4-4.声
どぎゅっ!!
べたつく蜜に覆われた足下が壊れ、駆け出す俺の後ろ脚に推力が乗る。
受け損なえば足が砕けるレベルの力量を用いた加速。
それが地を数歩蹴るごとに連続して発生し、またたく間に俺を現実では辿り着けない高速機動状態へと移行させた。
対する敵はいまだ出現位置を離れず――そう、先に動いたのは俺の方だ。
現状採りうる最善の策は“逃げ”一択だという、預言者の言葉を忘れたわけではない。
この戦いの第一目的はあくまで時間稼ぎ。
根本の目標を先の手と同じくする、つまり防戦だ。
だが単に守勢に回れば足りるかといえばそうではない。
上層にいる悠乃が突出した戦力であることは相手にも明白――俺の排除に少しでも手間取ると判断したなら、敵は俺の処理を後に回し、悠乃を排除するための合流行動へと思考を切り替えかねない。
こちらをわざわざ分断したのが相手である以上、各個撃破の狙い自体はあるはず。
しかしそれはあくまで、いつでも捨てることのできる方針の一つに過ぎないのだ。
「(だとしたら、俺が選べる手は決まってる)」
全力で攻勢に出る。
相手が「容易に背中をさらせない」と感じるだけの脅威を示す。
それしかない。
「(数十秒、できれば一分弱。あいつをこの場に釘付けにする――悠乃への“挟み撃ち”を遅らせる!)」
肺を冒すようなねばつく空気を裂き、白濁色の怪物へと接近。
こちらが手を打てる射程内へと入る。
俺の現在地は敵の左斜め前方。
正面から距離を詰めることを避けた位置取りだ。
ぶうん――。
「(今!)」
鋭敏化した感覚が相手の“向き直り”――こちらを正面に捉えるためのかすかな旋回機動を察知する。
その瞬間、脳裏で仕込んでいた《身体強化》の空想を全身に走らせ、俺は切り返し機動を結んだ。
「せぇあっ!!」
慣性による反動を《強化》で無視し、これまでと左右逆、相手の目の前を横切るような軌道で追加加速。
結果、大きく振りかぶる形になった俺の右手から、空間の蜜色を反射する小球体が勢いよく撃ち出される。
小型金属球――数を用意してもかさばらず、しかしそれなりの推力を込められるだけの重量密度を持った存在物。
燃費の悪さを補うために持ち込んだ、攻防兼用の人工つぶてだ。
ごおうっ!
袈裟切りの並びに四つ、拡散しながら飛んだ金属球が時間差で崩壊し、力量を放出した。
最も低く飛んだ球は脆い正六角の地面を削り、蜜と巣壁の残骸を前方へ噴き散らす。
残りの三発による放出は正面および上空に火線を形成し、巻きたつ目潰しと共に目標へと殺到する。
《――――》
次瞬、敵が動いた。
羽音がひときわ高く響いた直後、姿がかき消え、大気がうすら寒く震え波立つ。
文字通り肌身で戦慄を感じた俺は、攻撃を重ねるべく取り出しかけていた金属球を即座にぐらつかせ、起こした反動に乗って強引に身をそらした。
――ぃぃいっ!!
つんざくような飛行音を聴覚が処理しおおせたのは、間一髪の回避が成った寸秒後。
極限の脅威を前に鈍化した時間の中で、数センチ残して一撃をかわしたはずの左手首・頬から血が噴き出したのを感触した。
「!!」
――直撃は確かに免れた。これは余波だ。
――ナイフか刀かで切ったようなこの傷が? 何の?
同時に湧き上がる直感的理解と疑問。
本能が咄嗟に感覚の網を広げ、敵の姿を追い、何が起こったのかを探り当てようとする。
相手の影は俺のはるか後方、体表面には力量に焼かれたと思しいかすかな損傷の気配。
火線の中を強引に抜けた。
攻撃を兼ねた移動、威力と速度を伴う一挙動――飛翔突進?
