表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編・王と王妃

 ――まずは楽にしてくれ、それから今後についてゆっくり協議しよう。

 ザカリアスからそう言われたカタリナは一度客間に戻り、少しばかりの休息の時を過ごした。

 装飾品を外し、心を落ち着かせる香草の茶と軽食をもらい数刻後、化粧を直して今度はザカリアスの居室へと案内される。

 執事長ウルバーノとラケール夫人に伴われ、初めて訪れる城主の間。

 ウルバーノが部屋の警護に取り次ぎを請うと、兵たちは恭しく扉を開けた。


「閣下、カタリナ様をお連れいたしました」

「ご苦労」


 部屋の奥から、あの男の声がした。

 巨大なマントルピースと、壁一面に飾られた魔物の首の剥製と武具の数々。それはきっと、この伯爵家の歴史の証明なのだろう。

 広い執務机の向こう、城主の椅子にどっしりと腰かけたザカリアスは、既に血塗れの鎧姿ではなかった。黒地に金糸で刺繍の施されたチュニックに、家紋入りの黒いマントを纏い、伯爵はカタリナを待ち構えていた。


「改めて、ようこそカタリナ嬢。心より歓迎しよう」


 ザカリアスは笑顔を浮かべ、両手を広げてカタリナを歓迎した。

 そしてそれからカタリナに椅子を勧め、従者たちに茶の用意をさせる。


「さて……まずはどこから話したものかな」


 執務机に肘をつき、思案気に空を見つめるザカリアスを、カタリナは応接の卓に着きながらじっと観察していた。

 先ほどは血に塗れていたせいでわからなかったが、男の顔にはいくつか古い傷跡が走っているのが見て取れた。血に塗れておらずとも剣呑さを伺わせる気狂い伯爵の横顔に、カタリナは改めて思う。

 やはりこの男は、人喰い鮫に似ている。


「先ほどはすまなかったな。あれは貴殿のようなご令嬢が来た時によくやるのだ。血塗れの俺の姿を見て腰を抜かすようでは、この地で領主の妻など勤まらんのでな」


 ザカリアスは軽い調子でそう言った。

 気狂い伯爵の気狂いたる所以、頭から血塗れでの登場は、実際は計算の上で行われた奇行だったということだ。


「ご存じの通り、このザカリアス・イグナーツィオは都では散々な悪評を得ているわけだが」


 そうですね、とは間違っても頷けない男の言葉に、カタリナはさりげなく視線を逸らせた。


「そのせいもあって現在、我が領には国中から様々な人間が追放されてきているのだ。特に優秀で、まっすぐな心根の者ほど、主人に嫌われてここへ押し付けられてくる。面白いことだろう?」

「面白い、とはどういうことでしょう」

「そのままの意味だよカタリナ嬢。真面目な農夫。実直な兵士。優秀な文官。上位貴族の従者に果ては王妃候補のご令嬢。国がまともであれば、絶対に誰も手放さなかったであろう人材が、ここには勝手に集まってくるのだ。これを面白いと言わずして何と言う?」


 にやにやと笑うザカリアスに、カタリナは思わず周囲を見渡した。

 完璧な作法で紅茶をサーブしてくれるメイド。彫像のようにぴたりと動かず部屋の警護を担う兵士。そして優しい視線を向けてくれるラケール夫人と、無言で頷く執事長ウルバーノ。


