菊崎航佑(2)
次の日。ビクビクしながら祠の前を通ると、今度ははじめから、あの女の人が突っ立っていた。足音を立てないように、そっと、女の人の後ろを通る。と、なんの前触れもなく女の人は振り向いて、そしてにこりと笑った。
「きみは もう 高校生になったの?」
ばれた。半ば諦めの気持ちになりながら、祠に一礼して、答える。
「はい、そうです」
「敏夫さんは どうしたの?」
「敏夫さん? ……じいちゃんなら、もう死にました」
一拍おいて、悲しげに目を伏せる女の人を、やっぱり綺麗だと思った。ロングのふわふわした茶髪に、大きな瞳。華奢な手足。人形みたいに精巧な身体をしていた。
「そっか。なくなっちゃうんだなぁ」
一言残してまた消えた女の人を、名残惜しいと思ってしまうなんて、そんなことあるわけないはずだ、よな。
ーーーーー
「うわ、お前、どしたん?」
美術の授業があった日の放課後、絵の具セットを忘れてきたことに気づいて美術室に取りに戻ったら、相原が美術室の前で、扉に背中を預けて座り込んでいた。
「え、何。何かあった? 調子悪い?」
相原はうつむいていて、表情が見えない。どうしたらいいか分からなくなってとりあえず相原の前でしゃがむ。
「……何でもないよ。ありがと」
相原は、うつむいたまま答えた。
「菊崎はどうしてここに?」
「俺? 絵の具セット忘れちゃって、取りに来たとこ」
「絵の具セット? 美術室の中に?」
「そ」
そう言いながら美術室のドアに手を伸ばすと、相原が俺の手をがっ、と掴んだ。
「いっ」
「ごめん、でも、開けちゃだめ」
いつもより目を鋭くして、掴んだ手の力を緩めない相原。俺は降参のポーズをした。
「はいはい、別に今取らないと駄目だって訳じゃないし。それより相原も帰らないと。もうすぐ下校時刻じゃん」
と、言い終わると同時にチャイムが鳴り始める。
「ほら、早く!」
俺は、相原に捕まれていた手を今度は逆に引っ張ったが、相原は縫い付けられたように動かない。もやしのどこからそんな力が出ているのだろうか。
「相原は、さ」
ぽつり、と相原が言葉を落とす。
「もし、助けたい人がいてさ、でもその人は家族でもなんでもなくて。助けたかったけど、その人が笑って、逃げろって言ったらどうする?」
相原は、まるで迷子のようだった。
「心理テストかよ」
相原は血の気が引いた顔をして、縋るような目でこちらを見ている。俺はその空気感に耐えられなくなって、茶化しながら必死に言葉を探す。友達に届く言葉。不思議な相原を、元気づけられるような言葉。
「うーん、俺は。あくまで俺は、の話だけど」
相原の表情を確認しながら、慎重に言葉を選ぶ。
「俺は、『逃げろ』って言われたら素直に逃げるかな。俺がもし助ける側じゃなくて、助けられる側だったら、って考えるとそうなる」
「助けられる側だったら……」
相原が復唱する。
「そ。助けられる側だったら。俺が生きたかったら『助けて』って言うし、死にたかったら『ほっとけ』って言うと思う」
相原が小さく頷いた。
「でも、『逃げろ』って言ったんだろ? もし俺が『逃げろ』って言うとしたら、それは相手に生きてほしいときだと思う。助けに来てくれたやつが、ミイラ取りがミイラになるみたいに俺と一緒に傷つきそうで、でもそいつを傷つけたくないとき。そう言うかな」
それから俺は、できるだけ元気に見えるように笑った。
「だから、俺は素直に逃げる。自分が助かることが相手の願いだと信じてる。で、相原。下校時刻だから帰るぞ」
俺は相原の手を引いた。ぽかんとした顔で、今度はするりと立ち上がった相原は、そのまま駆け出した俺に引っ張られて廊下を走り出す。
少し走ったところで相原は後ろを気にする素振りを見せたが、下駄箱につく頃にはいつものように、いやいつもより強張ってはいたが、薄く笑って見せた。
ーーーーー
今日も今日とて女の人は、祠の前に立っていた。月の光に照らされて、美しさに磨きがかかっている。
「もうすぐ なくなっちゃうなぁ」
女の人は大抵いつも、なくなっちゃうなぁ、なくなっちゃうなぁと繰り返す。
