繋いだこの手のひらこそが、私の新しい『鉄壁』だ
いよいよ最終話です。
ランプの揺れる薄暗い教会の一室。リディアの腕の中で、ミリアは父の遺した手紙の温もりをかみしめるように、静かに涙を流し続けていた。
リディアは、ただ黙って、その小さな背中を優しくさすっていた。
アランの言葉は、ミリアだけでなく、リディア自身の心にも深く染み渡っていた。彼が託した想いの重さと、その信頼に応えなければならないという決意。そして、この小さな存在を守り抜きたいという、今までに感じたことのない強い感情が、リディアの中で確かな形を取り始めていた。
夜が明け、雨はいつしか小降りになっていた。しかし、川の水位は依然として高く、村はまだ危険な状況を脱してはいなかった。
リディアは、ミリアを薬師の老婆に託すと、再び村人たちのもとへ向かった。その足取りには、もう迷いはなかった。
「川の最も弱っている箇所を見極め、そこに集中的に対処するべきだ。全員で力を合わせれば、必ずこの危機を乗り越えられる」
リディアの力強い言葉に、疲労の色を見せていた村人たちの顔に再び活力が戻る。
彼女の的確な指示と、自ら率先して困難な作業にあたる姿は、村人たちに勇気を与えた。
その時、川の堤の一角から、嫌な音が響いた。見張りの者が叫ぶ。
「堤が……崩れそうだ!」
濁流が、今にも村へとなだれ込もうとしていた。絶望が村人たちを覆いかける。
しかし、リディアは冷静だった。
「怯むな!各自、持ち場へ!若い衆は私に続け!」
彼女は、近くにあった木の杭と縄を手に取ると、最も危険な箇所へと躊躇なく飛び込んでいく。
数人の若者が、彼女の後に続いた。
リディアは、騎士団で培った知識と経験を総動員し、崩れかけた堤に杭を打ち込み、縄を巡らせ、村人たちと協力して土を詰めた袋を次々と積み上げていく。
その姿は、まさに嵐の中で民を守る「鉄壁の騎士」そのものだった。
ミリアもまた、薬師の老婆の手伝いをしながら、遠くで奮闘するリディアの姿を固唾を飲んで見守っていた。
不安で胸が張り裂けそうだったが、同時に、あの人はきっと大丈夫だという不思議な信頼感が湧き上がってくるのを感じていた。
そして、自分も何かをしなければと、小さな手に薬草を握りしめ、負傷した村人の手当てを手伝う老婆の傍らで、懸命に動いた。
どれほどの時間が経っただろうか。
村人たちの一致団結した努力と、リディアの不屈のリーダーシップにより、ついに堤の決壊は食い止められた。
奇跡的に雨も上がり、厚い雲の切れ間から、弱々しいながらも太陽の光が差し込み始めた。
川の水位も、少しずつではあるが、確実に下がり始めている。
「やったぞ!助かったんだ!」
誰からともなく上がった歓声は、やがて村全体を包む喜びの叫びへと変わっていった。
泥まみれでずぶ濡れになったリディアは、その場で膝から崩れ落ちそうになったが、駆け寄ってきた村長や村人たちに支えられた。
「リディア様!あんたは、この村の救い主だ!」
「本当に、ありがとう、騎士様……!」
感謝と称賛の声が、リディアに惜しみなく注がれた。
リディアは、ただ黙って頷き、そして、人々の輪の向こうで心配そうにこちらを見つめるミリアの姿を見つけた。
ミリアは、リディアと目が合うと、堰を切ったように駆け寄り、その泥だらけの体に力いっぱい抱きついた。
「よかった……! 本当に……!」
その小さな体は震えていたが、その声には確かな安堵と喜びが満ちていた。
リディアは、そっとミリアの頭を撫でた。その手は、まだ泥で汚れていたが、とても温かかった。
試練を乗り越えたことで、ミリアの中で、リディアへの想いは確かなものへと変わっていた。
アランの言葉、そしてリディア自身の行動が、少女の心に深く刻まれたのだ。
この「リディア様」という人は、お父さんの言った通り、強くて、優しくて、信頼できる人だ。そして、これからは、この人が自分を守ってくれるのだ、と。
リディアもまた、村人たちと協力し、ミリアと共にこの危機を乗り越えたことで、この村と、そしてミリアが、自分にとってかけがえのない「守るべき場所」「新しい家族」であるという実感を、確かに得ていた。
村に平穏が戻り、復旧作業も一段落すると、リディアとミリアの日常にも少しずつ変化が訪れた。
以前のような張り詰めた空気はなくなり、家の中には穏やかな時間が流れるようになった。
