第5話『異世界オリエンテーション』
翌日の昼下がり。
俺は、玲子さんに言われるがまま、《Second Beat》のフロアでテーブルを拭いていた。
玲子さんはカウンターでノートパソコンを開き、美咲さんはその隣で静かにグラスを磨いている。
二人とも、見かけによらず真面目なようだ。
俺も何か手伝わなければという気持ちになるのは、当然の帰結だった。
「玲子さん。俺、何かバイトとか探そうと思うんですけど」
一区切りついたところで、俺は真剣な顔で切り出した。
ここに住まわせてもらう以上、家賃や食費くらいは自分で稼ぎたい。
それが、当然の筋だと思っていた。
しかし。
「は?」
玲子さんは、心底意味が分からないという顔で、俺を見つめた。
美咲さんも、グラスを磨く手を止め、不思議そうにこちらを見ている。
「バイト?なんであんたが?」
「なんでって…家賃とか、食費とか…。お世話になるわけですし」
「ああ、そんなことかい。気にしなくていいよ」
「そういうわけにはいきませんよ!」
俺が食い下がると、玲子さんは「うーん」と腕を組んだ。
「あんた、本当に変わってるね。男性が働くなんて、聞いたことがないよ」
「……え?」
「男性は基本的に、女性の扶養に入ることが、国から推奨されてるのさ。それが、この国の常識なんだよ」
常識。
男が働かないのが、常識。
その言葉は、俺の脳天を鈍器で殴りつけたかのような衝撃を与えた。
俺の常識が、音を立てて崩れていく。
俺が引きつった笑顔で「そ、そうなんですね…」と答えると、玲子さんはそれ以上は追求せず、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「ま、難しい話はそれくらいにして。それより、あんたはどんな子がタイプなんだい?」
「タイプ、ですか?」
「そうだよ。あたしたちがガンガン行くからさ、参考に教えてみなって」
その明け透けな物言いに、俺は思わずたじろぐ。
「え、いや、普通は男の方からアプローチするもんじゃないですか…?」
「「えーっ!?」」
俺の言葉に、玲子さんと美咲さんが、綺麗なデュエットで驚きの声を上げた。
美咲さんがこんなに大きな声を出すのを、俺は初めて見た。
「男から!?嘘でしょ!?」
「…じゃあ、女の人は待ってるの?お姫様みたい」
心底、信じられないという顔でこちらを見る二人に、俺の中で何かがプツンと切れる音がした。
「無理だ!もうツッコミが追いつかない!」
俺は頭を抱えて、天を仰いだ。
「なんなんですかこの街は!?男はヒモで恋愛は女性から!?どうなってんですか!」
「昨日からずっとそうだ!俺の免許証は偽物扱いされるし、戸籍はないって言われるし!」
「もういっそ、ここが壮大なドッキリ番組のロケ地か、あるいは異世界とかであってくれ!」
ヤケクソ気味に叫んだ俺を見て、玲子さんは腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは!異世界ねぇ。あんた、やっぱり面白いこと言うなあ!」
しかし、俺が涙目で訴えかけると、玲子さんは何かを察したように、ふっと笑うのをやめた。
その目は、いつになく真剣だった。
「…お願いします」
俺は、テーブルに手をついて、深く頭を下げた。
「この世界の常識を、どうか俺に教えてください!」
俺の必死な様子に、玲子さんは観念したようにため息をついた。
「…分かった。ちゃんと教えるよ。あんたが混乱しないように、この世界の『当たり前』をな」
玲子さんは、カウンターの椅子に座るよう俺に促した。
彼女のルール解説が、今、始まる。
「まず、あんたも薄々気づいてる通り、この世界は極端に女が多い。理由は諸説あるが、とにかく男は希少価値なんだ。だから、国が法律で手厚く保護してる」
「保護…」
「ああ。昨日来た、男性保護課ってのがその専門部署だ。あいつらは、男に何かあれば飛んでくる」
「具体的には、どんな法律なんですか?」
俺の問いに、玲子さんは指を一本立てた。
「まず、男を傷つけたら、女を傷つけるより何倍も重い罪になる。暴行はもちろん、暴言とか、精神的に傷つけるのもアウトだ」
(…メンタルケアまで完備かよ!)
「それから…」
玲子さんは、少し言葉を選ぶように、続けた。
俺も、ごくりと唾をのむ。
(男の立場が弱いってことは…例えば、学校とかでも…)
俺は恐る恐る尋ねた。
「じゃあ…その、学校とかで、先生が生徒に、とか…そういうのは…」
玲子さんは「ああ」と頷いた。
「それもよく聞く話だね。ほぼ女子校みたいなクラスに一人だけいる男子生徒が、女性の先生に目をつけられて…なんてゴシップは、いつの時代も鉄板さ。もちろん、問題になっても泣き寝入りするのは、いつだって男の子の方だよ。立場が弱すぎるからね」
(やっぱりあるのか、そういうのが!しかも立場が弱くて泣き寝入りって、それ保護されてる意味ないじゃん!)
玲子さんの真剣な説明を聞けば聞くほど、俺の顔は青ざめていく。
手厚い保護。それは聞こえはいいが、要するに、俺の自由は法律でがんじらめにされているということだ。
「じゃあ、俺…」
俺の声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。
「ここで芸人をやるっていうのも、難しいじゃないですか…」
そうだ。
ライブハウスに出演するのだって、夜道を歩くことになる。
そもそも、芸人として活動すること自体、労働と見なされて許可が下りないかもしれない。
せっかく見つけた希望の光が、ふっと消えそうになるのを感じた。
「うーん、確かに大っぴらに外で活動させるのは、色々面倒でねぇ…」
玲子さんも、さすがにこれには困ったという顔で腕を組む。
フロアに、重い沈黙が落ちた。
この世界では、俺は笑うことさえ、自由にできないのか。
その時だった。
それまで黙って話を聞いていた美咲さんが、不思議そうな顔で、静かに口を開いた。
「…なんで、『配信』しないの?」
「「配信?」」
俺と玲子さんの声が、綺麗に重なった。
「うん。普通の」
美咲さんは、こくりと頷いて、淡々と続ける。
「カメラで撮って、流せばいい。家にいても見られる。外に出る必要はない」
その、あまりに当たり前な指摘に、俺は愕然とした。
そうだ。
配信。
なぜ、その発想がなかったんだ。
俺は、「芸人」とは舞台に立ってこそのものだと、固執しすぎていた。
この世界の異様さに混乱して、自分の世界では当たり前だったはずの可能性を、すっかり忘れていた。
俺は美咲さんと玲子さんの顔を交互に見て、興奮気味に叫んだ。
「配信…!それなら、やれます!俺、芸人を続けられます!」
俺の目に、本物の希望の光が宿ったのを見て、玲子さんは満足そうに頷いた。
彼女はちらりと美咲の方に視線を送る。
「…みたいだね。美咲のおかげで、道が見つかったじゃないか」
その声は、優しかった。
そして、俺に向き直った。
「よし、決まりだ。やるんだろ、ユーマ?」
「はい!やらせてください!」
「いい顔するじゃないか。分かったよ。あたしが全面的に協力してやる。機材のことでも何でも言いな」
そう言ってニカッと笑う横顔は、頼れる姉貴そのものだった。




