4-3(-2).落下
地下から吹き上げた爆圧により、総ガラス張りの前面が木っ葉微塵に吹き飛んだ一階エントランス部。
脱出口となりうるその経路を塞ごうとしたか、あるいは十全な迎撃のためか、大挙して飛来した縞模様の群れは風穴の手前で密集陣形を取る。
分厚くうごめく不気味な壁層。
しかしそれは、たった一人の少女による攻撃で内部から膨れ上がり、四散した。
――ず、どごおうっ!!
悠乃の懐、限界拡張済みの《圧縮携帯倉庫》から放たれた複数個の擲弾が、《アダマス》による強化をまとって激しく炸裂したのだ。
体液と肉片が雨のように飛び散る中、虹の眼光を曳いて飛び出した悠乃を、雀蜂たちが追う。
耳障りな音を立てて羽ばたく異形たちの機動はすさまじく、精密でありながら極めて素早い――無駄がない。
当然のことではある。
連中の飛翔は翼を持たない俺たちが思う“空中移動”とはわけが違う。
地には地の、海には海のことわりがあるように、空にもまた、生きるため求められる感覚というものがある。
空中を領域とする存在たちは例外なく高次の空間処理能力を備え、障害物のない空を正確に認識してのける。
その感覚の故にこそ、それらは無駄のない飛行を実現できる。
高い姿勢制御力を有する膜翅目――複雑で安定的な飛翔を行える翅の持ち主が羽ばたくならば、それはなお埋めがたい差として現れる。
だが、悠乃の動きは更にその上を行った。
ぎゅいっ! ぎゅうっ、きゅうんっ!
陣形を組み、包囲からの抹殺を狙う警告色の波濤を、一蹴りごとに放たれる強烈な加速が置き去りにする。
軌道の柔軟性においては比べるべくもない。
だが、こと視覚において、悠乃七彩の右に出る存在はこの場にない。
わああんっ!
宙を駆ける獲物についに肉薄した群れの一端、その先頭個体が、骨肉を噛み千切ろうと大きく顎を開く。
真っ暗な食道へと続くその喉に、しかし突き立てられたのは黒鉄の散弾銃口。
がががうんっ!!
“貫徹”の性質を増強された散弾が、戦慄するほどの範囲火力をもって異形の怪物群を穴だらけにした。
命中を経ても“止まらない”それらが過ぎた後には、ミキサーにかけられたような怪物たちの残骸が残るばかり。
がちんっ!
背後から詰め寄った無数の大顎の攻撃軌道さえ、悠乃の眼は見切っている。
曲芸のような身のこなしで靴の“踏破”を操り、時に鼻の先まで押し寄せる殺意を見事にかわしていく。
回避の最中にも火器を握る両腕は動き、絶えず攻撃を叩き込み、接敵を重ねるごとに敵へ大量の死をもたらしていく。
千軍無数の蜂たちも、これほどの勢いで手数を削られれば不利を認識する。
別の手をとろうとしたか、追う波の勢いが衰える。
その瞬間を見逃す悠乃ではなかった。
「コギト。相対座標一八-七地点にC装備の《運出》を実行」
『了解』
風切る黒衣をはためかせ、虹の眼は一際高く飛ぶ。見やる先に出現するのは、鉄塊としか呼びようのない巨大な筒型物体だ。
空洞の内部に刻まれた施条――弾体をより鋭く射出するための溝状加工を感覚するに至って、やっとその物体が何であるかに思い当たる。
『《運出》の正常な発動を確認。空想改造火砲“ASR-98”、座標固定完了』
それは個人が扱うにはあまりにも大きすぎる銃砲、兵器だった。
大砲、艦砲。対集団、軍勢規模の攻撃を可能にする広域殲滅装備。
『弾頭、装填準備。完了』
がっしゃっ。
薄ら寒い駆動音と共に砲身が口を開け、宙空に生じた巨大な弾丸が空洞部に侵入、機構閉鎖。
咆哮の用意を整えた無機の化け物、その砲塔が黒黄の群れの中心部に狙いを定める。
増設された撃発器と思しい部位に向け、悠乃が踵を振りかぶった。
何が起こるか理解した俺は、咄嗟に広げていた感覚を抑制した。
――そして。
おんっ!!
