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識域のホロウライト  作者: 伊草いずく
1.Hollow White, Starry Sky.
35/52

5-2.映写、回想

 歳幼いその少年にとって、赤錆びた工場は唯一の居場所だった。


 祖父の死と共に閉鎖され、熱を失い、風雨にさらされるばかりとなった紡糸の廃工場。


 相続した父は合鍵の隠し場所を知らず、管理の責を果たす気もなく、近寄らない。

 いなくなった母と入れ替わりに現れた、見知らぬ女も同様。


 家にいれば何かしらの(まと)にされる。

 言葉、感情、暴力。


 だから部屋を抜け出し、何度もそこに逃げ込んだ。


 周りが言うほど、そこは悪い場所ではなかった。

 クラスメイトたちが噂していたおばけはついぞ現れなかったし、「帰りなさい」と億劫そうに言ってくる大人たちもここにはいない。


 誰の気配も暖かさもない、がらんとした暗がりのさびしさだけは(こた)えたけれど、常に気を張っていなければならない家の息苦しさに比べればずっとましだった。


 近くには団地に接した小さな公園があった。

 二階の窓辺に上がり、そこで知らない子たちの遊ぶ声をぼんやり聞くのが、いつしか習慣になった。


 些細なことで食事を取り上げられた冬の日も、少年はそこにいた。


 いるしかなかった。

 家の事情が広まるにつれ、学校の皆もだんだんと、少年を色々なものの的として使うようになっていた。


 近寄る勇気を持てなかった公園から、鬼ごっこに興じる楽しげな声が遠く響く。

 栄養が足りないのか、どう縮こまっても寒気が消えなくなった身体を、力なく抱きしめる。


 ――僕も遊びたいな。


 冷え切ったガラス窓の向こう、光に満ちた、もう出ていくこともできない外界を仰ぎながら、少年は“願い”を持った。


 ここに来てほしい。

 ここでなら、僕も恐くなくいっしょに遊べるから。


 鬼ごっこだってできるし、かくれるところだっていっぱいある。

 きっと楽しいはずだから。


 ねえ、僕はここにいるよ。

 ここでずっと待ってるよ。ちょっとでいいから遊びにきてよ。


 待ってるから。

 気付いてくれるまで、待ってるから――。


 ――そして少年は、赤錆色(ラスト・ブラウン)の工場で糸を紡ぐ、一匹の蜘蛛になった。


 空想は彼の“願い”を叶えたが、待ち続ける日々のさびしさを取り除いてはくれなかった。


 《もっと、もっと》


 (つの)る感情を埋め立てる次の楽しさを求めて、少年は願い続けた。


 そして、痛みと恐怖を味わい、最後には額を撃ち抜かれ、孤独を抱えたまま、死んだ。



 §



 その女にとっての幸福は、人と繋がる日々の中にあった。


 この世界に確かなものは何もない。

 けれど、誰かから向けられる強い感情は、私に“生きている”という実感を与えてくれる。


 さいわいなことに、女には恵まれた容姿と、人の機微を読む感性と、甘い蜜のようと称えられる言葉選びの才能があった。


 望む振る舞いをいくぶんかに、思いどおりにならないもどかしさと、「あと少しで全てが手に入る」という幻を混ぜてさしだせば――どんな男も女も、私とどこまでも深く繋がってくれる。


 花と生まれた自分の身と心を、女は完璧と信じて疑わなかった。


 その思いが打ち砕かれたのは、大したことのない都合で医者に身体を預けた時。

 子を成す機能が、自分の(はら)に備わっていないことを知った。


 女は狂った。


 どこにも、かしこにも女はいるのに。

 その誰一人として、私のようには愛されず、また愛されるにふさわしい有り様を有してもいないのに。


 なのに、私だけにそれがない。

 孕むことができない。

 この血を残し広めるという、ありきたりの行為を行うことができない。


 怒りと羨望に身を焦がしながら、女は“願い”を持った。


 繁栄したい。

 私が産み出す全ての繋がり、全ての愛、全ての力を繁殖させ、存続させたい。


 ――そして、女は蛞蝓(かつゆ)と化した。


 かつて育んだ蜜の繋がりを統べる神経束として。

 貴きも卑しきも、全ての胎と精を歯車として拡張拡大し続ける、警告黄色ワーニング・スプライトの機構そのものとなった。


 しかしその全ては失われた。

 営々と築き上げた全ては今や炎に焼かれ、征服され、女が求めた存在の痕跡は、もはやこの世界のどこにも観測されない。

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