私の不器用な微笑みは、あの子に届いただろうか
ミリアからの初めての「ありがとう」という言葉は、リディアの心に小さな波紋を広げ続けていた。
それは戦場でのどんな武勲よりも、彼女の心を温かく満たすものだった。
翌日からのミリアの態度は、劇的に変わったわけではない。相変わらず口数は少なく、リディアと積極的に目を合わせようともしない。
だが、以前のような針金のような緊張感は少しだけ和らぎ、リディアが差し出す食事にも、ほんのわずかだが手を付けるようになった。
その小さな変化が、リディアにとっては大きな励みとなった。
あの日以来、リディアはアランの遺したメモや育児書を、以前にも増して熱心に読み込むようになった。
ミリアの好きなもの、嫌いなもの、喜ぶこと、悲しむこと。その一つ一つを、まるで重要な軍令を頭に叩き込むかのように記憶しようとした。
アランの文字は、決して美しいとは言えなかったが、そこには娘への深い愛情が滲み出ており、リディアはそれを読むたびに胸が熱くなると同時に、アランのような父親には到底なれない自分を自覚させられた。
それでも、リディアは諦めなかった。
薬師の老婆だけでなく、村で子育て経験のある母親たちにも、ぎこちないながら頭を下げ、助言を求めるようになった。
初めは「あの元騎士様が何を?」と訝しげな顔をしていた村人たちも、リディアの必死な様子と、ミリアを案じる真摯な気持ちに触れるうちに、少しずつだが彼女を受け入れ始めていた。
「子供ってのは、理屈じゃねえだよ。まずは腹いっぱい食わせて、あったかくして寝かせるこった」
「たまには、ただ黙って抱きしめてやるだけで、伝わるもんだよ」
村人たちの言葉は、騎士団で学んだどんな戦術よりも、リディアにとっては新鮮で、そして難解だった。
アランのメモに『ミリア、野原で摘んだ小さな花が好き』とあったのを思い出し、リディアは生まれて初めて、自分の意思で花を摘んだ。
戦場では見向きもしたことのない、名も知らぬ小さな紫色の花。それを粗末な水差しに入れ、食卓に飾ってみる。
ミリアは、その花に気づいた時、ほんの少しだけ目を見張り、そしてすぐに視線を逸らしてしまった。
だが、リディアには見逃せなかった。その一瞬、ミリアの頬が微かに緩んだのを。
料理の腕は、相変わらずだった。薬師の老婆に教わった通りに作っているつもりでも、なぜか焦げ付いたり、味が薄すぎたり濃すぎたりする。
それでも、ミリアは以前のように完全に拒絶することはなくなり、少しずつだが口に運ぶようになった。
「リディア様……今日のごはん、ちょっとだけ、しょっぱくないかも」
時折、そんな風に小さな声で感想を漏らすようになり、リディアはただそれだけで、報われたような気持ちになった。
一方のミリアは、リディアの不器用な努力を、複雑な思いで見つめていた。
この「リディア様」という人は、お父さんのようには優しくない。声も低いし、いつも難しい顔をしている。作るごはんも、お世辞にも美味しいとは言えない。
でも、自分のために一生懸命何かをしようとしているのは、子供心にも伝わってきた。
壊れた小鳥の人形。夜中にこっそり起きてしまった時、隣の部屋から微かに聞こえてきた、何かを削るような、小さな物音。翌朝、きれいに直っていた人形を見た時、あの不器用な人が夜遅くまでかかって直してくれたのだろうと、自然とそう思えた。その丁寧な仕事の跡に、あの人の真剣な思いが込められている気がした。
毎晩、自分が寝た後で、こっそり厨房で何かごそごそやっている物音も知っている。
そして、食卓に飾られた、小さな紫色の花。あれは、お父さんとよく摘みに行った花だった。
それでも、素直にリディアを受け入れることはできなかった。
優しかったお父さんはもういない。その事実が、まだミリアの心に重くのしかかっていた。
新しい「お母様」かもしれないこの人を受け入れることは、まるでお父さんを裏切ってしまうような気がして、怖かったのだ。
リディアの前では強がっていても、一人の夜には、お父さんの温もりを思い出して静かに涙を流すこともあった。
そんなある日、リディアはミリアを連れて、数刻馬車に揺られた先にある少し大きな町へ買い出しに行くことにした。
村の小さな店では手に入らない薬草や、ミリアのための新しい服地などが必要だったからだ。
「町へ? わ、私も……リディア様と一緒に行っていいの?」
ミリアは少し戸惑いながらも、どこか期待を込めた目でリディアを見上げた。アランと一度だけ行ったことのある、賑やかで、少し怖い場所。
「ああ。お前も外の空気を吸った方が良いだろう。何か欲しいものがあれば、言うがよい。……買ってよいぞ」
リディアの言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、そこには微かな配慮が感じられた。
市場の喧騒は、ミリアの予想以上だった。行き交う人々の声、家畜の鳴き声、様々な品物の匂い。
ミリアはリディアの外套の裾を固く握りしめ、おどおどと周囲を見回していたが、色とりどりの果物や、見たこともないお菓子が並ぶ露店に、少しずつ目を輝かせ始めた。
リディアは、そんなミリアの様子を時折確認しながら、目的の品を効率よく買い揃えていく。
事件が起きたのは、広場に面したパン屋の前だった。
リディアが薬草の代金を支払っている間に、甘いパンの匂いにつられたミリアが、少しだけリディアから離れてしまった。
