上野まひろ(1)
この世の中には、視える人と視えない人がいるらしい。
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今年も、夏休みがやってきた!
「ごめんください」
母ちゃんが、古びたガラス戸をがらがらと開ける。待ちきれずに、俺は少し空いた隙間をすり抜けて玄関に入り、靴をおざなりに揃えて居間へと駆け込んだ。
「相原の兄ちゃん! いる?!」
居間には、すでに何人か親戚の大人たちがいて、こっちを一斉に振り向く。と、奥の方でひらひらと手を振る、薄茶色の髪の兄ちゃんが目に入った。
俺はだだだっ、と駆けていって相原の兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
「ひっさしっぶりっ! 元気だった?」
「げんき、げんき。まひろは?」
「俺も! 元気!」
学ランを着てふわふわ笑う兄ちゃんは、背が高くてひょろっとしてる割には力が強い。俺が全力で抱きついても、しっかりした安定感で迎えてくれる。
「俺さ! 俺さ! やりたいこといっぱいあんの! ねぇ今夜――」
「こら! まひろ!」
首根っこを捕まれて、思わず顔をしかめる。母ちゃんがまるで猫の子を扱うように、俺を兄ちゃんから引き剥がした。
「相原の子とは付き合っちゃ駄目って言ったでしょ! ほら、部屋に行くわよ!」
そう言って、相原の兄ちゃんを見もせずに俺を廊下へ引きずっていく。
わざとらしく唇をとがらせながら引きずられていく俺に、兄ちゃんは困ったように笑って、ひらひらと手を振った。
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上野の家では、毎年お盆に親戚の集まりがある。
集まって何するかというと、別に特別なことはしないらしい。三日間くらい、本家のおうちに泊まって、お昼ご飯と夜ご飯を一緒に食べて、今年は誰が死んだとか、どこの子が生まれたとか、誰が結婚したとか、転職したとか、そういうことをひたすら話しているらしい。
大人たちはお昼から夜にかけてずぅっと居間にいるけれど、まだ幼稚園だったとき、俺は耐えられなくなって、一人でこそっと居間を抜けて、おうちを探検していた。長い廊下を抜けて、キッチンや便所の横を通り過ぎてずんずん進んでいくと、奥まったところにある部屋にかすかに人の気配がした。
俺はごくり、と唾を飲み込んで、そぉっと扉を開けた。ほこり臭くて思わずごほごほと咳をした。中は薄暗くて、いたるところに本があった。壁にはびっしり本が詰まった本棚がすきまなく並べられていて、床にも本が積み上がっていて至る所に本タワーが建てられていた。奥の方で、ほうきとちりとりをもった誰かが動いているのが見えて、俺はちょっと怖くなった。
「だぁれ?」
まだ幼稚園だったから、舌っ足らずだったと思う。すると、奥から薄茶色の髪の、ほそっこい兄ちゃんがほうきとちりとりを持ったまま出てきた。
「あれ、君、誰? どこかのお子さんかな? あ、和田さんとこのお子さん?」
その時は、母ちゃんの昔の名字が和田だってことを知らなかったから、俺は多分、ぽかーんとしてたと思う。そんな俺を見て兄ちゃんは笑った。
「僕は、相原聡太っていいます。あいはらそうた。よろしくね」
色素の薄い茶色い目を三日月のように細めてふわふわ笑う兄ちゃんを見て、あ、この人は大丈夫だ、ってそのときの俺は、ちょっと安心した。
それから、相原の兄ちゃんは掃除を切り上げて俺と一緒に遊んでくれた。手遊びしたり、戦隊ヒーローごっこしたり、部屋の中だけのかくれんぼをしたり。かくれんぼ中、高いところに登って降りられなくなった俺を兄ちゃんは笑いながら助けてくれた。俺が掃除はいいのか聞いたら、どうせ居間に来させないための用事だよ、って言ってにこにこ笑っていた。
結局、居間から俺がいなくなったのに気づいた親戚の人が俺を探して、俺を回収していった。母ちゃんから、もう兄ちゃんと遊ぶなとこっぴどく叱られた。そういえば、このときは聡太兄ちゃんって呼んでたような。母ちゃんに『相原のお兄さん』って呼びなさい、って言われて渋々変えたんだった。その夜、寝るときに居間の前を通ったら、親戚の人のうち、ちょっと偉そうなおばさんに兄ちゃんが怒鳴られてるのを見て、ちょっともやもやした。
でも次の日からなぜか兄ちゃんは居間にいて、俺と遊んでくれるようになった。居間の隅っこで、トランプしたり、ゲームしたり、しりとりしたり。母ちゃんは親戚の人たちのビールやご飯、お酒の減り具合をすごく気にしていて、ちょっとでも足りなくなるとすぐおかわりを盛ったり、台所まで取りに行ったりした。
