第1話『雨とネオンと違和感』
「──はい、どーもー。佐藤悠真でしたー。ありがとうございましたー」
気の抜けた挨拶と共に、俺は舞台袖へと消える。
客席から送られてくる拍手は、まばらだった。
いや、情けで叩いてくれている、という方が正しい。
数えてみれば十人にも満たない客たちは、次の芸人の登場を待っている。
俺の出番など、彼らにとっては前座にもならない、ただの時間つぶしだ。
「お疲れ様、佐藤くん」
舞台袖で腕を組んでいたディレクターが、手元のバインダーに何かを書き込みながら声をかけてくる。
その目に、感情はない。
ただの作業だ。
「次、Bブロックの三番、サンダーボルト。準備して」
インカムにそう指示を飛ばす横顔を、俺はただぼんやりと眺めていた。
ここは、都内某所にある若手芸人のためのオーディション会場。
今日も今日とて、俺はその他大勢の一人として、その他大勢の笑えないネタを披露し、そして滑った。
いつものことだ。
慣れてしまった自分が、少し嫌になる。
「佐藤くん。ちょっといいかな」
ディレクターに呼び止められ、俺は「はい」と短く答えた。
どうせ、いつものダメ出しだろう。
「今日のネタだけどさ」
「はい」
「悪くはないんだよ。面白い。構成もしっかりしてるし、言ってることも分かる。分かるんだけど…」
ディレクターは言葉を探すように、一度天井を仰いだ。
そして、俺の目を真っ直ぐに見て、残酷な事実を告げる。
「華がないんだよね、君には」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に陥る。
分かっていた。
ずっと前から、自分でも気づいていたことだ。
それでも、他人から、それもプロの口からハッキリと告げられると、ボディブローのように効いてくる。
「なんて言うか…記憶に残らないんだ。面白いんだけど、家に帰ったらもう忘れてるタイプの笑い。分かるかな、この感じ」
「…はい」
「例えばさ、君と同期のサンダーボルトの雷太くん。あいつ、覚えてる?」
忘れるわけがない。
俺がこの世界に入って、最初にできた友人であり、そして、俺の心を最初にへし折った男だ。
雷太は、とにかく華があった。
舞台に立っただけで、客の視線を釘付けにする何かを持っていた。
ネタは正直、俺の方が面白いと思うこともあった。
だが、客のウケはいつも雷太の方が上だった。
彼はスターだった。
俺は、その他大勢だった。
「あいつにはスター性がある。人を惹きつける何かを、生まれながらに持ってるんだ。お笑いってのは、結局そういうことなんだよ。ネタの面白さだけじゃ、上には行けない」
ディレクターの言葉は、正論だった。
ぐうの音も出ないほどに、正しい。
だからこそ、俺の胸に深く突き刺さる。
俺には、それがない。
その、スター性とかいうやつが、決定的に欠けている。
「…勉強になります。ありがとうございました」
俺は深々と頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。
もう、ここにはいたくなかった。
これ以上、自分の惨めさを確認したくなかった。
楽屋に戻ると、ちょうど出番を終えた雷太が、スタッフや他の芸人たちに囲まれていた。
今日のオーディションも、一番ウケていたのは間違いなく彼だろう。
その輪の中心で、彼は太陽のように笑っていた。
俺は誰にも気づかれないように、隅に置いていた自分の荷物を掴むと、足早に会場を後にした。
外は、冷たい雨が降っていた。
傘を持ってくるのを忘れたことに気づいたが、もうどうでもよかった。
濡れた前髪から滴り落ちる雫が、頬を伝う。
それが雨なのか、それとも涙なのか、自分でも分からなかった。
とぼとぼと、当てもなく夜道を歩く。
街のネオンが、雨に濡れたアスファルトに反射して、滲んで見えた。
そうだ、今日は相方だったやつの結婚式だったか。
コンビを解散して、芸人を辞めて、一般企業に就職したあいつは、今頃幸せの絶頂にいるのだろう。
俺だけが、こんな薄暗い場所で、くすぶり続けている。
「…やっぱり、俺はダメなのか」
自嘲気味に、そう呟いた瞬間だった。
ポケットに入れていたスマートフォンが、けたたましく振動する。