その時、同じくらいの年の腕白そうな少年たちが数人、ミリアの持っていた小さな布製の人形(これもアランの手作りだった)に目を付けた。
「なんだそれ、変な人形だな!」
一人の少年が、ミリアの人形をひったくろうとする。
「やっ、やめて!お父さんの……!」
ミリアは必死に抵抗するが、少年たちの方が力が強い。人形は地面に落ち、少年の一人がそれを足蹴にしようとした。
その瞬間だった。
「――そこまでだ」
低く、しかしよく通る声が響いた。リディアだった。
彼女の姿に気づいた少年たちは一瞬怯んだが、相手が女一人だと見ると、再び強気な態度に戻ろうとした。
「なんだよ、おばさん!こいつが先によろけたんだぜ!」
リディアは、しかし、怒鳴るでもなく、威圧するでもなかった。
ただ静かに、しかし有無を言わせぬ迫力で少年たちの前に進み出ると、まず地面に落ちた人形を拾い上げ、ミリアに手渡した。
そして、少年たちに向き直り、凍てつくようなアイスブルーの瞳で一人一人を見据えた。
「何があったか、順に話してみろ。言い分は双方から聞こう。だが、嘘や言い逃れは許さん」
その声は、かつて戦場で兵士たちを指揮した「鉄壁の騎士」のそれだったかもしれない。だが、そこには怒りではなく、公正であろうとする厳格な意志が宿っていた。
少年たちは、リディアの気迫に完全に気圧され、しどろもどろになりながら事の経緯を話し始めた。ミリアも、リディアに促され、涙声で何があったかを訴えた。
リディアは、双方の言い分を黙って最後まで聞くと、静かに言った。
「人形を取り上げようとしたのは、そちらの非だな。だが、ミリア、お前も大切なものは人前で不用意に見せびらかすものではない。しっかりと懐にしまいなさい」
そして、少年たちに向かって、
「弱い者から物を奪おうとすることは、卑怯者のすることだ。騎士道を学ぶ者でなくとも、それは分かるはずだ。二度とこのようなことはするな。分かったか」
有無を言わせぬリディアの言葉に、少年たちは小さく頷き、そそくさと逃げるように去っていった。
ミリアは、呆然とリディアを見上げていた。
怖かった。でも、リディア様は怒鳴ったり、叩いたりしなかった。
ただ、静かに、でもすごく強く、自分を守ってくれた。そして、悪いことをした子たちにも、ちゃんと話を聞いていた。
お父さんとは違う。でも、このリディア様という人も、もしかしたら……。
ミリアの心に、これまでとは違う、リディアへの小さな信頼感が芽生え始めていた。
帰り道、辻馬車は夕焼けに染まる道をゆっくりと進んでいた。
リディアは、ふと、アランのメモにあった『ミリアとよく行った小高い丘。夕日が綺麗』という記述を思い出した。
「ミリア、少し寄り道をしても良いか」
そう言うと、リディアは御者に頼んで、街道から外れた小道へと馬車を進めさせた。
やがて辿り着いたのは、なだらかな丘の上だった。眼下には、夕日に照らされた村と畑が広がり、遠くにはきらめく川が見える。確かに、美しい場所だった。
二人は馬車を降り、丘の頂に並んで立った。心地よい風が、ミリアの髪を優しく撫でる。
しばらくの間、どちらも言葉を発さず、ただ黙って沈む夕日を眺めていた。
やがて、リディアが静かに口を開いた。
「……君のお父さん、アラン殿は、とても勇敢な人だった」
ミリアは、驚いてリディアの顔を見上げた。リディア様が父の話をするのは、これが初めてだったかもしれない。
リディアは、遠くの空を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
それは、アランが戦場で、仲間を救うために自らの危険を顧みず行動した時の話だった。リディアが直接見たわけではない。終戦後、アランの戦友だった者から伝え聞いたエピソードだ。そこには、リディア自身がアランに庇われた時の話は含まれていなかった。
「彼は、決して特別な力を持っていたわけではない。だが、誰よりも仲間を思いやり、正しいと信じることのためには、臆することなく立ち向かう勇気を持っていた。そして……誰よりも優しい人だった」
リディアの声は、普段の硬質さが嘘のように、穏やかで、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
ミリアは、黙ってリディアの話に耳を傾けていた。
お父さんの、自分の知らない一面。そして、目の前のこの人が、お父さんのことをそんな風に思っていてくれたという事実。
「リディア様……お父さんのこと、そんな風に思ってくれてたの?」
ミリアの問いかけに、リディアは少し驚いたようにミリアを見たが、静かに頷いた。
それが、ミリアの心にじんわりと染み込んでいく。
夕焼けの赤い光が、リディアの横顔を照らしていた。そのアイスブルーの瞳は、遠い日の戦場ではなく、もっと近くの、温かい何かを見つめているようにミリアには思えた。
ミリアは、気づけば、じっとリディアの横顔を見つめていた。
その視線に気づいたのか、リディアはふとミリアの方を向き、少しだけ驚いたような顔をした。
そして、次の瞬間、彼女の口元に、本当に微かで、ぎこちない、しかし確かな微笑みが浮かんだ。
それは、ミリアが初めて見る、リディアの笑顔だったかもしれない。
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