アラン殿との約束、騎士の私が母親に…?
不器用な女騎士が一生懸命に人を幸せにしようとする物語です。
長く続いた大陸を分かつ大戦の終結を告げる鐘の音が、帝都の空にようやく響き渡ったのは、つい半年前のことだった。
リディア・フォン・ヴァイスフリューゲルは、その鐘の音を、帝都へ帰還する途上の兵站基地で聞いた。
騎士団の一翼を担い、幾度も戦線を支えた彼女にとって、平和の訪れは安堵よりもむしろ、胸を抉るような痛みを伴うものだった。
戦場こそが、彼女の生きる場所であった。その鉄壁の守りと冷静沈着な指揮ぶりは「鉄壁の騎士」と敵味方双方から畏敬の念を込めて呼ばれるほどだったのだ。
しかし、あの最後の戦いで、彼女の「鉄壁」は破れた。最も守りたかったはずの一人の兵士を、守り切れなかったのだから。
脳裏に焼き付いて離れないのは、終戦間際、敵の最後の猛攻の中での光景だ。
奇襲を受け、指揮系統が乱れる中、リディアは孤立した。
死を覚悟した彼女の前に立ちはだかり、その身を盾にして敵刃を受けた兵士がいた。
アラン・ベルク。それが、彼女を庇って深手を負った平民の兵士の名だった。
「アラン殿!しっかりしろ!」
リディアは、血に濡れて倒れる彼を抱きかかえた。土埃と血の匂いが立ち込める中、アランの息は浅く、その瞳からは急速に光が失われつつあった。
「リディア……様……」か細い声が、リディアの名を呼ぶ。
「喋るな!今、衛生兵を……!」
「もう……だめです……。ですが……リディア様がご無事で……よかった……」
アランは苦しげに微笑み、震える手をリディアの腕に伸ばした。その手は驚くほど冷たくなっていた。
「一つ……お願いが……。私の……娘が……ミリアが……村に……。あの子には……もう母親もおりません。流行り病で……先に逝かれてしまって……。私までいなくなったら、あの子は本当に一人に……。どうか……リディア様、あの子を……お力添えを……」
途切れ途切れの言葉。しかし、その瞳に宿る父親としての切実な願いは、痛いほどリディアに伝わってきた。
「分かった!必ず……!だから、死ぬな、アラン殿!」
リディアの叫びも虚しく、アランの手から力が抜け、彼の瞳は静かに閉じられた。
リディアの腕の中で、温もりは急速に失われていった。
彼女は、ただ、声を上げて泣くこともできず、アランの亡骸を抱きしめていた。
彼に密かに寄せていた淡い恋慕も、今となっては痛切な後悔と無力感に変わっていた。守られるべき自分が生き残り、守るべき彼が死んだのだ。
戦争が終わり、帝都に帰還したリディアは、アランの最期の言葉を胸に刻み、すぐに行動を開始した。
アラン・ベルクという一介の平民兵の身上を調べることは容易ではなかった。
それでもリディアは諦めなかった。騎士としての立場を使い、記録を洗い、元同僚たちに聞き込みを重ねた。
そして数週間後、ようやく彼の故郷の村の名と、そこにミリアという名の幼い娘が一人残されているという事実を突き止めたのだ。母親を早くに亡くし、父親の帰りをたった一人で待っている少女。
その情報が、リディアの決意を最後のひと押しした。
アランの娘、ミリアを引き取る。
それは、彼への償いであり、交わした最期の約束であり、そして何よりも、彼が命を賭して守ろうとしたリディアが、今度は彼の遺した小さな命を守らなければならないという、逃れられない責任感からだった。
しかし、その決断は、彼女の家族であるヴァイスフリューゲル家からの猛烈な反発を招いた。
「正気か、リディア!自分を庇って死んだ平民兵の娘を引き取るだと?ヴァイスフリューゲル家の名を地に堕とす気か!」
父であるヴァイスフリューゲル公爵は怒声を上げた。
「そもそも、ヴァイスフリューゲル家の直系たる者が、戦場で一平民に庇われ、その結果その兵士が死んだなどという事実自体、家の恥と心得よ!その上、その子供の面倒を見るなど、言語道断!」
母は泣き崩れ、兄たちは冷ややかな視線を向けた。
「『鉄壁の騎士』とまで呼ばれ、将来を嘱望されたお前が、なぜ自ら茨の道を選ぶのだ?」
「平民の子を育てるなど、騎士の務めではあるまい」
説得も恫喝も、リディアの決意を揺るがすことはなかった。
アランの最期の願いは、貴族の体面よりも遥かに重いものだったのだ。
結果として、リディアはヴァイスフリューゲル家から勘当同然の扱いを受け、多くの特権を剥奪された。
騎士団からも名誉除隊という形で籍を抜く。
かつての戦友たちの視線も様々だったが、リディアは後悔していなかった。
アランの家があるという、帝都のはずれの小さな村へ向かう辻馬車の中で、彼女はただ、これから始まるであろう未知の生活に覚悟を固めていた。
手元に残ったのは、わずかな私物と、腰に差した一振りの長剣だけだった。
アランの家は、村の小川のほとりに建つ、本当に小さな家だった。
古いが手入れは行き届いており、庭には枯れた花壇と、子供が遊んだのであろう小さな木の剣が寂しげに転がっていた。
その剣の持ち主を思うと、リディアの胸が微かに痛んだ。
家の扉を叩くと、しばらくして、中から小さな影が現れた。
年の頃は五つか六つだろうか。栗色の、少し癖のある髪はアランによく似ていた。
大きな瞳は、しかし父親とは違い、深い悲しみと警戒心で曇っている。それがミリアだった。
「……あなたが、ミリアか」
リディアの声は、自分でも思うより硬かった。
