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婚約破棄を告げられた翌日、兄王子が跪いて契約結婚を申し込んできた——弟が捨てたのは、王国の鍵だったらしい

作者: 歩人
掲載日:2026/04/22

 謁見の間に、三つの言語が響いた。


 ヴィンターフェルト語、エルデンラント語、そして両国の公文書に用いられる古典共通語。


 それらを継ぎ目なく操っているのが、二十一歳の公爵令嬢だと知ったとき——エルデンラントの使節団長は、杯を持つ手を止めた。


「——以上が、通商条約第八条の修正案でございます。関税率の段階的引き下げにより、両国の穀物流通量は三年以内に一・四倍に増加すると試算しております」


 私は手元の羊皮紙から目を上げた。

 使節団の面々が互いに顔を見合わせている。反論ではない。納得の沈黙だ。


 隣に立つアルブレヒト殿下が、かすかに頷いた。

 それだけで十分だった。この方の「かすかな頷き」は、他の誰の拍手喝采よりも重い。


「素晴らしい」


 使節団長がエルデンラント語で言った。


「王太子妃殿下の分析力には敬服いたします。わが国の財務官でも、ここまで精緻な試算を短期間で仕上げることは難しいでしょう」


 王太子妃。

 その呼称にも、もう慣れた。


「恐れ入ります。しかし、これは私一人の仕事ではございません。殿下と共に検討を重ねた結果です」


 私がそう答えると、アルブレヒト殿下が静かに口を開いた。


「妻が謙遜している。原案の九割は彼女の仕事だ。私は承認の印を押しただけだよ」


 殿下。そのような言い方をされると、私が——


 言葉を飲み込んだ。

 謁見の間では、感情を見せない。それが私の流儀だ。


 ふと、視界の端に動きがあった。

 謁見の間の回廊の柱の陰に、金髪の巻き毛が見えた。


 ユリウス殿下だ。


 あの方の表情は、ここからでも読み取れた。唇を噛み、拳を握り、廊下の壁に背をつけている。かつて「退屈な女」と呼んだ元婚約者が、兄の隣で国の運命を動かしている光景を——見ているのだ。


 私は視線を使節団長に戻した。


 左手の薬指に、ヴィンターフェルト王家の紋章が刻まれた指輪が光っている。

 この指輪がここにあるまでの経緯を、少しだけ振り返ってもいいだろうか。


 すべては——半年前の、ある晩から始まった。




 私の一日は、夜明け前から始まる。


 公爵家の書斎で、エルデンラントから届いた外交文書の翻訳に取りかかる。婚約者であるユリウス殿下の執務机に積まれていたものを、侍従が「殿下はお読みにならないので」と私のもとに回してくるのだ。


 その日も、通商条約の附属文書を読み解いていた。


 三十枚を超える羊皮紙の束。ほとんどは定型的な文言の繰り返しだが、第十二条の補遺に目が留まった。


 ——通商路の安全保障に関する責任の所在を、ヴィンターフェルト側に移譲する。


 何気ない条文に見える。だが、これは事実上の領土要求だ。通商路の管理権は、その土地の統治権と不可分なのだから。


 ペンを取り、分析報告書を起草した。ユリウス殿下宛だ。このまま受理すれば、国境地帯の支配権を失う可能性がある、と。


 返答は翌日、侍従を通じて届いた。


「殿下は『そんな退屈な書類、お前に任せる』と仰せです」


 退屈。

 国境の安全保障が——退屈。


 ため息は、飲み込んだ。代わりに、報告書を外務卿に直接提出した。外務卿はすぐに条文の危険性を認め、修正交渉の準備に入った。


 ユリウス殿下は最後まで、何が起きたか知らなかっただろう。




 二つ目の仕事は、宮廷舞踏会の手配だった。


 本来なら王子の婚約者として、殿下と共に出席者の選定や席次の決定に当たるのが筋だ。だがユリウス殿下は「そういう面倒なことはお前に任せる。俺は踊るから」としか仰らない。


 だから私は一人で、百二十名の出席者リストを作成した。各家の序列、最近の外交関係、過去の席次でのトラブル——それらを全て考慮し、誰も不快にならない配席を組み上げる。料理も同様だ。アレルギーを持つ外交官、宗教上の禁忌がある使節、好みの偏りが激しい貴族——一人一人の情報を侍女たちから聞き取り、厨房に指示を出す。


