1-1.走る
パルクールという言葉を知っているだろうか?
あるスタート地点からゴール地点までの間を、身体一つを使って最速で踏破することを目指す疾走行為の総称だ。
市街地を使った兵士たちの自主訓練が起源だそうで、競技化を経た今も実際の街中を経路にして走るのが一般的なスタイルとなっている。
この競技のいいところは、個人的には二つある。
一つは、動画を見たがる人がいる――収益化の余地があること。
もう一つは、動きやすい服と靴、それに若干の運動神経があれば、身体一つを元手に始められること。
俺のような、親なし、歳の離れた姉の稼ぎに育ててもらっているような貧乏高校生には願ったりの条件だ。
ただ、巡り合わせが良くないと面倒も起こる。
運の悪い人は注意が必要だ。
特に――ついていない時にはとことん不運に見舞われる、俺のような人間などは。
§
――かっ!
七月終わり、某日。
青空に散っていた雲の破片がゆるりと流れ、首都圏某区全体へ再び地獄のような陽光が注ぎ始めた午後。
俺、直衛佑はよんどころのないトラブルにより、強烈な日射しの下ぼんやり棒立ちを強いられるというプチ拷問を食らわされていた。
囲み立つ高層ビル、その鏡窓に乱反射しつつ降る光は、目を焼き地を熱し、薄手のオーバーサイズパーカー・ロングパンツ装備の俺の肌身をも容赦なく苛む。
キャップとフードのダブル防御で顔だけは守られているが、その分当然こもって暑い。
通行者の大半を占める勤め人の皆様の目はもれなく死んでいる。
好き好んで外に出、ちょっとした人だかりを作ってすらいる自分たちが申し訳なくなるくらいだ。
まあ、自分たちと言っても、集まっている連中の大半と俺は面識がないのだけれども。
手すり付き階段、植樹囲い、腰掛けサイズのオブジェ。
そういった立体物を囲むようにたむろするストリートファッションの面々は、一言でまとめるならば観客だ。縁もゆかりもない。
更に言うと、人の輪の中央、俺のそばで愉快げな笑みを浮かべているファッショングラスの男とも初対面。
あっちが一方的に俺を知っているというだけの間柄だ。
「オーディエンスも揃ったなァ。これで逃げられなくなったぜ、YuNao」
ファッショングラス男が手を広げ、俺の雑なアカウント名を呼びながら言った。
いや、出てきた瞬間から逃がす気ゼロだっただろあんた。
口には出さず、心の中だけでつっこみを入れる。
学校が夏休みに入って少し時間ができ、動画こと家計の足しを作ろうと新開拓のスポットに来てみたところ、取り巻きを連れて出てきたこの男に「勝負しろ」と迫られたのだ。
パルクールは「せーの」で走るレースというより、体操とか棒高跳びに近い、一人で挑むタイプの競技だ。
なので意味がいまいちわからなかった。
はかったように現れた理由が謎なことも含め、状況がよく掴めずにいる内に捕まった状態となり、今に至る。
「いやなァ、オレ達ンとこのお前のファンがよ、こないだ上がった最新のヤツ見て言ったんだわ。『この動画、ウチのシマで撮ったやつじゃないスか?』ってな」
グラス男は自然な動きで俺の後ろをうろつきつつ、上機嫌で解説を垂れる。
「待ってて正解だったぜ。あの覆面有名走者“YuNao”に勝負で勝てりゃあ、オレらのグループも大バズ間違いなしってなァ!」
ああ、それで……。
納得しつつ大人しくしていると、相手はおもむろにこちらの肩に腕を回し、顔を寄せて言葉を継いできた。
「幸い、ここは併走できるぐらいの経路幅があるスポットだ。条件は揃ってる。サイトでジャンルランクのトップに入ってるお前ともあろうモンが、挑まれてムリなんつったりはしねェよなァ――?」
「…………」
以上の男の台詞を、俺はやや適当気味に聞き流していた。
代わりに、男のやろうとしていることに意識を向けていた。
俺を捕まえていない方の腕が、音もなくゆるやかに動いていた。
