絶たれる、望み
真昼間の道を走りながら、僕は思い出していた。
――放課前に学校を抜け出してくるのは、いったい何年ぶりの事だろう。
口の中はカラカラに乾いて、心臓はバクバクと張り裂けそうなのに、頭は妙に複雑に回るのが自分でも不思議だ。伸びた前髪が風でなびき、そこから見える景色がやけにスローに映るから、案外、走馬灯めいた状態なのかもしれない。
エル先生は――ウリエルは、僕に選択を迫った。
――貴方が選べるのは二つ。自ら改心し、契約した悪魔を私に差し出すか。もしくは、悪魔もろとも浄化を受けて強制的に改心するか。死後の神罰が軽くなるのは前者ですよ。
冗談じゃない。
そんなの、選択肢を与えられていないのと同じだ。「マモンを殺す」か「マモンを死なせる」しか選べないじゃないか。
僕はとっさに指導室を飛び出し、玄関へと走り抜けていった。閉じ込められる事が無かったのは良いが、すんなりと逃げてこれた事は、むしろ得体のしれない不安を抱かせる。
けれど、今は悩んでいる時間などない。逃げてきたからには、早くマモンと合流して、どうにかあいつを逃がしてやらなければ。
マモンは言っていた。天使と悪魔の力関係は、絶対的に天使が上位なのだと。
ウリエルの瞳は、とても悪魔に生存権を与えてくれるような物では無かった。十字架だけであんなに苦しんだマモンなど、すぐに消滅させられてしまいそうだ。相対する事など出来ない。絶対にあいつを逃がさないとならない。
この時間なら父さんは仕事、茉莉は学校だ。いつもなら家に居る母さんも、今日は用事で出かけると言っていた。だから、あの家にはマモンしかいない。おそらくはまだ少しふてくされている、あの愛くるしい悪魔しか。
マラソンでは完走さえすれば順位は気にしないタチだったので、この距離を全力疾走するのは堪える。けれど、肺が詰まって足がポンコツになりそうでも、止まるわけにはいかない。
マモンは僕の物だ。勝手に奪われて溜まるか。
何かを手に入れようとすることは、まだ我慢も出来る。待つこともできる。
けれど、奪われることだけは我慢ならない。
大事なものが傍から消えていくなんて、爺さんの時に、とっくに懲り懲りなんだ。
「――――マモンッ!」
玄関の扉を開けると、止まりそうな肺を無理やり絞って怒鳴り上げる。急いで上がり込んでいくと、マモンはリビングに一人で居た。
「ど、どうした誠二っ、冷蔵庫のプリンは食べちゃ駄目だったかっ……?」
「そんな事言ってる場合じゃない! いいから、早く逃げるぞ!」
マモンの手をしっかりと握り、勝手口の方へと引っ張り出していく。だが、おそらくどこに逃げても安全な所は無い。
ウリエルから逃げおおせる方法が有るとすれば、ただ一つ。
「……マモン、今からお前を魔界へ帰すぞ。どうにかして使役関係を解消する」
「んなっ、なんじゃと⁉ プリン一個でそこまでキレんでもええじゃろ! それとも昨日の事で呆れたのか⁉」
「違うっ! お前の事が天使に見つかったんだよ!」
「なんと⁉」
マモンは仰天して、目をまん丸に見開いた。
「お前も会ったろ。エル先生……あのシスターが天使だったんだ。お前が悪魔だって気付いてる。もうお前を消してしまう気で……とにかく、とっくに余裕が無いんだ!」
「……そうか、あのロザリオに強い力が込められていたのも納得じゃな」
マモンはしばしその事実を反芻していたようだが、ぎゅっと拳を握ると、予想だにしない事を言い出した。
「で、でも……わしは、まだ魔界に帰りとうない」
「はぁ⁉ 話聞いてただろ! このままだとお前、天使にやられちゃうかもしれないんだぞ!」
「じゃ、じゃけど嫌なんじゃ。まだ此処に居たいっ……お前の傍を離れとうないのじゃ……わし自信よく理解できんが、嫌じゃ! 嫌なんじゃ……!」
「マモン……お前……」
「……すまぬ。でも、これがわしの気持ちじゃ……わしの、素直な願いなのじゃ」