聞き返したら、もう戻れないと直感的に思った。
でも、寂しそうに視線を落とす彼女を見て。ぎゅっと結ばれた唇や、震えるまつ毛を見て。どうしても力になりたいと、願ってしまった。
「何がですか」
女の人は、すっと視線を上げて僕を瞳の中に映した。そして、嬉しそうに微笑んで祠を指さした。
「この ほこら。ほら ぼろぼろで」
「……僕で良ければ、直しましょうか?」
「いいの?」
花が咲いたように、と言えばいいのだろうか。すごく綺麗に笑ってくれた。
ーーーーー
「あーいっはら」
昼休み、いつものように相原の教室に行って後ろから肩を叩いたら、相原は大げさなくらい体をびくりと揺らした。
「なんっ……。なんだ、菊崎か」
「何だって何だよー、せっかく来たのに」
むっ、と頬を膨らませてみせれば、悪い悪いと相原は笑う。美術室の前に座り込んでいたあの日から、しばらくは暗い雰囲気を漂わせていた相原だったが、今は整理がついたのか笑顔が強張らなくなってきた。
しばらくどうでもいいような話をしていると、相原の視線が定期的に教室の後ろの掃除用具入れに注がれていることに気がついた。
「何? 掃除用具入れになんかあるの?」
「いや、別に何も」
「じゃあ弁当食べようぜ。俺腹減ったんだけど」
「うん」
相原は生返事をしながら弁当の包みを解き始めた。ちらちらと視線を、掃除用具入れに送る。
そのまま昼休みが終わって、部活も終わって帰る頃に、相原のクラスの掃除用具入れからものが全部消えていたらしい、という噂を聞いた。
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「多少は、きれいになったと思います」
祠の周りの苔をとり、傷ついた部分はボンドで修復していく。素人のDIYのようなものだが、なんとかなった気がする。でも、綺麗にすればするほど、石が脆くなっていることや、どんなに俺が頑張っても、もうちょっとの衝撃で崩れてしまうということが分かった。
「ありがとう。でも まだ ぼろぼろ」
「そうですね」
女の人はいつも通り、綺麗で儚い雰囲気を醸し出している。青白い細い手に、寒そうだな、触れてみたいな、なんて思ってしまって、いやいやいや、何を考えているんだと全力でストップをかける自分がいる。
「そう。もう なくなっちゃうなぁ」
「何か、他にも直したいところがあったら言ってください。力を貸します」
女の人の動作が、言葉が、頭から離れない。
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「道祖神?」
いつものように相原の教室にお邪魔すると、相原の机の上に本が広げられていた。学校の図書館にあるには、少し古ぼけた本。開いてあるページには、『道祖神』と書かれていた。
道祖神。集落の境や村の中心、村内と村外の境界などに主に石碑や石像の形態で祀られる神。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。
「子どもと親しい神でもあり、供え物を糧として守るタイプもある。力がなくなりそうなときは、視た者が助けたくなるような見た目で現れることもある、ねぇ」
この前綺麗にした祠の中央に刻まれていた文字は、なんだったっけ。
「……くざき、菊崎、菊崎!」
肩を叩かれて、はっ、と息を呑む。後ろを振り返ると相原が立っていた。相原はさり気なく本を閉じて机にしまい、代わりに弁当を取り出す。
「お前、最近どうした?」
相原がおちゃらけたように、でも心配そうに俺に問いかけた。
「なんだよ、特に何もないけど。テスト近いから寝不足なのはある。」
笑って、俺も弁当を取り出した。いただきます、と二人で手を合わせて、弁当の白米をかきこむ。あれ、米って、いつもこんな量多かったっけ。
「テスト、お前いつも一夜漬けで乗り切ってなかったっけ」
「今回からは真面目に取り組むことにしたんですぅ。そういう相原はどうなん? テスト」