 舞踏会当日、全ては滞りなく進んだ。

 ユリウス殿下は華やかな令嬢たちと踊り、笑い、楽しんでいた。


「今日の舞踏会は最高だったな」


 殿下がそう仰ったとき、私は少しだけ報われた気がした。


 ただ、次の言葉で打ち消された。


「やっぱりこういう場は華やかな方がいい。お前みたいに隅で帳簿を読んでる女がいると、場が暗くなる」


 帳簿ではなく、席次表の最終確認をしていたのだが——訂正はしなかった。




 三つ目は、最も神経を使う仕事だった。


 エルデンラントの外交官を招いた晩餐会でのことだ。ユリウス殿下が、酒の勢いで言ってはならないことを口にした。


「エルデンラントの穀物なんて、うちの馬でも食わないだろう」


 外交の場での侮辱だ。

 エルデンラント側の外交官の表情が凍った。外務卿が口を開きかけたが——私の方が速かった。


 古典共通語で口を挟んだ。


「殿下は、ヴィンターフェルトの農業改革の成果を誇りに思うあまり、比喩が過ぎました。もちろん、エルデンラントの黒麦はわが国でも高値で取引される最上の品です。殿下も先日、エルデンラント産の黒麦パンを大変お気に召していたと伺っております」


 作り話だ。ユリウス殿下が穀物の産地を気にしたことなど、一度もない。


 だが、外交官の表情が和らいだ。


「そうでしたか。それは光栄です」


 事なきを得た。

 ユリウス殿下は何が起きたか理解していない様子で、杯を傾けていた。


 こうした仕事を、私は何年も続けてきた。

 報われなくてもいい。これは私の責務だ。公爵家の令嬢として、王家の婚約者として、この国のために。


 そう、思っていた。




 季節の変わり目に催される秋の大舞踏会。


 その場で、全てが終わった。


 広間の中央で、ユリウス殿下が高らかに宣言した。隣には、見たことのない令嬢が立っている。薄桃色のドレスに金の髪飾り。華やかで、可憐で、笑顔の眩しい女性だった。


「本日、カタリーナ・フォン・シュヴァルツェンベルクとの婚約を破棄する」


 広間がざわめいた。

 私は——動かなかった。


「理由は明快だ。彼女は退屈だからだ。書類ばかり読んで、話も面白くない。王子の婚約者には、もっと華やかで社交に秀でた女が相応しい」


 殿下の隣の令嬢が、気まずそうに微笑んでいる。


「代わりに、エーデルシュタイン伯爵家のロザリンデ嬢を新たな婚約者とする。彼女こそ、俺の隣に立つべき女だ」


 百二十人の視線が私に集まった。


 同情。嘲笑。好奇。様々な色を含んだ視線だ。


 私は——一礼した。


「承知いたしました。長きにわたりお世話になりました」


 背筋を伸ばしたまま、広間を出た。

 涙は出なかった。出す余裕がなかったのではない。出す理由がなかったのだ。


 殿下の言葉は、私を傷つけたのではない。ただ、事実を確認させただけだった。


 私はこの方にとって、最初から——存在していなかったのだ。




 翌朝。


 公爵邸の書斎で、荷物をまとめていた。

 王城に置いていた執務資料——三カ国語の辞書、外交史の年鑑、各国の関税率一覧表。段ボール箱にして四箱分。ユリウス殿下が「退屈なもの」と呼んだものばかりだ。


 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、朝の八時だった。


 こんな時間に客人とは珍しい。使用人が応対に出て、すぐに戻ってきた。顔が青い。


