あなたに会いに行きます
目覚まし時計が鳴った。
八畳一間のワンルーム。窓際のベッド。布団から腕を出して、目覚まし時計を止めた。部屋の空気が冷たい。
一月。
真冬の北海道。
室内は、暖房を点けないと震えるほど寒い。
時刻は午前六時半。
――起きて、仕事に行かないと。
隼人はベッドから出た。体が一気に冷えた。
現在二十歳。高校卒業と同時に地元を離れ、食品製造工場に就職した。ここは、社宅のアパート。302号室。
部屋の中央にあるテーブルには、開かれたままのノートパソコン。電源が点きっぱなしだった。
――あれ? 昨日、パソコン落とさなかったっけ?
デスクトップを見つめて、隼人は首を傾げた。少女の写真が表示されている、デスクトップ。
少女は、由香。隼人の恋人。正確には、元恋人。
由香は、地元の幼馴染みだった。小さい頃は、ただの友達。異性を意識する歳になると、二人の関係は変化した。中学一年のときに、友達から恋人になった。
だが、由香は、中学二年のときに親の転勤で地元から離れた。
それでも二人は別れなかった。毎日チャットで会話をした。連休のときは、遠出をして会っていた。
中学を卒業したら、同じ高校に行こう。寮のある高校に進学すれば、可能なはずだ。そんなことを話し合っていた。
由香はやきもち妬きだった。隼人が他の女の子と仲良くすると、頬を膨らませて拗ねていた。彼女の頭を撫でて宥めるのが、隼人は好きだった。
『ずっと一緒にいたい』
そう、いつも言っていた。
でも、二人の願いが叶うことはなかった。
中学三年の秋。由香が、事故で亡くなった。
会えたときは、顔いっぱいに笑みを浮かべていた由香。隼人が他の女の子を見ると、頬を膨らませていた由香。中学三年になって、もうすぐ毎日会えるねと喜んでいた由香。
彼女を失った喪失感は、大きかった。落ち込んで、何も手につかなかった。
いい加減な気持ちで、隼人は、地元の高校に進学した。
高校一年の頃は、女子を見ても何とも思わなかった。考えるのは、由香のことばかり。想像の中で由香に高校の制服を着せ、一緒に登下校していた。
隼人のパソコンのデスクトップは、由香が亡くなったときから、彼女の写真になっている。隼人が歳をとっても、由香は変わらない。画面の中で、あどけない少女のまま。
パソコンの電源を落とした。出勤の準備をして、家を出た。
北国の冬。辺り一面、雪に覆われている。
社宅の一階には、鍵が掛かっていない物置小屋がある。冬場になると、物置に、雪かきの道具が用意される。会社の備品。スコップ。スノーダンプ。氷を割るためのツルハシ。
社宅の住人が、それらを使ってアパート周辺の雪かきをするのだ。
出社し、隼人は、更衣室で作業着に着替えた。現場に出て、製造ラインを動かす準備をする。機械を始動。淡々と作業を繰り返す。
隼人はもともと、地元を離れるつもりはなかった。実家に住んでいる方が楽だし、金も貯められる。
地元を離れた原因は、元恋人だった。
元恋人といっても、当然、由香ではない。
由香を亡くした痛みが癒え始めた、高校二年のとき。隼人は、同じクラスの香奈恵に告白された。
由香のことを、いい思い出にしたい。綺麗な思い出として胸に秘めたまま、幸せに生きていきたい。
そんなことを考えて、隼人は香奈恵と付き合い始めた。
香奈恵と付き合い始めた当初は、楽しかった。たくさんの時間を共有できた。遠距離恋愛では、できなかったこと。いつも一緒にいて、直接話して、関係を深めてゆく。
幸せだった。由香のことは忘れられないが、思い出にできる。そんな気がした。
だが、初めて体を重ねた頃から、香奈恵は変わった。
高校時代を――香奈恵のことを思い出すと、身震いしてしまう。工場内は、暖房が効いて暖かいのに。
苦い記憶を振り払うように、隼人は、淡々と作業を繰り返した。ライン上で商品ができ上がってゆく。
午後七時過ぎに、作業が終わった。
仕事を終えて、隼人は更衣室で着替えた。帰路に着く。
外はすっかり暗くなっていた。雪に覆われた地面。凍るほど冷たい風。チラチラと雪が降っている。寒さに体を縮めながら、少し早足で歩いた。
家に着いた。鍵を開け、部屋に入る。
明りは点いていない。
それなのに、ワンルームの室内は、テーブル上を中心にボンヤリと明るかった。パソコンのディスプレイの光が、周囲を照らしていた。
――あれ? 今朝、パソコン落とさなかったっけ?