「菊崎よりはいい点取れる自信はある」
「お前~」
そう言って笑い合うが、相原の目はまだ心配の色をしている。
「ちなみに菊崎は、学校にチェーンネックレスとかつけてこない派だよな?」
「なんだそのパンクなセンス。見れば分かるだろ、つけてねーよ。最近肩こりもひどいし、部活もあるし、つけるとしても軽めの物だろ」
だよな、と言って、相原はすっと目を細めた。
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部活中は晴れていたのに、制服に着替え終わったらバケツをひっくり返したような雨が降っていた。同期がやばっ、と走って行くのを横目に、ビニール傘をばんっと広げていつもの道を帰る。今日も、女の人はいた。雨が降っているのに、傘を差さないで。濡れないで。
今日も、俺は祠に向かって一礼する。いつも話しかけてくれる女の人は、今日は静かにこちらを見ているだけだ。俺、そんなに調子悪そうに見えるかな。なんか怠いし、雨強いし、もう今日は帰ったほうがいいかも。そう思って祠に背を向けて歩き出そうとすると、首元からじゃらっ、と音がした。
「ん?」
なんの気なしに首元を確認すると、太い鎖がぐるぐると巻き付いていた。
「え?」
鎖は俺の首を起点として、何処かへと伸びている。
恐る恐る顔を上げて、
ひゅ、と息が詰まった。
女の人が、鎖の端を握って、美しく笑っていた。
「力を貸すって 言ってくれたよね」
次の瞬間、ものすごい力で女の人の方へ引っ張られた。ぎりぎりと首が絞まって、苦しい、痛い。
「嬉しいなぁ。ちょうど 捧げる分のいのちが足りなかったの」
いつもとは違う、ねっとりと絡みつくような声が、雨音と共に脳に反響する。
「いつも 礼を尽くしてくれたから 君は守ってあげようって 思っていたけれど。いいよね。私が続く方が 優先だよね。人なんて すぐ死んじゃうもの。すぐ 次が出てくるよね」
生理的な涙がぽろぽろと頬を滑るのを感じて、目の前が真っ黒に染まっていく。
「ありがとう。これで 私は続いていけるーー」
ああ、でも、あなたが助かるなら、俺は。
「やめろ!」
声と同時に、身体を支えるものがなくなって、俺は地面にぐしゃ、と崩れ落ちた。泥水が顔に当たって気持ち悪い。息ができるようになって、でも息が足りなくて、やっぱり目の前が真っ暗になっていく。
「……菊崎は、俺の友達なんだ」
最後に見たのは、髪を振り乱したあの人と、傘を放りだしてびしょ濡れになりながら、彼女を睨む相原だった。
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気がつくと、学校の近くのバス停のベンチに寝かされていた。いつの間にか雨が上がって、星が夜空で瞬いていた。少し顔を起こすと、「起きた?」と頭上で声がした。びしょびしょの泥だらけでベンチで寝ている俺と、泥だらけな上に傷だらけで座っている相原を、通行人はぎょっとした目で見ながら通り過ぎていく。
「なぁ、あいは」
「お前は、勉強のしすぎだった」
俺の言葉を遮るように、相原はきっぱりと言った。
「寝不足だったお前は、何をとち狂ったのか、雨の中でサッカーをしようと思いついた。それに乗ってしまった俺は、お前と楽しくサッカーをしたが、二人そろってぬかるみで滑って、俺は擦り傷を作って、お前はゴールポストに頭を打って記憶が混乱している。そうだろ?」
相原は、色素の薄い瞳で俺をじっと見た。そして、俺の首筋にそっと触れる。鋭い痛みが走って、でも震えている相原の手は、俺を傷つけるためではなく、労るためのものだと感じて。それで、決心がついた。
「ああ、そうだな。勉強のしすぎは良くないな。何が起こったかすっかり忘れちまった」
そして、俺は今持ちうる全力を使って笑った。
「ありがとな、相原。助けてくれて。ちなみに、俺はお前のこと、ずっと前から友達だと思ってたから」
相原は、びっくりしたように目をぱちくりさせて、そして、心の底から安心したように、ふにゃりと笑った。
「おう」