前編・令嬢と伯爵
うら寂しい荒野の中の道を、一台の馬車が粛々と進んでいく。
あまり上等とは言えない馬車を牽いているのは年老いた馬で、御者もずいぶんと背の曲がった老人であった。
これがまさか、王国にその人ありと言われた美しき侯爵令嬢の婚礼馬車とは誰が思うだろう。
半月程前に王宮で行われた舞踏会。そこで侯爵令嬢カタリナは婚約者であった王子から婚約の破棄を告げられた。
公衆の面前で、一方的にである。
王子はカタリナの妹を新たな妃にすると発表し、カタリナには妹をいじめていた罰として西の果ての気狂い伯爵の元へ嫁ぐよう命令した。王子が良いと許すまでは、二度と王都へ足を踏み入れてはならぬという事実上の追放刑とともに。
察しのよい者なら既に気付いていると思われるが、カタリナは妹をいじめたことなど一度もない。むしろ良いのは見目ばかりで、教養も思慮深さもないわがままな妹のことなど、カタリナはほとんど相手にしたこともなかった。
王子のことだって、家の命令と王家の意向に従って婚約していただけなのでそれほど愛着もない。むしろどうでもいい雑事を押しつけてばかりの、カタリナの足を引っ張ることしかできない愚かな王子との結婚がなくなって清々したというものだ。
婚約破棄、謹んでお受けいたします――王子の横暴に完璧な淑女の礼で応えたカタリナは、愚か者たちの不快なさえずりを背に舞踏会を辞し、そのまま屋敷に帰って西の伯爵への輿入れ準備を始めた。
数日後に王家から寄越された馬車が、今彼女が乗っているこの頼りない馬車である。
王子から罰を与えられて追放されていくので、家族や従者たちの見送りもない。輿入れにはトランク一つきりの荷物しか許されず、侍女を付けることさえも許可されなかった。
そもそも家の者たちは愛らしい妹ばかり味方していたので、孤立していたカタリナは屋敷よりも礼儀作法にうるさい女官たちに囲まれる王宮にいたほうが幾分気が楽であった。
そんな女官たちの眼鏡にかなうよう勉学を重ね、ありとあらゆる教養を身につけ、陰に日向に未来の夫となる王子を支えてきた結果がこれである。
王宮はこれからどうなるのかしらね、と他人事のようにぼんやりと考えながら、カタリナは曇った馬車の窓から荒野を見やる。
未開の荒地の中を通る一本道。荒地の中には時折崩れかけた土塁や馬防柵が覗き、ここがかつての紛争地帯だったことを今に伝えている。
道端に立つ枯れ木には罪人らしき者たちの死体が逆さに吊り下げられ、何羽もの鴉が上空を旋回しながらぎゃあぎゃあと不吉な鳴き声を発していた。
ここは王国の西の果て。他国や異民族との諍いの絶えない係争地。
争いを愛し、血に酔っていると噂される気狂い伯爵が治める地。
自身に逆らう者、敵対する者は容赦なく皆殺しにし、敵の首級や死体を城壁に飾って楽しんでいる。遊びとして魔物狩りに興じては誰よりも残虐に殺し、狩った飛竜の心臓を抉り出しては生のまま喰らう――都へ時々伝わるかの伯爵の噂を、カタリナは別に鵜呑みにしているわけではなかった。
噂は噂。風評など話半分で考えるに越したことはない。
争いごとの多い地なのだから、討ち取った敵の死体を城壁の外で磔にすることなど珍しいことでもないだろう。頻繁な魔物狩りも、王都近郊などの比ではないくらいに魔物の生息数が多い土地なのだから仕方がない。
周囲に死体がごろごろと転がる不気味な城門を車内からぼんやりと眺めながら、カタリナはそう考えていた。
無意識に、自分にそう言い聞かせるかのように。
◇ ◇ ◇
馬車は領都の奥、かつての大戦の折には王国軍の守りの要であったという古い城塞の門前で静かに停まり、カタリナとトランクを置いて去っていった。
「……お初にお目にかかります。オルドニェス侯爵家が一女、カタリナでございます。この度は王室の命によりイグナーツィオ伯爵閣下とのご縁をいただき、輿入れに参りました。不束者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
付き人も、豪華な花嫁道具も衣装もないが、カタリナはただ凛とした態度で優雅に一礼した。
「オルドニェス侯爵家のカタリナ様。お話は書簡にて伺っております。遠路はるばるようこそおいでくださいました。私はこの城の執事を務めております、ウルバーノと申します」
カタリナの目の前――城の正面エントランスでは、意外にも城の使用人たちがずらりと整列していた。老執事のウルバーノを中心に、一糸乱れぬ最上礼でもってカタリナを出迎えてくれている。