「か、カタリーナお嬢様。あの……王太子殿下がお見えです」


 王太子。

 アルブレヒト・フォン・ヴィンターフェルト殿下。

 ユリウス殿下の兄であり、次期国王。


 お会いしたことは何度かある。執務棟の廊下ですれ違う程度だったが、いつも丁寧に挨拶をしてくださる方だった。寡黙で、書斎にいることが多く、弟とは対照的な佇まいの——


 なぜ、この方が。


「お通ししてください」


 書斎の本を急いで片付ける暇もなく、アルブレヒト殿下が入ってきた。


 黒髪に深い青の瞳。質素な軍服を着ているが、纏う空気に威厳がある。弟の華やかさとは異なる、静かな重さだ。


 そして——殿下は、跪いた。


 公爵家の書斎の絨毯の上に、片膝をつき、私を見上げた。


「カタリーナ・フォン・シュヴァルツェンベルク嬢。不躾な訪問をお許しいただきたい」


「殿下、何を——」


「契約結婚を申し込みたい」


 時が止まった——ように感じた。


「期間は一年。条件は一つだけだ。隣国エルデンラントとの通商条約交渉に、私と共に臨んでほしい」


 立ち上がる気配がない。王太子が公爵令嬢に跪いたまま、言葉を続けた。


「率直に言う。今のヴィンターフェルトには、エルデンラントとの交渉をまとめられる人材がいない。外務卿は優秀だが、エルデンラント語が話せない。私も古典共通語は読めるが、外交の実務経験が足りない。だが——あなたなら、できる」


「……私は昨夜、婚約を破棄された身でございます。王太子殿下の妻としてふさわしいとは」


「あなたが破棄されたのは、弟が愚かだからだ。あなたの瑕疵ではない」


 この方の声は、不思議なほど穏やかだった。


「第十二条の附属文書の分析報告、拝読した。あの条文の意味に気づいたのは、王国全体であなただけだった」


 驚いた。あの報告書は外務卿に提出したものだ。王太子の目に触れていたとは。


「宮廷舞踏会の席次設計も見事だった。あれほど多国籍の客人を不満なく配席する技量は、外交官ですら持ち合わせていない」


「……殿下は、なぜそのようなことまでご存じなのですか」


 アルブレヒト殿下は立ち上がった。私と目線が合った。深い青の瞳に、偽りはなかった。


「弟が何を捨てたか、ずっと見ていたからだ」


 胸の奥で、何かが揺れた。


「条件は——条件だけ、ですか」


 聞いてから、不思議な質問をしたと思った。契約結婚だ。条件以外に何がある。


 アルブレヒト殿下は少しだけ間を置いて、答えた。


「今は」


 今は。

 その二文字に含まれた意味を、この時の私はまだ正確に理解していなかった。


「……お受けいたします」


 一年の契約。

 国のために——そう、国のためだ。それ以外の理由は、この時点ではなかった。




 契約結婚の知らせは、宮廷を嵐のように駆け抜けた。


「弟の婚約者を横取りですって?」


「王太子殿下も趣味が悪い。あの退屈な女を選ぶなんて」


「きっと政略よ。シュヴァルツェンベルク家の力が欲しいだけでしょう」


 陰口は私の耳にも届いた。

 社交の場で、貴族令嬢たちが扇の陰で囁く声。侍女たちが「お気の毒に」と同情の目を向ける視線。


 気にしなかった——と言えば嘘になる。


 だが、気にしている暇がなかったのは本当だ。


 エルデンラントとの通商条約交渉は、想像以上に難航していた。先方は六項目の修正を要求しており、うち二項目は実質的な領土に関わる問題だった。あの第十二条の件も、まだ完全には決着していない。


