そして、その先へ
いざ、ウリエルの手が僕へと延びようとした、その瞬間。
目の前に、黒い壁が現れた。
いや、それは壁というよりも、檻のようだった。僕とマモンを取り囲むように、円柱状に漆黒のオーラが立ち上って行く。
「……馬鹿な、転移魔法ですって……? このタイミングでっ……」
驚愕するウリエルの姿が隠されて行くにつれ、彼女の声も遠くへと消えて行く。その現象の渦中に居る僕も、まったく事態は把握できない。
身体から重力が無くなり、ふわりと浮かぶ感覚を味わいながらも、僕の心に先ほど以上の不安が訪れることはない。
ただ、腕の中で冷たくなっていくマモンだけは、話すまいと抱きしめ続けていた。
◇
少し経って、再び僕の身体へと重力が圧し掛かって来た。
腕の中でぐったりとしたマモンの身体が、回復した重力につられていくのを必死に支える。
『成功したようだね』
エコーのかかった声が響く。続けて、僕らを包んでいたオーラが晴れ、再び視界が回復する。
「ここは……」
そこに現れた景色は、ウリエルの居た教会では無い。
少しカビの匂いが漂う壁。古臭くて傷み始めた棚。そして、趣味の統一性も感じられない無数の古書。僕には見覚えのある室内だった。
「……林檎書店?」
「その通り。久々だが、ちゃんと魔法が発動して良かったよ」
オーラが消えたせいか、今度は声にエコーはかかって居なかった。
だから、僕はその声が誰のものであるか、はっきりと聞きとることが出来た。
「…………ルキ、さん」
「ああ、まあその名前も良いんだけどね。事情が伝わりやすいよう、あえて昔の名前を名乗らせてもらうよ」
目の前に、書店の主であるルキさんが佇んでいた。
いつものエプロン姿ではない。
漆黒のドレスが、過剰な程のベルトで装飾されている。三つ編みは解かれて、鴉の濡れ羽のような長髪を広げて、頭には小さな王冠が乗って居る。
そして、その背中には、控えめながら……確かに、翼が確認できる。
混乱に混乱を重ねられた僕へと、ルキさんは、笑顔だけはいつもと変わらずに向けてくれた。
「私の名はルシファー。君のお爺さんと契約した悪魔さ」
◇
林檎書店の二階は、ルキさんの家になっている。
店の外の階段を上り、脇にある入口を潜ると、和洋関わらずに古めかしい家具で敷き詰められた生活空間が広がった。
奥にあるベッドにマモンの身体を横たえ、僕はその隣に座り込んでいた。
「誠二くんは砂糖、二つだったよね」
ルシファー……ルキさんは、海外物らしき紅茶をちゃぶ台に並べて来た。
畳の床にアンティークな家具、そしてちゃぶ台の上にはブランド物のティーカップ。ドレス姿のルキさんが対面に座ると、ますます訳の解らない光景になる。
「いやー、お客様を家に招くのは久しぶりだから、張りきって高いお茶を持って来たんだけど、お口に合うかな? 私もこれを頂くのは初めてなんだけど」
「……」
「高いお茶には高いティーカップを使うのが礼儀だと思っているんだよ。高級なお刺身も陶器の皿とスチロールのトレイではまったく違う味わいになるからね」
「…………」
「まずは舌に滴を乗せる前に、鼻孔で香りを楽しみたまえ。うん、このミントのようなスカっとする匂い……そして赤褐色の少し淀んだ外観……いかにもこの茶葉がタダものではない事を感じるよ。外人の業者から高値で買って間違いではなかったようだね」
「………………」
「ふふっ、子供の誠二くんにはまだ早かったかな? 五感すべてで楽しんでこそ本当の『食』を体感できると思うのだが……まあ味わってみなければその本質は解らないね。ではお先に失礼して、ずずっ…………うぇえ、まじゅいっ……!」
「和み過ぎだろッ! 普段にもまして和み過ぎだろッ!」
僕は思いっきりちゃぶ台を叩いて、マモンを指さして吠える。
「死んでるよッ! 死んでるんだよッ! 落ちついてる場合じゃないだろッ!」
「あ、ああ、大丈夫だぞ誠二くん。死んでるのはちゃんと解ってるから」
