4-3(-1).よく、たえた
ぶうーん。
ぶうううーん。
ぶうううーーーん……。
正気を蝕む激しい羽音が大気を震わす。
独特のどぎつさを帯びた空行く群れが、視界を間断なく侵し理性を削り取る。
一帯は、恐怖を呼び起こし、恐慌を煽りたてる信号に満ちていた。
それは本能に訴えかけるものだ。
であればこそ、それらが向けられている先――非現実下に孤立したビルの非常階段を下る風原たちの消耗は必然的なものだった。
三者とも著しく息が上がっている。
冷や汗と脂汗、生理的な涙に濡れたおもてはこわばり、持ち前の体力や柔軟性は機能不全を起こしている。
危険を冒してでも互いを助けようとする覚悟がまだ保っているだけでも、それは奇跡的なことといえる。
その三人に襲いかかるのは、警告黄色を総身にまとった理不尽の群れ。
ぶうん!
ビルの壁面にところどころ開いた、蜜にまみれた正六角形の風穴より、また一匹それが入り込んできた。
子供一人を優に上回る全長、腕一本であれば筋骨ごと食いちぎれそうな大顎、そして代名詞の鋸型針を尾に覗かせた――異様体躯の雀蜂。
ひときわ高く羽音を響かせた怪物の狙いを日向が知らせ、同時、水瀬がかろうじて身を翻す。
次の瞬間、
きゅういっ!
耳障りな高音と共に、弾丸のように加速した大蜂が水瀬の脇腹のすぐそばを通り抜けていった。
突き出された針の切っ先はショルダーバッグの土手っ腹を貫き、中身を宙にばらまく。
怖気をふるう突撃の勢いは減じることなく、バッグの残骸を踊り場の向こうの風穴へと連れ去る。
わあん。
突撃の慣性によって空中に放り出された残骸が、瞬時に群がった蜂たちの黄色に覆い尽くされ、見えなくなる。
わずかな隙間からは、粉々に噛み砕かれたと思しいバッグの内容物の破片が落ちていくばかり。
あまりの攻撃性に戦慄した風原の足が止まる。
日向が叫ぶような大声で叱咤し、手を引いて再び走り出す。
次々と侵入してくる蜂に追い立てられながら、なおも目指すのはB1フロア――現実であれば事務所所有のバンが停められているはずの駐車場へと、三人は辿り着く。
そして絶望した。
地獄絵図というべき光景がそこには広がっていた。
地下、光が差し込まぬはずのそこは、無機質な照明に混じって降り注ぐ橙黄色の自然光にべっとりと照らされていた。
見れば天井部には無数の大亀裂が走り、色濃い蜂蜜が絶え間なく垂れ落ち、コンクリートの地面をコーティングしはじめている。
それは本来、単体では無害な滋養でしかないものだ。他を侵略する肉色蜂の性質と、草花からの採集を経て生み出される蜜のありように、混交するところはない。
しかし《《これ》》は違った。接触した外なる物質を侵し汚染し食い破る、毒液の性質を併せ持っていた。
現実には考えられない異常な状況。
しかしそれさえ、フロアの至るところで起こりつつある出来事に比べれば生易しいものだった。
ぼとり、ぼとり。
どちゃっ。どちゃっ。
空間を塗り潰す蜜の滝、その流れに乗って、何かがフロアへと落ちてくる。
それは初め、衣服をまとっていない胸像のように見えた。
マネキンから首上と四肢のパーツを取り除いたような形状の、人型上半身の模造物。
だがすぐに、そうではないことに気付かされる。
次々と落着するそれらは、作り物と呼ぶにはあまりに生々しい艶を帯びているからだ。
それら胸像は全て女性型だった。
というより、首と四肢をもがれた人間の女性の上半身そのものだった。
加えて信じられないことに、どうやら生きていた。
なぜ“生きている”とわかるのか? 一目瞭然だ。
彼女たちは機能していた。
正六角型のひびに侵された、大きく膨れた胎の内で、進行形で生命を育んでいた。
何が肥育されているのかはすぐに確かめられた。
腹部表面のひび割れに前脚や顎を突き立て、肉を破り生まれ出ずるのは成虫の警告黄色。
生態、有り様、何もかもが悪夢のように狂っている。
風原、日向、水瀬は不意に、一帯を占領している怪物たちの考えを悟った。自分たちが何と認識されているのかを理解した。
餌でなくてもいいのだ。
逃げ回れるほど生きがいい娘なのであれば、違う使いみちがある。
強烈な吐き気にも似た恐怖が今度こそ三人を見舞った。
いまだ狂気に陥らずにいるのが信じられないほどの。
胎から這い出た、あるいは通用口から入り込んできた無数の蜂たちが、一斉に羽音を響かせ浮き上がる。
顎を開き、針をきしませ、今度こそ逃げ道を失った三人の少女を手にかけようとする。
……もしかしたら、そういう瞬間にこそ、人間はつちかった一番奥底のものを覗かせるのかもしれない。
諦めを強いる重圧に、最期としか思えない一刹那に、風原たちはお互いを守ろうとするように身を寄せ合った。
だからだろう。悠乃は言った。
「よく、たえた。わたしはあなたたちの在り方を尊敬する。こころから」
がぁんっ!