爆ぜるように意識を満たす脳内麻薬のしびれ、その最中で言葉の体をも取らず走る推測を、強引に思考として掴みだす。
生じた理解に感覚からの情報が接続され、交錯の瞬間の光景がようやく意味あるものとして像を結ぶ。
俺をみまったのは刺突だ。
前脚を一本の突撃槍に見立て、翅の推力により自分の躰ごと射出。
切っ先の爪で対象を貫き、または体躯でもって粉砕する。
工程や原理をいえば極めて単純な一撃。
それはしかし、まさに超常のしわざだった。
“速度があれば隙は隙にならない”、“重さがあるなら技巧は必要ない”。
そんなふうに理屈をこねてみせるのは簡単だろう。
けれど、それをこれほど疑いようのない確かさで空想し身にまとうのは、常日ごろ法則を世界の全てとしている生命には至難の業だ。
訓練を経たからこそわかる危険度――“空想を出力する生物”としての格の違い。
「(確かにこいつは“尋常”じゃない。そんな存在じゃあり得ない!)」
ぎゃりっ!
傷口から走る灼熱感に歯を食いしばりながら、踏み込む足下を壊し再び加速した。
距離を稼ぎ、追撃の的になることを回避する。
『支障規模の損傷を確認。《自動修復》を実行します』
コギトの声とともに視界の端に浮かぶ記憶率が減り、一度の戦闘で許容できる限界域へと近づく。
保たせられる秒数への期待を脳内で下方修正。
噴き出す玉の汗を後に引きながら、羽音と共にゆっくりと振り返る雄蜂の動きを捉える。
こちらへの注意はどうやらまだ消えていない。
他の個体にはない不気味な手ごたえのなさ、思考の気配を感じさせない挙動のせいで確証は持てないが、まだこの場を離れるつもりはないようだ。
――いぃん!
戦慄をもよおす羽音、その予兆を肌身で感じた瞬間、俺もまた動いた。
コギトを通じて《圧縮携帯倉庫》を開放、一度に掴める限りの小鉄球を前方へ放ちながらあえて体勢を崩し、足下を破壊。斜め背後方向へと急速後退を開始する。
「(一撃目、弾幕の目潰しは恐らく効いた! なら――!)」
数発分の小球を手元に補充し、反撃の機会をうかがい感覚の網を張る。
――最初の突撃の瞬間、相手の照準がかすかにぶれたのを感じた。
もし万全の状態で飛翔がなされていたら、俺はより大きな傷を負っていたはずだ。
弾幕は目立った損耗こそ与えられなかったものの、敵が頼る感覚のどこかを阻害できていたと読める。
であるなら、そこにつけ込む以外に活路はない。
狙うは後の先、突進後の空隙時間。
しかし、
《――――》
ひぃぃっ!
炸裂した小鉄球群の向こう、はるか遠方の輪郭が消え去った瞬間、全身が総毛立った。
「!!」
白濁した体色を持つ雄蜂。
その小柄な体躯が俺の真横、わずか数メートルほどの地点に出現していた。
ある意味では想定通りとさえ言える展開。
ただ一つこちらのもくろみと違ったのは、
ぃぃぃぃ――。
「(二撃目――!?)」
間近で発され、俺の感覚を覆い尽くすように響いた、再突撃の予兆羽音。
飛翔が始まるまでの絶望的な一瞬、いまさら状況に追随した目と耳が捉えたのは、あくまで無機質に、人形のように顎を開き排気し、喉を鳴らす怪物の姿だった。
《――きち》
どっぐぉうっっっ!!