「……まさか、この方々は」

「そうだ。この部屋にいる者は俺以外、都や他の貴族の領土から追われてきた者たちで構成されている」


 ザカリアスの言葉に、カタリナは息を吞みつつも妙な納得を得ていた。

 この城は居心地が良すぎた。うら寂しい辺境にあるというのに、まるで王侯貴族の屋敷にいるかのように心安らげたのである。

 だってそれは、そもそも都の貴族の屋敷で働いていた者たちがそっくりそのままこの辺境でも働いているのだから、当然は当然と言えた。

 都の、それこそ上位と言われる貴族の家で生まれ、王宮で育てられたカタリナが満足するに足るほどの能力を持った者たちが、それほど多くこの地に流れ着いていたとは。


「今の王国は、腐敗と汚濁に満ちている」


 ザカリアスは一際落ち着いた声音で切り出した。


「領主たちは贅沢と虚飾の為に民から税を搾り取り、王族は佞臣の甘言ばかりに耳を傾け、真の忠臣の諫言などは嫌ってばかり――これは、貴殿にも覚えがあるはずだ」


 確かに覚えが、いや思い当たる節しかない。カタリナはそのために多くの苦労を重ねてきた。

 税金が重いのは実家の所領だってそう。民が苦しむのを見て、カタリナも何度か父へ進言したが、税は一向に軽くならなかった。

 貴族たちは無駄に贅を凝らし、なにかにつけて権勢を競わせたがったものだから、王子の婚約者であったカタリナも相応の贅沢を強要されてきた。

 罪悪感を覚えつつも、これも次期王妃として地位を固めさえすれば時流を変えていける。そう思って、唯々諾々と周囲の期待に応え続けた。

 その結果がこれである。


「俺はもう、この王国にはほとほと愛想が尽きた」


 ザカリアスは、まるで近所の害獣に迷惑しているとでも言うかのような調子で述べた。


「今俺の手元には、追放されてきた者たちからもたらされた、国中のあらゆる家の機密が握られている。この情報を土産に帝国側に付き、王国から独立しようと考えている。俺が王で、カタリナ嬢――貴殿が王妃だ。どうだろう。もう一度、俺の元で王妃の座を掴んでみないか」


 これはただの婚姻ではなく、王国への反逆の計画であった。


 カタリナは改めてザカリアスの目をじっと見つめ返した。この男の目に宿るぎらぎらとした光は、狂気の光ではなかったらしい。

 男の野心の輝きは、なるほど都の軟弱な貴公子たちでは到底得られぬ強さがある。

 ザカリアスは恐ろしい。恐ろしいが、目を離せぬ謎の魅力がある。その正体は、これであったか。


「……私の力を正しく使いこなせる方など、この国には到底おられないと思っておりましたが」


 紅茶を一口、ゆっくりと飲み。そしてそれから。


「それは貴方様だったのですね。閣下」


 嫣然と。カタリナは花が綻ぶような優雅さで、ゆっくりと微笑んだ。


 カタリナという女は、王妃となるべく生まれ、育てられてきた存在だった。

 しかしカタリナの婚約者だった王子は、果たして彼女を娶るに足る器であったろうか。

 あの王宮でのカタリナは、真の王者たる者の伴侶ではなく、ただ怠惰に玉座に胡坐をかいた愚か者たちを生かすための装置に過ぎなかった。

 あの愚か者たちと違い、目の前のザカリアスは少なくとも天運を掴み、機を逃さず王業を成そうとする気概がある。

 カタリナが添い遂げるべき王者は、この辺境にいた。


「ああ、存分に働いてもらうとも。我が手勢に欠けていた最後のピース。『王妃よりも王妃らしい』カタリナ嬢。幾久しく、よろしく頼む」

「こちらこそ、末永くよろしくお願いいたしますわ。我が君」


 都を追われた令嬢と気狂い伯爵の婚姻は、こうして結ばれたのだった。


 ◇  ◇  ◇


「え、貴方たちも追放されてきたの?」


 ザカリアスとカタリナの婚約が調った翌日、カタリナは正式に自分付きとなった侍女たちと対面して驚きの声を上げていた。


「お久し振りです、カタリナ様。ご健勝そうでなによりですわ」


 そう言って軽やかに一礼した少女は、カタリナとは旧知の間柄の令嬢だった。

 くりくりとした大きな瞳に、ふんわりとした赤毛。侍女のお仕着せをきっちりと着こんでいるのは、元々王国の将軍家に嫁ぐ予定だった伯爵令嬢エステルである。王子の婚約者であったカタリナとも、公私に渡って交流があった。

