アラン殿のレシピと、壊れた小鳥の修復任務
夜道を、リディアはミリアを抱いて駆けた。
小さな体は熱く、荒い呼吸がリディアの首筋にかかる。アランの最期の時とは違う、しかし同じように命の危機を感じさせる重みが、リディアの腕にずしりとのしかかった。
村で唯一の薬師の家に着いた時には、リディアも汗だくになっていた。
薬師である老婆は、慣れた手つきでミリアを診察し、解熱効果のある薬草を煎じてくれた。
リディアは薬湯を冷まし、スプーンで少しずつミリアの口元へ運ぶ。
意識の朦朧としたミリアは、初めこそ抵抗するような仕草を見せたが、やがてこくりこくりと少量ずつ飲み下していった。
その夜、リディアは一睡もせずミリアの傍に付き添った。
何度も額の濡れ布を取り替え、汗を拭い、ただひたすらに熱が下がるのを祈った。
時折、ミリアが魘されて「お父さん……」と呟くたびに、リディアの胸は締め付けられるように痛んだ。
アラン、あなたの子がこんなにも苦しんでいる。私には、こうして見守ることしかできないのか。
明け方近く、ミリアの熱は少しずつ引き始め、呼吸も幾分穏やかになった。
リディアは安堵と共に、深い疲労感に襲われた。同時に、改めて自分の無力さを痛感せずにはいられなかった。
騎士として戦場を駆け抜け、多くの修羅場を経験してきた。しかし、幼い子供の病という、全く異なる脅威の前では、自分がいかに無知で非力であるかを思い知らされたのだ。
ミリアが回復し、薄目を開けて周囲を見回せるようになったのは、それから二日後のことだった。
ぼんやりとした瞳がリディアの姿を捉え、一瞬、怯えたように揺らいだが、やがて小さな声で「……リディア様……?」と呟いた。その声は掠れていたが、確かにリディアを呼んでいた。
リディアは、ミリアが差し出す匙から、少しずつ粥を口にするのを見守った。
この一件は、リディアの心に大きな変化をもたらした。
これまでの自分のやり方ではダメだ。騎士としての経験や貴族の常識は、この小さな家の中では通用しない。
ミリアを守り、育てるためには、自分自身が変わらなければならない。
アランが遺した約束を果たすためには、まず、アランがどうやってミリアと接してきたのかを知る必要があった。
リディアは、アランの遺品を改めて丁寧に整理し始めた。
そこには、彼がミリアのために書き留めていたと思われるメモがいくつか見つかった。
『ミリア、ニンジンは嫌い。でも、細かく刻んでスープに入れれば食べる』
『新しい絵物語、ウサギの騎士の話がお気に入り』
『天気の良い日は、川辺で花の冠を作るのが好き』
拙い文字で書かれたそれらの言葉は、アランの深い愛情を物語っていた。
また、あの『初めての育児 安心の手引き』にも、アランのものと思われる書き込みがいくつかあった。
特定のページには線が引かれ、余白には「これは試してみよう」「ミリアも喜ぶだろうか」といった独り言のような言葉が記されている。
リディアは、それらの一つ一つを、まるで貴重な戦術書を読むかのように真剣な眼差しで追った。
そしてリディアは、数日の逡巡の後、意を決して村の薬師の老婆の元を再び訪れた。
かつて「鉄壁の騎士」とまで呼ばれ、ヴァイスフリューゲル家の騎士として常に矜持を高く掲げてきた彼女が、これほどまでに誰かに教えを乞うことに躊躇と緊張を覚えたことはなかった。
家の前で何度も深呼吸を繰り返し、固く握った拳をようやく戸に伸ばす。
「……先日は、ミリアが世話になった」
老婆を前に、リディアはぎこちなくも深く頭を下げた。その声にはいつものような張はなく、微かに震えている。
「そして……その、甚だ厚かましい願いであることは重々承知している。だが、どうか……私に、子供の世話について、ご教授願えないだろうか。何から学べば良いのかすら、皆目見当もつかないのだ」
