1-4.虹の瞳
かち、かち。かち、かち。
音を立てて刻が鳴る。
同じ一つの拍のもと、宙に浮く無数の電子時計が各地の現在を示す。
光源の絞られた、高天井の大がかりな空間。
広間と呼んでもいいほどの規模ながら、大型の機械類が所狭しと並んでいるために余剰体積がわずかしかない。
使われるためにあるそれらの物量に対し、使用者が立ち入るスペースがほとんど存在しない、奇妙な部屋。
その限られた居場所――室内の中央に当たる円形台に独り、少女が佇んでいた。
流れる銀髪は美しく、幾重の混血を経ていると思しいおもては精緻。
細い体躯には見事な均整と調和があり、造形師が理想と彫った人形がごとき至上がまたたく。
衣装は黒。
哀悼や陰鬱を表す漆黒とは似て非なる、生命の脈動を感じさせる闇色。
一帯には過剰に清浄化された空間に特有の静けさが満ちている。
時刻音以外にはかすかな通電駆動の気配しか感じられないその場所で、少女は目を閉じ、ゆるやかに呼吸を積み上げている。
その静寂にやがて変化があった。
人工音声と思しき声が、少女の頭上から不意に降り注ぐ。
『現地時刻一七時一七分一〇秒、対象の現実からの消失を確認。転移先は不明、敵性識域の可能性大』
一拍を置いて、全く同じ口調で、音声。
『以上の観測情報を伴い、“円卓”に作戦の採択を再打診。……審議会より採択の返答あり。申請番号九七八-四〇六二作戦の緊急発令を確認。申請者の応答を求む』
「発令を受領。“円卓”より提示された発令内容の一切について、委嘱を承る」
瞑目したまま、鈴を鳴らすような声で少女。
『本人音声による応答を確認。現刻より申請の内容に従い、作戦を開始します』
電子時計群の表示が瞬く間に収束し、『一七時一八分二七秒』を示す一つを残して消失した。
沈黙を保っていた機器もまた次々と起動。
点灯する液晶と計器の光を受け、室内が息づいたように照度を増加させる。
満ちた人工の光の中で、少女がゆっくりと瞼を上げた。
覗く瞳は清明、凪に澄みきった晶灰色。
世界を見る一瞬、万華鏡に似た虹色に揺らぐ。
『やれやれ、ようやくか。気を揉まされたが、これでこちらも大っぴらに動けるというわけだ』
少女の黒衣の懐から、先程の合成音とは違う男の声が響いた。
返事の代わりに少女は手を伸ばし、取り囲む機器を操作し始める。
電子パネルを細く白い指先で叩き、胸ポケットから取り出した青く光るデバイス型鍵――浮かぶ「Terminal No.826」の刻印――を眼前の機器に接続。
追って表示された「Decompress」の文字列を、待ち構えていたかのように瞬時に押下。
『認証。対象区域に探査公識域“ターミナル”八二六号のテクスチャを展開、走査開始。完了まで――』
音声が響く合間にも手は動く。
別の機材から排出された大型のアタッシュケースを引き出した後、同時出現したポーチと二丁拳銃を腰に装備。
緑色に色を変えた小端末を即座に引き抜くと、再びポケットにしまい込んだ。
『特定完了。対象識域と“ターミナル”との同調を開始……成功。降下実行まで、四〇秒』
「ふうー……」
長く、細い吐息が少女の口から漏れる。
自由になった手が、胸元から下がる金属製の小立方体を握りしめた。
『君にしては珍しい。“告死の万色”ともあろうものが緊張かい?』
柔らかい男性の声が、気遣うように、そして少しからかうように口にする。
「そんなことない。わたしはいつもどおり」
少女――減少の始まった数字を無表情に仰ぎながら、言い返す。
「使い魔にたよって現場にでてこない、なよってる自称保護者とはちがう」
『おや、いきるねえ。一人で行かせるのは心配だから見守ってあげようというのに、酷いことを言いなさる』
「ぽっぷこーん食べながら言うせりふじゃない」
『ばれたか。いや、ちょっと小腹がすいてね。棚にある君のジュースも貰っちゃっていいかい?』
「一みりでも減ってたら、あとで撃つ」
『はっはっは』
釘を刺された男は回線の向こうで軽く笑い、続ける。
『――まあ、冗談はいいとして。ここが最初の山場だからね。僕の視た通りなら、万事上手くいっても危ない橋だ。いつものことと言えばそうだけれど、今回のそれは意味が違う』
諭すような声音に変わった男の声を、少女は黙して聞く。
『君の一応の育て親として、また“預言”を与えた者として、最終確認だけはさせてもらおう。一度ここを出れば、もう後戻りは出来ない。君の“願い”が叶う可能性は低い。手札は限られ、予測された状況の多くは苦難を指し示している。それでも、君はこの路を選ぶというんだね?』
「――うん」
短い返答が、ぽつりと空間に響く。
続く言葉が、落ちる雫のように、静寂に染みていく。
「苦しくてもいい。望まれなくてもいい。疎まれたって、憎まれたって、かまわない」
『例えそれが、彼にとっての傷になるとしても?』
「それでも」
『……そうか。ならば、もう止める理由はないね』
呟く男の声もまた静か。
カウントが十秒を切る。
少女がもう一度、短く目をつむった。
『行ってきなさい。君の“願い”に、灯の祝福があらんことを』
「ありがとう。おとうさん」
行ってきます。
『――降下』
合成音声が響いた直後、全てが暗転。
波濤が如く少女の足下から立ち上った気流は小さな輪郭を瞬く間に呑み、暗雲立ちこめる大空へとその身体を放り出した。
渦巻く激しい風の中、見開かれた晶灰の目が光を曳き、美しい虹の色彩に染まる。
少女はその瞳で遠い眼下の世界を望むと、急速な勢いで地上に向けて降下していった。