第15話「異世界帰り、再び現場に行く」
「ただいま~。――あぁ、疲れたぁ」
日付もそろそろ変わろうかという頃、龍之介の母親がドアの鍵を開けて真っ暗な玄関へと入ってきた。プロジェクトリーダーを任されるほどに会社からの信頼も厚い彼女は常に忙しく、帰宅時間がこのような夜更けになることもけっして珍しくない。
真っ暗なのは玄関だけでなく、奥のリビングや2階へと続く階段も同じだった。彼女はそれを眺めながら小さく溜息を吐くと、土間との境目にある段差に腰を下ろしてヒールの少し高いパンプスを脱ぎ、龍之介のスニーカーの横に並べて置いた。
そのまま彼女はリビングへと向かおうとし、一瞬立ち止まってから階段の方へと進路を変えた。なるべく音をたてないようゆっくりと階段を上っていき、廊下を歩いて龍之介の部屋の前で立ち止まる。
そしてこれまた音をたてないよう慎重にドアを開け、スッと頭だけを差し入れて中を覗き込んだ。
ベッドの膨らみから頭らしきものが見え、身じろぎもせず静かに横になっているのが分かる。部屋の奥にある窓が僅かに開いており、そこから吹き込む隙間風が肌寒さを覚えるほどに部屋の空気を冷やしている。
思わず部屋の中に入って窓を閉めようかと思ったが、それなりに年齢を重ねている自分と若くて新陳代謝に優れた龍之介とでは気温の感じ方が違うのかもしれない、と思い踏み留まった。
「……まぁ、寒かったら自分で閉めるでしょうし」
彼女はそう呟いて、部屋のドアをゆっくりと閉めた。
「母親が帰宅したが、特に変化は見られない。どうやら彼女は、息子の不在には気付かなかったようだな」
龍之介の自宅を望める場所に立つ電柱に身を隠しつつ、広瀬は家から視線を離すことなくスマホで報告を入れる。
その電話の向こうにいる三澤は、現在広瀬の車を運転して市内を走っている。具体的にどこを走っているのか、そしてどこに向かっているのかについては、彼女にそうするよう指示を出した広瀬ですら知らない。
『本当は、もうとっくに部屋の中にいるのかもしれないですよ。魔法で姿を消してるんだとしたら、私達には分かりようが無いんですから』
「確かにそうだが、彼は今も事件の捜査を続けているかもしれない。悪いが君もしばらくの間、現場付近の捜索を続けてほしい」
『それは別に構いませんが……。そうそう見つかるとは思えませんよ』
「本人を見つける必要は無い。もし彼が犯人と接触できたなら、何かしら動きがあるはずだ。それを確認できればそれで良い」
『……分かりました。もう少し、辺りを走ってみます』
失礼します、と短い挨拶を残して電話が切られた。返事をする前に置かれた短い間から、自分のやっていることに対する虚無感、そしてそんな指示を出した上司に対する不信感といったものが伝わってくる。
しかしながら、広瀬にそれを責める気は無かった。彼女がそのような感情を抱くのは重々承知で、そのような指示を出したのだから。
対象者が“異世界帰り”かどうかを見極める任務に就いている広瀬達であるが、調査そのものに関しては完全に素人だ。なので下手に2人一緒に自宅を見張っていると対象者に気づかれる危険があり、万が一向こうから攻撃された際に共倒れとなってしまう可能性が高い。つまり三澤をこの場から離したのは、リスクヘッジの意味合いもあった。
だったら最初からプロに調査を任せれば良いではないか、と思うだろう。実際広瀬も、少し前まではそうしていた。
しかし彼には、どうしても自分が対象者の自宅を見張っておきたい理由があった。
その理由というのが――
「そこのアンタ、こんな真夜中に怪しいな。職質するけど構わないよな?」
夜道でいきなり話し掛けられたにも拘わらず、広瀬はまるで驚く素振りを見せず声のした方へと視線を向けた。
脛までの丈がある茶色のコートに身を包む、30代後半ほどの中年男性。寝癖のようにあちこちが無造作に跳ねている髪は量こそ潤沢なもののコシが弱く、白髪も4分の1ほどの割合で混ざっている。顔立ちはそこそこ整っている方だが、気怠げながらも鋭い目つきが目尻や額に深い皺を刻みつけている。
「えぇ、構いませんよ。――金剛哲太巡査部長」
待ちくたびれたとでも言いたげな口調で、しかし表情はあくまでポーカーフェイスを貫いたまま、広瀬はまっすぐその男――金剛と対峙してそう答えた。
* * *
同時刻、龍之介の自宅から程近い場所にある団地にて。
「先輩、いつまでここに居座るつもりですか? さっさと帰りますよ」
「うるせぇ! おまえがもう1軒付き合うって言うまで、俺はここから1歩も動かねぇぞ!」
地図上では“公園”となっているものの遊具の類は一切無く、時計とベンチが設置されているだけの広場でしかないその場所に、顔を真っ赤にして大声を出す中年の男性と、そんな彼に呆れ果てる若い男性がいた。
どうやら会社帰りに呑んできたらしいスーツ姿の2人だが、ベンチに寝そべる先輩は酒に酔って暑いのか上着のボタンを全て外しただらしない格好となっている。一方後輩の方はボタンこそしっかり閉めているものの、ここまで先輩に肩を貸して歩いてきたせいで皺になっていた。
「ほら、みんな寝てるんですから大声を出すと迷惑ですよ。近所の人に見られたら、色々と恥ずかしいんじゃないですか?」
「うるせぇ! おまえ、アイツみたいなこと言うんじゃねぇよ!」
「アイツって、先輩の奥さんのことですか? 多分奥さん、先輩のこと寝ずに待っててくれてるんですから、そんな風に言わないであげてくださいよ」