ミリアは何も答えず、ただ怯えたようにリディアの顔と、その背後に立つ見慣れぬ辻馬車を交互に見つめている。
リディアの簡素ながらも騎士服に近い仕立ての旅装束と、腰に差したままの長剣が、少女の警戒心をさらに煽っているのかもしれない。
「私はリディア・フォン・ヴァイスフリューゲル。」
リディアは一度言葉を切り、続けた。
「かつては『鉄壁の騎士』などと呼ばれたこともある。君の父、アラン殿とは……戦場での縁だ。今日から、君の保護者として、ここで一緒に暮らすことになった。よろしく頼む」
彼女にとって「鉄壁の騎士」という称号は、自らの半生を最も的確に表す言葉の一つであり、それを伝えることは相手への誠意だとすら考えていた。子供相手にどう話せば良いのか、その加減が全く分からなかったのだ。
しかし、ミリアの反応は、リディアの意図とはかけ離れたものだった。
「てっぺき……の、きし……? ……リ、リディア様……?」
ミリアは小さな声で、途切れ途切れに呟いた。その言葉の意味も、目の前の女性が何を言っているのかも、幼い彼女にはほとんど理解できなかった。
ただ、目の前に立つ長身の女性が、とても硬質で、氷のように冷たく、そして何か途方もなく怖い存在のように感じられた。
お父さんが眠る前に読んでくれた絵物語に出てくる、悪い魔法使いか、人を石に変える魔女みたいだ、とミリアは思った。
そう思った途端、ミリアの体はますます縮こまり、声を出そうにも喉が震えるだけで、言葉にならなかった。
リディアの凍てつく湖面のようなアイスブルーの瞳が、自分を射抜いているように感じて、ミリアは反射的に俯いてしまう。
両親を相次いで失ったばかりの少女にとって、突然現れた「鉄壁の騎士」を名乗る女性は、理解を超えた脅威に他ならなかった。
ぎこちない挨拶とも言えぬ自己紹介の後、リディアはミリアを伴って家の中に入った。
家の中は質素だが、アランの温かい人柄が偲ばれるような、こぢんまりとした空間だった。
壁には、ミリアが描いたのであろうか、拙い花の絵が飾られている。
しかし、そこにはもう、家の主の温もりはない。冷たい空気が、リディアの肌を刺した。
リディアは、騎士団での生活で染み付いた規律で、新たな生活を始めようとした。
それしか、彼女には方法が思いつかなかったのだ。
「ミリア。明日から、朝は日の出と共に起床。食事は一日三度、決められた時間に摂る。夜は……そうだな、鐘が八つ鳴る前には就寝だ。健康のためには規則正しい生活が第一だ」
リディアの言葉に、ミリアはぴくりと肩を震わせたが、やはり何も言わずに俯いている。
「まずは食事の準備をしよう。栄養バランスの取れたものが肝要だ。成長期には特にな」
そう言ってリディアが向かった厨房は、彼女にとって戦場以上に未知の領域だった。
火の起こし方すらおぼつかない。野菜を切ろうとすれば、まな板ごと割りそうになる。
騎士としての腕力は、繊細な作業には全く不向きだった。
結局、小一時間格闘した末に出来上がったのは、焦げたパンと、具材の形がほとんど残っていない、塩辛いだけなのか味がしないのか判然としない野菜くずのようなスープだった。
見た目も、お世辞にも食欲をそそるものではない。
「……できた。さあ、食べなさい」
リディアがそれを食卓に並べると、ミリアは小さなテーブルの隅で、膝を抱えてさらに小さくなっていた。
差し出されたスプーンにも、皿にも、一切手を付けようとしない。
「ミリア、食べないと体力が持たない。これは命令だ」
リディアは、新兵に指示を出すように、無意識に厳しい口調で言った。
それが間違いだと気づいたのは、ミリアの大きな瞳から、ぽろり、と涙が零れ落ちた時だった。
「……おとうさんは……おとうさんは、こんなごはん、つくらなかった……っ。おとうさんのごはんは、おいしかったもん……!」
絞り出すような声でそう言うと、ミリアはわっと泣き出し、そのまま自分の寝室であろう奥の小さな部屋に駆け込んでしまった。
扉が荒々しく閉まる音が、静まり返った家に痛々しく響く。
後に残されたのは、手付かずの食事と、立ち尽くすリディアだけだった。
騎士としての自分のやり方が、ここでは全く通用しない。いや、むしろ害にすらなっている。
リディアは、冷めていくスープを見つめながら、途方に暮れていた。
アランの温かい笑顔が脳裏をよぎる。彼なら、こんな時、どうしただろうか。
きっと、優しい言葉をかけ、温かい手で涙を拭ってやったのだろう。
自分には、そのどちらも持ち合わせていないように思えた。
「アラン殿……私に、この子を守れるのだろうか……あなたの最期の願いを、果たせるのだろうか……」
その呟きは、誰に聞かれるでもなく、しんしんと冷える部屋の中に虚しく消えていった。
窓の外は、すっかり日が落ちていた。ミリアの部屋からは、時折しゃくりあげるような小さな嗚咽が漏れ聞こえてくる。
その声が、リディアの胸を針で刺すように痛めつけた。
リディアは、重い鎧をまとったまま、見えない敵と対峙しているような無力感に包まれていた。
アランへの想いと、彼の腕の中で交わした約束の重さが、ずしりと肩にのしかかる。
これが、リディアとミリアの、ぎこちなくも困難な共同生活の始まりだった。
貴族の令嬢でもなく、騎士でもない、ただの不器用な一人の女として、彼女は何をすべきなのか、まだ全く分からずにいた。
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