前触れも無く、鐘は鳴る
はい、押し入れの居心地にも慣れて来ました。
と同時に、自分のベッドは割と寝心地が良くなかったのではないかと思ってしまう。まあパイプベッドだしね、仕方ないね。
マモンはまだ少し不貞腐れているようだったが、朝ご飯はちゃんと食べていたので、あまり気にせずに留守番させてきた。
しかし結局のところ、僕はまた寝不足で昼休みを迎える事になった。
「よう誠二、今日もやけに眠そうだな」
昼休みになると、すぐに室井が話しかけて来た。
心なしか、どこか態度がぎこちない気がする。
「ああ、ちょっと眠れなくなることが続いてさ……精神的にざらついてるときって、どうしても眠気が来ないよな……」
そう言うと、室井はやけに申し訳なさそうに俯いた。どうしたのかと見ていると、室井は俯いた頭をさらに深々と下げて来た。
「誠二、先日はごめんな」
「うわっ、ど、どうしたんだよ突然」
「……タイミングが切り出せなかったとはいえ、彼女が出来たのを黙って居たのは悪かった。隠しておく積もりじゃなかったんだけど……騙すような感じになっちゃったもんな」
「えっ……そ、そんな深刻に謝るなよ。やりづらいだろ、それはそれで」
「俺の事を気にして眠れなかったんじゃないのか?」
「何で寝入るときまでお前の事考えなきゃならないんだよ、キモいわ」
「そ、そうか。それなら良いんだ」
良いのだろうか。さりげなく罵倒したのだけど。
というか、室井がその事を気にしていたのに驚いた。こいつはすっかり彼女とのラブラブライフをエンジョイしていたと思っていたのだが。
室井は頭を掻きながら、ようやく表情を柔らかくして話し始める。
「なんか昨日も気まずくて話しかけられなくてさ……俺も、俺なりに寂しかったんだぜ」
「いや、だからやめてくれよキモいよ」
「俺の方がお前のこと気になっちゃったりしてさ……ははっ、実は俺もそのせいで少し寝不足気味なんだ。でも、ちゃんと話さなきゃなって……友達だもんな、俺達」
「だからキメえっつってんだろ⁉ お前とのそういう紆余曲折は別にいらねえよ⁉」
幼馴染の気色悪い一面を垣間見てしまったが、こういう形で室井とも仲直りした。
悪かったのは僕のような気がするのだが、先に謝られてしまったらそれを主張するのも無粋な気がするし、せめて今度、何か奢ってやろう。
「でも室井、今日は彼女とメシ食わなくていいのか? 僕の事なら本当に気にすること無いんだぞ? お前の事を睨み続けはするけど」
そう言って教室を見回してみたが、室井の彼女である遠藤の姿は見当たらない。購買か他のクラスにでも行っているのだろうか。
しかし、当の室井はさしてそれを気にするでもなく、まっすぐ僕を見て言った。
「良いんだ。俺たちは清い付き合いでいることに決めたから」
「……は、はぁ、そっすか」
早熟な現代の若者間では死語と化した台詞を聞いて、思わず反応に困った。昨日まであんなにラブラブで、昼食時には「あーん」したり、帰りには手を恋人繋ぎにしていた筈なのに、どういう心境の変化だろう。もう倦怠期なのかしら。
まあ僕が考えても仕方ない。と納得したところで、そう言えば芹香に用があったのを思い出した。
弁当を分けてもらったお礼に、クッキーを焼いて持ってきたのだ。人に借りは残して置きたくないし、家にあった材料で作ったから出費も無い。
僕は食欲も人一倍なので、美味しさを求めるうちに料理の腕もちょっとしたものになっていたりする。芹香の好みは知っているし、口に合わない物ではないだろう。
「あー、ワリい室井。ちょっと離れるわ」
「どうした、俺の謝罪に誠意が足らなかったろうか」
「いやそういう事じゃなく、芹香に用があって……」
「ああ、そういう事なら行ってくると良い。でも……信じてるぜ、お前は必ずまた帰って来るって。だって俺達は友愛と言う名の絆で結ばれているんだからな!」
「だから表現が逐一キメえんだよ! そんな奴じゃなかったじゃんお前!」
室井の変貌っぷりに戸惑いながらも、僕は鞄から小さな袋を取り出して、女子がたむろする方へと歩いていく。
普段ならここで、モーゼの海割りの如く女子が逃げて行くのだが……今日はやけに大人しい。ゴミを見るような視線も飛んでこない。普段なら睨み殺される所だが、僕が女子の輪に近づいても静かに食事している。
そして、その中に芹香の姿は無かった。
「あれ、トイレにでも行ったのかな……」
「守山さんなら、エル先生に呼ばれて行ったよ」
そう教えてくれたのは、よく芹香とつるんでいる女子だった。こうして気軽に声をかけられるのは珍しい。
レアな反応に少し戸惑ったが、せっかくの機会なので、この女子とも少し話を続けてみる事にした。
「なーんだ、そうか。此間の弁当のお礼を持って来たんだけどな……」
「あら、光橋くんも優しい所が有るんだね。大丈夫。真摯な心からのお礼なら、守山さんも喜んで受け取ってくれるよ」
「え、あ、はい……」
こいつってこういうキャラだったろうか。もっと快活で男勝りな子だった筈だし、芹香の事も「守山さん」なんて名字で呼んでいなかったと思うが。
室井といい、この子といい、今日はやけに毒気が無さすぎる。
……いや、よく注意してみれば室井達だけではない。
なんだかクラス中の雰囲気が、どうにも清楚というか、淑やかというか……平和的な感じになっているのだ。購買帰りの連中ですら争い後の殺伐さが無く、やけに和やかなムードだ。別にクラスが鎮まっている訳じゃないが、男子の下世話な会話も聞こえてこないし、女子の「きゃはは」という笑い声も「くすくす」に変わっている。