冤罪とはいえ、王子妃の地位を剝奪されて都を追われた令嬢を押し付けられた家の態度にしては慇懃すぎるな、とカタリナは淑女の仮面の下で思った。
カタリナの記憶に間違いがなければ、気狂い伯爵は今年で三十二歳。これまでいくつかの縁談はあったものの、伯爵の奇行凶行に誰もついていけず、数々のご令嬢方がこの地から逃げ出しているという話であるから、イグナーツィオ伯爵家としてもカタリナに逃げられては困るということだろうか。
「申し訳ございませんが、当家当主のザカリアス様は現在、領内に侵入した魔物の群れを撃退するため北の砦に出向いており、お嬢様とお会いすることがかないません。予定では数日のうちに帰還されるとのことでしたので、それまでは使用人一同、お客様として誠心誠意をもっておもてなしさせていただきます」
「左様でしたか。魔物の討伐も、領主の大切なお役目ですもの。伯爵閣下がお役目を果たしてお帰りになるのを、私も喜んで待たせていただきますわ」
カタリナのイグナーツィオ伯爵領での生活は、こうして幕を開けた。
城は古いが、カタリナには日当たりがよく清潔な客間が用意され、荷物がほとんどないカタリナのために着心地の良い衣服や上等な化粧品がすぐに集められた。
伯爵家の使用人たちは皆躾が行き届き、都を追われた令嬢を侮ることもせず、礼儀正しくカタリナを遇してくれる。
婚姻のためにやってきたカタリナではあるが、今はまだイグナーツィオ伯爵と顔合わせもできていないため、仕事も勉強もなくただの客人としてのんびりと過ごすことができた。
こんなに何も考えず、ただゆっくりと一日を過ごしたのは何年ぶりだろうか。
気狂い伯爵との婚姻にまったく不安がないといえば嘘になるが、カタリナは今はただ、メイドが淹れてくれた温かい紅茶を味わい、時間の許す限り城の古い書籍を読み耽ることに集中した。
◇ ◇ ◇
ザカリアス・イグナーツィオ伯爵が魔物討伐を終えて帰還するとの報せを、執事長ウルバーノがカタリナに伝えたのは、カタリナが城に滞在して五日目のことだった。
「今朝方、伝令が参りました。伯爵の帰還は本日午後の予定です。お嬢様にはその前に出迎えのお支度をしていただきます」
「わかりました。衣装はクローゼットの中のものから選んでも?」
「ええ、構いません。むしろきちんとしたものをお仕立てする時間も取れず、申し訳ございません」
「謝らないでくださいウルバーノ。私はまともな嫁入り道具も許されなかった身ですもの。むしろそれで閣下のご機嫌を損ねないかだけが心配ですわ」
ゆったりと白パンにジャムを塗りながら、カタリナは至って落ち着いた態度でウルバーノの報せを聞いていた。
今は朝食の時間である。この城で出される食事は、もちろん王宮や王都の屋敷で出されていたものほど豪華ではないものの、いずれも賓客をもてなすのに十分な格式であった。
量も多すぎず、味付けもカタリナにはちょうどよい。
「……お嬢様。不躾を承知で申し上げます」
会話が途切れて少し間が開いた後、ウルバーノは少しばかり声を強張らせて口を開いた。
「我々の主イグナーツィオ伯爵は、時に人を揶揄ったり、試したりすることを好まれます。これまでも縁組の話があるたびに、ご令嬢方を驚かせては縁談を白紙にされておられますが……別に、あの方はご令嬢が嫌いでそうしているわけではないのです」
カタリナは食事から顔を上げ、ウルバーノに目線で話の続きを促した。
「気狂い伯爵。吸血伯爵。心臓喰い……都で、我が主がどのように噂されているかは我々も存じ上げております。しかしあの方の行いは、決して悪意をもって行われているものではないと、我々は信じております。ですので、お嬢様にはその……お見苦しい部分はあるとは思いますが、まずはお心を落ち着かせていただいて、冷静に我らの主を見定めていただきたいのでございます」
取り出したハンカチで額の汗を拭いながら、彼にしては珍しく歯切れ悪い言葉でそう言って、ウルバーノは年若い令嬢に深々と頭を下げた。
「わかりました。私自身はまだ閣下のことを何も知りません。しかしあなたのような素晴らしい執事がそこまで言うのですから、私も今は何も考えず、ただまっすぐに閣下を見定めさせていただきますわ」
「お心遣い、痛み入ります。どうか、よろしくお願い申し上げます」
なかなか頭を上げようとしないウルバーノに苦笑しながら、カタリナはメイドがカップに注いでくれたおかわりの紅茶を受け取った。
ここを逃せば後がないのは、カタリナとて同じことであった。
