。
「な、それは一体っ………………ひぃいいいいいいいいいいいいいっ⁉」
悲鳴を上げるウリエル。それはそうだろう、僕が持って来たのはルキさん店の商品である、いわゆる「いやらしいBL本」である。
それも、ショーケースに陳列されるプレミア物。カラー原稿によってえげつない描写がモザイクギリギリで展開される極上の品だ。BL本と言うよりホモ本と言った方が良いレベルである。ちなみに八千円くらいした。
先生は「信じられない」とでも言いたげな顔でカルチャーショックに震えているが、見れば、羽が黒ずんでいく速度が増している。
へへへ、そうだろうな。あんたがこの手のジャンルに興味が有るのは知ってんだよ。都条例よりも貞淑な環境で育った天使には、ストレートなお下劣本は効くだろう。
「おや先生、なんだか堕ちる勢いが増した気がしますが……もしかしてお気に召しましたか?」
「なっ、ななっ、そんな馬鹿なっ……!」
「いやー、でも目に見えて力が増している気がしますよ。羽はバタバタしてますし、ちょっと頬もニヤけているような……」
「しっ、し、知らないっ! こんなの知らないもんっ! 私、そんな冒涜的な本なんか読みたくないもんっ! 気持ち悪いっ!」
僕は先生の腕を抑えたまま、片手で器用にべらべらとページをめくって行く。内と外からダイレクトに煩悩を供給し、ウリエルをガンガン落としていく。
「おやおやぁ? 先生、視線がさっきから外せてませんよぉ? 口ではアガペーだかポコピーだか言っておいて、行動はがっつりエロースじゃないっすかぁ。天使がそれで良いんですかぁ? 先生はとんだいやらし天使ですね! セクシャルエンジェルウリエルちゃんですか! 語呂が良いですね!」
「や、やめてぇっ……そんな事いわないでぇっ……!」
とか言いつつ、羽がばっさばっさと羽ばたいている。マモンが同じ動作をした時は喜びのサインだったので、まちがいなく嗜好にヒットしている筈だ。
そうやって羽ばたき続けるうちに、ウリエルの羽から羽毛がどんどん抜け落ちて行く。
そして――。
「えっ……う、嘘っ……」
茫然としたウリエルの声と共に、その下からコウモリのような黒い羽が現れた。マモンの物に比べても大きいが、それは確実に、天使のものではない。
と同時に、ウリエルが首から提げていたロザリオが激しく反発し、ウリエルが苦しみ始める。
それはまさしく、マモンが天使の光に焼かれた時と同じだった。
「きゃっ、あっ、あああああああああああああああああああああああああああっ!」
悲鳴を上げながら体を強張らせ、苦しそうに喘ぐウリエル。
やがて、耐え切れないように息を荒げながらロザリオの紐を握り、力任せに引きちぎった。力なく崩れ落ち、跪くウリエルを見下ろす。
「おいおい、良いのかよ。天使様が十字架を無下にして」
「……わ、私をっ……堕天させるなんって……ぅっ……あ、あなたっ……やってくれましたねっ……あの規格外の欲望といい、本当に人間なんですかっ……?」
「はっ! こちとら最低でも世界征服が目標なんだ! 天使一人ごときに受け止められるやわな欲望だと思ってんじゃねーよ!」
中指を立てて啖呵を切ると、ウリエルはわなわなと振るえて、唇を噛み締めた。
悪魔と同一のものとなった真っ黒な羽をはためかせ、威圧感を込めた瞳でこちらを睨みつけてくる。
「……はぁっ、はぁ……許しませんよ、こんな屈辱っ……あなただけは、絶対に……」
その手はもう、神々しい光を宿さない。代わりに、敵意と怒りを形にしたような、禍々しく赤い炎を出現させる。
「……貴方だけは、この手で消し墨にしてやるっ!」
「悪魔らしい事を言うようになったじゃねえか」
「何故そんなに余裕で居られるんです……? 堕天したとはいえ、人間如き始末できない私ではありませんよ?」
「なあに、爺さんも言ってたさ。『目には目を、歯には歯を』って。天使が相手じゃ分が悪いかも知れないが……悪魔と悪魔ならどうだ?」
そして、僕は懐から切り札を取り出す。
ルキさんから託された、そして爺さんから残された、青のグリモワールを。
