1-6.「存在は壊れる」
弾丸のような勢いで飛来した工場の大型機械が、大蜘蛛を暗闇のただ中へと吹き飛ばす。
「はあっ……はあっ……!」
全身血塗れの俺は、壁に背を預けた姿勢で荒く息をした。
動作に伴う苦痛と、それでも消えない激しい怒りで、自分がまだ生きていることを実感する。
『真理の定立、及び使用による空想の実体化を確認。形象強度よし、交戦可能と判定』
脳裏で淡々と響くのは機械音声。
『肉体各部の破損状態計測、及び理想値設定を終了。《自動修復》を実行します』
続く声と共に、全身の疲労と消耗、そして痛みが消えていくのを感じた。
暗闇の奥へと姿を消した蜘蛛の気配を感覚で追いながら、自分の手足の様子を再確認する。
血と汚れに塗れてはいるが、癒えていた。
無傷、動かしてみても違和感一つ感じない。
代わりに意識には、膨大な量の情報が――精彩さを増した感覚刺激の波が殺到していた。
世界の全てがかつてないほど明瞭に感じられる。
熱持つ右腕を中心に、周囲の状態が進行形で、つぶさに精神へと伝わってくる。
新たな感覚起点となった右手の甲には、鋭角の渦を思わせる光の刻印が脈打っていた。
焼け付くように疼き、しかし自分の身心の一部かのごとく馴染む印の色彩は、白――無垢の白。
直感的に理解する。
これがある内は、戦える。あの怪物に目に物見せてやれる。
大気に触れている指先が、わずかな震動の発生を感知した。
同時、俺は動いた。
どきゅっ!
体重をかけた踏み込みの瞬間、足元のコンクリートが音を立てて砕け、全身が急加速。
糸の大矢を撃ち放とうとしていた蜘蛛に向け、一直線の突撃を開始する。
ばしゅうっ!
一拍遅れて、小ぶりな槍ほどの大きさを備えた死の暗絹色が発射された。
狙いは胴、命中すればどうあれ即死。
だが軌道は読めている。
行動を起こすべきタイミングも。
ぱきっ!
足下、再び地面が砕ける感触を合図に俺は跳躍。
背面跳びの要領で大矢を回避し、糸引きの射手へと肉薄を果たす。
きり、きりり――。
接触の刹那、振りかぶった右手の刻印が無機質に啼き、暗色の闇に白光を閃かせた。
迎撃のために繰り出された前脚は一瞬遅い。
二連刺突をかい潜り、軌跡を曳く右掌が蜘蛛の胴体後部へと吸い込まれる。
直後――その異形の輪郭が、光に上塗りされたかのように割れ砕けた。
《ぎぃっ――!?》
掌の通過軌道をなぞるように噴き出した体液。
その熱を背に感覚しながら、地を削って制動する。
大蜘蛛の苦鳴には驚愕の色が滲んでいた。
何をされたか予測も付けられずにいるらしい。
逆の立場なら、俺も同じことを思ったかもしれない。
だが、何か難しいことをやったわけじゃない。この一合で俺が使った手札は一枚きりだ。
真理――俺にとって自明で、何よりも確かな感覚――その影響を、“掌”の影響が及ぶ三箇所へと順々に及ぼした。それだけ。
“存在は壊れる”。
物体も生命も、この世界にとっては二番目以降のどうでもいいもの。
その“どうでもよさ”――存在が抱えるぐらつきを少しだけ後押しし、自壊してもらったのだ。
ぐらつきに強度や大きさは関係ない。
青銅の巨人だって滑れば転ぶ。転べば砕ける。
存在が壊れる時、そこには力量の余剰が大なり小なり発生する。
その勢いをうまく借りれば、自分を高速で動かすことも、触れた箇所からドミノ倒しのように対象を崩すことも出来る。
とはいえ浅かった。
仕留められなかった分、警戒されやりにくくなった。
しかし構わない。
一手で足りないなら、壊れきるまで何度だって打ち込んでやる。
血を流す大蜘蛛の姿が霞み、壁面に張り付く。
音を立てて全身に生じた口吻から、暗く光る糸が濁流のように空間へと溢れ出す。
不可視の手で見る間に編まれていくそれらは、一方では繭状の全方位防御を、他方では何発もの糸の巨大砲弾を形成する。
本来は射撃特化、遠距離型か。
傷を負わされた途端に隠れ出す性根、つくづく気に食わない。
ばしゅううっ!
撃ち出された砲弾の火線が視界のほとんどを埋め尽くす。
面制圧、回避を許さず押し潰す算段。
なら防ぐまでだ。
どくんっ!
右腕を地面に突き立て、放つ心臓の鼓動に集中。
反響を手繰り、下方一帯の存在構造を一息に把握する。
「(“壊す”範囲を指定! 必要な形を削り出して、最後に底部を崩壊促進――打ち上げるっ!)」
きりいっ!
刻印が啼いた直後、衝撃と共に地面が爆発隆起。
厚さを備えた巨壁が出現し、砲弾を真っ向から受け止めた。
その間にも俺は動いている。
砕け散った防壁の破片が散る中を駆け、砲撃第二波の射出軌道を感覚予測。
辿るべき経路を割り出すと同時に足元を壊し、自分自身を撃ち出す。
どっ! ごっ!