「解ってたら良いとか言う問題じゃねえよッ! その糞不味い紅茶を楽しんでる場合じゃねーっつってんだよ! どんだけ食を重視してんだよッ! 経費で飲み食いして飲食店に文句言う新聞社員かお前はッ!」
「違うよ。古本屋の店主で、悪魔だよ」
「知ってるよ! さっき聞いたもんねッ!」
ノンストップでまくしたてると、酸素が足りなくて脳血管が切れそうだ。焦り続ける僕と、あまりにもリラックスしたルキさんの温度差に、余計に僕は苛立ちを覚えている。
「大体、どういう訳なんですか、ルキさんが悪魔って……」
「言葉の通りだ。君にとってのマモンのように、君のお爺さんにとっての使役悪魔が私だったと言う事さ。君だってグリモワールを手にしたなら、お爺さんが悪魔使いだった事くらいは聞いたろう?」
「それは、そうですけど……」
考えて見れば、僕はルキさんとの初対面を覚えていない。
幼少の事だったので記憶にないだけだと思っていたが、芹香や室井と出会う前の記憶まで辿ってみても、ルキさんはいつも傍に居たような気がする。
だが、僕はルキさんの昔の姿を記憶していない。ルキさんの両親や、学生時代とかの事も聞いたことが無い。
気付いた時には、ルキさんは林檎書店の店長だった。
そもそも、この人が何歳なのかすら知らないのだ。
「もっとも、今の私は厳密には悪魔とは言えないけれどね……細かい事は良いさ」
「細かいことで済むんですか……」
「私は大体の細かい事は水に流す主義さ。君が私のブラを爆発させた事だって、取りあえずは水に流しておくさ」
「……あ」
そうか、そりゃ気付かれてるよな、悪魔なら。じゃああの時、ルキさんは何をされたのか解った上で僕には何も言わずに居たことになる。なんだこの人。
「ま、本当にそのあたりはどうでもいいんだ」
そう言うと、ルキさんはカップをテーブルに置き、真剣な瞳で僕を見つめて来た。
マモンやウリエルと同様、人間のそれとは違う輝きを持つ、透き通った瞳だ。
「誠二くん、英気を養い立ち上がるなら、今を置いて他にはないよ」
ルキさんの言葉の意味が、僕には良く解らなかった。しかし、ルキさんは僕を気にする事もなく、けれど僕へ向けて淡々と台詞を並べる。
「私はあくまで君を転移させ、この建物の中にかくまったに過ぎない。ウリエルは未だ健在で、君は今なお狙われている。事態は解決などしていないぞ」
「じゃ、じゃあ、それこそお茶なんか呑んでいる暇無いんじゃ……」
「その錯乱した心で何をどうする気だい? 逃げ切れるとでも思っているのかい」
「……逃げるのは諦めろ、って事ですか」
「頭を醒ませと言っているのさ」
ルキさんはちゃぶ台越しに手を伸ばすと、僕の頭に手を置いた。そのまま優しく撫でられて、伸びすぎた前髪が視界でちらちらと揺れる。
「どうしたんだい誠二くん。いつもの君らしくもない。逃げの一手、それも後手。実戦に敗れ舌戦に屈し、死を前にしても奮起しない。まるで君らしくない」
「……いきなり横から、好き勝手言わないでください」
ルキさんから視線を外して、僕はちゃぶ台の下で、拳をきつく握り締める。
「大体、そこまで知ってるって……いつから見てたんですか、僕らの事」
「君にグリモワールを渡してから、魔術で定期的に覗いていたからね……今日は昼休みごろから、君の状況の顛末は見ていたよ」
「じゃあっ――――」
「『どうしてもっと早く助けてくれなかったの』と、言うつもりかい?」
「…………」
僕はその言葉を、無理やりに喉の奥へ呑みこんでいく。
欲する物を他力本願で強請るのは、最も狡くて醜い事だ。爺さんも言っていたし、僕も心からそう思う。
そんな気持ちが少しでも浮かんでしまった事が、溜まらなく恥ずかしく、情けない。それに気付いて僕は、とてもとても情けない笑顔を作りあげた。
「……最悪ですね、僕。すごく、格好悪い……」
「……誠二くんじゃないみたいだよ。まるで、普通の男の子のようだ」