で、たまに親戚の人たちが俺と相原の兄ちゃんをみてくすくす笑うと、俺を見て「こら、まひろ! 離れなさい!」って怒った。でも俺は嫌だったから、そのまま相原の兄ちゃんとゲームしてた。その後すぐに親戚の人たちが、母ちゃんに酒がなくなったとか、飯はまだかとか言って、母ちゃんはお酒やご飯を用意し始める。その繰り返し。
小学校に上がっても毎年続いた。毎年本家のおうちに行く前に、母ちゃんには相原の兄ちゃんに会うなってものっすごい言われるけど、毎年無視して相原の兄ちゃんと遊んでた。俺の行動できる範囲が広がってから、兄ちゃんは本家のおうちの外に連れ出してくれるようにもなった。川で水遊びしたり、畑でかくれんぼしたり、夏祭りで屋台を回ったり。相原の兄ちゃんは、おうちではいつも困ったように笑ってるけど、外に出たら本当に楽しそうに笑うから、俺も楽しくなってくる。毎年きらきらした思い出が積み重なる。
前に母ちゃんに、どうして相原の兄ちゃんと遊んじゃ駄目なのか聞いてみたことがある。母ちゃんは少し考えた後、少し低い声で「あの子、変な物が見えてるらしいから」って言った。「変な物? おばけとか?」って聞いたら、母ちゃんは頷いた。「だから会っちゃ駄目、話しちゃ駄目、遊んじゃ駄目。いいね?」母ちゃんは真面目な顔で俺に迫ったけど、俺は頑として頷かなかった。
だって、考えてもみてよ。ふわふわ笑いながら、俺みたいな小学生の面倒を見てくれる兄ちゃん。お小遣い少ないんだよなって言いながら、屋台で自分の食べたいりんご飴を我慢して俺の食べたい焼きそば買ってくれた兄ちゃん。初見のゲームを俺にボコボコにされながらも一緒にやってくれた兄ちゃん。
比べて、いつも親戚の人たちの顔色をうかがう母ちゃん。家では勉強しなさい、お行儀良くしなさいって煩いし、本家のおうちではその三倍くらい煩い母ちゃん。いつも目がつり上がって、余裕がなさそうな表情の母ちゃん。兄ちゃんに変な物が見えるっていうマイナス要素があったとしても、大抵の人は兄ちゃんを選ぶと思う。
父ちゃんが亡くなる前は、母ちゃんももうちょっと穏やかな顔をしていたはずなのにな。
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今年も相原の兄ちゃんと遊ぼうと思って、買ってもらったゲームを持ってきていた。兄ちゃんはゲーム持ってないから、マリオとか、交代で遊んでも楽しいやつ。母ちゃんが俺を引きずるようにして引っ張って、俺と母ちゃんが泊まるのに用意された部屋に入って、ぴしゃんとふすまを閉めた。
「まひろ、何回も言ってるでしょ。相原の子とは遊んじゃ駄目だって」
母ちゃんは、目をきっとさせて怒る。
「わーかってるって、うるさいな。母ちゃんも台所でお支度するんでしょ、行ってきなよ。俺ここでゲームしてるからさ」
俺はゲーム機を持って、ここにいてゲームしますよ、というアピールをした。
母ちゃんは疑わしそうな目つきで俺を見ていたが、割とすぐに部屋から出て行った。俺はおとなしく五分くらいその場でゲームして、それからそぉっと立ち上がって、ふすまをそろそろ開けた。
兄ちゃん居間にいるかな。でも居間でゲームすると母ちゃんにばれそうだな。そう思いながら後ろ手でふすまを閉めた瞬間、「まひろ」と俺を呼ぶ声が聞こえた。
「わ」
「まひろ、部屋に戻りなさい」
母ちゃんが、廊下の先の方で無表情にこちらを見ていた。
今まで、母ちゃんがこんなに俺のことを阻止してきたことあったっけ。ちょっと怖くなったけど、「トイレだよ、トイレ」って言って、居間の方に向かおうとした。
「そっちはお手洗いじゃないでしょ」
今度はすぐ近くで母ちゃんの声がして、びくっとなる。母ちゃんは、静かに俺の手を指さして続けた。
「それに、ゲーム機持ってお手洗い行く気?」
今度こそばれたか。いや、最初っからばれてたけど、もう誤魔化しきれなそう。背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、俺は開き直ることにした。
「えー、いつも母ちゃん、俺と相原の兄ちゃんが遊ぶのそんな本気で止めないじゃん。今年だけどうしたの? ね、ちょっとだけ。ちょっとだけだからいいでしょ?」
母ちゃんはちょっと詰まった。そして急に、俺の肩をがっ、と掴んだ。
「……毎年駄目って言ってるでしょ。今まではまひろも小さかったから、我慢できなくてもしょうがないって思ってただけ。でも、もうまひろ、お兄ちゃんでしょ? 我慢できるよね」
母ちゃんが真っ黒な目で俺を見る。
「え、……でも、だって」
「でもじゃない!」
ばしん、と左頬に衝撃が走った。
「え」
遅れて、じわりと痛みが広がる。え、俺、今、叩かれた?
