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アラン殿からの手紙、涙を堪えるのは騎士でも難しい

丘の上での出来事から数日、リディアとミリアの間には、まだぎこちないながらも、以前とは明らかに違う空気が流れていた。

リディアは、ミリアにかける言葉を探すのに相変わらず苦労していたが、その声にはどこか柔らかさが伴うようになっていた。

ミリアもまた、リディアの言葉に素直に耳を傾け、時折、小さな声で返事をすることもあった。

あの夕焼けの丘で見たリディアの不器用な笑顔と、父を語る真摯な横顔が、ミリアの心に深く刻まれていたのだ。


リディアは、アランの遺したメモを頼りに、ミリアの好きそうな野の花を家のあちこちに飾ったり、下手ながらもミリアに絵物語を読んで聞かせたりするようになった。

ミリアは、そんなリディアの努力を黙って受け入れ、時にはリディアが読み間違えた文字をそっと訂正することもあった。

その小さなやり取りの一つ一つが、凍てついていた二人の関係を少しずつ溶かしていくようだった。


しかし、そんな穏やかな日々に、ある日突然、暗い影が差し始める。

初夏に入り、長雨が何日も続いたのだ。村のそばを流れる川は日ごとに水嵩を増し、濁流が不気味な音を立てて岸辺を打ち始めた。

「このまま雨がやまねば、堤が危ないかもしれん」

村長や経験のある老人たちの顔に、不安の色が濃くなっていく。

避難の準備も考えなければならない、という声も上がり始めた。


リディアは、元騎士としての経験から、この状況の危険性を誰よりも早く察知していた。

彼女はすぐに行動を開始した。

「村長殿、川の水位の変化を常に監視し、村の男衆を指揮して土を詰めた袋の準備を。年寄りや子供たちは、いつでも高台の教会へ避難できるよう、今のうちから準備を整えておくべきです」

その指示は的確で、有無を言わせぬ迫力があった。かつて戦場で培われた指揮官としての能力が、今、この小さな村で発揮されようとしていた。

初めは「女の言うことなど」と難色を示していた一部の男たちも、リディアの真剣な眼差しと、具体的な対策案に、次第に耳を傾けるようになった。

その姿は、かつて村が困難に見舞われた際に、率先して人々を助け、励ましたアランの姿とどこか重なるものがあった。村人たちは、知らず知らずのうちに、この元騎士の言葉に信頼を寄せ始めていた。


リディアは、降りしきる冷たい雨に打たれ、騎士服がぐっしょりと濡れるのも構わず、村の男たちと共に川岸の補強作業に加わった。

泥にまみれ、土砂を詰めた重い袋を運び、声を張り上げて指示を出すその姿は、もはや貴族の令嬢でも、ただの世間知らずな女でもなかった。

民を守るために戦う、一人の「騎士」そのものだった。


ミリアは、そんなリディアの姿を、家の窓からじっと見つめていた。

雨の中、泥だらけになって働くリディア。その真剣な横顔は、以前人形を直してくれた時のそれとはまた違う、厳しくも頼もしい光を宿していた。

丘の上で聞いた、父アランの勇敢な話。そして、目の前で村のために必死に働くリディアの姿。

二つのイメージが、ミリアの中でゆっくりと重なっていく。

お父さんが、なぜあの時、この人に何かを託そうとしたのか、その理由が少しだけ分かったような気がした。

この「リディア様」という人は、強い。そして、たぶん、とても優しい人なのだ、と。


いてもたってもいられなくなったミリアは、小さな決意を胸に、リディアの元へ駆け寄った。

「あの……リディア様! ミリアも何かお手伝いしたい!」

雨に濡れながら、しかし真っ直ぐにリディアを見つめて尋ねるミリアの瞳には、もう以前のような怯えの色はなかった。

リディアは、泥だらけの顔で一瞬驚いたようにミリアを見返したが、すぐに厳しくも温かい眼差しで頷いた。

「……ありがとう、ミリア。では、避難の準備をしている薬師殿の手伝いをしてくれないか。子供たちも不安がっているだろうから、お前がそばにいてやれば心強いはずだ」


ミリアは、力強く頷くと、薬師の老婆の元へと走った。

薬師の家では、既に数人の母親と子供たちが集まり、避難の準備を進めていた。

ミリアは、リディアに言われた通り、不安そうな顔をしている自分より幼い子供たちに声をかけ、アランに教えてもらった手遊びをしたり、小さな声で歌を歌って聞かせたりした。