「それは……! し、しかし、貴方の使役している悪魔は、すでに命を持たない筈っ……」
「そいつはどうかな」
ルキさんから聞いた。
グリモワールは悪魔を呼び出すアイテム。それは契約のためにも使われるが、使役関係となったパートナーを呼び出すためにも使用できると。
僕は魔法陣のページを開き、カギではなく、ソロモンの指輪を押し当てる。
「――来い、マモン」
そのページから魔法陣が展開し、マモンの身体が目の前に姿を現した。空中に現れた魔法陣の上に、仰向けになる形で宙に浮いている。
未だその目は閉じたまま、四肢はだらりと下がり、羽は穴だらけでボロボロだ。それを見たウリエルは嘲るように、半分は安堵するように嗤う。
「は、はははっ……やっぱりただの死体じゃあないですか。そんな物を呼び出してどうする気なんですか? 悪魔が燃えるゴミなら、死んだ悪魔など燃えたゴミですよ!」
ウリエルの言葉は、現在の自分を貶める物でもあると気付いて居ないのだろうか。
僕はその言葉を気にせず、マモンの首輪へと、ソロモンの指輪を押し当てる。
悪魔との主従を表す枷でもあり、僕とマモンを繋ぐ鎖でもあるこの輪へと、僕は強く願いを――いや、飽くなき欲望を込めて、命令を下す。
これはただの言葉では無い。
悪魔へと下す、強制力を持った命令なのだ。
「『光橋誠二が名において命ずる』…………――――『蘇れ』ッ!」
瞬間、僕とマモンの身体から深青の輝きが弾ける。僕の身体から莫大な何かが抜け出して、それがマモンへと流れ込んでいく。
同時に、ボロボロだったマモンの翼が、艶やかな程に傷のない姿へと復元し、ウリエルのそれを超える程に大きく広げられる。
躯でしかなかった身体には血が巡り、その体がゆっくりと起き上がる。閉じられていた瞼が大きく見開き、その瞳は業火の如く蒼へと染まる。
実感する。この身体はもう躯ではない。
魂が。マモンが。還って来た。
間違いなく、これ以上なく、マモンの身体は「満たされて」いた。
「…………誠二? あれ、なんじゃ、これは……」
目を見開いてから数秒して、マモンがきょとんとした表情で僕を見る。僕はマモンへと歩み寄ると、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「んなっ! ちょ、いきなり何しとるんじゃお前! じ、事態が呑みこめんぞ? あの、ちょっ、せ、誠二っ……」
「……ははっ、いや、ちょっとな……思った以上にキツかったもんでさ……」
マモンとは対照的に、僕の身体は一瞬で「何か」が抜き取られて行った。手足の先が冷たく、身体に力が入らない。抱きしめたと言うよりも、身体を支えられなくてしなだれかかったのだ。
けれど、密着したマモンの身体は温かい。
彼女が生きている。それだけで、この苦しみなど気にする物でも無い。
「……あり得ない」
力ない声に振り向くと、ウリエルは驚愕の表情を浮かべていた。
「そんな……確かに、彼女は死んでいた筈……いくら使役の力と言えど、『蘇れ』等と言う命令で、本当に蘇るなんてっ……」
「……ははっ、ざまあ見ろって話だよ」
顔の筋肉を動かすのも苦しいが、それでも、ウリエルが悔しがるなら笑ってやる。
同時に僕は、ルキさんに心の中で深く感謝した。
◇
――ルキさんの家を出て来る直前。爺さんが使った「魂を削る願い」について問い詰めた。すると、ルキさんは簡単に答えてくれた。
「『ゼバオトの呪文』と言うのだがね、グリモワールを所持した状態で、特定の口上に基づいて命令を下す事で発動する」
「グリモワールが必要なんですか?」
「ああ、魔法陣から、使役しているのとは他の悪魔にチャンネルを繋ぎ『契約』を発動して、その力を指輪から『使役』に重ねるんだ。その際、支払った魂はそのチャンネルを繋いだ悪魔へと流れ込むのだがね」
「……」
「この青のグリモワールには先ほど、私へのチャンネルを繋いであげたよ。使おうと思えばいつでも私が『契約』の力を振るってあげよう」
「…………ルキさん、最初から使わせるつもりだったんじゃ」