言葉と共に、再びリディアは深く頭を垂れた。床板の木目が、滲むように見えた。もはや貴族としての体面も、騎士としての誇りも、この際どうでもよかった。ただ、アランの娘を、ミリアを守りたい、その一心だった。
ぶっきらぼうで、どこか世間ずれした元騎士の、あまりにも真摯で必死な申し出に、老婆は一瞬、驚いたように目を見開いた。
しかし、すぐにその皺だらけの顔に、深い理解と慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべた。
「……ふむ。あの娘のことが、あんたにとって本当に大事になったんだな。その強面の下にも、優しい心が隠れておったとはね」
老婆は穏やかに頷くと、リディアに中へ入るよう促した。
「いいとも。わしで分かることなら、何でも教えてやるよ。あの子のために、あんたがそこまで言うんならね」
その声には、リディアの不器用な決意を温かく受け止めるような響きがあった。
老婆は、子供が食べやすい食事の作り方や、病気の時の対処法、子供が喜ぶ遊びや歌など、基本的なことからリディアに根気よく、そして丁寧に教えてくれた。
リディアは、騎士団で師から剣技の奥義を授かる時のように真剣な顔で聞き入り、時には持参した羊皮紙に震える手でメモを取った。
その姿は相変わらず堅苦しかったが、以前のような近寄りがたい雰囲気は確かに少しだけ和らいでいた。老婆の言葉一つ一つが、今の彼女にとっては命綱のように思えたのだ。
アランのメモと薬師の老婆からの助言を元に、リディアはミリアが好きだったという「アラン特製の野菜スープ」の再現に挑戦することにした。
「ニンジンは細かく刻む……鶏肉は先に炒めて旨味を出す……味付けは、確かアラン殿は岩塩と少量のハーブを使っていたはずだ」
以前のように闇雲に作るのではなく、手順を一つ一つ確認しながら、慎重に調理を進める。
それでも手際は悪く、野菜の切り方も不揃いだったが、そこには以前にはなかった「ミリアに美味しいものを食べさせたい」という明確な意志が込められていた。
コトコトと煮える鍋からは、以前とは違う、確かに食欲をそそる香りが漂ってくる。
ミリアは、部屋の隅から遠巻きにその様子をうかがっていた。
リディアが厨房に立つ姿はまだ見慣れず、どこかぎこちない。だが、以前のような殺気立った雰囲気はなく、むしろ何かに必死に取り組んでいるように見えた。
やがて、リディアが少し困ったような、それでいてどこか達成感を滲ませた顔で、深皿に盛られたスープを運んできた。
「……ミリア、今日のスープだ。その……アラン殿がよく作っていたものに近いかもしれん」
見た目は、まだお世辞にも上手とは言えなかった。野菜の形は不揃いで、少し煮崩れている。
だが、立ち上る湯気と共に運ばれてくる香りは、確かにミリアの記憶の奥底にある、父の作ってくれた温かいスープの匂いに似ていた。
ミリアは、おそるおそるスプーンを手に取り、一口だけスープを口に含んだ。
その瞬間、ミリアの大きな瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
完璧ではない。父の味そのものではない。だが、そこには確かに、父の優しさの欠片のようなものが感じられた。そして、目の前の不器用な「鉄壁の騎士」が、自分のために一生懸命これを作ったのだということも。
「……リディア様……これ、お父さんのスープの匂いがする……」
ぽつりと呟かれた言葉に、リディアは息を飲んだ。
ミリアは何も言わず、もう一口、また一口と、ゆっくりとスープを飲み進めた。
完食はしなかったが、以前のように頑なに拒絶することはなかった。
リディアは、その様子をただ黙って見守っていた。胸の奥で、小さな灯火がともったような温かさを感じながら。
そんな日々が数日続いたある日のこと。事件は起きた。