朝食が終わったら、さっそく沐浴の時間である。
メイドたちに甲斐甲斐しく世話をされながら髪を洗われ、肌を磨かれる。それが終われば体を拭かれ、髪を乾かされ、化粧をされ、差し出された香草茶を飲む。
クローゼットの中から下着、ドレス、靴や手袋、ケープや装飾品の数々が取り出され、部屋中に広げられた。といってもこれらは伯爵家がカタリナの到着後に領内からより集めてくれたものであり、カタリナが元々王都で持っていた衣装ほどの数もバリエーションもない。
「ドレスはその菫色のものにしましょうか。慎ましやかな形でゆったりとしているから、多少合わなくても気にならないもの。アクセサリーは真珠にして、靴はそちらの柔らかいリス革のもので……このような着こなしで、閣下はご機嫌を損ねてしまわないかしら」
「いいえお嬢様。とても素敵でいらっしゃいます。そもそも閣下はそこまでご令嬢の着こなしを気にする方ではありませんから、どうぞお嬢様のお気に召したものを身につけてくださいませ」
と、気持ちよい笑顔で断言したのは、メイドたちを取りまとめる四十代のラケール夫人。彼女はメイドたちに事細かに指示を出しながら、きびきびとカタリナを飾り付けていった。
数代前の領主夫人の持ち物だったという菫色のドレスは、型こそ古風だが上等な布地を使っている分、華やかさと威厳を兼ね備えた素晴らしいものであった。
今流行りの胸元の大きく開いたものではなく、辺境の冷たく乾いた風から着用者の身を守るために襟が詰められ、小さな貝殻製のボタンと飾り紐で前を閉じる形で、腰は絹のサッシュをベルト代わりに巻いている。
裾と、長い袖には白と金銀の糸で花鳥の図案が細かく刺繍され、カタリナが選んだ真珠のイヤリングとネックレスともよく合っていた。
一通りの支度が終わり、いかがでしょうか、と姿見を目の前に置かれる。
カタリナの目に飛び込んできたのは、まるで御伽噺の中から出てきたかのような、古風で可憐な姫君の姿であった。
真珠に負けぬ白い肌、艶やかな金の髪。深く澄んだ青い瞳には冷静さと知性が宿り、レースのベールを付けてもなおはっきりとした意思を主張している。
着付けをしながらお針子が合わない部分を詰めたり緩めたりしてくれたので、ドレスの着心地は申し分ない。むしろ背筋がぴんと伸び、身が引き締まる思いがした。
カタリナ・オルドニェス、十九歳。
かつて舞踏会に咲く大輪の華とまで謳われた令嬢の中の令嬢は、都を追われてなお凛然として美しかった。
◇ ◇ ◇
「伯爵閣下、ご帰還」
よく晴れた午後。
喇叭と太鼓が空に響き渡り、城主の帰還を告げている。
城の前庭に、カタリナを迎えた時以上に多くの従者たちが整列しているわけだが、彼らは何故か皆一様に硬い表情をしていた。
カタリナは出迎えの列の最前で、執事長ウルバーノと共に伯爵の到着を待った。
まず門を潜ったのは、戦いを終えた兵士、騎士たち数十名。ざっざっと規則正しい足音を響かせながらカタリナたちの前までやってくると、そのまま左右に分かれて敬礼の姿勢を取る。
その緊張感に、カタリナは表情を変えないまま小さく固唾を飲み込んでいた。
そしてその兵たちの向こうから歩いてきた男は、まさしく異様であった。
まず遠目から見てもわかるその大柄な体格。一歩ごとに重厚な金属鎧が立てる、がしゃり、がしゃりという不気味な音。
鎧も、マントも、肩に担がれた巨大な戦斧も漆黒。そしてその男が近付くにつれてはっきりと臭ってくる、濃厚な血の臭気。
男のただならぬ雰囲気に、身震いしそうになったカタリナは思わず心の中で己を叱咤した。
「伯爵閣下、ご帰還お待ち申し上げておりました。こちらにおられまするはオルドニェス侯爵家のご令嬢、カタリナ様です。王家の命により閣下へ嫁するためにお越しくださいました」
すっと一歩前へと進み出たウルバーノが朗々と声を張り上げ、カタリナの紹介をする。
カタリナも、覚悟を決めて前へ出た。
「お初にお目にかかります、閣下。オルドニェス侯爵が一女カタリナ、王家の命により罷り越しました。この度は不肖なる私めを受け入れてくださり、心より感謝申し上げます。不束者ではございますが、閣下をお支えできるよう一層励んでまいります」
はっきりとした声で挨拶し、全神経を爪の先まで研ぎ澄ませ、王宮でもしたことのないほど集中してカーテシーをした。
挨拶は完璧であったはずだ。頭を下げたまま、返事を待つ数秒間は途方もなく長かった。
伯爵の返事は? 反応は? なにか落ち度があったのか?