「これでも普通の男の子ですよ、僕は」
自分の声なのに、自分の声に聞こえない。けれど、僕の台詞は止まらない。
「悪魔を呼び出して良い気になって、あいつの力を使いこなす事も出来ず……守る事も出来ず、こんな風にしてしまった……なんの力もない、普通のガキですよ」
「悲しくなるような事を言うなよ」
「僕が情けなくて、何でルキさんが悲しくなるんですか? ルキさんだって言ってたじゃないですか、何の魅力も感じないって。僕は口だけなんです。世界征服だ強欲だって言って、願って望んで強請るだけで、結局何にも――――」
「それ以上言ったら……君のお爺さんが、悲しむよ」
その声で、僕は言葉の続きを消した。
ルキさんの声は、けっして高圧的でも、命令的でもないけれど……なんだか、必死で懇願しているかのように聞こえたからだ。
「誠二くん。お爺さんはね……君に、自分を越えて欲しいのさ」
ルキさんは、僕の方へ掌が見えるように腕を差しだした。
すると、手の上に黒いオーラが輝き、青のグリモワールが出現する。僕やマモンを運んだのと、同様の転移魔法なのだろう。
「君のお爺さんも、相当に野望の多い人だった。悪魔である私の力を使い、政治、経済、文化、国交……公になった事象は少ないけれど、どれだけ歴史を動かしたか解らない」
「……それだけ色々な事に首を突っ込んでおいて、爺さんは動物園の園長なんかやってたんですか?」
「ああ。だって……あの動物園は君が好きな場所だったからね」
「…………っ!」
喉が詰まる。
声にならない何かが、胸の奥の方で心臓を叩く。
「君のお爺さんはいつだって、大きな望みを追い求めた。けれど、小さな望みだって無視しなかったさ」
「……知ってます。爺さんが言ってましたから」
「けれど、彼は老いた。その上、使役関係とはいえ無茶な力を悪魔に使わせれば、使役者の魂が吸い取られる。元々、大往生は出来ないだろうと解って居たよ」
契約だけではなく、使役だけでも魂を消費するのは初耳だった。
僕がマモンにやらせたような物ではなく、もっと大規模な術を使わせたりすれば、やはり命に関わるのだろうか。
「そんな彼がある時、とうとう自分の死期を覚悟した……魂の寿命や病ではない。もっと直接的な形で、彼に終わりが立ちはだかったのさ」
「……悪魔契約の負担が死因じゃなかったんですか」
「それを否定はしないが……具体的に言えば、お爺さんと私も天使に襲われたのさ」
再び、僕は言葉なく驚いた。
今の僕とマモンのように、爺さんとルキさんも天使と戦ったとは……考えてみれば、爺さんは僕より大規模に悪魔を使っていたのだろうから、天使に見つからない方がおかしな話だ。
「それまでは私も彼も、天使くらい退けるだけの力が有ったのだけどね。最後に私達に立ちはだかった天使は恐ろしく強かった。同時に、彼にも体力の限界が訪れていたよ」
「……じゃあ、爺さんは天使に殺されたんですか?」
「それも違うな。君のお爺さんは最後に、自分の魂を賭して、ある願いを叶えたのさ」
「爺さんの、願い…………?」
「そう……私を人間にするという、願いさ」
ルキさんは、目の焦点を遠くへと合わせる。まるで、今、この場所では無い何処かを見つめるように、憂いを帯びた表情を浮かべる。
「私との使役を解消し、改めてその場で契約を行い……あの日、私は人間となり、天使の目から逃れた。そして、お爺さんの代わりに君を見守り……いつか必要となった時は、グリモワールを渡すようにと頼まれたんだ」
「で、でも、ルキさんは今、悪魔の姿になってるじゃないですか」
「ああ、ここまで魔力を取り戻すには長い時間がかかったよ。今でもまだ、全盛期程の力は出せやしないし……この姿で居られるのは、一日と持たないけどね」
ルキさんは自嘲するように笑うと、マモンよりも小ぶりな翼を撫でて見せる。あの翼が悪魔の力を象徴すると言うのなら、今のルキさんは、マモンよりも脆弱な存在なのかもしれない。