「私ももっと力を回復し、悪魔に戻りたいのだよ。君がゼバオトを使って無理な願望を実行しようとするほど、大量の魂が得られるだろうね」
「……ルキさんって、悪魔ですね」
「そうだよ? でも、お互いが納得すれば対等な契約だろ?」
「ええ、五円玉と割りばしの交換みたいなもんですよ」
「ふふっ……話が解る子は好きだよ」
「やられる立場になると最悪だって、良く解りました」
◇
最初からルキさんの掌の上で踊らされた気がするが、それを恨みがましく言うつもりはない。
今は、ウリエルの狼狽にほくそ笑んでいるだけで良い。
「馬鹿なっ……一度失った命まで甦らせるなんて……こ、こんな事、神の所業にも等しいっ……!」
たじろぎ、後ずさるウリエル。
すべての事には理由があり、理屈が通る。マモンの復活に対して支払った物も確かに存在する。その結果が、今の僕の身体だ。
だが、ウリエルがそれに対して恐れ戦くのならば、ハッタリをかましておいてやる。
「……神だの天使だの悪魔だの、発想が貧困だってんだよ。マモン一人生き返らせるくらい、僕にとっちゃあ訳ないぜ」
「なっ……何者なんですか、貴方はっ……!」
ウリエルの問いかけに、僕は目いっぱいの力を振り絞り、笑って見せる。
「そりゃあもちろん――、人間様だよ」
「っ…………に、人間如きに出来る芸当では……」
「おいおい舐めんなよ。地球上に現れて七百万年、いまや世界に六十億。電気に石油に原子力、自然を操り宇宙にまで届く、この星の歴史上最強の、もっとも欲深い生き物だぜ。死者の蘇生程度なら、科学者先生がちょいと倫理を無視すれば、十年とかからず出来る芸当だろうさ」
「あり得ない! 貴方は命を冒涜しているっ……!」
「その命をゴミみたいに散らした奴に言われたくねえな!」
「減らず口を!」
ウリエルがその手から火球を放つ。
間髪入れず、マモンが僕の前へと立ちはだかり、その火球へ向けて念動力を発揮する。火球はその射線をずらしたものの勢いが死ぬことは無く、僕らの近くで爆発を起こし、爆風に体を煽られる。
「はははっ……それ見た事ですか! たとえ私に聖なる力が無くなっても、そもそもその悪魔とは力量が違うのです! 悪魔対悪魔なら勝てるとでも思いましたか」
ウリエルはそう言いながら、今度は両掌に火球を出現させる。マモンの今の調子では、一発の弾道を逸らすのが精いっぱいだろう。
「ぐぬぬっ……こやつ、やはりとんでもない魔力量じゃ。なんで堕天しとるのかは知らんが、ちょっとこいつは厄介じゃぞ……」
「もともとの天使が強ければ、悪魔になっても強いってわけか。なに、やりようはあるさ」
僕は再びマモンの首輪へと、ソロモンの指輪を押し当てる。
「せ、誠二?」
不安げな目で見つめるマモンの頭に、指輪の嵌めていない方の手を置いて撫でる。
「……悪いな、マモン。結局お前に命令するような感じになっちゃってさ。でも、僕はあのウリエルを放っておくわけにはいかない。この場でやられるつもりもない。だから、お前の力が必要なんだよ」
そう言うと、マモンは少しだけ動かずにいたが、やがてその顔を笑みに変えながら僕の指輪側の手へと手を重ねてくる。
「なあ、誠二よ……わしは最初、人間に使役されるのなど真っ平御免だとおもっとった……じゃがな、今は違う。お前の願いを心の底から叶えてやりたいと思う。こんな気持ちは初めてじゃ」
照れたようにして、マモンはその指先で僕の指輪をなぞった。
その動きに呼応するかのように、マモンの首輪と僕の指輪がそれぞれ、眩い光を放つ。
ウリエルの放つ、あの焼き尽くすような光とは違う。暖かで心に満たされるような、優しい光。
僕とマモン、使役する側とされる側。二つの意志がまったく同じ方向に向いたことで、そのつながりが強固な物へと変わっていくように感じる。
「しかし誠二、あの天使を倒すとなると、ちと大事じゃぞ。よほどの策があるのじゃろうな」
「策なんてないさ、僕にできるのは欲しがる事くらい。そして、叶えるのはお前だ」
「人を無視していちゃいちゃとしているんじゃありませんよっ!」