 アルブレヒト殿下の執務室に、私の机が置かれた。

 殿下の机と向かい合う形で、窓際の位置だ。


「陽が入る場所が良いだろう。書類を読む仕事は目を使う」


 殿下がそう配慮してくださった。こんな些細なことに、ユリウス殿下なら絶対に気づかない。


 朝から晩まで、二人で文書を読み、分析し、交渉戦略を練った。


 殿下は聡明な方だった。私が分析結果を説明すると、核心を一発で掴む。逆に、私が見落としていた政治的文脈を殿下が指摘することもあった。


「この条項はエルデンラントの国内事情が絡んでいる。先方の財務大臣が来年改選だ。成果を急いでいる」


「なるほど。であれば、短期的な譲歩を見せつつ、三年後の再交渉条項を入れるのが有効かと存じます」


「そうだ。まさにそれだ」


 殿下の目が光った瞬間を、今でも覚えている。


 交渉相手ではなく、味方。対等な知性として扱ってもらえることが——これほど心地よいものだとは、知らなかった。


 一ヶ月が過ぎた頃、最初の転機が訪れた。


 エルデンラントの使節団との予備交渉。私が起草した修正案を、殿下が使節に提示した。


 使節団は顔色を変えた。こちらが先方の狙いを完全に見抜いた上で、双方に利益のある代案を用意していたからだ。


「この分析は、どなたが?」


 使節団長が尋ねた。アルブレヒト殿下は——迷いなく答えた。


「私の妻だ」


 契約書には「補佐官」としか書いていない。

 殿下は「妻」と言った。


 使節団が退出した後、私は殿下に言った。


「……殿下。契約書には、そのようには」


「契約書の外の話だ」


 殿下は書類に目を落としたまま、当然のように答えた。


「あなたは補佐官ではない。私の隣に立つ人だ。それを、隠す理由がない」


 眼鏡の奥で、目が熱くなった。

 書類で顔を隠した。殿下は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。


 この方は、いつもそうだ。必要な言葉だけを、必要なだけ——そして必要以上に、正確に。




 二ヶ月目に入ると、宮廷の空気が変わり始めた。


 通商条約の予備交渉が順調に進んでいるという噂が広まったのだ。国境地帯の商人たちは交渉の行方を固唾を飲んで見守っており、カタリーナという名は外交官たちの間で知られるようになっていた。


「シュヴァルツェンベルク嬢——いえ、王太子妃殿下の分析は見事でした」


 外務卿が公式の場でそう述べたとき、陰口を叩いていた令嬢たちの顔色が変わった。


 もっとも、私にとっては評判などどうでもよかった。重要なのは交渉の結果だけだ。


 ある日、社交棟の廊下を歩いていたとき、貴族令嬢の一団と鉢合わせた。


「あら、カタリーナ様。お忙しそうですこと」


 先頭に立つのは、伯爵家の令嬢だ。扇の陰で笑みを浮かべているが、目は笑っていない。


「弟殿下に捨てられて、今度は兄殿下にお縋りになったのですわね。さすがは公爵家のご令嬢、計算がお上手で」


 周囲の令嬢たちが、くすくすと笑った。


 私は立ち止まった。怒りはない。悲しみもない。ただ——事実を述べるだけだ。


「恐れ入りますが、通商条約の第八条修正案の審議が明日に迫っております。本件の結果次第で、国境地帯の穀物価格が三割変動いたします。伯爵家のご領地は国境近くでしたね。もしよろしければ、交渉の進捗について後日ご報告の場を設けましょうか」


 令嬢の顔から笑みが消えた。自分の家の領地経済が、目の前の「退屈な女」の仕事に左右されていることに——今、気づいたのだ。


「……い、いえ。そのようなことは」


「では、失礼いたします」


 一礼して歩き去った。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。


 ——いや、もう一つ。

 もう一つだけ、大切なものが増えていた。


 夜遅くまで続く執務の合間に、殿下が黙って紅茶を淹れてくださること。

 私が翻訳に集中していると、いつの間にか火のそばにブランケットが置かれていること。

 朝、執務室に入ると、窓辺に小さな花瓶が置かれていること。


 言葉は少ない。

 だが、この方の気遣いは——言葉よりも、確かだった。


「殿下は、いつも花を?」


 ある朝、思い切って尋ねた。


「……庭師に頼んでいる。あなたが好きな色がわからなかったので、毎日変えている」


 その不器用さに、唇の端が上がるのを止められなかった。


「白が好きです」


「覚えた」


 翌日から、花瓶には白い花だけが生けられるようになった。


 契約書の外にも、大切なものはあるのだと——この頃、私はようやく認め始めていた。


 ある夜のことだ。

 深夜の執務室で、エルデンラント語の古い条約文を読み解いていた。過去の通商条約の先例を調べるためだ。蝋燭の灯りが揺れ、文字が霞む。


「まだ起きていたのか」


 殿下の声だった。振り返ると、上着を脱いだ姿で扉に寄りかかっている。


「あと少しで——」


「それは明日でいい」


「いいえ、この先例を押さえておかないと、明後日の交渉で」


「カタリーナ」


 名前を呼ばれて、手が止まった。この方が私を名前で呼ぶのは——まだ、珍しかった。


「あなたが倒れたら、交渉そのものが止まる。それは国にとって最大の損失だ」


 合理的な理由だ。だが、その声音は——合理的ではなかった。


「……わかりました。今日はここまでにいたします」


 ペンを置き、立ち上がった。殿下が扉を開けてくださった。


 廊下に出たとき、殿下が小さく言った。


「……あなたの体が心配なのは、国のためだけではない」


 聞こえないふりをした。聞こえていたが——聞こえてしまったら、契約の枠の中にいられなくなりそうだったから。




 半年が過ぎた。

 隣国との条約締結を祝う大舞踏会の夜が来た。


 この日のために、全てがあった。


 大広間は蝋燭の光で満ち、エルデンラントの使節団が正装で列席していた。ヴィンターフェルトの貴族たちも勢揃いだ。国王陛下と王妃殿下が上座に着き、アルブレヒト殿下は——私の隣にいた。