後輩の言葉が効いたのか、先輩の勢いがみるみる萎んでいく。
「……おまえには分かんねぇだろうけどなぁ、中間管理職ってのは辛い仕事なんだよ。呑まなきゃやってらんねぇくらいにな」
「はいはい、毎日愚痴聞いてますから知ってますよ。別に呑むのは構いませんけど、明日に響くような呑み方は止めましょうよ。明日も普通に仕事あるんですから」
「……チッ、今日はこの辺で勘弁してやるよ」
「どこの不良ですか、まったく……。ほら、行きますよ」
後輩が手を伸ばすと先輩はそれに掴まり、引っ張られるようにベンチから立ち上がった。そして覚束ない足取りの先輩を後輩が支えながら、2人は公園という名の広場を出て立ち去っていく。
――何というか、お仕事お疲れ様です……。
そしてそんな2人の遣り取りを、龍之介がベンチのすぐ後ろから眺めていた。内心で2人の背中に労いの言葉を掛けて、先程まで先輩が寝転がっていたベンチへと腰を下ろす。
先程の2人が彼の存在に気付かなかったのは、単純に彼が“ハイド”によって姿を消していたからである。
この広場のベンチからは、例の赤い水晶玉を拾ったゴミ捨て場を望むことができる。龍之介は今から30分ほど前から姿を消した状態でここにやって来ており、何か異変が無いか見張っていた――のだが、先程の2人がやって来たことで一時的に中断していたところである。
――といっても、犯人がもう一度ここに来る保証は無いんだけどね。
チラリ、と時計に目を遣る。
放火事件が起こった深夜0時まで、後5分といったところ。
それを確認した龍之介は、自身の足元を起点として“サーチ”を発動した。魔力が波紋のように地面を這って広がり、その波紋の広がり方によって地形を把握し、魔力自体の探知によって知的生命体の存在を把握していく。
ここから建物を1つ挟んだマンションの階段を上っているのは、先程ここを離れていったサラリーマン2人組。それとは逆方向、団地の端にあるマンションの廊下にも別の人間が歩いているのが確認できた。最初の2人は言わずもがな、後者の男性も自宅らしき部屋のドアを開けて中に入っていったため除外する。
知的生命体という括りで見ると、他に物陰に隠れて生息している猫が3匹と、犬が2匹。更には鼠の群れを見つけて思わず探知を止めかけたが、動物を操って情報収集をする魔法を警戒して仕方なく探知を続けることにする。
ちなみに龍之介がこの魔法で確認できるのは、あくまで知的生命体の位置情報とシルエットくらいであり、千里眼のように直接視認しているわけではない。“サーチ”を発動している彼の視界には、今も例のゴミ捨て場が映っているのみである。
と、そんな中、
――マンションの屋上に、誰かいるな。
先程のサラリーマン2人組が入っていったマンション、その屋上の端に立って地上を見下ろしている者がいるのを確認した。そいつは唯一屋上へと繋がる階段を下りていき、時々立ち止まりながらゆっくりと地上へと向かっている。おそらく、住人と鉢合わせしないよう注意を払っているのだろう。
やがて地上に出てゴミ捨て場へと近づいてきたところで、初めて龍之介は肉眼でそいつの姿を捉えた。
――中学生……くらいか?
想像していたよりもずっと若い見た目をしたその人物は、眼鏡を掛けた細身の少年で如何にも気弱そうな印象を受けた。おそらくそれは、薄暗い月明かりでも分かるほどに使い古されたTシャツにジーンズ、そして汚れが蓄積されたスニーカーという、オブラートに包んだ言い方をすればシンプルな出で立ちがそう感じさせているのかもしれない。
他に身に着けているのは腰に装着するタイプのポーチくらいであり、捨てるゴミなどどこにも見当たらない彼は一直線にそのゴミ捨て場へと歩いていく。しかし一直線に進んでいく体に反して、その顔は何かを探すかのように頻りにあちこちへと向けられていた。
しばらくそのゴミ捨て場をジッと見つめていた少年は、チラリと公園の時計を見ると、ポーチを開けて中から何かを取り出した。
それは透明な液体の入った瓶と、100円で買える簡素なライターだった。
「ま、待って!」
その瞬間、龍之介は即座に魔法を解いて少年に呼び掛けていた。
「ひっ――!」
そして少年は驚きのあまり、声をあげてピョンとその場で跳び上がるほどに大きな反応を見せていた。向こうからしてみれば、屋上から見下ろして周りに人がいないことを確認したにも拘わらず至近距離から呼び掛けられたのだから、そんな反応になるのも仕方ない。
少年はまるでお化けでも見るような強張った表情で龍之介を見つめ、そして手元のライターを咄嗟に後ろ手に隠した。そうして改めて彼を睨みつけるように鋭い目を向けるが、その目に浮かぶのは敵意といった攻撃的なものというよりは、むしろ怯えや後ろめたさといった感情の方が強かった。
「だ、大丈夫だよ。まだ火を点けてないんだから、証拠なんて何も無いよ。僕はこの団地の住人じゃないし、誰かに話そうにも君の名前すら知らないから」
「…………」
「えっと、それでさ、こうして出会ったのも何かの縁ということで、せっかくだからちょっとお喋りしようよ。初めて会った人と夜中にお喋りするってのも、なかなか面白い経験かもしれないよ。――それにまったく知らない人間の方が、色々と言いやすい事とかあるかもだし」
「…………」
龍之介の言葉に、少年はこれといった反応を見せなかった。
彼の言葉に反論することも無ければ、無視してその場を立ち去ることもしなかった。