ウリエルが少々ズレたことを言いながら、両手の火球を同時に放ってきた。大きさからして避けるのも難しそうに思える。
だが、僕は最初から避けるつもりなどない。
こちらにはマモンが居る。ソロモンの指輪が、グリモワールが有る。
そして僕は今、確信している。
何かを叶えたいと願う時。そのもっとも近く大きな道は、やはり真っ向勝負なのだと。
「マモン、あのいけ好かない天使を懲らしめてやれ」
「いや、じゃから正面から出来る物ならやっておるわ。わしの力では、あの天使に真っ向から対抗することは……」
「なら――『光橋誠二が名において命ずる』、『今すぐウリエルをぶっ倒せるようになれ』」
「なんじゃと⁉」
マモンが驚愕の声を上げた瞬間、首輪に灯っていた光が激しく勢いを増す。
その光が一瞬のうちにマモンを包み込み、迫っていたウリエルの火球がその光に弾かれ、四散する。
「ば、バカな、私の火球が効かないなど……!」
信じられないと言わんばかりに目を見開くウリエルの前で、マモンの姿が変わる。
蛹から蝶へと羽化するように、その翼はより大きく広がり、はためく。
白く細い四肢はさらにすらりと伸びて、僕よりも背丈は高くなる。
二つにくくられた銀色の髪が解け、腰まで伸びて煌びやかに靡く。
胸や腰つきと言ったパーツまで、女性らしく豊満に。
その顔立ちは「可愛らしい」物から、「美しい」という印象へと変化する。
たった一瞬の輝きの中で、マモンの身体はまさしく「成長」を遂げた。
「……おおっ? なんじゃこりゃあ!」
マモン自身が驚きの声を上げ、自分の体をきょときょとと見回す。
僕はと言えばそのマモンの姿に一瞬、完全に目を奪われていたが、体にさらなる負担がのしかかってきたことで我に返った。
「マモン、その体ならいけるな?」
「お、おう……凄まじいぞ。自分の知らぬ力がみなぎって来るかの様じゃ」
ぶんぶんと腕を振り回すマモンに対して、ウリエルはその敵意に焦燥を沁みださせた。増大したマモンの力を感じるのだろうか、間違いなく今までは無かった「怯え」が見え隠れしている。
しかし、プライドの高いウリエルだ。そんな弱さを首の一振りで掻き消し、再び火球を両手に出現させる。
だが、みすみす攻撃させる僕らでは無い。
「マモン、お前の得意な魔法をお前自身に使ってやれ!」
「得意……そうか、分かったぞ!」
マモンは自分自身の額へ手をかざすと、あの間抜けにも思える呪文を唱えた。
「――まもんっ!」
その姿になってもその掛け声は変わらないのか、と思ったが、マモンの魔力がマモン自身へと流れ込んでいく。
しかもマモンは自分の増大した魔力を感じたのか、はたまた単純に調子に乗ったのか、「まもももももももももも!」と連続で呪文を唱えていく。
結果――――マモンの姿は、おおよそ十人近くに分裂した。
「なっ……ぶ、分身呪文⁉ この悪魔、そんなことまでっ……」
的を絞れなくなったウリエルがうろたえる間に、十人のマモンが一斉に羽ばたき、ウリエルの周りを取り囲む。そしてそれぞれが掌をウリエルへとかざし、次なる攻撃に移っていく。
「はぁっ!」
分裂したマモン達が、ウリエルを中心として多方向から念動力を発動した。その威力は強烈なもので、僕の位置から見ても空間が歪むほどの圧力を感じさせる。
多方向から等しい圧力をかけられたウリエルは、当然ながら身動きが取れなくなり、準備した火球を放つ動作すらできなくなった。
「これで――しまいじゃっ!」
マモン達が腕を上げると、ウリエルの身体が吹っ飛ばされ、教会の天井付近へと押し上げられる。
そのまま文字通りに「掌を返す」と、今度はウリエルは下方向への念動力に引っ張られていき――。
「きゃ、きゃああああああああああああああああっ!」
自分の用意した火球もろとも、教会の磨かれた床へと叩きつけられた。
その衝撃で床板は割れ、ステンドグラスにひびが入る。
上部に飾られていた十字架がぐらりと落ちて、さながら墓標のように床へ突き刺さる。
衝撃が収まったのを確認してから、僕はウリエルの落下地点へと近づいて覗き込むと、そこにはクレーターのようになった床に埋まって、修道服をボロボロにして眼を回しているウリエルの姿があった。
