檻のライオン、または家畜の話
「――ぼくの夢は、せかいせいふくです」
小学生の頃の僕にとって、そこは楽園だった。
楽園というか、正確には動物園であり、近所だった。
檻の中のライオンは吠えもせず、悠然と寝そべり、いつも呑気にあくびをしていた。それは雄々しく狩りをする姿よりもずっと、王者の風格を備えるように見えた。
そのライオンを飼育する檻の前は、僕にとってお気に入りのスポットだった。野生の荒々しさだとか、厳しさを感じさせる物はないけれど、のんびりとしたライオンの姿を眺めているのは退屈しなかったのだ。
僕が動物園に通いつめて居たのは、父方の爺さんがそこの責任者を任されていたからだ。
経営手腕が凄まじかったらしいが、無理なコスト削減とかはせず、飼育する動物に対しては、できるだけ快適な環境を作っていたそうだ。実際に爺さんの動物園では、どの動物も幸せそうに見えた。その幸せそうな姿を視ていると、こちらまで幸せになれたのだ。
その日もいつも通りにライオンを眺めていると、飼育員が餌を運んできた。ライオンは生肉を美味しそうに頂いていくが、その様子はまるで、召使いが王様の世話をしているかのように見えた。
それからほどなくして、爺さんが僕の傍へとやってきた。
「よう、誠二。まーた見に来てたのか。学校はまだ授業をしている時間だろう」
「んー、つまんないから抜けて来た」
「お前って奴は……後で先生に謝りに行くんだぞ」
そう言いながらも、爺さんはしわくちゃの手で僕の頭を撫でてくれた。僕は掌の大きさを感じながらも、ライオンからは視線を動かさなかった。
「ねえ、爺ちゃん。どうやったらライオンさんになれるのかな」
「なんだい。誠二は将来、ライオンになりたいのか?」
「うん。寝そべったままご飯貰ってねー、広くておっきな家の中でねー、たくさんの女の子といっしょに暮らしたい。せりかちゃんとか、るきちゃんとか」
こんな子供が居たら、普通は頭を二、三発は叩いているが、爺さんは僕の人格とか、性格を否定するようなことはなかった。人を不幸にしたり、傷つけたりするような事には厳しかったが、自由であろうとする事を叱る人ではなかった。
ぶっちゃけた話、悪い大人だった。
「そうだな、人間には決まりごとがたくさんあるからな。誠二がそう言う風になりたいんだったら、まずはお金が必要だ」
「お金? たっくさんいる?」
「ああ。それはもうたくさん要るな。それに信頼も、地位も必要だ」
「なんか大変そうだね……何でそんなに色々必要なの?」
「ライオンがああして居られるのは、あいつが客を呼ぶからさ。それで動物園には金が入って、飼育員には給料が出る。ライオンが居ないと金が入らなくなる。だから、飼育員はライオンに餌をあげるんだ。誠二よ、世の中にはなんでも理由があるんだぞ。ライオンは欲望の輪の中にいるんだ」
以前、爺さんに「需要と供給」という話を教えてもらったので、僕は今の話にも納得できた。こうやって諭してくれる辺りは、爺さんも大人だったんだろう。
だが、爺さんは決して、欲望を諦めろとだけは言わない人だった。
「だから誠二、ライオンになりたかったら学校に行け。まずは社会って言う、輪の中に入れ。そしていつか、輪を丸ごと自分の物にするんだ。好きな事をしたけりゃな」
「わを、じぶんのものに?」
「そう、お前が金や力を稼いでいけば、それが欲しい奴らはお前を助けてくれる。自分の力を高めろ。輪を回す人間になれ。世界をお前のものにすれば良いさ」
「せかいせいふくってこと?」
「あー、まあ、そんな感じだな!」
僕の瞳は輝いていたと思う。テレビのヒーロー番組でよく知って居た言葉だが、爺さんはそれを深くは考えなかったのだろう。その言葉が、自分の求める物にぴたりと嵌った。
僕はその時、何よりも目指すべき物を見つけてしまった。
「でも爺ちゃん、それってずっと先の話でしょ? 待ちきれないし、めんどくさいよ?」
我ながら最悪のガキだったと思う。だが、咎めない爺さんも爺さんだった。
「そうさなー、でも今すぐってのは難しいから……近道くらいはくれてやるか」
爺さんは上着の内ポケットを探ると、僕の手を掴み、何かを渡してくれた。
「こいつをやろう。お前が強く望むなら、いずれはグリモワールに辿りつくかもしれん」
掌を開いてみると、小さなカギが一つあった。爺さんの言葉を信じて、僕はそれを大事にしまっておく事にした。
それは間も無くして、爺さんの形見となった。
僕は真面目に学校に通うようになった。
友達とも付き合うようになった。
先生も僕が改心したと思ったらしく、笑顔で僕を迎えてくれた。
「将来の夢」という作文を発表させられて、僕が冒頭の台詞を言うまでは。