考えてみれば、今日は朝からみんな大人しいと思っていたが……此処までの変貌はしていなかった筈だ。
この昼休みの間に、僕のクラスはやけに上品になってしまったようだ。
「なんだってんだ、こりゃ……」
僕のクラスだ。
でも、僕のクラスじゃない。
決定的な違和感が取り巻いているのに、それは目に見ることも出来ない。
そんな風に戸惑っていると、教壇の上部に設けられたスピーカーから、校内放送を告げる効果音が響いてきた。
『一年A組の光橋くん、食事が終わり次第、生徒指導室へ来てください』
鈴の音のような、耳に心地よいトーンの声は、スピーカー越しでもエル先生の物だと解る。そういえば昼休みの前、四時限目の授業はエル先生の世界史だった。
なんとなく引っかかる物を感じながらも、先生のお言葉に甘えて、しっかりと弁当を平らげてから指導室へ行った。
◇
「そういや、エル先生って生徒指導もやってたんだな……」
そもそも普段から口煩い人なので、それが生徒指導の仕事なのか好きでやっているのか解らなかった。けど、考えてみればハマり役に思える。
生徒指導室の扉に窓は無く、代わりに十字架型の飾りがついているのだが、これは冗談の範疇なのだろうか。なんだか懺悔室にでも来てしまった気分だ。
「失礼しまー……す……」
扉を開けると、無機質な白い室内が出迎えてくれた。
机や棚も白く、壁も白く、カーテンも白い。潔癖症を思わせるほどに真っ白なその部屋は、まるで病院か何かのようだ。
そのあまりにも白い部屋の中心に、二つの椅子が並べられている。
窓を背にして、一つには室井の彼女、遠藤が。もう一つには芹香が、こちらを向いて座っている。
そしてその二人の背後には、いつも通りの修道服に身を包んだエル先生が立っている。
先生は微笑んでいたが、その表情を見つめていると、なんだか部屋の温度が下がったような気がしてくる。
その冷たげな微笑を浮かべたまま、先生はにこやかに話を始めた。
「……待っていましたよ、光橋くん。守山さんの処置は済みましたけど、遠藤さんへの処置はあなたに見せて置きたかったので」
先生はそう言いながら、芹香の肩に手を置いた。その芹香は、今までに見たことが無いほどに穏やかな笑顔をこちらへ向ける。なぜか、僕はそれを見て不安な気持ちに襲われた。
「……せ、先生。どういう事ですか? 処置って、何です?」
「見ればわかりますよ、きっとね……」
先生はゆっくりとした足取りで、今度は遠藤の背後へと立った。すると、真っ白な窓から差し込む光がやけに明るくなって、遠藤の影が色濃く床に浮かび上がる。
――その陰には、小さな羽と角が見えた。
「なっ……!」
「心当たりがあるようですね、光橋くん」
動揺した僕は、先生の声によって磔にされたように動けなくなった。
先生の青い瞳が淡く輝き、僕を見つめる。まるで、レントゲンの光に晒されて、全てを見透かされているような気分になる。
先生はその瞳を遠藤へと向けると、掌で軽く、遠藤の背中を押した。
「――――う、あああああああああああああああああっ!」
遠藤は苦しげに呻くと、その体から黒い靄のようなものを蒸発させ、それが先生に吸い取られていく。同時に、遠藤の影がみるみる薄くなって、その輪郭から角と羽が消えていく。
ほどなくして、遠藤は気を失ったようにぐったりとする。一連の行為を終えると、エル先生は再びこちらを見つめてきた。
僕は声を絞り出すために、唾液を呑んで喉を湿らせる。
「先生、い、今のは……」
「分かりやすい言葉で言えば、悪魔祓いという奴ですよ」
それを聞いた瞬間、どきりと心臓が跳ね上がる。今の僕には、あまりにもクリティカルなキーワードだからだ。
「遠藤さんは低級な悪魔を使っていたようですね。この年頃の子は、まじない事なんかに興味を持つこともありますが……稀にこうして、本物を呼び出してしまう場合もあるんです」
先生は遠藤の背から手を放すと、その掌に、黒いイモリのような物体を掴んでいるのが見えた。それがやがて、砂が散るようにさらさらと崩れていく。
「これは人間の色欲を刺激する低級魔。おおかた、恋のまじないでも試したのでしょうね。結果として室井くんと懇意になったようですが……悪魔の力を借りた愛など、煩悩の肥大した姿でしかありません」
そして先生は、再び芹香へと手を伸ばすと、その茶色の髪の毛を梳かすように撫でる。
「守山さんもまた同様……悪魔に煩悩を刺激され、理性が薄くなっていました。進行する前に気づけたのは、運が良かったと言えるでしょう」
僕は既に確信していた。
この人は解っている。すべて解った上で、僕を此処へ呼んで見せた。気づかれたとすれば、あの帰り道。先生と道端で出会った時に、この人はマモンへと疑いを持ったのだろう。
先生の意図は、まだ具体的には解らない。ただ……少なくとも、友好的な態度で無い事は間違いないだろう。
震える舌を必死に使って、僕は問う。
「……先生は、エクソシストか何かですか?」
それを聞くと、先生は穏やかに、本当に穏やかに笑って見せた。
そして、僕の予想を軽く超える正体を見せつけてきた。
「――私はウリエル。神の炎を賜りし天使です」
エル先生の背中から、白い炎が翼の如く広がる。
それは実際に純白の羽として具現化し、はためく音を耳に伝えた。
まるで、マモンと過ごした日常に、終わりを告げる鐘の如く。