 しかし半年ほど前に将軍家の子息との婚約が破談となり、領地に戻って静養しているという話であった彼女が、何故ここにいるのか。


「私もカタリナ様と同じ境遇です。婚約が破棄されたせいで実家の威光に泥を塗ったと言われ、気狂い伯爵へ嫁げと家を追い出されたのです。本当に勝手なものですわ」

「でも、何故貴方が私の侍女を?」

「伯爵閣下の伴侶になることは、私が自分から辞退いたしましたわ。こう言ってはなんですが、きっとカタリナ様もここへ来られることになるような気がしておりましたので……ですので、将来カタリナ様へお仕えするべく、侍女として伯爵家で働く道を選んだのです」


 エステルは以前からカタリナと親しくしていた令嬢である。聡明で思い切りが良く、意思の強い女性であるという印象を持っていた。

 カタリナを慕っていたエステルは、ザカリアスの野心家な性質に気付き、自分よりもカタリナのほうが妻に相応しいと悟ってザカリアスと直談判したのだそうだ。

 なんとも行動力のある令嬢である。

 しかしエステルの能力は、これから王妃となるカタリナにはとても心強い。なんといっても彼女は、将軍を補佐する能力を備えた令嬢である。今は侍女でも、これから王妃専属の秘書官になってもらう道もあるだろう。


「カタリナ様がいらっしゃるのであれば、私も心強いですわ」


 と言っておっとり微笑んだのは、栗色髪にそばかすの浮いた素朴な顔立ちの可愛らしい少女。


「聖女イレーネ様……貴方まで……」

「そう悲しい顔をなさらないでください、カタリナ様。私も平民出という出自の低さを疎まれ、これまで肩身の狭い思いをしてきました。でもここでは誰も私をいじめないので、生まれて初めてのびのびと暮らすことができておりますの」


 うふふと可憐に微笑む少女は、神殿で神に奉仕し、また神の奇跡の一端を行使する聖女の一人だった。

 彼女自身が言う通り貴族の出身ではなかったことと、怪我や病気を癒したり、未来を預言したりなどのわかりやすい奇跡を持っていなかったがために、神殿での地位は決して高くはなかったとカタリナは記憶している。

 だからといって貴重な聖女までもが、この地に追いやられていたなどとは。貴族だけでなく、聖職者の間にまで腐敗が広がっていたことに気付かされ、カタリナは少し眩暈を覚えた。

 聖女イレーネもまた厄介払いで気狂い伯爵の下へ送られたそうだが、聖女という特殊な性質故にザカリアスも彼女の扱いは慎重にならざるを得なくなったらしい。

 イレーネ自身は野心もなく、ただ人々の役に立ちたいと願うその性格は、まったく聖女らしいものである。野心家の妃には向かないが、聖女という存在は間違いなくザカリアスの王業に役立つ。

 故に、ザカリアスはイレーネを保護し手元に置くつもりで侍女の仕事を与えたのだそうだ。働くことが好きなイレーネにとっても、現在の境遇は満足のいくものであるらしい。

 カタリナの侍女たちは他にも、似たり寄ったりな状況で辺境に追いやられた者たちであった。


「皆さん……私が来たからにはもう、皆さんを悲しませるようなことはさせません。皆で前を向いて、一緒に歩いていきましょう」


 カタリナの宣言に、侍女たちは声を揃えて「よろしくお願いいたします」と応え一礼した。


 ◇  ◇  ◇


 ザカリアスとカタリナの婚約期間は一年。結婚にかかわる諸々の契約事項や取り決めなども婚約が決まった数日後にはまとまり、式の準備や城内の差配、伯爵家での家政はカタリナに一任される運びとなった。

 それに加え、伯爵領にやってくる人材の管理もカタリナの仕事となった。元々王宮に出入りして、王子の婚約者として幅広い人脈と知識を持っていたカタリナにとっては、これはもっともやりがいのある仕事となった。

 ザカリアスは確かに野心家だが、仕事に関しては適材適所をモットーとしており、こちらの領分へ口を挟んでくることもないのでその鷹揚さには感謝しかなかった。

 カタリナが仕事をしている間、ザカリアスとて何もしていないわけではない。彼は彼の仕事を果たしていた。


「調子はどうだ」


 カタリナに与えられた女主人の執務室。そこへある日、ザカリアスがふらりと現れた。


「順調ですわ。このところは民の流入量に対して食料の確保が問題ではありましたが、商人たちが頑張ってくれたおかげで交易の回数を増やすことができました。南西の開拓地にはイレーネが入ってくれたこともあって順調に開墾が進んでおりますし、新しい鉱山は来月には試掘が始まります。これほどやりがいのある仕事はなかなかありませんわ」


