岡倉菜々(2)
「菜々の絵は綺麗だね」
寧々が喋って動いているのを見て、これは夢だな、と思う。寧々はいつも私の絵を褒めてくれた。色んな色があって見てて飽きないとか、菜々は絶対世界に名を轟かせる芸術家になるよ、とか。「繊細な色使いがいいね! 海が生き生きしてるのが伝わって、こっちまで元気になってくる!」そう、こんな感じで。
私の前にスケッチブックがあって、鉛筆で海の絵が下書きされている。色はついていないのに、特に絵の色彩に関して褒める寧々。そのうちそれが助けて、助けてという声に変わって、周りが一面真っ黒な海に沈んだ。
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「おはよー、菜々。もうすぐ昼休み終わっちゃうよ」
目を開けると、夕子が肩を揺すって起こしてくれていた。あ、お弁当。私は目をこすりながら、お弁当箱を取り出す。私が食べられないのを承知の上で、お母さんが毎日作ってくれるお弁当。申し訳なくて、必ずお昼に蓋だけは開くようにしていた。
夕子はあれ、と首を傾げる。
「菜々、さっき向こうの階段でお弁当食べてなかった? 結構もぐもぐしてたから、てっきりご飯食べられるようになったのかと思ったんだけど」
「え、私ずっとここで寝てたけど」
夕子は更に首を傾げる。ツインテールが床と垂直になりそうだ。
「えー、絶対菜々だと思ったのに。これじゃまるでドッペル」
そこまで言って、夕子は自分で自分の口をふさいだ。
「ごめん、見間違った! たぶん!」
言い残して、たたたっと自分の席へ向かう夕子。ほぼ同時にチャイムの音がして、先生が教室に入ってきた。私はお弁当箱をしまって、教科書を取り出した。
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それから、何度もそんなことが起きた。
「あれ、岡倉さっきグラウンドにいなかった?」
「トイレで佇んでて調子悪いのかと思った」
「菜々! 良かった、更衣室に入ってくのを見かけて、次の体育間に合わないかと思ってた!」
そして、運悪く引っかかった補習を受けた後に向かった美術室で、相原も「あれ、さっき帰るって言ってたのに気が変わったの?」と言った。
私はいつもの席に座る。目の前には、スケッチブックではなくてキャンバスとキャンバス台が置かれている。乾かされているのは、海の油絵。色の数は少なく、荒れ狂う夜の海が豪快なタッチで描かれている。まだ油絵にしては重厚感がないけれど、色を重ねていけばいい作品になりそうだ。
そこで、やっと私は『私の格好をした私ではないもの』、つまりドッペルゲンガーがいることに気づいた。
「ドッペルゲンガーかぁ」
「ん? ドッペルゲンガー?」
思わず呟くと、相原が聞き返す。
「知らない? ドッペルゲンガー。自分とそっくりな人が同時刻に別の場所に現れるやつ。本人とドッペルゲンガーが出会ったら、乗っ取られるとか、死ぬとか」
思いのほかすらすらと口から出てくる説明に驚いた。寧々と合わせてよくドッペルゲンガーみたい、とからかわれたから、調べて覚えてしまった説明。そういえば、寧々と一緒に学校に行ってたときもこんな感じだったっけ。
「いや、ドッペルゲンガーは知ってるけど。岡倉さんにドッペルゲンガーがいるの?」
「ん、たぶん。久しぶりだなこの感じ。忘れてたわ」
今までずっと笑えなかったのに、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「笑ってないで対策考えないと。結構危険だよ、ドッペルゲンガー」
困惑した表情の相原を見て、さらに笑えてくる。
「相原、あんた意外と心霊とか信じるたちなんだね。いいんだよ、死のうが乗っ取られようが。絵の描けない私になんて価値はない」
「そんな」
「そんなことないって? それは私が決めることだよ」
相原が、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「でも、命がかかってるんだ、見過ごすわけにはいかないよ」
薄茶色の目が、正義の色を帯びてこちらを見ている。まるでこの世の中の人をみんな理解できますよ、みたいなお綺麗な顔。
「どうして? 余計なお世話」
相原の目が驚愕に歪むのを見て、胸がすっとした。
「助けないといけないなんて誰が決めたの? あんたじゃないでしょ。このいい子ちゃんが」
きっとこんなこと言われるの、初めてなんだろうな。相原が視線をさまよわせる。
「少なくとも私は、今の私より、ドッペルゲンガーのほうがずっといいと思ってる」
ドッペルゲンガーでも上手い絵が描ければそれでいい。そう言い捨てて、私は美術室を出ていった。
相原は追ってこなかった。
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次の日、ドッペルゲンガーは更に活躍していたらしい。
「あれ、岡倉さっきまでそこにいたのに」
「菜々ちゃん足速いね」
「岡倉の提出物なら、さっき岡倉に渡したはずだが」
だんだん本体の私との距離が近づいてきている気がする。いい傾向だ。