幻聴のような一言が響いたのと同時、攻撃を防ぐ手立てなどないはずの三人を不可視の盾が守った。
その想定外に警戒すべき別の気配を感じ取ったか、蜂たちは背後を振り返る。
が、遅い。あるいは、意味がない。
かちっ。――しゅうううっ!
無機質な推進火薬が大気を裂く、空恐ろしい飛翔音と共に、地階フロアにそれが飛び込んできた。
そして空間の中央、爆圧が最も効率よく万物を破壊せしめる地点で、内包した殺傷力を全放出した。
――かっっっっ!!
半密閉の空間であったフロア内に爆薬弾頭の炸裂炎が横溢し、異形の蜂の群れが焼け崩れた肉片群と化して吹き飛ぶ。
即死を免れた個体もいたが、精密な射撃を受け断末魔とて残さず絶命。
最後まで生き残った一匹も、突っ込んできた装甲二輪、すなわち悠乃と俺を乗せた怪物鉄騎の体当たりを受け、改造タイヤの染みになった。
爆風が全てを染め尽くしたことで、携帯端末を経由して三人に仕込まれていた空想の守り、不可視の盾が間接的にその姿を現す。
『一一式防御空想 《堅牢》の作動による被害無効化を確認。耐久値減少』
「無事か、風原、日向、水瀬!」
焼けた地面にブレーキ痕を刻み停止した二輪から降り、駆け寄る。
「ヨメ、くんと……悠乃ちゃん……?」
呆然とする風原たちの消耗具合を感覚とコギトの診断で二重確認。
物理的な怪我は負っていないことを確かめる。
まだしも一安心だ。
「対策があるからって、いくらなんでも攻めすぎだろ」
蜜が侵蝕していた天井が崩落し、エントランスの吹き抜けへと開けた光の下で、俺は悠乃に文句をいう。
対する当人は涼しい顔。
「《堅牢》の性能は携帯さいず防壁の中ではさいこうきゅう。えりーとのわたしだから手配できたきりふだ、このくらいは全然へいき」
「つってもな……!」
「めんたるけあは戦後にする。これ以上つらいめには遭わせない――わたしの、“願い”に賭けて」
そう言うと、黒衣姿の悠乃は俺の脇を抜け、三人の前に出る。
視線が悠乃に集まった瞬間にはもう、汎用空想 《 意識遮断 》の実行が完了している。
「コギト、対象者の隔離識域への《転送》処理を開始」
『了解。所要時間を概算で視覚領域に表示します』
視界の隅でカウントダウンが開始される。
約二分、すなわち百二十秒と少し。
「まる。佑」
「……わかった。時間まで、ここで風原たちのそばにいればいいんだな」
「そう」
虹の瞳が一つうなずき、銃器を手に取り、背を向ける。
銀の髪をこぼし、仰ぐ視線の先――橙黄の蜜壁からなる、広大なドーム状の“巣”の識域、閉鎖された空。
甘ったるい匂いが満ちる空間に羽音が再び満ち始めたのを、俺も感覚で捉えている。
数でいって、こちらは圧倒的に不利だ。
それでも事もなげに、悠乃は言った。
「もんだいない。制圧する」
その横顔はいつもの通りの無表情。
だが、万色を映す瞳の奥には、揺るがない戦意が――強靱な“願い”に裏打ちされた、鋼の意志と覚悟が姿を覗かせていた。
――どきゅっ!
一際高く空を鳴らした羽音に応じるように、黒衣が姿を消す。
そして戦いが始まった。




