無について
机の上のコップを、三時間も見つめている。
いや、三時間かどうかも怪しい。時計を見れば時間はあるはずなのに、針の動きが私の中の時刻と一致していない。
私の中では、もう半日くらい経っている気もするし、一秒も経っていない気もする。
水のないコップは、ただそこにある。
ある、という事実がもう耐えられない。
「無」を見ようとしているのに、「ある」という言葉が勝手に染み出してくる。
私の眼球から、脳へ、そして言葉へ。
その瞬間、無はもう無ではなくなり、私の手の届かないどこかへ逃げる。
――無は、私に見られたくないのだろうか。
いや、違う。
私が無を欲しがっていること自体、無の否定なのだ。
欲しがるという行為は、有だから。
私は思い出す。
生まれる前のことを。
母の胎内の、あの記憶のない暗さを。
けれど、それを「暗さ」と呼んだ瞬間、それはもう質感を持ってしまう。
無に質感はない。
無は色も、形も、感触も、ない。
ない、ない、ない……そう繰り返しているうちに、私は無を「ない」という言葉で囲い込み、有に変えてしまう。
無は、私を試している。
お前は本当に、何もないことを耐えられるのか?と。
耐えることすら有だと知っているか?と。
コップの底をのぞき込みすぎて、自分が底の中に落ちていく感覚がした。
落ちる。
落ちる。
無の中へ――。
そこで気づく。
落ちているのは私ではなく、私を構成していた「私という物語」だった。
私は物語を失った抜け殻として、コップの外に置かれている。
もう、のぞく必要はない。のぞく私がいないのだから。
でも、どこかでまだ何かが動いている。
底の中で、空気でも光でもない、名前のない振動が、ゆらゆらと続いている。
私はそこに触れられない。触れようとすると、すぐにそれは遠くへ逃げる。
落ちるものも、見つめるものも、もう私ではない。
ただ、揺れる気配だけが、ここにある――それだけが、そっと残る。