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私が守らねばならぬのだ

夜の闇がアランの遺した小さな家を包み込んでも、リディアは食卓の椅子から動けずにいた。

目の前には、ほとんど手付かずのまま冷え切ったパンと、もはやスープとは呼べない野菜くずの残骸。

そして、奥の部屋からは、時折しゃくりあげるようなミリアの小さな嗚咽が、壁を隔ててなおリディアの耳に届いていた。

その声は、まるでリディアの心を直接鞭打つかのようだった。アラン、あなたの子を、私は……。


眠れぬ夜だった。

リディアは粗末な寝台に横たわっても、目を閉じることができなかった。

瞼を閉じれば、鮮明に蘇るのはアランの最期の姿。自分を庇って血に濡れた彼の体、か細い声でミリアを託した時の、あの必死な眼差し。

守られるべき自分が生き残り、守るべき彼が腕の中で冷たくなっていったあの瞬間。

彼への叶わなかった淡い想いは、今や自責の念と、あまりにも重い約束となってリディアの肩にのしかかっていた。


騎士としての自分の半生を振り返る。

「鉄壁の騎士」――その異名は、決して伊達ではなかったはずだ。

いかなる困難な戦況にあっても冷静さを失わず、的確な判断で部隊を勝利に導き、仲間を守り抜いてきた。

その自分が、今、どうだ。

アランが命を賭して託したたった一人の娘を前に、完全に途方に暮れている。

剣を振るうこと、戦術を練ること、馬を駆ること。それらはできても、子供の涙を止めるすべを知らない。

温かい食事を作ってやることも、優しい言葉をかけてやることもできない。

「戦場では、これほど迷うことはないものを……アラン殿、私は……」

自嘲の呟きが、暗闇に虚しく溶けた。

貴族としての地位も、騎士としての名誉も、ここでは何の役にも立たない。

むしろ、染み付いた騎士としての矜持が、柔軟な対応を阻んでいるのかもしれない。

アランは、こんな自分に何を期待したのだろうか。


翌朝、リディアは新たな決意と共に目を覚ました。

昨夜の失敗を繰り返してはならない。だが、具体的にどうすれば良いのか。

彼女が思いついたのは、やはり騎士団での経験則だった。

「まずは、規律と……声の掛け合いだ」

そう結論付けたリディアは、ミリアの部屋の扉を、ややぎこちなくノックした。


返事はない。

リディアは構わず扉を開けた。ミリアはベッドの上で、膝を抱えてうずくまっていた。

昨夜泣きはらしたのか、目が赤く腫れている。その姿が、アランの悲しみを凝縮したようで、リディアの胸を締め付けた。

「ミリア、朝だ。起床の時間だ」

リディアの声は、やはり硬い。努めて穏やかにしようとしているが、長年の癖は抜けなかった。

「昨夜は……その、すまなかった。私の配慮が足りなかったようだ」

彼女なりに歩み寄ろうとした言葉だったが、ミリアには届いていない。

少女は顔を上げず、さらに強く体を丸めた。


リディアは構わず続けた。彼女なりに、昨日よりは柔らかい口調を心がけたつもりだった。

「ミリア。朝の挨拶は大切だ。私が名を呼んだら、元気よく返事をするように。それが、共に暮らす上での第一歩だと私は思うのだが……どうだろうか?」

リディアとしては、これが精一杯の提案であり、相手の意向を尋ねるという譲歩のつもりだった。

しかし、ミリアは顔を上げない。小さな肩が微かに震え、やがて消え入りそうな声で「……リディア様……」と呟いた。その声はリディアの耳にかろうじて届いたが、続く「元気よく」という部分は、今のミリアには到底無理な相談だった。