僕はそれを聞いて胸が詰まりそうになったが、この世界でウリエルから逃げ続けるのはとても無謀な試みだ。
どの道、どこかへ身を隠さねばならない。僕は勝手口の取っ手を握り、急いで押しあける。
「――思っていたより、早かったですね」
扉を開けた瞬間、その声が響いてきた。
と同時に、扉の先が外ではない事に気付く。目の前に広がるのは、鮮やかな光を映して輝く、聖画を象ったようなステンドグラス。
そして、此処がどこであるかを高らかに主張するかの如く、大きな十字架が掲げられている。
「きょ、教会っ……? なんだ、これ……僕は外に出た筈……」
「低級魔ならともかく、貴方の使役するようなしっかりとした悪魔は厄介ですからね。ちょっとばかり『奇跡』を使って、お出で頂いたまでです」
そう言うウリエルは、既に微笑みを浮かべていない。白い翼を威嚇するかの如く広げ、十字架を背にして僕らの前に立ちはだかった。
即座に、不味いと気付いた。
ロザリオであれだけ苦しんだマモンが、こんな場所に放り込まれたら――。
「うぐっ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああっ!」
思考がそこに至ると共に、マモンが悲鳴を上げた。自信の両肩を抱くようにして蹲り、その体から黒い煙が上がりはじめる。
翼を広げたウリエルからは、まるで強い陽光のような光が放たれている。その光が教会全体の清浄な空気で増幅され、マモンを焦がしているかのようだ。
「七大罪のうち、『強欲』を司る悪魔、マモン……貴方にはぴったりの悪魔ですね。しかしながら、この状況では丘に出された魚も同然……苦しんで逝くのを待つだけです」
ウリエルは既にチェックメイトを決めたような調子で、自身の勝利とマモンの消滅を確信している。
とっさに扉から戻ろうとしたが、振り向くと既に出入り口は消えていた。マモンを連れて逃げる事すら封じられたようだ。
「……だったら、正面から行くしかない!」
逃げられないのならば、ウリエルを屠って突破する以外に道は無い。僕は拳を固めると、光からマモンを隠すようにしてウリエルへと相対する。
しかし、そんな僕の袖をマモンが必死に掴んで引き留める。
「ば、ばかものっ……! 相手は天使っ、しかもこのオーラは大天使の物じゃぞっ……ただの人間が適う相手では無い!」
「だからって、このままじゃ犬死にだ!」
「ええいっ、どかんか!」
マモンは僕を押しのけると、ウリエルへ向けて掌を向ける。その周辺に有る空気がグニャリと歪み、以前使ったのとはケタ違いの念動力を発揮しているのが解った。
「せ、誠二はやらせんぞ……わしの居場所くらい、わし自信で守って見せるっ!」
その歪みが人間大の球を形作り、マモンが腕を振り上げると共に、砲弾のような勢いでウリエルへと迫る。巻き込まれた空気が突風を起こし、その威力に、マモンの本気を垣間見て僕は冷や汗を滲ませる。
しかし、ウリエルはその手を静かに前へ向けて――。
「小賢しい」
翼を一度はためかせると、ウリエルの翼が黄金の炎に包まれる。そして、マモンの放った空気弾が霞んでしまうほどの、凄まじい閃光の奔流が溢れだしてくる。
その光にマモンの攻撃が呑み込まれ、そして。
「あっ――――」
僕の前に立ったマモンが、光の中に呑みこまれる。僕の視界も、塗りつぶされるかのように白んでいく。
その眩い輝きの中で一瞬だけ、僕は名前を呼ばれたような気がしたが、それを聞きとる前に僕自身も光の波に呑まれて行く。
「ま、マモンっ……」
自分の発した声すらも、空気の震えにかき消されて溶けてしまう。
強烈な衝撃を背中に感じ、僕の意識は一瞬、途絶えた。
◇
視界が霞む。
ほんの少しの間、意識に空白があった。
「うっ……痛、つう……」
衝撃によって肺の空気が漏れたのか、酷く息苦しい。冷たい大理石の感触を背中に感じ、自分が床に叩きつけられたと解った。