隼人は首を傾げ、部屋の明りを点けた。ディスプレイの中では、中学三年の由香が笑っている。隼人に向ける、嬉しそうな笑顔。
隼人は部屋着に着替えた。脱いだジーンズのポケットから、スマートフォンを取り出した。通知ランプが点滅していた。
隼人に連絡してくる人は、ほとんどいない。たまに、同僚や両親から連絡がくる程度だ。
スマートフォンの画面ロックを解除した。
直後、隼人は目を見開いた。
画面にある、チャットアプリのアイコン。そこに、通知数を示す赤いバッジが表示されている。バッジに記されている数字は、94。
その数に驚きながら、隼人はチャットアプリを開いた。
表示された画面見て、体が震えた。
94ものチャットトークを送ってきた相手。香奈恵、と名前が表示されている。
隼人は、香奈恵の連絡先をすべてブロックしている。チャットも、メールも、電話も。さらに、彼女と別れた後に、チャットのIDもメールアドレスも電話番号も変更した。
香奈恵から連絡が来るはずがないのだ。
香奈恵は、異常なほど嫉妬深かった。初めて体を重ねた後に、その本性が現れた。
毎日無数のチャットトークを送ってくる。返信が遅いと癇癪を起こす。隼人が他の女の子と話すと、手を上げてくる。相手の女の子にも手を上げる。隼人の鞄の中に、ボイスレコーダーを仕込む。隼人のスマートフォンに、GPSアプリをインストールする。
その異常性を示す行動は、枚挙に暇がなかった。
恐る恐る、隼人は、香奈恵のチャットルームを開いた。
『ひどいよ隼人。私のこと、ブロックするなんて』
最初のトークは、12:04と時刻が表示されていた。
あまりに多いトーク。隼人は、香奈恵のトークを流し見た。
『隼人の住所、調べたよ』
『隼人のところに行くね』
『今、電車に乗ったよ』
『社宅に入ってるんだね』
『今晩は二人きりだよ』
『今、隼人の工場見てきたよ。まだ仕事中かな』
『買い物して時間潰すね』
香奈恵と別れるときは大変だった。警察にも相談した。彼女から逃げるように、地元から離れた。
『夕飯の買い出しして、隼人の家に行くね』
『隼人の家、スーパーから遠いね。ちょっと不便』
『もうすぐ着くからね』
『今夜は久し振りにエッチしようね』
ポンッと、新しいトークが表示された。
『スーパーから遠かったー。もう着くよ』
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
刺すような寒気が、隼人の背筋に走った。思い起こされる、香奈恵の異常な言動。気持ち悪さと恐怖が入り交じった、忌々しい思い出。
ピンポーン、ピンポーン。インターホンが連打された。
体が震えて、隼人はスマートフォンを落としてしまった。
「隼人ぉ。いるんでしょー? 開けてよぉ」
玄関の向こうから聞こえてくる声。紛れもなく香奈恵の声だった。忘れるはずがない。忘れたくても、忘れられない。
「ねえ、隼人ぉ」
香奈恵は、ドアをドンドンと叩き始めた。最初は「隼人ぉ」と甘ったるい声で繰り返しながら。そのうち、彼女の声には怒りが混じり始めた。
「まさか、女と一緒なの!? だから開けられないの!?」
ドアを叩く音が強くなる。
ドンドンドンッ! ドンドンドンッ!
「開けてよ! 一緒にいる女、ぶっ殺してやるから!!」
ドンドンドンッ! ドンドンドンッ!
ドンッ!!