リディアは、そのか細い呼びかけに、わずかな驚きと、そしてどうしようもないもどかしさを感じた。


食卓の風景は、昨日と大差なかった。

リディアが再び挑戦した食事は、見た目こそ少しだけましになったものの、味は相変わらず壊滅的だった。

ミリアは、リディアの前に置かれたパンとスープに視線を落とすだけで、やはり手を付けようとしない。

リディアの「食べなさい」という言葉は、もはや命令ではなく、懇願に近い響きを帯び始めていたが、それでもミリアの頑なな態度は変わらなかった。

沈黙だけが、小さな家を満たしていた。アランが生きていた頃は、きっと笑い声の絶えない食卓だったのだろう。


数日が過ぎた。

リディアは、アランの遺品を整理する中で(それは彼女にとって辛い作業でもあった)、古びた数冊の本を見つけた。

その中に、一冊だけ明らかに毛色の違う、手垢に汚れた分厚い本があった。

『初めての育児 安心の手引き』

表紙にはそう書かれていた。おそらく、ミリアの実母のものか、アランが娘のために誰かから譲り受けたものだろう。

アランも、この本を読んだのだろうか。不器用な手つきでページをめくる彼の姿を想像し、リディアはそっとその本を開いた。

しかし、そこに書かれている内容は、彼女にとって戦術書以上に難解だった。

「赤子の夜泣き対策」「離乳食の進め方」「子供の心に寄り添う言葉がけ」。

一つ一つの項目が、まるで未知の言語で書かれているかのように感じられた。

「……これは、一体どういうことだ?」

リディアは、本気で頭を抱えた。

「栄養バランス……それは理解できる。だが、寄り添うとは、具体的にどういう行動を指すのだ?アラン殿なら、きっと自然にできたのだろうが……」

ため息ばかりが募る。


その夜、ミリアが寝静まったのを確認すると、リディアはこっそりと厨房に立った。

育児書に載っていた「子供が喜ぶ簡単レシピ」という項目を頼りに、何か作ってみようと思ったのだ。アランが作っていたような、温かいものを。

しかし、結果は惨憺たるものだった。

小麦粉は飛び散り、卵は床に落ちて割れ、鍋は焦げ付き、しまいにはボヤ騒ぎまで起こしかける始末。

「くっ……なぜだ!分量通りにやっているはずなのに!」

リディアは煙に咳き込みながら、額の汗を手の甲で拭った。アラン、あなたならこんな時、笑っていただろうか。

その時、背後で微かな物音がした。

振り返ると、ミリアの部屋の扉が少しだけ開いており、その隙間から小さな瞳がこちらを覗いていた。

いつから見ていたのだろうか。

リディアは一瞬、動きを止めた。

ミリアは、リディアと目が合うと、ビクッと体を震わせ、慌てて扉を閉めてしまった。


リディアは、その場に立ち尽くした。

見られた。自分の無様で、滑稽な姿を。

騎士としての威厳も何もあったものではない。アランに顔向けできない。

羞恥と自己嫌悪で、顔から火が出そうだった。

だが、その一方で、ほんの少しだけ、胸の奥に今までとは違う感情が芽生えたような気もした。

ミリアが、自分を見ていた。

それは、拒絶や恐怖だけではない、何か別の感情――例えば、好奇心や、あるいは戸惑いのようなものが、あの小さな瞳に宿っていたように思えたのだ。

もちろん、それはリディアの希望的観測に過ぎないのかもしれないが。


さらに数日後。

昼下がり、リディアが庭で薪を割っていると(これもまた、彼女にとっては不慣れな作業だった。剣を振るうのとは訳が違う)、家の中から、か細い歌声が聞こえてきた。

それは、特定の歌詞があるわけではない、素朴で優しい旋律のハミングだった。

リディアは、思わず手を止めて聞き入った。

ミリアの声だ。あの子が、歌を……?


リディアは、そっと家に近づき、窓から中を覗った。

ミリアは、窓辺に置かれたアランの古い椅子にちょこんと座り、小さな人形を抱きながら、外を眺めていた。

その口元から、あの優しいハミングが漏れている。

時折、旋律が途切れそうになりながらも、懸命に紡がれるその歌は、どこか切なく、そして懐かしい響きを持っていた。

リディアは、その光景から目が離せなかった。

アランも、きっとこの歌をミリアに歌って聞かせていたのだろう。彼の温かい声で。

彼がどんな表情で、どんな声で、この子に歌いかけたのか。

ミリアがどんなに嬉しそうに、その歌声に耳を傾けていたのか。

幸せだったであろう父娘の姿が、ありありと目に浮かぶようだった。

そして同時に、その幸せを守り切れなかった自分への、そしてアランを失った悲しみが、再びリディアの胸を鋭く抉った。


自分のやり方ではダメなのだ。

騎士としての規律も、貴族としての常識も、ここでは何の役にも立たない。

アランがミリアに注いだような、温かく、包み込むような優しさがなければ、この子の閉ざされた心を開くことはできないのだろう。

だが、自分にそんなことができるのだろうか。アランのように、優しく微笑むことすら、今の自分には難しい。

リディアは、深い無力感と共に、薪割りの斧を地面に落とした。


その日の夕方だった。

リディアが、相変わらず味のしないスープと硬いパンの夕食を黙々と口に運んでいると、向かいに座っていたミリアの顔色が、ふと青ざめていることに気づいた。

「ミリア? どうかしたのか?」

声をかけると、ミリアは小さく首を横に振ったが、その額には脂汗が滲んでいる。

呼吸も、心なしか荒いように見えた。

「少し、気分が悪いのか? 横になるか?」

リディアが立ち上がろうとした、その時だった。

ミリアの体が、ぐらりと傾いだ。

「ミリア!」

リディアは咄嗟に手を伸ばし、倒れそうになる少女の小さな体を抱きとめた。

腕の中のミリアは、ぐったりとして意識がない。

その体は、まるで燃えるように熱かった。アランの体から急速に失われていった温もりとは対照的な、危険な熱さだった。


「熱が……高い!」

リディアはミリアを抱き上げ、急いで寝室のベッドに運んだ。

冷たい水で濡らした布で額を冷やし、声をかけるが、ミリアは苦しそうに眉を寄せ、浅い呼吸を繰り返すばかりだ。

騎士としての経験は、戦場で負った傷の手当てには役立っても、子供の突然の発熱にはほとんど無力だった。

薬草の知識も、このような症状に何が効くのか、すぐには判断できない。

「お父さん……お父さん……」

魘されるように、ミリアが掠れた声で父親の名を呼んだ。その声に混じって、「……リディア様……」という小さな声も聞こえたような気がした。

その声は、リディアの心に突き刺さった。アラン、あなたの子が苦しんでいる。

この小さな命は、アランが自分に託した、何よりも大切な宝なのだ。

それを、自分は……また守れないのか。


狼狽し、うろたえるばかりの自分が情けなかった。

しかし、今は後悔している暇はない。

リディアは唇を強く噛みしめた。

「私が、この子を守らねばならぬのだ……!アラン殿、あなたとの約束だ!」

アランの最期の言葉、彼への秘めた想い、そして目の前の小さな命。それらがリディアの中で再び確かな決意へと変わる。

彼女はミリアの手を固く握りしめ、村で唯一の薬師の家へと、夜道を駆け出す覚悟を決めた。

外は、冷たい風が吹き始めていた。

読んでいただきありがとうございます。

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