「あ、……そんな」
母ちゃんの声が聞こえてそちらを向けば、母ちゃんも、自分がやったことが信じられないみたいに、自分の手を自分で握って突っ立っていた。
沈黙が続く。
今まで、叩かれたことなかったのに。相原の兄ちゃんと遊ぶの、めっちゃ楽しみにしてたのに。ほっぺ痛い。
先に均衡を崩したのは俺だった。勝手に涙がぽろぽろこぼれ始めて、かっこ悪いから止めようと思ったけどなんか無理だった。
母ちゃんははっとした顔で俺に駆け寄って、俺のほっぺたに手を当てようとして、止まった。そして俺をもう一度部屋に戻して、また出ていった。
しゃっ、しゃっ、しゃっ、しゃっ、と居間へ向かうスリッパの音を聞きながら、俺はなぜだか涙をぽろぽろ流していた。別に、今まで叩かれたことなかったから、びっくりしただけだし。母ちゃんに叩かれて悲しいとか思ってないし。俺強いから、ほっぺた痛いとか思わないし。でもなぜか、さっきまであんなに相原の兄ちゃんと遊びたいと思ってたのに、急に気持ちがしぼんでしまった。もう涙は止まらないからほっといて、手元のゲーム機をがちゃがちゃいじる。電源入ってないから、画面黒いままだけど。ひたすら、がちゃがちゃ、がちゃがちゃ。
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どのくらいそうしていたか分からないけど、涙がちょっとずつ乾いて顔ががびがびになってきた頃、不意にふすまの外から声が聞こえた。
「まひろくん」
「まひろくん、あそぼ」
子供の声だった。めずらしいな、と思う。上野の家には上野の親戚が集まるけど、大抵大人の人だけで、子供は五、六歳くらいに一回集まったらそれで呼ばれなくなる。俺は、なんか別だけど。でも声の主は、俺と同じくらいの年のように聞こえた。
「あーそぼ、お外でかくれんぼしよ」
「鬼はやってあげるからさ、まひろくん今から隠れてね」
「じゃあ、よーい、はじめっ」
きゃー、と数人が歓声を上げるのが聞こえた。かくれんぼなんて子供っぽいな、と思ったけれど、巻き込まれちゃったらしょうがない。暇だったし。うん、悲しくないし! 暇だったし! 俺はふすまを開けて、「いいよっ」って言って、廊下の端っこ、庭へ出られるようになってるところに置いてあった大人用のサンダルをつっかけて、庭へと飛び出した。
かくれんぼは思ったより楽しかった。本家のおうちの庭は雑木林みたいで結構広くて、駆け回ってもなかなか端っこが見えなかった。それに大きな木の裏だったり、崩れかけた小屋の中だったり、隠れるところもいっぱいあって白熱した。俺は大きな木に登って、いい感じに葉が茂っているところに隠れて、ずっと息を殺してた。かくれんぼは上に隠れるのがいい。何故か皆、下めのところを探してしまうし、上にいれば全体の様子を把握して、危険なときに逃げることもできる。
最初に一番背が高い子が鬼になって、俺の隠れ場所の近くの、錆びたドラム缶の後ろに隠れていた小さな子を見つけた。「みーつけたっ! おに交代! 三十秒!」背の高い子はそう言って、たったか駆け出す。小さな子はその場でしゃがんで目をつぶって、「いーち、にー、さーん」と素直に数えだした。
俺はずっと木の上から動かなかったけれど、他の子たちは入れ替わり立ち替わり鬼になったり、隠れたりしていた。小さな子が鬼になったときは、大きな子がわざと腕を出したり、足を出したりして見つけやすいようにしてあげている。三十秒数えるのも、素直に三十秒数える子もいれば、「いーち、じゅーう、さんじゅう! はいみつけた!」とずるするような子もいて、見ていて楽しかった。
日が暮れだした頃に、一番背が高い子がわざと見つかって、「はーい、今日はもう遅いからかいさーん。また明日!」と叫んだ。皆、隠れているところから「また明日!」「また明日ねー!」と口々に叫んだ。俺も、木の上から「また明日!」と叫んで部屋に戻った。