 優秀な商人たちもまた、都で貴族と癒着した一部の商人によって市場を追われた者たちである。彼らはこの貧しい辺境の地にあっても逞しく商売を続け、新たな特産品をいくつも見出してくれた。その活動によって得た金で、当面の食糧問題は何とかなりそうであった。

 他の地域から逃げてきた流民たちは、税を軽くすること、開拓した土地をそのまま自分の土地として良いことなどを条件に、これまで手つかずだった土地を開墾してもらっていた。

 大変な仕事ではあるが、聖女であるイレーネを派遣することで開墾は極めて順調に進んでいる。イレーネの扱う奇跡は、豊穣である。即物的な力ではないせいで軽んじられていたが、この奇跡の力のおかげで土地は豊かになり、作物の成長も早かった。

 開拓民たちも聖女イレーネを敬い、彼女を旗印に一致団結して開拓を進めてくれている。将来的にはあの土地に聖堂を建て、イレーネに任せる予定であった。

 カタリナに言わせれば、こんな貴重な力を持つ聖女を放逐するなど、神殿も貴族も愚かという他ない。


「そうか、それはよかった。こちらも先方から色よい返事をいただけたよ。良い結婚祝いとなりそうだ」

「まぁそれは何よりですわ」

「ああ、今から式が待ち遠しいな」


 ザカリアスは手に持っていた書状をひらひらさせ、それからカタリナに手渡した。

 何も知らないものが聞けば、ただ仲の良い恋人たちの会話に聞こえたことだろう。だがカタリナが受け取った書状には複雑な暗号文が書かれ、その内容は伺い知れない。

 書状をざっと改めたカタリナは、にっこりと笑って夫となる者を見上げた。


「式の準備も、順調に進んでおります。私も、早く我が君と正式な夫婦になりとうございますわ」

「ふ、愛いことだ」


 ザカリアスは目を細めながら、カタリナの横にそっと膝をつき、その手を取って甲に小さく口付ける。

 最初こそ恐ろしいと感じたこの人喰い鮫の笑顔も、今となっては愛おしい。

 夫となる者の無骨な手から伝わる確かな熱に、カタリナはこれまで感じたことのないほどの胸の高鳴りを感じていた。

 王子とのダンスですら覚えたことのない高揚感に、カタリナは思わず頬を染めて目を伏せた。


 ◇  ◇  ◇


 それから月日はあっという間に流れた。

 婚約期間の一年が過ぎ、ついに婚姻の儀が行われる。


 城の中の小さな教会で執り行われる、ささやかな儀礼。婚姻の誓約書に二人でサインをし、騎士の伝統に則ってお互いに宝剣を交換する。

 カタリナはびっしりと刺繍の入った、美しくも楚々とした婚礼のドレスを身に纏い、長いベールで上半身を覆っていた。

 対してザカリアスもいつもの黒装束ではなく、伝統的な騎士の装束で式に臨んでいる。

 この式に、カタリナの家族は呼ばれなかった。僅かな賓客が証人として見守る中、ザカリアスがカタリナのベールを持ち上げ、その唇にキスをした。


 その日の夜の宴には、伯爵領近隣の領主たちとその家族が招待されていた。

 招かれた客たちは、その華やかで格式高い宴に皆感嘆した。賓客の席次や広間の飾りつけ、料理や酒の献立、従者たちの配置も全てカタリナの采配によるものだ。城の広間でこれほど大きな宴を開くのは、数十年ぶりなのだという。