肌がビリビリと焼けつくように熱い。強すぎる消毒液を振りかけられたような感触は、きっとあの光のせいだろう。
人間の僕でもこれだけ辛いのに、悪魔であるマモンに直撃したのだ。嫌な予感が全身を支配する。攻撃の余波なのか、まだ眩さに視界を閉ざされている中、必死で目を凝らしてマモンを見つけようとする。
やがて、光が収まって行くにつれ、その中からマモンのシルエットが浮かび上がってくる。
「ま、マモン! お前、大丈夫かっ――――」
瞳が、横たわる影へと焦点を合わせる。
そこには、力なくうつ伏せに倒れたマモンの姿が在った。
服や肌に目立った傷が無いけれど、真っ黒な翼だけが穴だらけになって、焼け焦げている。そのすらりと細い手足は、もう、微塵も動く気配を見せない。
「…………お、おいっ……」
「無駄ですよ」
マモンへと駆け寄ろうとした瞬間、それを突っぱねるようにウリエルが告げる。
「聖なる光をまともに浴びたのです……当然、既に悪魔としての生命は停止。魂の燃焼が消えた事を確認しました。後は器である肉体が朽ちるのを待つのみです」
「…………」
一瞬だけ止まった足を、再び引きずって、マモンへと近づいていく。
震える腕を伸ばして、その小さくて華奢な体を抱き上げる。その体に力が無く、重力に逆らわない四肢がぶら下がっても、軽い。
「な、なあ……嘘だろ? 起きろよ……」
抱いた胴体を揺さぶると、糸の切れたマリオネットのように、ゆらゆらと関節が揺れる。
色白な顔は、より一層、透き通るほどに白く。けれど瞼を閉じたその表情は、いつか間近で見た寝顔と、ほとんど差異がなく綺麗なものだ。
「……起きろって言ってるだろ……何寝てんだよ……寝不足なのは、僕の方だぞ……」
あまりに綺麗で、だけど反応が無いから、本当に人形を抱いているように錯覚する。
こんなふうにすらすらと頭の中に言葉が出てくるのは、この事態に現実味を抱けないからだろうか。
けれど、少しずつ胸の奥に、真っ暗な泥が煮えたぎるような感触を覚える。
それが熱く熱く煮詰まっていくほどに、マモンへと触れている腕や、疲れ切った足の先から自分の体温が抜けて、冷たさが背筋から脳天へと沁みていく。
「……マモン……」
この感情を何と言うのか、僕は知らない。
ただ、僕の視線は自然と、ウリエルの方をまっすぐに捉えていた。
ウリエルはそれに対し、失望を隠さず声に溶かして吐き出した。
「残念です、光橋くん……いえ、光橋誠二。あなたは私からの説得と説明の機会すらも放棄して、悔い改める道を投げ捨てた。あの場からの逃亡は、神の救済に対する背徳行為に他ならない物です」
ウリエルの声は、やけに遠くで響いているように感じられた。
ただ、その内容自体は脳に沁みこんでくるので、僕はそれに対して返事をすることが出来た。
「救済、なんですか? ……これが?」
「そうです。人はかつて、悪魔に唆されて知恵の林檎を齧り、神の信頼を裏切りました。にも拘わらず、神様は地上に堕ちた人を今も愛し……我ら天使を遣わせてまでも、人を堕落させようとする悪魔から守り続けているのです」
「……こいつは、ただのどら焼き好きのへっぽこ悪魔だ。ろくな悪事も出来やしない。金も増やせないし、エロい悪戯だって満足にこなせない」
「けれど、守山芹香を誑かしました。品行方正だった彼女の欲望を呼び起こし、その周囲にいたクラスメイト達にも悪魔の残り香をばらまいた。彼女を含め、クラス全体を『消毒』することで大事は未然に防ぎましたけどね……多少、強めに人格に介入する結果となりましたが」
「マモンは芹香を少し素直にしただけだ! 僕にもなんかわかんねーけど……あいつにはやりたい事が、欲しい物が在ったんだ! 室井や遠藤だってそうだ! きっかけが悪魔の力だろうと、あいつら幸せそうにデートしてたんだ! それを、あんたの好みに洗脳して良いわけ無いだろ!」
