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契りの雫

作者: さば缶

 漆黒の闇の中で、無数の粒子たちはそれぞれの運命を求め、ささやかに蠢いていた。

その微細な世界では、目に見える形など持たぬにもかかわらず、彼らは確かな意志を宿しているかのように見えた。

水素イオンは、その孤高の存在をまとうかのように、ただひたすら陽の電荷を湛え、どうしようもなく渇望に苛まれていた。

それは、まるで捨て置かれた熱情のかたまりが寂しく震えているようでもあり、甘く焦げつく火種が燻り続けているようでもあった。

だが、その灼けつく思いを解き放ち、深く溶け合う相手はそうやすやすと現れない。

焦りにも似た欲望は、虚空へと燃え盛る叫びを投げかけるように、何度も何度も自らを問いただす。

「いったい誰と、どのように結ばれれば、私は完全なる安息を得るのか」と。


 その闇を縫うように、ふと妖艶な影がひとつ流れてきた。

それが水酸化物イオンであることを、水素イオンは身震いしながら悟る。

負の電荷を優雅にたたえ、研ぎ澄まされた存在感で静かに漂うその姿は、まるで闇夜に咲き誇る毒々しくも美しい花のようだ。

電子のうるおいをしたたらせながら、しなやかに誘いを投げかける。

あたかも官能的な口づけにも似たささやきで、そっと近づいては離れ、遠ざかってはまた甘やかに戻ってくる。

水素イオンはその気配を捉えるたび、胸の奥—いや、身の内側全体が甘く痺れるように震えてやまない。


 やがて、ふたりの距離が運命に導かれたかのように引き寄せられると、世界は淡い光を帯び始めた。

無機質なはずの反応空間に、どこか煽情的な熱が宿る。

水素イオンは自らの正電荷をいっそう誇示するように、その存在を際立たせ、水酸化物イオンへと濡れた視線を注ぐ。

一方、水酸化物イオンもまた、自らを覆う負の電子のヴェールを妖しく揺らめかせながら、いつでも受け入れようとする姿勢を示す。

「私にあなたの電荷を預けて……」

その囁きは、甘く濃厚な夜の誘惑のように、水素イオンの耳元を舐めまわすかのごとく響いた。

水素イオンは震えるほどの渇望に突き動かされながら答える。「ああ、今こそ結ばれたい。」と。


 遠目にはただの電磁的な引力にすぎないその力も、近くで見るとまさにむせ返るほど淫らな情事にも似ていた。

水素イオンは、自分に乏しい電子をどうにかして補おうと、渇望した唇を求めるように水酸化物イオンへと身を寄せる。

しかし、その懐には渇きを癒やすだけの電子が足りず、彼はさらなる恍惚を求めるように熱を帯びた触れ合いを続ける。

すると、水酸化物イオンは満ち溢れるような電子を惜しみなく差し出し、その求愛に応える。

しとやかでいて、底知れぬ情熱を孕んだ仕草で、彼女は自らを溶け込ませるように身を委ねるのだ。


 「もっと深く、わたしを感じて」

響くはずのない声が、粒子の振動に乗せられ、官能の波として伝わってくる。

水酸化物イオンの声には甘美な誘惑が宿っていたが、その裏側にはどこか情念の翳りも見え隠れする。

彼女もまた、自らの中に潜む電子を解放して、水素イオンへと注ぎ込むことを切に望んでいた。

そのわずかな電子のやり取りの行為が、まるで粘度の高い体液を混じり合わせるかのような濃密な悦びをもたらす。

ふたりは液状の媚薬をそっと注ぎ合うかのように、お互いの存在を沁み渡らせる。

触れ合うたびに、虚空を流れる熱の波は増幅され、周囲にいる粒子たちでさえ恍惚に溺れそうな震えを伴って広がった。


 快楽の波はさらに強くうねり、やがてふたりの輪郭が曖昧になり始める。

正と負の電荷がもつれ合い、どこまでも深く沈み込む官能の渦は、理性という名の防壁すら簡単に乗り越えてしまう。

水素イオンは、もう自らの形状を明確に認識できないほど陶酔し、水酸化物イオンの懐へと溶け込む。