 素晴らしい料理や高価な酒が贅沢に振舞われ、客たちも酔いが回り宴もたけなわとなった頃。


「お集まりの皆様に、カタリナ・イグナーツィオよりご挨拶申し上げます」


 それまでザカリアスの隣でにこにこと微笑んでいた花嫁カタリナが、すっと立ち上がり広間を見渡した。


「本日は私たちの婚儀にお集まりくださり、誠に感謝申し上げます。皆様に祝福を賜りましたことで、私たち夫婦はこの時よりイグナーツィオ領の新しい未来を拓くための一歩を踏み出します。つきましては、今一度乾杯を頂戴したいと存じます」


 美しい花嫁の手には、血のように赤いワインの注がれた盃があった。

 ほろ酔い気分の賓客たちも、乾杯のために手元の盃を持ち上げる。

 給仕たちが静かに客たちの傍に控えていくのは、果たして空いた盃にワインを注ぐためであったろうか。


「ありがとうございます。それでは皆様、ザカリアス・イグナーツィオとその妻カタリナ・イグナーツィオの婚姻の儀、そして本日をもって王国より独立いたします『イグナーツィオ王家』の未来に、乾杯」


 カタリナがワインを掲げる。それを合図に給仕たちが一斉に賓客たちを拘束していった。

 広間は途端に悲鳴と怒号の巷となり、混沌に包まれる。


「ザカリアス卿! このようなことをして許されるとお思いか!」

「独立とはどういうことだ!? イグナーツィオ王家とは何事だ!」


 拘束された領主たちが、赤ら顔をさらに真っ赤にして叫ぶ。


「何ということはない。そのままの意味だが」


 その様子を面白そうに眺めていたザカリアスが、小さく答えた。

 その間にも、給仕に化けた兵たちが賓客の口に猿轡を噛ませ、入口に近いものから順々に連れ出していく。


「我々イグナーツィオ家は王国より独立する。貴公らは人質として、しばらくの間当家に滞在いただく。何、命までは取らんよ。今のところはな」


 くくく、と怪しく笑うザカリアスに、拘束された領主たちはわなわなと肩を振るわせる。

 そのうちの一人が、はっとして花嫁に視線を向けた。


「カタリナ・オルドニェス……王妃に一番近かった女!」

「そうか、貴様が気狂い伯爵を焚きつけたか!」

「そうまでして王妃の座が欲しかったか! 売女め!」


 領主たちが口々に罵詈雑言を浴びせるも、当のカタリナは至って涼しい顔である。


「違いますわ。私が王妃になりたくて夫を焚きつけたのではありません。私を妻に選んだ者が王者となるのです」


 艶と笑って、カタリナは盃のワインを飲み干した。

 客たちが思わず言葉を失って固まるほど、その笑顔は美しかった。


 ◇  ◇  ◇


 宴が終わると、カタリナは侍女たちによって装飾を解かれ、寝所に入る準備が進められた。

 洗い髪には香油が塗られ、若い肌には薄く化粧が施される。

 薄絹の寝間着と、寵愛の邪魔にならぬ程度の僅かな宝石たち。

 城主夫妻の寝所には甘い香が焚かれ、広いベッドの傍らの卓には蜂蜜酒が用意されていた。


「なるほど、これは極上だ」


 寝所に現れたザカリアスは、寝台の上で待つ花嫁のしどけない姿に思わず笑みを溢す。


「カタリナ……まさしく、王が抱くに相応しい女よ」

「ご冗談を」


 ふふ、と艶っぽく笑うカタリナに、ガウンを脱ぎ捨てたザカリアスが覆い被さる。


「お客様たちはどうしていらっしゃいます?」

「皆おとなしいものだ。離れの屋敷に集めて、そこでしばらく暮らしてもらう。時に、あの者たちはお前の目から見てどうだ?」

「そうですね……パボン子爵とナルバエス男爵、ソリアーノ男爵は他の方の意見に流されやすい方々ですから、扱いは楽でしょう。セバージョス伯爵だけは頑固者ですから、場合によっては潰してしまったほうがいいかも知れません」