ミリアが、アランが手作りしてくれた木彫りの小さな小鳥の人形を、誤って床に落としてしまったのだ。
簡素な作りの人形は、運悪く羽根の部分が欠け、胴体にもひびが入ってしまった。
「あ……あぁ……っ!」
ミリアは、壊れた人形を拾い上げ、わっと泣き出した。それは、父を失った時の悲しみを再び呼び起こすかのような、絶望的な泣き声だった。
「お父さんの……お父さんの小鳥さんが……!」
リディアは、泣き叫ぶミリアにどう声をかけて良いか分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。
ミリアは、壊れた人形を握りしめ、リディアを睨みつけるように言った。
「あなたのせいよ!リディア様が来たから……!」
それは八つ当たりだと分かっていたが、リディアの心に重くのしかかった。
その夜、ミリアが泣き疲れて寝入った後、リディアはそっとミリアの部屋に入り、枕元に置かれた壊れた小鳥の人形を手に取った。
自分の部屋に戻り、灯りの下で人形をじっと見つめる。アランの不器用だが温かい手つきが目に浮かぶようだった。
リディアは、自分の長剣の手入れに使う小さな道具箱を取り出した。
そこには、武具の精密な手入れや修繕に使うための、ヤスリや小刀、接着剤などが収められている。
かつて戦場で、寸分の狂いもなく武具を整備し、仲間たちから「リディア殿の整備した武具は壊れん」と信頼を得ていた、その技術。
まさか、こんな形でその技術が役立つことになるとは思ってもみなかった。
リディアは、灯りを頼りに、慎重に人形の修復作業を始めた。
欠けた羽根の断面を丁寧にヤスリで整え、ひびの入った胴体には慎重に接着剤を流し込み、細い糸で固定する。
それは気の遠くなるような細かい作業だったが、リディアは驚くほどの集中力で没頭した。
額に汗が滲み、肩は凝り固まったが、彼女は手を休めなかった。
アランがこの人形に込めたであろう想いを、ミリアの悲しみを、少しでも和らげることができたなら――。
夜明け近く、ようやく人形の修復は終わった。完璧とは言えないかもしれない。よく見れば修復の跡は分かる。だが、以前よりも少しだけ、頑丈になったような気もした。
翌朝、ミリアは枕元に置かれた小鳥の人形を見つけて、息を飲んだ。
壊れていたはずの小鳥が、そこにあった。羽根は元通りにくっつき、胴体のひびも目立たなくなっている。
不格好かもしれないが、確かに直っていた。壊れた部分には、誰かの不器用だが懸命な仕事の跡が見て取れた。
ミリアは、修復された人形をそっと胸に抱き、リビングへと向かった。
リディアは、いつもと変わらぬ無表情に近い顔で、朝食の準備をしている。その手元は、やはりどこかぎこちない。
ミリアは、リディアの前に立ち、俯いたまま、小さな声で言った。
「……リディア様、これ……」
リディアが振り返り、ミリアの持つ人形に気づく。そのアイスブルーの瞳が、わずかに揺れたように見えた。
ミリアは、さらに小さな声で、しかしはっきりとした声で呟いた。
「……ありがとう」
その言葉は、静かな朝の空気に、小さく、しかし確かに響いた。
リディアは、一瞬、何を言われたのか理解できないかのように、ミリアを見つめた。
そして、その言葉の意味が心に届いた瞬間、凍てついていた彼女の心に、温かい何かが流れ込んでくるのを感じた。
驚きと、戸惑いと、そして今まで感じたことのない種類の喜びが、リディアの胸を満たした。
「鉄壁の騎士」と呼ばれた彼女が、戦場でのどんな勝利よりも価値のあるものを手にした瞬間だったのかもしれない。
リディアは、ただ、言葉もなくミリアを見つめ返すことしかできなかった。
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