完璧と謳われた令嬢カタリナが柄にもなく焦りを感じ始めたその時。
「ふ……ふはははっ、あははははは!」
突然、静寂を割って哄笑が響いた。
「くくくっ、あーっはっはっはっは! 見ろウルバーノ、未来の王妃陛下までもが俺の下に転がり込んできたぞ! 次はなんだ、いよいよ玉座か!?」
腹の底に響くような男の笑い声。すぐ近くから聞こえるというのに、カタリナには男が何を言っているのかよくわからなかった。
顔を上げたくなるのをぐっと堪え、カタリナはカーテシーの姿勢を崩さないことにだけ集中する。
足元の石畳だけを見つめていたカタリナの視界に、突如、どちゃりと嫌な音とともに獣の生首が飛び込んできた。
一瞬、何が起きたのかわからなかったが、カタリナの明晰な頭脳はそれが切り落とされた巨大な猪の首だと見極めていた。別に見極めたくもなかったが。
生首の切断面から垂れた血が跳ね、カタリナの菫色のドレスの裾に小さなシミを作る。
「顔を上げよ、カタリナ嬢」
低い声に、カタリナは恐る恐る顔を上げる。
目の前には、赤黒い血で汚れた獰猛そうな男の笑顔があった。
男くさい髭面に、酷薄そうな鉄色の三白眼がぎらぎらと輝いている。笑みの形に歪んだ口許には、肉食獣の犬歯のように発達した八重歯が零れ、隙を見せれば瞬く間に喉笛を食いちぎられてしまうのではないかと錯覚してしまう。
これが自分と同じ人間なのか。そのあまりの迫力に、カタリナは数秒間呼吸すら忘れて見入ってしまった。
カタリナの故郷であるオルドニェス侯爵領には港町がある。そこで昔、人喰いの大鮫が捕らえられたというので両親と一緒に見に行ったことがあった。随分と幼い時分の話である。
あの時に見た大鮫――既に事切れ、太い縄を尾に巻かれて陸に吊り上げられた状態であったが、その恐ろしい形相に、幼いカタリナは血の気を失い失神寸前になってしまうほどの恐怖を覚えたものだ。
そしてあの時の印象が何故だか今、目の前の男の血塗れの笑顔によってふっと蘇った。
世の中には、人喰い鮫のような人間もいるのか、と。
「なるほど、未来の王妃候補という肩書は伊達ではないようだな。この俺を前にして、なかなかの肝の据わりようだ」
血塗れの男、ザカリアス・イグナーツィオ伯爵はわざわざ腰を折ってカタリナと目線を合わせ、興味深げにこちらの顔を覗き込んでいる。
血と、臓物の臭いが酷い。
しばらくの間、工芸品でも鑑賞するかのように矯めつ眇めつカタリナの顔を観察した後、肩に担いでいた戦斧を下ろし、柄で足元の石畳をずんと突いた。
カタリナの足の裏に伝わるその地響きで、あの武器はいったいどれほどの重量なのかとそら恐ろしくなる。
「歓迎しよう、カタリナ嬢」
笑みをますます深くして、ザカリアスはすっと背を伸ばしてカタリナを見下ろした。
カタリナとて決して背が低いほうではないのだが、それでもザカリアスの背はカタリナから見て優に頭二つ分は高い。
それからザカリアスは周囲を見渡し、よく通る声でこう宣言した。
「よく聞け皆の者。ザカリアス・イグナーツィオはついに自身を扶ける妻を、そして次代を生む母を得た。我が領はこれよりますます栄え、輝ける隆盛の時代を迎えるだろう。諸君らもまた一層に励み、共に栄光の道を歩んでいこうではないか!」
おおおおお! ――兵たちは剣や槍を掲げ、勇ましく鬨の声を挙げる。
城の従者たちは一斉に頭を垂れ、最上の礼を取った。
そんな中でカタリナは面食らいながらも夫となる男をじっと見つめ、その横で執事長ウルバーノは小さく安堵の息を吐いていた。