「……こりゃ、勝負あったな」
「ま、軽く戦闘不能じゃろうな」
マモンの分身たちが土くれへと還り、本体のマモンが歩いてくる。
そのまま僕の横へ並び立つと、すっかり僕より背が高いのが解って複雑な気分になる。
「……誠二よ、トドメは刺さなくてええのか? こやつ、気を失っているだけじゃぞ」
「ああ、別にこいつ殺したところで何にも得る物無いしな」
っていうか、流石に息の根を止める事は出来ない。
ウリエルは確かに敵で、マモンを襲った奴だけど……僕にはそんなふうに敵対した時間よりも「エル先生」として触れ合った時間の方が、よっぽど長かった。
だがこのままウリエルを逃がしても、不意打ちで報復を食らう危険は否定できない。
なので僕は、マモンにとある支持を下した。勿論、指輪を使わない程度の物だ。
「……なんちゅーか、誠二らしいと言えば誠二らしいのう」
「だろ?」
「でも最低じゃのう」
「……だろうね」
呆れた様子のマモンに支えられながら、僕はエル先生の姿を見下ろしていた。
自分の身体が空っぽになって行く感覚に、原始的な欲求だけで耐えながら。
◇
「………………――――はっ! わ、私はいったい……」
「お目覚めですかぁ、エル先生」
目を覚ましたエル先生は、俺の声に反応して飛び起きようとした。
が、その手足が上手く動かせなかったのか、腹筋だけで起き上がろうとしてごろりと転がってしまう。
「え、あれっ? な、なんですかこれは!」
「ジャパニーズ亀甲シバリデス! タダシ両腕ト両足モ拘束シテアリマス!」
「な、何ですかそのわざとらしい片言は!」
「いや、これがわしの主人かと思うと恐ろしい事じゃのう……」
マモンに手伝わせ、気絶している先生を荒縄で綺麗に縛りあげておいたのだ。このためだけに林檎書店から荷造り用の縄を借りて来たのだ。大物は勝利後の事もちゃんと想定しておく。
「ぐっ……わ、私に何をするつもりなのです!」
「いえ、好意によるものであっても行為にかかわる物ではありませんよ。ただほら、僕らもちょっとやり過ぎたかなと思いまして。先生にがっつり怪我をさせてても後味が悪いので、ちょっと回復させてあげようかなと」
「……な、ならばなぜ手をわきわきと動かしているのです!」
「知らないんですか先生……悪魔はね、背徳的行為によって回復するそうですよ」
何を言われているのか理解したのか、瞬時に先生の表情が青ざめていく。
「大丈夫です、揉むだけですから」
「何が大丈夫なのかさっぱりわかりませんよ⁉」
「先生、僕は先生が着任した時からずっと考えていたんですよ……シスター服越しに触る巨乳の感触ってどんなもんなのかなって!」
「そんな昔から私の事をそんな目でっ⁉」
手を威嚇するように広げながら、じりじりとエル先生へにじり寄って行く。
先生は四肢を縛られ翼も広げられぬまま、なんとか身体をよじって後ずさって行き、ついに壁に背中が当たる。
「やっ……や、やめっ……やめてぇえええええ――――――――――ッ!」
広い教会の中には、先生の声は盛大に響き渡った。
あ、感触の方ですが、とても良い物でした。
◇
それから、三十分程は経っただろうか。
「やれやれ……ようやっと満足したようじゃな。放っといたら延々と揉み続けておるかと思ったが、最後は谷間に顔をうずめてホールドとは……どんだけ女性の乳に執着しとんじゃお前は……天使を殺しはしなかったものの、こりゃある意味で死んだ方がマシじゃぞ。」
「天使の方も完全に失神しとるのう。まあ無理もなかろうな、今まで清廉潔白、品行方正、杓子定規な天使生活を続けて来たのじゃ。人に乳をあんな感じで揉まれる事など無かったじゃろうからな……まあ、わしも誠二に触られるまでは触られた事など無かったが……」
「……って、何を言わすんじゃまったく! ちゅーか誠二、お前もいい加減顔を上げんか。いつまで乳の谷間に突っ伏し取る気じゃ」
「返事をせんか……誠二、おい……? …………誠二……」
「…………し、死んでる……」