瞬間的に反応変成、炸裂した大容量火薬の爆圧が大気を震わせ、やがて生じた更に大きな衝撃が、一帯をくまなく塗り潰した。
生命持つ個体へ贈られるには過剰にすぎる質量、貫通力、破壊展開能力。
その全てが舞い飛ぶ群れを薙ぎ払い、焼き払い、完膚なき征服を着弾座標へ顕現させる。
後には何も残らない。爆風の残り火と、焦げた蜜の強い匂いが揺れるばかりだ。
当たり前だ、こんな蹂躙を受けてなお存在を保てる生命などあるはずがない。
いつからか詰めていた息を、安堵と共に吐き出しかける。
だが、空中に立つ悠乃から、コギトを介して声が飛んだ。
『まだ。本当のしょうぶはここから』
……びいいいいいん。
ぱちぱちと音を立て燃える正六角の大空間に、不意に一つの羽音が立った。
羽音……いや、あるいは、いななきか。
その響きは俺に、ある種の音声を想起させた。
危険を知らしめるため、退避を促すために広く鳴らされる音声……警告音。
「!」
顔を上げる。
気付けば前触れなく、それは現れ出でていた。
《…………》
びいいいいいいん。
縞模様を基調とする体躯、現実では到底生まれ得ない巨大さの威容、そして、一生物と見るにはあまりに攻撃的すぎる、変質を経た異形異貌。
既存の生物に強いて当てはめるなら、それは蜂と分類されるのだろう。群れを成していた雀蜂の逸路と同型の存在だと。
だが、その有り様は、規模は著しく異なる。
体色は暗赤、敵意に染まった赤黄と黒からなる激昂色。
増設された翅は一枚一枚が通常個体の数倍の大きさを持つが、それらをもってしても飛翔に支障を来しかねないほど、いびつな図体は膨れている。
原因は体表を見ればわかる――一枚皮のようにつなぎ合わされた人間女性の首なし胴が、びっしりと全面を覆っているのだ。
どろっ、……ぼたっ。
ひび割れが浮くそれらの腹が蠕動するたび、蜜にまみれた雀蜂逸路の成虫が産み落とされ、耳障りな羽音を立てながら羽ばたき、戦線に参加する。
他方、焼け焦げた死骸群の腹からは白く濁った濃汁がこぼれ出し、わななく暗赤の元へと回収されていく。
それがある種の価値を帯びたものであることはすぐにわかった。
濃汁を吸収した大型個体の周辺空間が歪む。
大気の流れがにわかに変質し、警告音がなお高く鳴り響き始める。
だががががががうんっ!
悠乃の手元が霞み、姿を見せた二挺拳銃が羽音をかき消すように轟いたが、今までのような致命的な効果は現れず。
命中した弾丸は外殻を砕き肉を削いだものの、ゆっくりと、しかしついには跡形もなく塞がった。
「!」
変わらぬ万色を湛えた悠乃の眼がかすかに細められる。
虹の瞳――あらゆる虚構を無に帰す魔眼の力は健在。
にも関わらず、あの赤黒蜂は悠乃の攻撃に耐久してみせた。
理屈は俺には読み切れない。
しかしそれが尋常の出来事ではあり得ないのはわかる。
『空想規模の測定が完了しました。位格B4、“超越級”』
コギトの無機質な声が脳裏に響き、敵逸路の推定脅威度を告げた。
感じとった危険を裏打ちする評定に、背筋が冷える。
座学で教えられた記憶の通りなら、位格分類式は分析対象が強力であるほど若い値を冠する――位格Bは“遭遇しうる最も大きな危険”を意味する。
『何とも大柄な女王蜂だ。ほぼ末席の第四位とはいえ――こいつは手こずるぞ、我が娘』
重苦しい預言者の一言とは対照的に、悠乃の応答は淡々。
「このくらいは予測のうち。問題ない」
『《転送》の完了まで、残り約三十秒』
「それだけあれば、じゅうぶん」
びいん!
予兆も見せず猛速を発した女王蜂の突進を、しかし悠乃は紙一重で回避し、至近距離から銃撃を浴びせかける。
《ぎいいっ!》
女王蜂の吐き出す警戒音に苦鳴の色が混じる。
一度目の連射は様子見――装甲の構成質、駆体の特性を見抜き、弾丸の性質と増幅するなすすべを最適化したのだ。
全弾を撃ち尽くしてなお、悠乃の射撃は止まらない。
《圧縮携帯倉庫》から次々と引き抜かれる銃器の数々は絶え間なく蜂たちを殺傷し、それらを盾とする女王へも幾度と牙を届かせる。
対する攻勢もむろん熾烈。
しかし、展開される弾幕は回避を助ける役割をも果たし、形勢は拮抗しながらも悠乃有利に展開されている。
俺はその光景を、コギトによって増幅された感覚を通して観測していた。
拭えない危機の感触を胸に抱えながら。
“制圧”と悠乃は言った。
まさしくその通りの結果がもたらされつつある。
悠乃はあの巨体の怪物すらも打ち倒し、この戦いに勝つだろう。
――なのに、どうしてざわつきが消えてくれない?