その姿は、まるで小さな天使のようだと、老婆は目を細めて見ていた。


川の水位は依然として高く、予断を許さない状況が続いた。

その夜、避難の準備で家の中を片付けていたリディアは、アランの遺品を入れた古い木箱の底から、一通の封じられた手紙を見つけた。

宛名には、震えるような文字で『愛する娘ミリアへ』と書かれている。

リディアは、息を飲んだ。これは、アランがミリアに向けて遺した手紙なのだ。

彼女は、そっとその封を切り、震える手で便箋を広げた。


状況が少し落ち着き、村人たちが教会で仮眠を取っている頃、リディアはミリアをそっと呼び寄せた。

ランプの揺れる薄暗い明かりの下で、リディアはミリアに言った。

「ミリア、これは……君のお父さんからの手紙だ。私が、読んでもいいだろうか」

ミリアは、こくりと頷いた。その大きな瞳が、期待と不安に揺れている。「リディア様……読んで」と小さな声で促した。


リディアは、深呼吸を一つすると、ゆっくりと手紙を読み始めた。

「『愛するミリアへ。

この手紙を君が読むとき、お父さんはもう君のそばにいてあげられないかもしれない。たくさん寂しい思いをさせてしまうこと、本当にごめんよ。

お母さんが遠い星になってしまってから、お父さんは君を一人前のレディにするって、お母さんと約束したのに、それも守れそうにない。

もし、お父さんまでいなくなってしまったら、君は本当に一人ぼっちになってしまう。それが一番心配なんだ。

だけどね、ミリア、決して希望を捨ててはいけないよ。世界は広い。そして、世の中には、きっと心優しい人がいるはずだ。

君が道に迷ったり、困ったりした時に、そっと手を差し伸べてくれる大人の人が、きっと現れると信じている。

どうか、その人の言うことをよく聞いて、お母さんの分まで、そしてお父さんの分まで、強く、優しく生きておくれ。

空の上から、お母さんと一緒に、ずっと君のことを見守っているからね。君の幸せが、お父さんのたった一つの願いだ……』」


手紙を読み終えたリディアは、もう声を抑えることができなかった。

アランの、ミリアへの深い愛情と、その言葉の端々から滲み出る誠実な人柄。そして、娘の未来を案じ、それでも希望を託そうとする父親の想い。

その全てが、あまりにも温かく、そして切なかった。

ミリアは、嗚咽を漏らしながら、リディアの胸に顔をうずめた。

「お父さん……お父さぁん……!会いたいよぉ……!」

父への感謝、尽きせぬ寂しさ、そして目の前の不器用な騎士への新たな感情が、ミリアの中で渦巻いていた。


リディアは、言葉なく、ただそっとミリアの小さな体を抱きしめた。

それは、騎士が民を守るような力強い抱擁ではなく、ただ、一人の人間が、もう一人の悲しみに寄り添うような、不器用で、しかし心からの抱擁だった。

ミリアは、今度は拒むことなく、リディアの背中に小さな手を回し、しっかりと抱きついた。「リディア様……っ!」と、すがるような声がリディアの肩口で震えた。

父の遺した言葉が、父の温かい想いが、確かに二人を繋いだ瞬間だった。

ランプの灯りが、静かに二人を照らしていた。外の雨音は、まだ止みそうになかった。

読んでいただきありがとうございます。

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