1: 無機物なんですけど!?
——ある日、女は肉体を手放した。——
どうしよう…私死んだのかな? あそこで倒れてるのどう見ても私だし、倒れてる私の周りに子どもが集まってきたし…
えっと…幽体離脱? ってやつなのかな。私さっきまでベンチに座ってて、気がついたら頭になんかがぶつかってきたんだよね。
なにがぶつかったのか、誰がぶつけてきたのか…イヤホンして動画観てたから、そういう一番気になるところが分からない。
…いや、幽体離脱だとしたらもう少し自由に動けるはずじゃない? 私が倒れてる場所から10メートルくらい離れてるんだけど、全然動けないんだよね…
ていうか幽体離脱したらだいぶ背が低くなるんだね。すぐ隣にベンチがあるから分かるんだけど、今の私30センチくらいしかないんじゃないかな?
男の子が、男の人を連れてきた。そうそう、人が倒れてたら近くにいる大人を頼る! なかなか賢明な判断じゃない。男の人が呼びかけたり、脈を測ったりしてくれてる。たぶんあの様子だと、私のために救急車でも呼んでくれてるんだろうな…ありがたや。
今度は女の人が来た。子どもたちの中の1人を叱りつけてるけど、男の子もまた何かを言い返してる。…どうしたんだろう? みんなしてあたりをキョロキョロし始めたよ。
…あれ、見つかった。叱られてた男の子が思いっきりこっちを指さしてる。みんなもこっちを見てる…怖っ、動けないし喋れないから余計に怖…てか待って!?
よく考えたら私…
(あー、あー…)
声が出ない! 仮に幽霊だとしても幽霊なりに喋れそうなものなのに喋れない!
男の子がどんどんこっちに来てる…しゃがんだ。見えてるの? 見えてるのね私が!
掴まれた! 両手で私を掴んでる…何この子!? え、マジでこのまま戻るの? このままみんなの元に…
「これだよ…」
これ? あんた今、私のことこれ呼ばわりした? 私いま霊体よ!? あるいは魂なのよ!? 人のこと鷲掴みにしといて、敬意もへったくれも…
「このボールは誰のものなの?」
…はい? ボール? この女いま…私のこと指さしてボールって言った?
「ユースケくんのだよ…」
「けど、このボールをぶつけたのはあんたよね?」
「…うん」
この子いま泣きそうになってる…ていうかそれどころじゃねーよ!
認めたくないけど…「今の私ボールになってる説」が浮上してるんだけど!?
あ、救急車の音が聞こえる…ついに来たんだ。
来た来た来た! 救急車から隊員がどんどん降りてくる!
「あなたが通報してくださった、牧駒玲太さんですね?」
「はい、そうです」
すごい名前だな…いかにも巻き込まれやすそうな名前…
「あの人、脈はあったけど呼びかけには応じませんでした」
「そうでしたか…救急隊員が到着するまでの間、そうやって対処してくださるのは助かります。あとは我々にお任せください」
「はい、お願いしますね」
あらやだ。デキる男たちの会話ってなんだかトキめくわね。なんて言ってる間にも私は運ばれてる…てか私がボールだとして、これからどうなるんだろう…
救急車、親子を乗せてもう行っちゃった。迅速なのは当たり前か、人が倒れてるんだし…
「それで、どうする? 続きやる?」
このユースケとかいうガキんちょめ、この期に及んでまだサッカーを続けるつもりか…!
「…いや、なんかもういいや。やる気が失せたっつうか」
「うん。僕もサッカーはもういいよ。まさか救急車が来ることになるとは思わなかったし」
反省ができる人、嫌いじゃないぞ! …てか何? サッカーが終わったら、ユースケとかいう子どもの家に行くことになるのかな?
「そっか…分かったよ。じゃあもう帰るからな」
なんか安心した。サッカーを再開したら蹴られる羽目になるだろうし…
「うん、じゃあね」
「じゃあな〜」
今はまだ3時くらいじゃないかな。子どもが帰るにしては早いような気もしないでもないけど、やる気の賞味期限はそれ以上に早いみたい。私、死にかけだし。
「さてと…」
公園から出たユースケ…まっすぐ家に帰るのかな。てかマジでいつまでこのままボール…
「そりゃっ!」
いった…! …くはないわ。痛くはないけど何こいつ!?
道でドリブルすんなし! 危ないでしょ…ああもう! 声が出ないのがもどかしい…!
「えいっ! あっ…」
あっ…ヤバいね。なんか怖そうな人の足に当たったもん。
この人絶対カタギじゃない…カタギだったら顔に斜めの古傷なんてできないもん…てか私自身は別に悪くないもん…蹴られただけだもん…!
「おい…」
「ア…」
分かる、分かるよユースケ。道端に転がってる私が遠巻きに見ても別格のオーラだもんねその人…小学生の目にはさぞかし恐ろしく映るだろうさ…
ちょっと待ってこのおっさん…何その子に近づいてんの…? まさか叩く気じゃないでしょうね? 道でボール蹴ってたのは確かに悪いことだけど相手はまだ小学生…叩くならせめて優しくお願いします…というか私を蹴ってくださいサッカーボールの宿命ですから! 考え直して…
「人にボールをぶつけたわけだが…なにか俺に言うことがあるんじゃないか?」
あれ意外と…目線を合わせるタイプの人なんだ。
「えと…あの…ごめ、ごめん、なさい…」
ユースケ、あんたはよく頑張った。あんなのを目の前にして、意味のある言葉をきちんと紡げるのは大したものだ!
「…よく謝れたな、えらいぞ。けど忘れちゃいけないぜ? 道路でボールを蹴っちゃあいけねぇ。広い公園とか人のいない場所で蹴らねぇと…今みたいに人にぶつけちまうかもしれねぇからな」
…思いのほか優しいのねアナタね? 頭なんか撫でちゃってさ。ていうか広い公園にいても被害に遭った人がすぐ近くにいるんですけどね、私という名の被害者が!
「…はい、気をつけます」
「よし、分かったなら結構! じゃあな坊主、人様に迷惑かけんなよぉ?」
…思いのほか主人公みたいなのねアナタね? 去り際に片手をアディオスさせるなんて、まさに主人公のそれじゃないの…ボール的にもそれはズルいわ。
さすがにあの顔とあの声で反省したみたいね。ちゃんと私のことも「みかんネット」みたいなやつに入れて歩いてくれてるし。…それでもやっぱり蹴りたいみたいね。給食袋みたいにゲシゲシしてる。私も昔はそうだった。
…それにしてもこのユースケって子、いくら小学生とはいえ道でボールを蹴るなんて教育がなってないんじゃないかしら。もし元の体に戻ったら、親子もろとも説教してやらないと! …いや、そんなつもりはないけど。面倒だからやらないけど。