上空の激戦から意識を引き剥がし、理由を探した。
焼けただれた識域の外壁、干上がるように止まった蜜の流れ、侵蝕と破壊によってところどころに正六角が露出しているビル地下空間。
表立って異変を見せている箇所はどこにもない。
「(……表、立って?)」
いつしか俺の注意は感覚に注がれ、その矛先は地上ではなく足下、識域の深部へと向かっていた。
深く、深く――水が土に染み入るように、音もなく感覚の網が伸びる。
その先端に何かが引っかかった。
はじめはかすかに、やがてはっきりと。
震動、感触。覚えのあるたぐいの。
力を受け、存在がその形を崩される……“壊される”時の。
『残り十秒』
「――――!」
《転送》の実行進捗を告げるコギトの声で、意識が地上へと引き戻される。
その頃には気配はもう、再び感覚を広げるまでもない地点にまで近づいていた。
「(まずい)」
心の内で悪態をつく。
激しい銃火と羽ばたき音は未だ交錯の最中。
状況の変化を感知したのは恐らく俺一人。
その俺ですら完全には事態を掴めていない。
悠乃や預言者に知らせようにも、何が起ころうとしているのか言葉で伝えられない。
『九、八、七』
始まったカウントダウンがひどく遅く、もどかしいものに感じられる。
瓦礫の破片がかすかに震え始める。
間違いない、何かが俺たちに狙いを定め、行動している。
張り詰めた感覚を揺さぶる“それ”の速度は信じがたいほどに著しい。
にわかに直感する。
「(間に合わない。このまま何もしないでいたら、風原たちが間違いなくやられる!)」
視界の端のカウントが五秒を切る。
もう一刻の猶予もない。
動くべきか、否か。
俺が自分で決めるしかない。
「(俺には悠乃みたいな力はない。戦ったら死ぬかもしれない。俺のやろうとしていることは、事態を悪化させる出しゃばりかもしれない)」
でも。
“やれることをやる”
最後によぎったその感情が、俺を突き動かした。
「コギト!!」
――めきっ!
宣告を命じるべく声を張り上げた瞬間、地下フロア一帯の地盤が悲鳴を上げた。
瞬間、悠乃がこちらに視線を向ける。
コギトが繋ぐ回線越しに、息をのむ悠乃の戦慄が伝わったような気がした。
確信は持てない。
俺はその時にはもう、行動を開始していたからだ。
きりいっ!
右手の甲に姿を見せた紋がいななき、足下より数メートル分の土を削り壊し、《転送》の効果が及んでいる小領域を地面から隔離する。
その作業が完了するのとほとんど同時。
“それ”が来た。
ばぎゃあああっ!!
砕き潰されるように地面が液状化し、一瞬で生じた大穴の暗黒が、あぎとのように俺をのみ込む。
ぞわりと肌が粟立つ。
明らかに階層の異なる、違う場所に引き込まれたという感覚があった。
寸秒遅れて《転送》のカウントダウンがゼロを示し、頭上、風原たちの気配が消える。
直感が正しかったことを悟る――このまま一緒に“引き込まれ”ていたら、恐らく《転送》は完全には機能しなかった。
「――佑!」
らしくもない、叫ぶような悠乃の声が耳を打つ。
しかしそれも、今や全方位を包む暗闇と落下の感触に遮られ、すぐに聞こえなくなる。
わあん。わああん。
反響する羽音に包まれながら、十数秒をかけて辿り着いたのは、正気を侵すような一面の黄色に囲まれた巣穴の中心。
そう、中心だ。
この識域は表層と深層に分かれている。
そしてその両方に、恐らくは集団をつかさどるための存在がいる。
――ぶううううう。
無数に開いた正六角の巣穴に、まだ処理の途中なのだろう遺体が幾つも詰められている。
現れたのは白濁した体色を持つ、針のない小柄な個体が一匹きり――けれど、安んじる気には欠片もなれない。
『空想規模の測定を完了。位格B3、“超越級”』
「――冗談きついな」
表層のあれより更に上――恐らくは女王と対を成す雄個体。
合流でもされた日には、流石の悠乃も勝つのは難しくなるはずだ。
俺がどれだけできるかなんて、考えるのも馬鹿らしい。
それでもやる以外に選択肢はなかった。
『原型記憶率、残り九十七%』
きりいっ!
生命線の消耗開始を伝える機械音声をかき消すように、俺の空想が黄色の空間を切り裂き、命をかけた抵抗戦の火蓋を切って落とした。