そして今日も私は、いつも通りにスケッチブックと水彩用画材たちを用意して、ゲームをしていた。人気のない美術室に、マリオのBGMが流れる。
ガチャ、と扉の開く音がした。視線を向けると、相原が出口のところに突っ立っていた。強張った表情。嫌なら関わらなければいいのに。
「あの! 僕、気になっちゃって来たんだけど!」
相原が勇気を振り絞りました、という声色で言った。無視してゲームをやり続ける。
「昨日言ってた、絵の描けない岡倉さんには価値がないって話なんだけどね」
ゲームの音量を上げる。
相原が一歩、ちょっと考えて二、三歩美術室の中に入ったことが、足音で分かった。
「やっぱりそんなことないと思ったんだ。ごめんなんだけど、昨日曽谷さんから教えてもらった。妹さんのこと」
夕子、バラしたな。
「すっごい素敵な妹さんだと思った! 特にーー」
「あんたに何が分かる!」
思わず叫んでしまって、やっちまったなと思った。感情的になりすぎだけど、分かってるけど収まらない。
もうこの際言いたいこと全部言ってやれと相原に向き直ると、相原がなぜかにやりと笑っていた。
「うん、僕には何も分からない。でも岡倉さんなら、岡倉菜々さんなら分かるはずだよ。絵の描けなくなった菜々さんに、寧々さんがなんて言うか」
私に、寧々が、なんて言うか? そんなの決まってる、許せないとか、死んでほしいとか、だったら私が代わりに生きたかったとかーー。
「ちがう」
ぽつりと、口から出た言葉に自分で驚いた。
「違う、寧々ならそうじゃなくて、『絵が描けなくても、菜々は私のお姉ちゃんだよ』って笑う」
だって私だったら、泳げなくても寧々は私の妹だよって、胸を張って、言うから。
いつも瞼の裏にいた寧々が、ふっと笑った。
そうだ、あの時寧々は私に、『生きて』って言ったんだ。
相原は「なんだ、分かってるじゃん」と小さく笑みを浮かべた。
と同時に、その笑みを強張らせた。
ガチャリ、とドアが空いた。その瞬間から、たぶん相原も、動けなくなった。まるで頭と体が分離してしまったように。重しを指一本、細胞一つまで丹念に乗せられたように。
なんとか眼球だけは動いて、ドアに向ける。相原の斜め後ろ、ドアノブを握って、私のような何かがいた。
私と鏡写しのようにそっくりで、でも寧々とは違う。暗い雰囲気は私に似てるけど、私でもない。だって私はここにいるから。
私じゃない何かは、こちらを見てにたりと笑った。そして、優雅にドアを閉めたあと、ゆっくりこちらに向かって歩いてくる。上履きの音を響かせて。鼻歌を歌わんばかりの軽やかさで。
そして相原の前を通り過ぎて、私の胸に手を当てる。同時に私に、私ではないものが入り込んできて、思わず顔を歪めた。
「やめろ!」
大きな声がして何かと思ったら、相原だった。なんか必死で体を動かそうとしてるのが伝わる。
昨日あんなに酷いこと言ったのにね、それでも助けようとしてくれるんだ。
私じゃないものが、ドッペルゲンガーが私の胸から私の中に入ってくるのを感じる。ずぶずぶと、手が、胴が、足が、私に入り込んでくる。
「だから、やめろって言ってるだろ!」
なんとなく、もう助からないって分かった。相原だけが奮闘していた。いい子ちゃんって言って悪かったかな。あなたはほんとに優しいね。
最後、頭だけを残して全部私の中に入ったドッペルゲンガーが、頭だけ回して私を正面から見た。そして、私を見てにたにたと笑った。
急に怒りが芽生えた。
「ふざけんな」
小さく零す。相原がえ? という顔でこちらを見た。
「ふざけんな! 寧々と私の顔でそんなニタニタ笑うな気持ち悪い! 寧々が生かそうとしたのはこの私! あんたじゃないの!」
できるだけ威勢よく言えば、ドッペルゲンガーはスンと表情を無くして私の中に顔も埋めた。意識が海に呑み込まれるように、遠くなっていく。
「岡倉さん!」
叫ぶ相原。まぶたが落ちかけて、殆ど見えない。寧々もこんな気持ちだったのかな、なんて思いながら、最後の言葉を探す。
「いい子ちゃんって言って悪かったね。関わらないって選択肢もあったのに、あんたは酷いこと言った私まで助けようとした。それはあんたの意思だった」
そして、今、私ができる全力で笑った。
「逃げろ」
相原は何かに突き飛ばされたように、美術室のドアに向かって吹っ飛んで、ドアが勝手に開いて相原を外に出し、閉じた。
ドッペルゲンガーは、真似した人間のできるだけ多くの長所を奪い取ろうとするらしい。
じゃあ、少しでもなにか守りきってやる。
私の、寧々の生かした私の人生を、そう簡単に奪えると思うなよ。
そして私の意識は、完全に沈んだ。
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「全国高校生絵画コンテスト、油絵部門、最優秀賞。二年三組、岡倉奈々」
全校集会。表彰台の前に立つ菜々に賞状が手渡され、生徒たちから拍手が起こる。
菜々は賞状を片手に持ちかえ、壇上の先生に促されて持っていた額縁を生徒たちの方へ向けた。
荒々しい夜の海を描いた油絵。白と黒しか使われていないが、迫力があり、引きずりこまれそうな絵である。
生徒たちが絵を見てにわかにざわめく中、岡倉菜々は前を向いて、無表情のまま立っていた。