誰からだろうか。
こんな時間に、俺に連絡してくるやつなんて…。
画面に表示された名前に、俺は息を呑んだ。
「雷太」と、そこにはあった。
あいつは時々、こうして俺に連絡してくる。
「悠真、最近どうだ?」
「今度飲みに行こうぜ」と。
その言葉に悪気がないことは、分かっている。
分かっているからこそ、辛かった。
彼にとっては何気ない優しさが、俺のプライドを少しずつ削り取っていく。
画面の光に気を取られていた、その一瞬。
「危ない!」
誰かの叫び声と、耳をつんざくようなクラクションの音。
ハッとして顔を上げると、目の前には大型トラックのヘッドライトが迫っていた。
眩い光が、俺の世界を真っ白に染め上げていく。
ああ、そうか。
俺の人生、ここで終わりか。
まるでスローモーションのように、車体が俺の体に衝突するのが見えた。
強い衝撃。
浮遊感。
そして、地面に叩きつけられる痛み。
遠のく意識の中で、俺はなぜか、初めて舞台に立った日のことを思い出していた。
あの時の、客の笑い声。
あれだけが、俺の人生のたった一つの、宝物だった。
◇
「……ん」
瞼を開けると、そこは見知らぬ路地裏だった。
コンクリートの壁と、鉄製の非常階段。
ゴミ収集所の生臭い匂いが、鼻をつく。
「…あれ?」
俺はゆっくりと、自分の体を起こした。
おかしい。
痛みがない。
服も汚れていない。
さっきまでの雨も、すっかり上がっている。
まるで、何もなかったかのように。
「夢…か?」
だとしたら、随分とリアルな夢だった。
トラックに撥ねられた瞬間の衝撃も、まだ体にこびりついているようだ。
俺は立ち上がって、服についた埃を払う。
「にしても、ここどこだよ…」
辺りを見回すが、全く見覚えのない風景が広がっている。
俺がいたのは、新宿のはずだ。
こんな、古びた路地裏なんてあっただろうか。
ひとまず、大通りに出てみよう。
そう思って歩き出した俺は、すぐに異変に気づいた。
「……ん?」
おかしい。
何かが、おかしい。
大通りに出ると、そこは多くの人々で賑わっていた。
平日の夜とは思えないほどの活気だ。
しかし、俺が感じた違和感は、そこではなかった。
すれ違う人々。
カフェの窓際で談笑するグループ。
信号待ちをする車の運転手。
その全てが、女性なのだ。
いや、正確には、男性の姿もちらほらと見える。
だが、その比率が異常だった。
感覚としては、女性が九割で、男性が一割。
いや、もっと少ないかもしれない。
「なんだこれ…女子大の学園祭か?それとも、何かのロケ?」
芸人としての癖で、状況を理解しようと頭の中でツコミを入れる。
だが、目の前の光景は、そんな生易しいものではなかった。
街全体が、まるで巨大な女子校のようになっている。
道行く女性たちの視線が、やけに俺に突き刺さるのを感じる。
「え、男の人…?」
「珍しい…」といったひそひそ話が、風に乗って耳に届いた。
まるで、俺がパンダか何かになったような気分だ。
居心地の悪さに、俺は自然と早足になる。
訳が分からない。
これは夢だ。
そうに違いない。
そうでも思わなければ、目の前の現実を受け止めきれそうになかった。
当てもなく、ただ彷徨うように歩き続ける。
どれくらい時間が経っただろうか。
混乱した頭で考えていても、答えなんて出るはずもない。
その時だった。
どこからか、微かに音楽が聴こえてくることに気づいた。
激しいドラムのビートと、歪んだギターの音。
それは、俺が慣れ親しんだ、ライブハウスの音だった。
音は、目の前の古びたビルの地下から漏れてきているようだ。
吸い寄せられるように、俺はそのビルの前に立つ。
錆びついた看板には、ネオンでこう書かれていた。
《Second Beat》
セカンドビート。
第二の鼓動、か。
ここなら、何か分かるかもしれない。
人がいる場所に、情報はある。
それに、音楽は好きだ。
少しだけ、荒んだ心を癒してくれるかもしれない。
俺は意を決して、地下へと続く薄暗い階段をゆっくりと下りていく。
重い鉄製の扉を開けると、爆音と共に、熱気が俺の体を包み込んだ。
ようこそ、と。
まるで、新しい世界が俺を歓迎しているかのように。