大気を裂き地を穿つ砲弾豪雨の最中を縫い、大蜘蛛との距離を詰める。
敢えて工場設備に接触する軌道を選択、身を捻りながら掌を突き、踏破。
触れた一瞬で表面を壊し、反動で上方へと駆け昇る。
天地逆転状態で天井部に着地、両脚で衝撃を吸いきると、再確認した射線を辿り急速降下を開始した。
破音を曳いて飛ぶ砲弾。
その内の一つが俺を真正面に捉える。
「やられてやるかよ――!」
叫びながら、たった今しがた掴み取り、握り込んでいた小さな金属物体――天井の金具から引き抜いてきたボルトを“壊し”、投げ放った。
最初に一帯を感覚した時、見つけていた。
老朽化と破壊の衝撃で外れかかりながらも、かすかに、しかし確かに支えを成していた鋼。
力量を引き出すには十分だ。
ぐばぁっ!!
蜘蛛糸の砲弾に呑まれるように消えたボルトが爆ぜ、絶死の一射を内部から打ち砕いた。
開いた射線の向こうに感じるのは、繭に身を潜めた大蜘蛛の心拍の手触り。
「あぁああああっ!」
一閃――引き絞った右掌が無垢白の光を放ち、繭を破壊。
体躯を穿ち、過半を崩壊させた。
金属が軋るような叫びが空間を染めた。
張り巡らされた蜘蛛糸が強度と粘性を失う。
存在としての確かさを失い、溶解の途を辿り始める。
着地と制動を終えた俺は、落ちた大蜘蛛の方をゆっくりと振り返った。
枢要臓器欠損、心肺破裂。
真っ当な生き物であればとっくに死んでいるはずの深手を負って、しかしなお、それは生きている。
――とことん、しぶとい。
陽を浴びた雪のように消え去っていく糸の残滓の中を歩き、近づいた。
《きい、い、い……》
欠けた複脚を痙攣させ、大量の体液を噴きこぼしながら、それは生きようと足掻いている。
とどめを刺そうと、右手を持ち上げる。
……けれどどうしてか、振り下ろせない。
唇を噛んだ。
急速に怒りが引いていくのを感じていた。
流れ落ちた体液が、殺された子供の流した血と、同じ一つのものとして混じり合っていくような心地がする。
数秒が過ぎ、感覚のせいだと気付いた。
目の前のものから余計な情報を読み取っている。
――こいつは、死を恐がっている。
「(だから、何だ)」
勢いを失う心に噛みつき返す。
「(こいつは、何人もの子供に同じ思いをさせたあげくに殺しただろうが)」
そう訴えながら、胸の底では既に気付いていた。
理由ははっきりとはわからない。
けれど、直感している。
今こいつをこの手で壊してしまうのは、何かを間違うことだと。
「…………っ」
諦めて、掌を降ろした。
刻印から光が消え、活性化していた感覚が元の状態へと戻っていく。
暗闇から去ろうと、消耗した身体で、傷ついた蜘蛛に背を向けた。
それだけが俺に出来る“間違い”ではない選択だと思ったからだ。
結論から言えば、それは確かに間違いではなかった。
けれど、正解でもなかった。
――たぁんっ!
銃声が、静まりかえった空間に短く響き渡った。
振り返った瞬間、耳元を細い風切り音が過ぎた。
糸の矢――射手の絶命により狙いが逸れ、頬をかすめるに留まったのだと遅れて理解した。
「りそうてき。でも、赤点」
聞こえてきたのは、鈴を転がすような澄んだソプラノだった。
思わず目を向ける。
崩れた壁の向こう、光を背負い、少女が一人立っていた。
幾重もの混血に磨かれたようなおもて、流れる銀の長い髪。
黒衣を纏った小柄な体躯――そして、万華鏡のように揺れる虹色の瞳。
綺麗だ、という印象を持った。
由祈にすら抱いたことがない感情、不思議に思う。
「つめが甘いとそうなる。油断はしばしば、最悪の結果をまねく。……今回はどのみち、こうするしかなかった」
俺へと歩み寄りながら、相手は息絶えた蜘蛛を一瞥して、そんなふうに結んだ。
「それって、どういう――」
返しかけて、言葉に詰まる。
相手がこちらを見つめたまま、目と鼻の先の位置にまで近づいてきたからだ。
「毒のいろはない。でも、記憶率の消耗がはげしい。――安静がひつよう」
ほとんど触れ合うほどの至近距離から、虹の瞳が頬の傷を仰ぎ、呟く。
意味を掴みかねていると、その体勢のまま続けて言葉が紡がれる。
「“コギト”。管理者権限、指定。佑に《 意識遮断 》」
『指定了解。実行します』
脳裏で機械音声が応答した瞬間、眠気と立ちくらみを合わせたような強烈な衝撃が走り、世界が歪んだ。
「うっ……!?」
「だいじょうぶ、安全は保障する。身心もろもろの健康も。あなたには役割があるから」
こんなことをしておいて言う台詞じゃないだろう、と思うも、口に出す余裕もない。
バランスを崩して倒れ込む。
薄れゆく意識の中、続いた言葉の意味を、辛うじて拾う。
「佑。――あなたは、自分の本当の“願い”を見つけなければならない」
役割。
見つける。
願い。
反響する言葉が、遠く胸の内で光る灯に溶け、やがて消えた。
灯は、淡く、強く、空疎な感触を伴う色彩に――どこか不穏な、形容しがたい白一色に揺れていた。