 条約の正式調印の前に、スピーチの時間がある。


「カタリーナ」


 アルブレヒト殿下が、小さく私の名を呼んだ。


「頼めるか」


「はい」


 壇上に立った。

 百名を超える出席者の視線を受けて、私はエルデンラント語でスピーチを始めた。


「本日は、両国の未来を繋ぐ条約の締結に際し、ヴィンターフェルト王国を代表してご挨拶申し上げます」


 エルデンラント語の発音に、使節団が目を見張った。外交官ですら訛りが残ることの多い言語だ。幼少の頃から父に学んだ言葉が、今この場で生きている。


「通商条約は、単なる経済協定ではございません。両国の民が互いに信頼し、共に繁栄するための礎です。この条約が、戦ではなく対話を選んだ両国の叡智として、後世に語り継がれることを願っております」


 拍手が広間を満たした。


 壇上から降りるとき、使節団長が深々と頭を下げた。


「王妃殿下。貴国にあなたのような方がいてくださることを、わが国は幸運に思います」


 王妃殿下、と。

 まだ正式には契約結婚の期間中だ。だが、使節の目にはそう映っているのだろう。


 アルブレヒト殿下が手を差し伸べてくれた。その手を取って壇上を降りた。


 殿下の指先が、ほんの少しだけ強く握られた。

 言葉の代わりだと、もうわかっていた。


「見事だった」


 席に戻る途中、殿下が耳元で囁いた。


「あなたがいなければ、この条約はなかった」


「殿下の政治判断があったからこそです」


「いや。俺一人では何もできなかった。それは事実だ」


 この方は、嘘をつかない。謙遜ではなく、本当にそう思っているのだ。

 だからこそ——この方の言葉は、重い。




 舞踏会の中盤で、事件が起きた。


 ユリウス殿下が新しい婚約者——ロザリンデ嬢を伴って、エルデンラントの外交官に挨拶に行ったのだ。


 ロザリンデ嬢は華やかで可憐な令嬢だった。社交の場では花のように映えるが——外交の場は、花だけでは成り立たない。


「まあ、エルデンラントの方々って、随分と質素なお召し物ですのね。うちの領地の使用人の方がまだ良い生地を着ていますわ」


 悪気はなかったのだろう。本当に、ただ思ったことを口にしただけだ。


 だが、外交の場で相手国の服装を貶すことの意味を、この令嬢は知らない。


 エルデンラントの外交官たちの顔が強張った。せっかくまとまった条約の空気が、一瞬で凍りつく。


 私は——動いた。


 ロザリンデ嬢のそばに歩み寄り、にこやかに古典共通語で話しかけた。


「ロザリンデ嬢は、エルデンラントの織物に大変関心がおありなのですね。確かに、エルデンラントの亜麻布は独特の風合いがございます。わが国では手に入らない希少な素材です」


 外交官に向き直り、エルデンラント語で続けた。


「失礼をいたしました。彼女はまだ若く、お国の文化に不慣れでございます。ですが、関心を持っているのは事実です。よろしければ、後日、貴国の織物についてご教示いただけませんか」


 外交官の表情が、怒りから苦笑に変わった。


「……王太子妃殿下のお力で、何度助けていただいたかわかりません」


 危機は去った。

 だが、見ていた者は見ていた。


 ユリウス殿下の顔が、蒼白になっていた。


 ロザリンデ嬢は何が起きたか理解できず、きょとんとしている。ユリウス殿下は——理解していた。少なくとも、かつて自分の失言を誰がどうやって修正していたか、今この瞬間に気づいたのだ。