「なるほど。参考にさせてもらおう」


 今宵の客人たちは、カタリナとザカリアスの今後に必要不可欠な存在である。

 新婚夫婦の初夜には似つかわしくない、血生臭さを感じさせる会話だが、それでもカタリナは幸せだった。


「夜明けと同時に発つ。数日のうちに周辺の領に俺の旗印を掲げさせて、帰還する。それまで城で待っていてくれ」

「はい……お待ち申し上げておりますわ。我が君、ザカリアス様」


 濃厚な一夜が明け、空が白み始めた頃、ザカリアスは新妻を寝所に残し兵を連れて所領を発った。

 向かった先は昨夜捕らえた近隣領主たちの所領。同じ王国貴族のはずのザカリアスが兵を率いて攻めてきたことで、イグナーツィオ領の周囲は大混乱と化した。


「突然だが、貴殿らの領主は我々が人質として捕らえている。彼らの命が惜しければ、我が紋章の旗を城館に掲げよ」


 という、ザカリアスの要求はよくわからないものであった。

 法外な身代金を要求するでもなく、領土や領民を要求するでもない。ただただ、領主の館や町の城門にザカリアスの旗を掲げるだけでいいというのである。

 それぞれの領の者たちは戸惑いつつも、言われるがままに旗を掲げた。これで主人たちの命が保証されるというのだから、仕方がない。

 そして約束通り、ザカリアスは兵と共に去っていった。

 いったい彼らは何がしたかったのか。人々は首を傾げたが、いずれにせよこれらは王国の秩序を乱す重大な背信行為である。

 領主とその家族がイグナーツィオ伯爵によって捕らえられていることを国に知らせるために、それぞれの領地から伝令が出された。


 しかし間もなく人々は知ることになる。

 王国は今、東の帝国の大軍に攻められ、既に一領主の反乱に対応することさえできなくなっていたということに。


 ◇  ◇  ◇


「帰ったぞ」


 馬を飛ばして自領周辺の地域を駆け抜けてきたザカリアスが居城に戻ったのは、婚姻式から十日後の朝のことであった。


「お帰りなさいませ、我が君」


 城の正面どころか、夫を出迎えるために出てきたカタリナの目の前まで馬で乗り付けたザカリアスは、そのまま鞍上から飛び降りるや土埃も落とさず彼女を軽々と抱き上げた。


「仕事は片付いた。蜜月夜の続きをしよう」


 武装も解かぬまま、新妻を横抱きにしてずかずかと寝室へ向かい始めた主人を、従者や侍女たちが慌てて追いかけてくる。


「ふふっ、私は逃げませんわ我が君。まずは湯あみを済ませなさいませ。それとも、私がお背中を流しましょうか?」

「ああ、それがいいな」


 カタリナは愛する夫の首に腕を回し、もう離さないとばかりに抱きしめた。

 ザカリアスもにかりと笑って、そのまま城の奥へと入っていく。

 その姿はもう、すっかり誰もが認める相思相愛の夫婦の図であった。


 王国が帝国に降伏したのは、ちょうどその頃のことである。


 無論、帝国に王国内の貴族の勢力図や経済事情、どの地域にどれだけの戦力があるか、どれだけの食料生産能力があるか、どういった産業があるかといった詳細を伝えたのはザカリアスである。

 なにせザカリアスの元には、各地から追放されてきた文官や、事情通の商人たちがたくさんいた。彼らからもたらされた情報を照らし合わせれば、王国の機密はほとんど丸裸となっていたのである。

 昔から王国と領土争いをしていた東の帝国はこれ幸いとばかりに攻めかかった。帝国の精兵によって戦力の弱い地域から次々征服され、水が堤を崩すかのように次々と防衛線が突破されていく。


 それから話は早かった。

 都を陥落させ、王国の西側にまで迫った帝国軍は、帝国側に寝返ったイグナーツィオ家の旗がはためく地域を発見し、そこで進軍を止めた。

 重要な情報提供者であり、かねてから自領の独立を求めていたイグナーツィオ家の要求を帝国軍が呑んだ結果であった。そもそもここは辺境で、わざわざ帝国の人材を派遣して統治するほどの旨味がある土地ではないと思われていたのである。

 帝国軍が進軍を止め、引き返していく――イグナーツィオ家の旗を掲げさせられた者たちはそこでやっとすべてを理解した。

 今更我々はイグナーツィオに味方したわけではないと言える状況ではない。この旗を掲げたおかげで征服を免れはしたが、自分たちは既に戦わずしてザカリアスに降伏していたのであると。