そして水酸化物イオンもまた、彼の熱を絡め取るように包みこみながら、とろけるような一体感を得ていく。

「あなたとの結合が、わたしのすべてを満たすの」

その囁きは切実なほど妖艶で、さらに潤んだ電子を捧げようと身を震わせる。

水素イオンは切ない欲望に身を焦がしながら、その甘美なる贈り物を深く味わうように受け止めた。


 官能の律動に合わせるかのように、電子の行き交いは一定のリズムを刻む。

それは奪い合いではなく、濃縮された欲望の循環だった。

互いをいたわるように、体液にも似た電子を往復させ、満ちる喜びと与える歓びを同時にかみしめる。

交わりが深くなるほどに、ふたりは別のものへと生まれ変わる感覚を抱く。

もはや自分たちではない、しかし決して他者でもない、不思議で甘美な混沌へと堕ちていくような陶酔。

それは初めて味わう官能でありながら、どこか懐かしささえ感じさせる、恍惚と酩酊の狭間に漂う恵みだった。


 ついに、世界は眩いほどの光に包まれ、その中心でふたりが完全に溶け合ったとき、形あるものはすべて変容を遂げた。

水素イオンと水酸化物イオンの熱烈な結合は究極の融合を迎え、そこに残されたのはただ静かな水の気配のみ。

もう、あの情熱的な輪郭はどこにも見えない。

一滴の水として結晶化したその存在は、透明でいて濃密な余韻を孕み、まるで朝靄の中に広がる湖面のように静かに揺蕩う。

言うまでもなく、それは水。

ふたりの官能の軌跡をすべて内包し、受け止め、結晶化させた奇跡の液体なのだ。


 激しく燃えさかっていた官能的な電荷のやり取りが終わりを告げると、世界は深い沈黙に包まれた。

だが、その沈黙は虚無のように冷たいものではない。

互いの電荷を交わし尽くし、ひとつになったからこそ宿る、静寂の裏側に広がる甘美な残響だった。

かつての水素イオンと水酸化物イオンは、水という結晶の中で微睡み、あれほど苛まれた孤独や渇きはすべて洗い流されている。

周囲には清浄でいて艶めかしい、水の香りにも似た微かな甘さが漂う。

その香りこそ、ふたりの情欲が生み出した究極の安らぎにほかならない。


 やがて誕生した水は、世界をうるおす大いなる源となる。

生命を育む尊い雫として、絶えず循環を続け、大地を満たし、空気を清めていく。

もう、そこには燃え盛る男女のような姿は見当たらない。

けれど、この新たに生み出された水分子の奥底には、むせかえるほど淫靡な交わりの記憶が脈々と受け継がれているのだ。

交わした電子の痕跡が、ふたりを結ぶ永遠の絆として滴に刻まれ、いつまでも揺蕩い続ける。

いずれ、その水が蒸発し、また別の水素イオンと水酸化物イオンへと還るとき、きっとあの夜の情熱が再び甦るに違いない。


 これこそ、ふたりの永遠の結末であり、新たなるはじまりでもある。

かつて水素イオンと水酸化物イオンであったふたりは、官能の宴を経て水として結ばれ、互いの渇きを深く満たし合った。

運命に従ってわずかな時間に燃え上がったその結合は、やがてすべてを包み込む静寂へと溶け込み、そこから新たな生命や物語を生み落としていく。

それがふたりの濃密な愛の結晶であり、終わりなき官能の循環に他ならないのだ。

静寂の向こうには、なおも燃えさかる余韻が宿り続ける。

まるで、いつまでも途切れることのない官能の旋律のように。


 ふと周囲を見渡せば、ただ穏やかな水があるのみ。

一見すれば何の変哲もない液体に見えるが、その内には狂おしいほど激しく淫靡な情景が今も息づいている。

あの夜に交わした官能のうめきと潤いが、一滴の水となって結晶化しているのだ。

結局、ふたりは溶け合ったまま分かたれず、今も清らかな雫のひとかけらとして、この世界をめぐり続けている。

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