リディアの料理は相変わらず不格好で、味も保証の限りではなかったが、ミリアはもうそれを拒絶することはなかった。
「リディア様、今日のスープは……昨日より、ほんの少しだけ、しょっぱくないかもしれないわ」
そう言って小さく笑うミリアに、リディアもまた、不器用に口元を綻ばせるのだった。
時には、リディアが庭で木の枝を剣に見立て、ミリアに騎士の構えの初歩を遊び半分で教えることもあった。
ミリアは、初めこそ戸惑っていたが、リディアの真剣ながらもどこか楽しそうな様子に、次第に興味を示し、きゃっきゃと声を上げてリディアの真似をするようになった。「リディア様、こう?これでいいの?」と尋ねるミリアに、リディアはぎこちなくも的確な助言を与えた。
また、ミリアはリディアのために野の花を摘んできては、小さな花瓶に飾り、時にはリディアの絵(それはお世辞にも似ているとは言えなかったが)を描いてプレゼントした。
リディアは、その度に言葉少なながらも深く頷き、ミリアの頭をぎこちなく撫でるのであった。そのアイスブルーの瞳には、確かな優しさが宿っていた。
ある晴れた日の夕暮れ時。
村の畑仕事の手伝いを終えたリディアとミリアは、家路についていた。
リディアは心地よい疲労を感じながら、隣を歩くミリアの小さな横顔を見つめる。この数ヶ月で、この子の表情はずいぶんと豊かになった。
ミリアは、ふとリディアを見上げると、何も言わずに、そっと小さな手を差し出した。
その小さな手が何を求めているのか、リディアにはすぐに分かった。
一瞬、彼女の大きな手がためらうように宙を泳いだが、すぐに、その小さな手を、自分の泥と汗にまみれた、少しごつごつした手で優しく包み込むように握り返した。
ミリアの手は、驚くほど柔らかく、温かかった。
二人は、ぎこちないながらも、しかししっかりと手をつなぎ、夕焼けに染まる家路をゆっくりと歩き出す。
沈みゆく太陽が、二人の影を長く一つに重ねていた。
「今日の夕食は、少しだけ上達したかもしれないぞ。……たぶんだが」
リディアが、少し照れたようにそう言うと、ミリアはくすっと笑ってリディアの顔を見上げた。
「ほんとかなあ。でも、楽しみにしてる。リディア様の作るものなら、なんだって」
その言葉に、リディアは再び言葉を失いかけたが、意を決したように、しかしどこか堅苦しい口調で切り出した。
「ミリア。一つ、提案があるのだが」
ミリアは、不思議そうにリディアを見上げる。「リディア様、なあに?」
「今後の、その……私の呼称についてだ。我々の関係性を考慮し、また、一般的な慣習に鑑みてもだな、現在の『リディア様』という呼称から、変更を検討すべきかと考えている」
リディアは一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。夕焼けのせいか、その頬が微かに赤らんでいるように見えた。
「具体的に申せば……その、『母』、あるいは、もう少しくだけた言い方をするならば『お母さん』という呼称が、より適切ではないかと、私は……思うのだが」
そこまで一気に言うと、リディアは少し息切れしたように口を閉ざし、ミリアの反応を窺った。
「……無論、これは命令ではない。あくまで、一つの提案だ。考える時間が必要であれば、それは構わん」
ミリアは、リディアの思いがけない、そしてあまりにも不器用な提案に、一瞬きょとんとした顔をした。
だが、すぐにその言葉の奥にある真摯な想いを理解し、繋いだ手をぎゅっと握り返した。
そして、満面の笑みではないけれど、これまでで一番優しい、日だまりのような笑顔をリディアに向け、こくりと小さく頷いた。
その瞳には、はにかむような、そして心からの喜びの光が宿っていた。
リディアは、その返事にならない返事に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
繋いだ手の温もりが、未来への確かな一歩を、そして新しい家族の始まりを、何よりも雄弁に物語っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ミリアは後に女騎士になりミリアの頭を悩ませるのですがそれはまた別のお話で。
気に入っていただけましたら応援よろしくお願いいたします。