そんなルキさんを眺めながら……思いがけない形で爺さんの顛末を聞いた僕は、なんとも形容しがたい気持ちになっていた。
ルキさんという悪魔。天使と言う仇。そして、僕へと込められた、爺さんからの想い。
今まで漠然として見えなかった何かが、形を持って、僕の背に重く圧し掛かってくる気がする。
「……けれどね、誠二くん。私は君のお爺さんに、一言文句を言いたいんだよ」
「な、なんでですか?」
「だってそうだろう。私はまだ戦えると思っていた。最後の最後まで、もっと遠くへとつながる道を探せると思っていた……けれど、君のお爺さんはそれをせずに、自分の命を『諦める』事を選んだのだから」
ルキさんの口ぶりは、いつの間にか不機嫌そうになっている。
僕はその理不尽な変化に、戸惑いを隠せずに居た。
「誠二くん、今の君もそうだ。天使と相対した瞬間に、君は前進する選択肢を投げ捨てて居た。『後ろへ駆ける者に、迫る嵐は振りきれない』とは君のお爺さんの言葉だ」
「そ、そんなこと言われたって……天使って奴は、悪魔に対して天敵みたいなものだって……」
「だからどうした。それがどうした。君はそんな体感した事もない常識に縛られて、安全策を探し続けるような殊勝な人間だったのか? 君の器がその程度の大きさだったとしたら、マモンを死なせてしまうのも無理も無い」
「…………それは……」
「胸を張れ、光橋誠二。君のお爺さんほどではないが、これでも長年、君を間近で見つめて来たつもりだ」
ルキさんの言葉に、僕は思いだす。
芹香や室井という幼馴染。父さん、母さん、茉莉という家族。その人たちに負けないくらいに、ルキさんはずっと傍にいた。
悩みが有れば聞いてくれた。欲望に任せた妄言も聞いてくれた。かつての爺さんと同じくらいに、この人は僕を見守ってくれた。
そして――――マモンと巡り合わせてくれた。
「立てば炸薬、座ればドカン、歩く姿は焼け野原。悪魔ですらも仰天させる、規格外の強欲人間。君が絶望に屈するなどと、私は絶対に信じない」
ルキさんは僕の肩に手を置くと、真っすぐに目を合わせて来る。
その手はとても力強く、そして、温かい。
「強い天使に狙われた。友人も心を塗り潰されされ、パートナーの悪魔は救えなかった……それがどうした、此処からだ! 君がまだ生きている! その胸に心を灯している! ……私が君の傍に居続けたのは、きっと、お爺さんの代わりに君の背中を押してあげるためなんだ」
ルキさんの声は劈くように耳を突く。僕を奮い立てるように、頼もしい笑顔を浮かべてくれる。
その笑顔が、なぜか、僕にはとても懐かしい物に感じられた。
「限界を超える所を見せてくれ。君はまだ『諦めない』を選べる位置に居るのだから……あの時に『諦めなかったその先』を、私に見せてくれ」
「…………ッ!」
僕の中に渦巻いていた、熱く煮えたぎる感情が、その言葉と共に弾ける。
気づいた時には席を立ち、ルキさんの召喚したグリモワールを握っていた。
「……有難うございます、ルキさん」
「頭は醒めたようだね、その分だと」
「少なくとも、何かが吹っ切れました」
ルキさんに頭を下げて、出口へと向かう。
思えば、全てのきっかけをくれた人。そして、今なお僕を震わせてくれる人。
爺さんのパートナーだったというなら、納得だ。
だから、あの世の爺さんが今の僕を見ているか解らないけれど、せめてこの人には見せよう。爺さんの代わりに、僕を見守り続けてきたこの人に、僕が諦めない姿を見せよう。
爺さんを越えて、道理を超えて、無理を押し通す僕の姿を。
「爺さんと一緒に見ていてください、ルキさん」
悪魔にすらも呆れられた、僕の欲望。
天使如きに遮られてたまるものか。
奴らが世界の調和のために悪魔を殺し、欲を否定すると言うのなら。
いずれ世界を手にする僕が、そんな道理を曲げてやる。
「僕が、その先に行ってきます」