 三年間、見えない場所で。

 何度も、何度も。


 あの仕事をしていたのが——「退屈な女」だったことに。




 舞踏会の途中、ユリウス殿下がアルブレヒト殿下に詰め寄った。


 回廊の一角だった。私は殿下の隣にいた。


「兄上」


 ユリウスの声は低く、震えていた。


「俺の婚約者を横取りしたのか」


 アルブレヒト殿下は、表情を変えなかった。


「お前が捨てたのだ、ユリウス」


「俺は——」


「拾ったのではない。迎え入れたのだ」


 静かだが、揺るぎのない声だった。


「お前は彼女を『退屈だ』と言った。だが、お前が退屈と呼んだものの中に、この国の未来があった。外交文書の翻訳、舞踏会の手配、お前の失言の尻拭い——全て、彼女が一人でやっていた。お前はそれを知らなかった。いや、知ろうとしなかった」


 ユリウスの拳が震えている。


「そんなの——そんなの、俺は知らなかった」


「知らなかったのか。それとも、見なかったのか」


 アルブレヒト殿下の声は、静かだが容赦がなかった。


「だったら教えてくれればよかっただろう!」


「教える必要があったか? 自分の婚約者が何をしているか、見ようとするのは当然のことだ。俺は——見ていた。ずっとだ」


 ユリウスの顔が歪んだ。怒りではない。もっと苦いもの——後悔だ。


 視線が、私に向いた。


「カタリーナ」


 久しぶりに、この方に名前を呼ばれた。


「……戻ってこい」


 その言葉を聞いて、私は——少しだけ、悲しくなった。


 この方は、まだわかっていない。


「ユリウス殿下」


 敬語は崩さない。この方への敬意ではなく、私自身の矜持として。


「退屈と仰った書類の中に、この国の未来がございました。読まなかったのは、殿下です」


 ユリウスの顔から、血の気が引いた。


「私は三年間、殿下のおそばで務めを果たしてまいりました。外交文書を翻訳し、舞踏会を手配し、殿下のお言葉の後始末をいたしました。その全てを『退屈だ』と仰った。それは殿下のご判断であり、私はそれを受け入れました」


 一歩、アルブレヒト殿下の隣に寄った。


「ですが、申し上げます。私が戻る場所は、もうございません。退屈な女には——退屈な女にしか見えない景色がございます。その景色を共に見てくださる方を、私はすでに見つけました」