ドアを叩く音が止まった。香奈恵が静かに呟いた。
「いいよ。こじ開けてやるから」
低い、まるで呪いのような声だった。ドアの向こうから、階段を駆け下りる音が聞こえた。
しばしの沈黙。
すぐに、階段を駆け上がる音が聞こえてきた。ドアの向こうで足音が止まった。
「隼人ぉ」
また、香奈恵の声が聞こえた。
「今から、ドア、こじ開けるね。危ないから離れてねー」
その言葉の直後。
バコンッという音とともに、何かがドアを貫通した。先端が尖った、赤く着色された鉄。少しだけ弧を描いた形をしている。
隼人の脳は、現状を理解することを拒否していた。だが、どんなに拒否しても、目の前の現実は変わらない。
香奈恵が、ツルハシでドアを破ろうとしている。一階の物置にあるツルハシ。
ドアからツルハシが抜かれた。再度振り下ろされ、ドアを貫通した。
香奈恵がツルハシを振り下ろす度に、ドアの穴が増えてゆく。
「ほらぁ。ドアが壊れるよぉ。もうすぐ会えるよぉ」
隼人の体は硬直していた。今すぐ警察に連絡しないと。そう考えているのに、体が動かない。
目の前のおぞましい光景に、釘付けになっていた。
だから、気付けなかった。
テーブルの上にあるパソコンが、強い光を放っている。由香の写真がデスクトップになっている、パソコン。
画面の中の由香が動いた。手を伸ばす。画面が立体的に盛り上がる。彼女の手が、画面の外に出てきた。
ガキンッという金属音が響いた。香奈恵が振り下ろしたツルハシが、ドアの鍵を壊した。
恐怖で、隼人は動けなかった。
ゆっくりと、ドアが開けられた。
「隼人ぉ」
香奈恵が家の中に入ってきた。土足のまま。手にしたツルハシを引きずって。
「会いたかったよぉ」
ニィと、香奈恵の口が横に広がった。付き合い始めた頃は、可愛いと思っていた彼女。今は、ただただ気持ち悪い。
そんな香奈恵の表情が、変化した。目が見開き、不気味な笑顔が消えた。
「誰よその女!?」
金切り声が、香奈恵の喉から吐き出された。耳に痛みすら覚える、甲高い声。
だが隼人は、痛みよりも、彼女の言葉に疑問を感じた。
――女?
隼人は一人暮しだ。ここに女性を連れ込んだこともない。
香奈恵の視線を追って、隼人は後ろを見た。
直後、信じられないものが目に映った。
由香が立っていた。テーブルのすぐ近くで。最後に会った、中学三年の姿のまま。
由……香?
隼人は唇を動かした。驚きで、声が出なかった。唇の動きだけで、幼馴染み兼恋人の名を口にした。
「あんた! 隼人の何なの!?}
香奈恵は、手にしたツルハシを振り上げた。由香に向かってゆく。
隼人の体が咄嗟に動いた。無意識のうちに、由香を守ろうとした。
しかし、隼人が由香を守る必要などなかった。
由香が右手を伸ばし、香奈恵の方に向けた。
香奈恵の体がビクンッと震えた。動きが止まる。由香を睨んでいた香奈恵の黒目が、グルンッと動いた。白目になって、ツルハシを落とした。
やがて、香奈恵自身もその場に崩れ落ちた。白目を剥いて、泡を吹いている。失神しているようだ。
隼人の目の前に広がる、現実とは思えない光景。唖然としていた。夢でも見ているようだった。
「久し振りだね、隼人」
五年ぶりに聞いた由香の声が、隼人を現実に戻した。
「由香……なのか?」
「見ての通りだよ」
由香が微笑んだ。大好きな彼女の笑顔。
「生きてたのか?」
「まさか。隼人に会いたくて、来ちゃったの」
由香と遠距離恋愛をしていた。毎日会いたくて。会えたときは、凄く嬉しくて。
由香は、あの頃と同じ笑顔を見せていた。幼さが残っていて、可愛らしくて、嬉しそうで。
温かい思い出が蘇る。温かい気持ちが、心に湧き出てくる。
「俺も会いたかった」
由香が亡くなったときは、全ての気力を失った。香奈恵と付き合ったのも、由香をいい思い出にしたかったから。
由香を忘れたわけじゃない。会いたかった。別れたくなんてなかった。
由香が隼人の側まで来て、手を握ってきた。彼女の手は、冷たかった。
「本当に、私に会いたかった?」
「会いたかった」
本心から、隼人は頷いた。
由香は嬉しそうな顔になった。
「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる?」
「ずっと一緒にいたい」
由香は、隼人の手を引いた。
「じゃあ、私と同じところに行こう」
由香はどこに行くのか。隼人を、どこに連れて行くのか。
それは隼人には分からない。どこでもよかった。一切の迷いもなく、隼人は由香に着いて行った。
そして――
しばらく後。
社宅に警察が来た。他の住人が、隼人の家の騒ぎを聞いて通報したのだ。
302号室で警察が発見したのは、失神している香奈恵。その横で冷たくなっている、隼人。
香奈恵には、隼人殺しの疑いが掛けられた。
だが、警察の事情聴取で、香奈恵はこう証言したという。
「覚えてないんです。どうやって隼人のところに行ったのか。隼人の住所なんて、知らなかったし」
隼人のパソコンは、警察に押収された。持ち出すときに、電源は切られたはずだった。
しかし。
その画面には、満足気に笑う由香の姿が映っていた。
あどけない少女のままで。