「洗脳ではありません。彼らの欲望を浄化したまでです。情欲と衝動に任せただけのエロスを、心からの敬愛によるアガペーへと導いたのです」
「そんな理屈であいつらが変えられて、そんな事を罪にされてマモンが傷つけられて、納得できるわけがないだろ!」
咽は焼け付くように熱く、かすれ始めていたが、それでも僕は声を張り上げることが出来た。そうしたい、と強く思う気持ちは、僕の体を無理やりにでも動かしていく。
「たとえ、マモンが芹香にしたことが罪だったとしても、殺すほどの事じゃ無いはずだ……マモンは心がある。話が出来る。学んだり反省することだって出来る! それを、それを、こんな……」
「……光橋誠二。あなたは勘違いしているようですが……」
ウリエルは睫毛を伏せて、救い難いとでも吐き捨てるかのように、ゆっくりと首を横に振った。そして、刃のような言葉を僕に突き刺した。
「悪魔に人格など認めません。彼らは文字通り、悪そのもの。この世の秩序を乱すだけの物に、存在価値など最初から無いのです」
「なっ…………何様のつもりだよ!」
「神様のつもり、とでも言えば良いですか?」
そう言われて、僕は思わず言葉を失った。
そこへ間髪入れずに、ウリエルが話を続ける。
「人に人を超えた力を与え、御すべき欲の歯止めを壊す魔物。彼らが存在するだけで、人間は不相応な力を持ち、自制を忘れ、秩序が狂うのです。理由がどうあれ、悪魔という存在を見つけた時点で滅さなければなりません……神の作った唯一の失敗作が、悪魔なのですから」
「…………そ、そんな事っ」
「しかし」
怒鳴りつけようとした僕の声を跳ね返して、ウリエルは凛と通る声を放つ。授業の時にどれだけ聞いても飽きなかった、耳にするりと透き通ってくる声だ。
「しかし、我ら天使も魔界へはおいそれと手出しできません。だから、私たちは人間界へと現れた悪魔を、定めたルールに則って処分していくのです……もうお分かりですね?」
いくら耳を塞ごうと、きっとその声は貫いてくる。
まさに天上からの宣告のように、ウリエルの言葉は響き渡る。
「あえて、悪魔である意外に彼女が処分された理由を挙げるなら……あなたが人間界へと召喚したからですよ」
「…………あ、あっ……」
そうして僕は、マモンを抱えたまま、跪くかのように崩れ落ちた。腕の中で、マモンの身体が少しずつ崩れ始めている。
偉そうにニヤけていた、子供のようにむくれていた、哀しそうに落ち込んでいた、嬉しそうに笑っていた……ころころとさまざまな色へ表情を変えていたマモン。
その顔は、今はもう、何色に染まることも無い。
僕がマモンを呼び出したから。
僕が考えも無しにマモンを目立たせたから。
そのせいでウリエルに見つかったから、マモンは――――。
「……悪魔の死でこれほど心を痛めるというあたり、私は人間も十分に恐ろしい存在だと思いますがね」
そう言いながら、ウリエルは僕の背後に立った。
遠藤の身体から悪魔を引きずりだし、その増大した欲望を吸い取った時のように、今から僕もそうされるのだろう。
これから僕も邪念を廃され「善いこと」だけを考えるようになるのだろうか。もしかすると、僕から欲望を全て吸い取ってしまったら、魂など何も残らないかもしれない。
そんな漠然とした不安が確かに胸に芽生えたが……それよりも、僕の中にはもっとずっと、暗い感情が渦巻いていた。
今まで感じた、どんな負の想いよりも遥かに淀んだ、それで居てどうしようもない程に重い感情。
希望を見据え、欲望を感じ、渇望に苦しんだ事はあれど、これを経験した事は無かった。
おそらく――この心を絶望と呼ぶのだろう。
「さあ、生まれ変わりなさい。そして今度は悪魔に誑かされない、真っ当な人間として生きるのです」
そう言って、ウリエルは僕の背へと掌を押し当てる。
僕にとって、決定的に何かが終わろうとしていた。