第二話:僕らの偽善
テニス部のランニング中に、曽根が唐突にこんなことを言った。
「鹿島、もう学校に来ないかもな」
「鹿島? 誰だっけ」
曽根はハァ、ハァと小さな呼吸を漏らし、正面を向いたまま「いや、なんでもない」と、口をつぐんだ。
内心、ドキリとした。
だけど、ぼくはこう思うようにした──。
練習の最初の難関、地獄のランニングになんとかついていけるようになったはいいが、いつまでも走ってばかりで飽き飽きしていた。きっと曽根は、なんとなくありそうな話をでっちあげて、この苦しくて退屈なランニングから意識を逸らしたかったんだ、と。
しかし、ゴールデンウィークが明けても、鹿島は学校に来なかった。曽根が言ったとおりになった。翌日も、その翌日も──そして今日も。
五月の中頃になると、さすがにクラスの大半から「あいつは”感染者”だよ」と囁かれるようになった。担任も口には出さないが、薄々わかっている様子だった。
最初の”キャリア”は窪塚という、あまり印象に残らない男子だった。入学早々に発症させた。給食の時間だった。顔も性格も、何もわからないクラスメイト。
だけど、ぼくには──その二人のキャリアを、笑えない秘密があった。
*
「起立」
ガタガタと一斉に椅子を引く音。
「礼」
その瞬間、教室全体に話し声が溢れた。ぼくはこの瞬間が大好きだ。まるで消音になっていた教室が、次の瞬間一斉に解除されたように、自由気まま。学校終わりの屈託のない空気が教室を包む。みんなどこに、そんな元気を隠してたんだろう。
教室のドアが開く音が、何度も響く。
そして、声のざわめきが徐々に遠ざかっていく。
いつもなら、曽根と一緒に部室へ向かう時間だ。だけど今日は違った。ビニール袋を提げた先生が、ゆっくりと曽根の席へと近づいていくのが見えた。ぼくは、とっさに机の中を探すフリをして、その成り行きをじっと待った。
「曽根っ。今日は部活ないよな? 柏崎先生から聞いてるぞ」
返事をせず、先生を睨みつける曽根。先生が何を頼もうとしているのか、曽根もわかっている。
「お前、鹿島と家が近かったよな。これ、頼むわ。な? 頼んだからな曽根。よろしく」
「えぇーっ!」
曽根は不満の声をあげたけど、もうそこには先生の姿はなかった。ぼくは、先生が完全に教室を出て行くまで待ってから、曽根のもとに駆け寄った。
「どうしたァ? 何言われたん?」
曽根は「ちょっと村上聞いてくれよーっ」と、あからさまな迷惑顔を作り、ぼくに不満をぶちまけた。
「今日っ! 今から鹿島の家に、学級通信と宿題、それに給食のパンを届けに行けだって! 最悪だよー」
「やっぱり? だと思ったよ。セーフ!」
「何がセーフだよォ。村上は南少でいいよな! なんで俺なんだよォー。ほんっと最悪ぅ」
一回では気がすまないのか、チッ、チッ! と二回舌打ちした曽根。ぼくは”北小”、こいつは鹿島と同じ”南小”だ。このクラスに南小出身のやつは他に二人いたけど、鹿島の家に一番近いのは曽根だった。
「村上のほうが同じ班なんだし、お前が行けよーっ」
曽根はビニールから、給食のパンだけを抜き取って、ぼくの手に強引に押し付けた。
「ちょ! 先生に頼まれたのお前だろ! なんでぼくなんだよぉ」
まるで文句を言うぼくを威嚇するように、給食のパンを、教室の隅のゴミ箱へ思い切り投げつける曽根。
「ストラーイク!」
パンはゴミ箱を外れ、近くで立ち話をしてた二人組の女子のスカートをかすめ、床に落ちた。
「ちょっとォー! パン投げないでよねぇー! それ、鹿島さんの家に持って行くパンでしょ」
すごい剣幕で二人組の女子が、曽根のもとへ詰め寄った。