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そこは、真っ暗な海の中。
僕は水の中を、黄色いシャツと青いズボンで泳いでいた。
どんどん下に沈んでいく、海の中。下の方は暗くてよく見えない。
呼吸するたびに、水玉が上にゆらゆら浮いていく。
「助けて……兄さん……ごめんなさい……」
それは、僕にとって最も大事な妹の声。か細く、弱弱しい声が海の奥から聞こえてきた。
僕はその声に少しでも近づけるように、足を動かし、手を動かす。
広がる闇、僕は臆することがない。
僕にとって、弥生は忘れることのできない存在だから。
(今、助けに行く)
口で出さず、ゴボゴボと吐く息。半目を開き、闇へと泳いでいく。
静かな海、見たことのない魚が泳ぐ。ひたすら声だけを頼りに追いかけていく。
どれぐらい泳いだだろうか、呼吸は苦しくなっていくのが分かった。
視界もぼんやりして、光の届かない海底は暗い闇だけが広がった。
どこまで続くのかわからない恐怖はなく、ただ声のほうへ必死に泳いでいた。
(僕にとって、弥生は全てだ)
弥生は、僕と同じ。父は母を殺した、両親はいない。
冬子さんと一緒に暮らしていても、本当の家族の形は永遠に戻らない。
弥生は、僕と同じものを失っている仲間であり戦友だ。
大好きな妹、それだけでは片付かないかけがえのないもの。
「兄さん……今日は、とっても楽しかったの……」
そういって海底の方に、両足を抱えた裸の弥生の姿が小さく見えた。
体を丸めて、海底の奥にわずかな光で弥生の姿が認識できた。
(弥生!)僕は必死にこいで手を伸ばす。
でも弥生は、どんどん海底の方に沈んでいくのが見えていた。
それでも、僕はひたすら泳いでいた。腕が、足が痛く、胸が、呼吸が苦しい。
だけど、弥生と離れ離れになったら二度と会えなくなる。
それは、僕にとって最も辛い出来事、認めたくない現実。
「あのね、私……ようやく初めての恋が……」
目をつぶって海底に沈んでいく弥生に、少しでも近づこうと僕は必死に泳ぐ。
「もういい、弥生。兄さんが、助けてあげる」
喋ると、息が苦しい。でも弥生に、必死に声をかけた。
両手を激しく動かして、ようやく僕は弥生の隣までたどり着いた。
そして、僕は手を伸ばした。僕の姿に気づいた弥生は、ゆっくりと目を開く。
「にい……さん?」
腕で足を抱え込んだ弥生は、僕の顔をぼんやりとみていた。
「弥生、僕だよ。兄さんだよ」喋ると、呼吸が苦しくなった。
それでもいい、弥生が近くにいれば。
負けずに僕は、手を差し出した。
それに気づいた弥生は、細くしなやかな右手を僕の方に向けていた。
僕はそのまま小さな弥生の体を、自分の方に引き上げていた。
そして、華奢な弥生の体を抱き寄せた。長い髪が、水でゆらゆらと動いていた。
向き合う弥生は、僕の体にしっかりと両手を絡ませていた。
だから僕も、いとおしい妹の顔をしっかり見つけた。
「もう、大丈……」
『夫』と言おうとしたとき、突然目の前がさーっと明るくなった。
眩しい程の光が、僕の視界を覆った光の先には――