6
やっぱり夏帆は、謎が多い。
謎の多い彼女が、さも怪しそうな本を渡してきた。
三日後の事、『存在学会』?なんだ、それはと思った。
でも、たまたま空いていた時間を利用して、大学の片隅で授業をやっているのを知った僕は教室へ向かった。
大教室には、驚くほどの少ない学生が講義を受けていた。ほとんど眠っているし。
そして、前には『存在学会』と書かれた大きなスクリーン。
「つまりは、存在とは世界で見るために必要不可欠なものだ」
僕は、なんだかそわそわしていた。すると、僕を見つけて手を振ったのが夏帆。
どこにでも目立つ大きなリュックを背負って狭い椅子に座っていたけど、表情は少し明るかった。
「夏帆、なにを……」僕は、夏帆の隣に座った。
「よく聞いてなさい。人は教えに、救いを求めるそういう生き物。人は弱いから。
草薙君、あなたは弥生さんのことで今悩んでいる。
急に自分のそばにいなくなった妹に、不安を抱いている。
だから、あなたには救いが必要。それが学問であり、教えなの」
夏帆に言われて、憮然とした顔で俺は前の教壇を見ていた。
前では、派手な赤い色の半そでシャツの老人がマイクを持って演説していた。
「世界には、全て数字が存在する。その数字は、人にどれだけ認証されるかで決まる。
存在を結ぶものは、絆。絆が無く、認証されない人間はこの世界から消滅する。
だからこそ、存在の数字をゼロにしてはいけないんだ」
老人が発していると思えないほどのはりのある声が、マイク越しに聞こえてきた。
飲み屋みたいな周りの生徒の談笑が聞こえて、聞き取りにくいが。
でも夏帆は真面目にペンを走らせていた、僕も頬杖をついて前に向いていた。
「これ、何の講義?」
「『存在学』よ」ノートの上のペンを止めることはしない、夏帆。
「へえ、こんな講義あるんだ。でもこれって一年の講義だよな」
喋る僕に対して、夏帆はペンを止めて睨んできた。
「この講義、単なる単位稼ぎじゃないから」
「わ、分かったよ」
険しい顔の夏帆、やっぱり謎だ。だけどこの講義にかける気持ちみたいなものが、伝わってきた。
「たとえば、いつも一緒にいる仲の良かった親友がいたとする。
でも、ある時を境にその親友がずっと遠くに行ったとしよう。
忙しいこの時世、常にその親友を想いながら生きることは困難。
時間がたてばたつほど、その親友を忘れてしまうものだ。それが記憶の風化。
つまりは、こうだ。一緒にいたときの親友の数値が百と仮定したら、時がたつとともに減少する。
認証している数字は、次第にゼロに収束するものだ」
マイクから聞こえる声は、老人とは思えないほどしっかりしていた。
「大事なのは、離れた場所ではなく、離れている時間。
遠くにいる時間、見えない時間こそがゼロに近づく。だから人は、人と会おうとする。
忘れないように、数字がゼロにならないように。
ゼロになってしまえば、見えなくなってしまうから、触れることもかなわなくなるから」
いつの間にか食い入るように話を見ていたし、ちゃんと聞いていた。
思い出されるのは、弥生の事。遠くに行ってしまった、帰ってこないかけがえのない妹。
「だからこそ、我々は数字を上げる方法を学ぶ必要がある。
神隠しは、存在がゼロになった時に起きていた。
いつの間にか、抹消された存在の数字を元に戻すための学問を。
何もない君たちの、数字を与えよう」
老人は、やりきったようなドヤ顔を見せていた。でも、ほとんどの生徒は聞いていない。
寝ていたり、しゃべっていたりと授業のモラルがない。だけど夏帆だけは違う。
「数字……」
「そう、人には数字があるの。私、寂しい時にこの学会のゼミを聞くの。
周りには、寂しそうな人がいっぱい。人と人との間に数字が減っていくと、忘れ去られるから」
隣の夏帆は、ずっと教壇に熱い視線を送っていた。憧れるような、すがるようなそんな目を。
「数字を与えれば、弥生は戻ってくるのか?」
「そうよ、そのための学問」
「夏帆?」
「私は不安なの。ううん、人間はみんな不安……だからすがるモノが欲しいの。それが『存在学』」
いつの間にか、ペンを置いて僕の方を見ていた。
「ねえ、あなたも『存在学会』に入らない?」
「へっ?」
「あなたも寂しいでしょ、すがりたいでしょ」
夏帆は、いつの間にか女性的に僕の手をつかんできた。
いつもは淀んでいた目は、その時だけ輝いて見えた。