 ユリウスの唇が動いた。何かを言おうとして——言葉にならなかった。


 広間の向こうでは、ロザリンデ嬢が別の外交官に話しかけている。また何か不用意なことを言わないかと、周囲の貴族たちが神経を尖らせているのが見えた。


 あれが——ユリウス殿下が選んだ「華やかな令嬢」の現実だ。


 同情はしない。だが、かつての婚約者として、最後に一つだけ。


「ユリウス殿下。ロザリンデ嬢は聡明な方です。ただ、外交の場に慣れていないだけでございます。教えてさしあげてください——殿下が、直接」


 それは、三年間ユリウス殿下が私に丸投げしていたことだ。今度は自分でやれ、という意味を込めた。


 ユリウスは黙って、拳を握りしめたまま背を向けた。


 その時——大広間から、国王陛下の声が響いた。


「王太子アルブレヒトと、カタリーナ・フォン・シュヴァルツェンベルクの正式なる婚約を宣言する」


 契約の期限を待たずに——陛下が動いた。

 通商条約の締結と同時に、王国の未来を担う二人の婚姻を、国を挙げて祝福する。外交的にも、これ以上ない演出だった。


 アルブレヒト殿下が私を見た。


「……驚いたか」


「少し。ですが——」


「ですが?」


「陛下の決断は、常に合理的です。この国の未来にとって最善の判断かと存じます」


 殿下が、ほんの少しだけ笑った。


「合理的な理由は、陛下に任せる。私の理由は、別にある」


 問い返す前に、殿下は私の手を取り、大広間へと歩き出した。


 百人の拍手の中を、二人で歩いた。


 ユリウスの姿は——もう、振り返らなかった。




 後日。


 王城の執務棟。かつてアルブレヒト殿下だけの書斎だった部屋は、今では二人の執務室になっている。


 窓辺の花瓶には、白い花。


 向かい合った机で、二人して羊皮紙を読んでいる。次の外交案件——北方諸国との通商協議の準備だ。


「この条項の解釈だが」


「はい」


「少し難しい。あなたの意見を聞きたい」


 何気ないやりとりだ。でも、これが——私の望んだ日常だった。


 対等に、言葉を交わす。互いの知性を信頼し、共に考える。華やかさはない。舞踏会のような煌めきもない。ただ、静かで、確かで、温かい。


 ペンを置いたとき、アルブレヒト殿下——いや、もう「殿下」と呼ぶべきではないのかもしれない——が、こちらを見ていた。


「契約の期限が近い」


 一年の契約。

 正式な婚約が宣言されたとはいえ、私たちの間には最初に取り交わした契約書がある。


「……延長、なさいますか?」


「延長ではなく」


 殿下は席を立ち、私の机の前に来た。

 そして——また、跪いた。三ヶ月前、公爵家の書斎で初めてそうしたように。


「永続にしたい」


 右手に、新しい指輪があった。王家の紋章ではなく、白い花をかたどった——あの、窓辺の花と同じ意匠の指輪。


「今度は条件も期限もない。ただ、あなたに——」


「はい」


 殿下の言葉を遮ってしまった。

 礼儀に反する。私らしくない。でも——


「はい。お受けいたします」


 指輪を受け取るとき、殿下の手が少し震えていた。聡明で冷静で、国のためなら何でもできるこの方が——こんなことで、緊張しているのだ。


「……ありがとう」


 殿下の声が、少し掠れていた。


 私は眼鏡を外して、目元を拭った。今度は——書類で顔を隠さなかった。




 ユリウス・フォン・ヴィンターフェルトは、外交特使として北方辺境に赴任した。


 事実上の左遷だ。

 舞踏会での一件と、婚約者ロザリンデ嬢の外交上の失態が重なり、国王陛下の判断で中央から遠ざけられた。


 ロザリンデ嬢との婚約は継続しているが、華やかな社交界からは切り離された。辺境の冬は長く、舞踏会もない。退屈を嫌うあの方にとって、これ以上の罰はないだろう。


 だが——これは罰ではなく、機会だ。辺境で地道な外交実務を学べば、あの方も変われるかもしれない。退屈な仕事の中にこそ本質がある。それを、あの方が自分で見つけられたなら。


 そう思ったのは、私の甘さだろうか。


 それとも——アルブレヒト殿下が弟に与えた、最後の温情だろうか。赴任先を選んだのは殿下だと、後で知った。過酷すぎず、しかし華やかさとは無縁の場所。立て直すには地道な努力が必要な、小さな交易拠点。


 どちらでもいい。

 もう、あの方のことを考える時間は終わった。


 私の前には、北方諸国との通商協議の資料が山と積まれている。

 隣には、白い花の指輪をくださった方がいる。


「カタリーナ」


「はい」


「この条文のエルデンラント語訳だが——」


「拝見します」


 退屈だと言われた仕事が、今日も続く。

 だが隣には、その退屈の価値を最初から知っていた人がいる。


 これが私の日常だ。

 これが——私の、幸福だ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 今回は「退屈」という言葉がテーマでした。


 華やかさの裏で国を支える地味な仕事——外交文書の翻訳、宮廷行事の手配、失言の後始末。こうした「見えない労働」は、現実の世界にもたくさんあります。それを「退屈だ」と切り捨てる人と、「唯一無二だ」と見抜く人。どちらの隣に立ちたいかは、言うまでもありません。


 捨てられ令嬢シリーズの「連鎖破棄型」は、上位互換の相手が現れるパターンですが、今回はそこに「契約結婚から本物の愛情へ」という変化を加えました。条件だけで始まった関係が、言葉少なな気遣いの積み重ねで本物に変わっていく——その過程を楽しんでいただけたなら幸いです。


 アルブレヒトの「契約書の外の話だ」という台詞は、書いていて自分でも好きになりました。不器用な人の精一杯の告白は、華やかな愛の言葉より、ずっと胸に響くものですね。




◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇




婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。




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・「毒が効かない体になるまで毎日毒を盛られていた」と知った婚約者が〜【断罪型】→ https://ncode.syosetu.com/n6633lu/

・「お前の代わりはいくらでもいる」と笑った〜【代筆型】→ https://ncode.syosetu.com/N9253LU/

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― 新着の感想 ―
そもそも、王太子に決まった婚約者がいないのに、出来の悪い第二王子が先に婚約してるのってどうなの? って思ったけど、(おそらく慣例上)外交担当の第二王子があまりに酷いので、優秀な婚約者を宛がったってとこ…
仕事も彼女に任せていたからより退屈に感じてしまったのかもしれませんね。せめて一緒に仕事をこなしていれば違ったかもしれないけど、それが出来ないのがクズ王子というもの。
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