意識の処理限界を越える衝撃が走り、時間と空間の認識が丸ごと消失。
巣の内壁を何層も突き破り、軌道上の遺体を衝撃吸収にしながら吹き飛んだ末、ようやくコギトの報告を脳裏に聞く。
『《堅牢》の発動、および耐久限界による分解を確認。大支障規模の損傷を確認。《自動修復》完了まで十秒超、修復中の稼働は可能な限り控えてください』
「く……」
完膚なきまでに砕けた幾何学模様の細片――悠乃が俺へも施してくれていた緊急防壁の残滓が、数度の明滅を最後に音もなく消え果てる。
控える控えない以前にそもそも身体が動かない。
全身をバーナーで炙られるおまけ付きの金縛りにでもあったような気分だ。
くらむ視界で光源を探すと、やや下方にそれが見つかる。
どうやら俺は突き上げるような軌道で上空へと打ち出されたらしい。
駐車場が陥没する爆発にも耐えきった《堅牢》をたった一打でぶち割り、相応の相殺、減衰を経たうえでこの威力。
備えもなく受けたならどうなっていたか、想像を巡らすまでもない。
記憶率残量が大きく減少し、許容限度ラインすれすれの位置を示した。
同時に《修復》の感覚が止む。
痛みはまだ消えきっていない、打ち止めということか。
追い打ちをかけるようにコギトからの警告が飛ぶ。
『原型記憶率の急減、および既定値への接近を確認。これ以上の戦闘行動は推奨されません。危険です』
聞き流しながら、ようやく動いた指先からひりつく感覚を広げ、雄蜂の逸路の姿を探す。
見つける。相変わらず思考の読めない、微動だにしない滞空状態でこちらを見上げている。
その非人間的な、昆虫的とすら呼べない無機質さに、重く大きすぎる壁の印象が生じる。
“勝てない”
そう本能が断定する。
瞬間、全身から立ち上がるための力が失われはじめる。
引き潮のようなその流れに、しかし俺は歯を食いしばり、渾身の力で抗った。
痛みに耐えて身体を起こし、半ば身を投げるようにして蜜色の光の中へ飛び降りる。
「ぐっ!」
空想による支えも消えかけた状態、着地にすら激痛が伴う。
それでも顔を上げる。
傷一つ残っていない濁った体表の怪物に向かって、絞り出した戦意を向ける。
『危険です。すぐに逃走行動に移って下さい』
コギトの言葉の裏に、どうしてそんなことをしたのか、と責めるような響きを聞く。
機械に感情はない。
単に俺が後ろめたさを感じて、ありもしないニュアンスを勝手に見出しているだけだ。
罪悪感。
――俺に戦うことを許してくれた、綺麗な虹の眼をしたあいつへの。
どうしてか、抱いて当然のはずの恐怖は感じなかった。
代わりに、別の感情が、言葉が、噴き出す血のような熱さで意識を満たしていた。
「(やれる、ことを……やる)」
朦朧と回る思考が、そんな俺自身の状態に疑問を抱く。
“やれること”はもうない。手札は尽きた。
これ以上何かを試みる余力は、直衛佑にはない。
“これ以上”を求めてはならない。
それは誰の“願い”にも反することだ。俺を取りまくどの“願い”をも損なうことだ。
大事なひとたちを傷つけてしまうことだ。
なのに俺は、どうして動こうとする?
「(……それは……)」
脳裏で飛ばした指示に対し、コギトが不許可の応答を返す。
《圧縮携帯倉庫》はもう使えない。
なら、コギトの管制が及ばない真理経由で攻撃を仕掛けるしかない。
機会はいつだ。どうすれば一撃の余地を作れる。
考えろ。観察を重ねろ。
時間感覚が鈍磨する。
窮地の加速など望むべくもない、意識そのものの機能低下を意味する混濁の第一段階。
視覚はもう情報を拾っていない。
紋を起点にした感覚だけに頼っている。
攻撃のために使わなければならない意識は身体の内側へと沈みかかり、気付けば心の奥、問いの答えにただ向き合っている。
どうして、直衛佑は動こうとするのか?
「(それは……)」
この“どうして”が、俺にとっては、本当に大切な感情だからだ。
これがなくなったら、直衛佑が、直衛佑でいられなくなるからだ。
感情――そう、感情。
これは覚悟……“決めたこと”を表す言葉なんかじゃない。
情動……“したいこと”を示す言葉だ。
“やれることをやる”。
厳密には、違う。
やりたい。
俺は、全ての力を尽くして、そうであって欲しくない未来、を、変えたいのだ。
「(そうだ。やっと……わかった)」
まだ曖昧だ。まだはっきりとは掴めていない。
でも、これは。
これは、“願い”だ。
俺、直衛佑が何より叶えたいと思う、“願い”を形作る確かな一要素だ。
だから、俺は諦められない。
何を犠牲にするとしても、未来を望む方向へ近づけたい。
たとえ、自分の存在を捨てるとしても――。
“そして”
“その思いが、何の成果にも繋がらず終わるとしても?”
――どっ。
そう、皮肉るような声が自分の内側から響いた時。
息一つ吐き出す余地もなく、不意に腹部に衝撃が走り、身体が大きく、くの字を描くように折れ曲がった。