 かつてのイグナーツィオ伯爵家とその周辺地域を合併した小王国『イグナーツィオ王国』は、こうして東の帝国に従属する国の一つとして独立した。

 人質を取られ、イグナーツィオ王国に統合された地域の者たちの処遇だが、臣従を誓った者は許されて所領に戻った。新しい国の貴族としての地位を得たのである。

 一方、カタリナに頑固者と評され、結果として最後までザカリアスに臣従することを良しとしなかったセバージョス伯爵とその一家には、毒杯による自害が命ぜられた。

 それ以外はたいした戦いも起こらず、ほぼ円満な形で新王国の歴史が始まったというわけである。


 ◇  ◇  ◇


「何故こうも勘違いをする奴が絶えないのか知らないが……確かに俺は戦いを好む性質だが、別に目の前の人間を無差別に殺すわけではないのだよ」


 新王国成立から、早くも半年が過ぎた。

 冬を越え、春が近づいている。そんな暖かなある日のこと。


 国王となったザカリアスには新しく王冠も捧げられたが、彼が冠をつけておとなしくしていることはほとんどなかった。

 今日もザカリアスの姿は城内ではなく、兵や騎士たちと共に野営地にあった。今回の狩りの標的は強大な飛竜であったが、王とその兵たちは難なく打ち破ってみせた。

 積み上げられた魔物の屍の山の下、王は焚き火でのんびりと肉を焼いている。


「優秀な人間はきちんと取り立てるし、罪人は屠る。それだけだというのに、どうして王国の者たちは俺が誰でも見境なく殺す殺人鬼だと思ったのか」

「まぁまぁ良いではありませんか。愚か者たちの国は滅び、私たち追放された者の国ができたのですから。もう我が君が悩まれる必要などありませんよ」


 今日の魔物狩りには、王妃となったカタリナも帯同していた。王と王妃の仲睦まじさは、既に人々の語り草となっている。


「それもそうか……よし、焼けたぞ。竜の肉は力が付くからな。ゆっくりよく噛んで食べるといい」


 そう言って、ザカリアスは手ずから焼いた竜の肉を短剣で切り分け、カタリナの前に差し出した。

 王妃カタリナは今、妊娠している。ザカリアスは身重の妻のために、自ら狩った竜の肉を焼いていたのである。

 誤解を受けやすい見た目ではあるが、ザカリアスは実際のところ鷹揚で、大雑把ながらも身内には愛情深い男であった。そんな夫の純粋で素朴な愛情を感じる瞬間が、カタリナはこの上なく大好きだった。


「ありがとうございます。我が君」


 旧王国のほうではまだごたごたが続いているらしいが、この辺境の地は至って平和である。時々こうして魔物の襲来や人々の諍いも起きるが、ザカリアスの武とカタリナの知恵によってその都度迅速に処理されていた。

 辺境に集まった様々な土地の人々が、それぞれの才覚を活かして新しいことを次々と始めている。そんな国を守り、育てることができることを、カタリナはこの上ない幸いであると感じていた。


 短剣に突き刺さった竜の肉にかぶりつきながら今、彼女は思う。

 皆が勘違いをしてくれていて、本当に良かった、と。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
有能な人間を邪魔だからってだけでもアレなのに、分散させずに同じ地に追放したら一致団結して反逆してくれって言ってるようなものだよねっていう。 王妃になれる器の主人公と聖女を武力持ってる奴のところに追放し…
『私を妻にした男が王になるのです』 女なら一度はいいたい言葉選手権あったらベスト3に入るやつ!! カッコいい〜〜!! 龍の肉まで食べられるなんて素晴らしいですね。周りの娘さん達もど偉い優秀な人ばかりで…
面白かった。 > 優秀な人間はきちんと取り立てるし、罪人は屠る。それだけだというのに、 > どうして王国の者たちは俺が誰でも見境なく殺す殺人鬼だと思ったのか 答え言ってるやん。 王国の者たちはザカリ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