こっちの視界の外側、死角になる位置をキープしながら。
やがて、甲を見せていたその手先がさりげなくひっくり返り、内側に隠すように握っていたものを露わにする。
合わせ、俺は片手を上げ、覆うようにして“それ”のレンズを遮った。
瞬間、下から覗き込むようなアングルを取り終えた男の端末カメラから、小気味よいシャッター音が響きわたった。
「うぉっ!?」
顔の盗撮に失敗した男が驚いて声を上げた。
撮影に踏み切った後だから、さすがにごまかしようもない。
「撮ったりするのは外野だけって約束だろ。あと、さすがに暑いからこれっきりにしてくれ」
男の拘束から逃れつつ、釘を刺す形で抗議。
相手は口先での謝罪も忘れて呆気に取られている。
「(コイツ、何でオレが端末構えてんのに気付いたんだ?)」
……とか、思っていそうだ。
対人競争は好きじゃないけど、詮索はされたくない。
それに時間も押している。今日はこの後、他の用事があるのだ。
「走ろう。俺に勝つ自信、あるんだろ」
少し煽り気味に返すと、案の定乗ってきた。
「……てめェ。ちょっと配信で目立ってっからって調子乗ってンじゃねーぞ」
乗ってないです。
口に出したら本気でキレられそうだから言わないけれど、嘘じゃない。
本当にそう思っている。
世間は広くて、色々なタイプの人間がいる。
更に言うと無慈悲で、「どうしてこんなのが」と思うようなやつが能力と幸運に恵まれていたりもする。
このファッショングラス男は“その類”だ。
骨格体格、筋肉量、至適。柔軟性や反射神経も申し分ない。
かなり恵まれた運動性能――加えて、些細な動きのひとつひとつにも技量が行き届いているのがわかる。
ここで取り巻きとチームをやってるのは遊びで、養成所かどこかで本職の手ほどきを受けてるんだろう。
そして、それを自分のものにできるだけの勘もある。
才覚を良質な環境で伸ばした洗練強者。
熱意も努力もろくに伴ってなさそうなのがかえって嫌味だ。
正攻法で勝てる走者はそうはいない。
……だから、遠慮はそこまでしない。
「吠え面かかせてやる」
男が競技者としての力量を全面に剥き出しながら、俺と共にスタート位置に立つ。
合図役の取り巻きが声を上げる。
「Get Set」
圧し潰すような気勢を放つ男の隣で、俺は一度深く息を整え、目を閉じた。
吠え面。
こいつにとっては、負かされた人間が感じる悔しさや苦痛はそのくらいのものにしか見えないんだろう。
試行錯誤を積み上げてやっと越えられた壁の向こうに、下衆な心胆で人を踏みつけて“遊ぶ”秀才が絶対的に立ち塞がっている。
……そんな事実を完敗と共に知らされる残酷さなんて、こいつには一生わからないんだろう。
「……好きじゃないんだ、そういうのは」
吐く息に混ぜて言い捨て、感覚に注意を預ける。
世界が色を失う。重量と熱、材質と慣性からなる馴染みの姿へと切り替わる。
そして。
「Go!!」
きゅうっ!
「――!?」
スニーカーが鳴き、疾走が始まり、男が息を呑んだ。
俺との間に生じた速度差に。
号令から正真ゼロ秒――ロスの余地など生じさせない完全無遅延スタート、急加速。
最初のコンマ数秒で半身以上のリードを掴み、俺は最初の踏破目標へと向かって駆け出していた。
追い付くだけの猶予を与えてやる気は欠片もなかった。
迫る障害――長すぎる待ち時間中に準備を終えていた腕と脚を使い、機動を刻みながら踏破する。
つてを動員して増やしたのだろう観客たちがどよめきの声を上げ、男が顔を歪めた。
でもそれらは、俺にとっては全部、“走る前”に置いてきた話だ。
感覚を研ぎ澄ませる。
片手でキャップとフードを押さえ、天地逆さまの宙転を跳び、身を捻る。
着地、衝撃吸収から疾駆再開までは一工程。
直線軌道を取る時に特有の最高速の感触を味わい続けながら、俺は経路を、指先で糸を引きたぐるようにして走破していった。