1.謎の男がやって来た
一日一回昼に与えられる食事は残っておらず、多めに入れておいたパンと果物が夕食のために取り置かれているのを見て、牢番は安心していた。
牢に入った当初は食事をとるのを拒否していたリーゼだったが、娘を亡くしている牢番が子に先立たれる苦しみを切々と説き、生きているだけでいいと言い聞かせたため、リーゼは食事だけは残さずとるようになっていた。
ここは王都の外れに建てられた古い牢獄で、収監されているのはリーゼ一人。彼女の見張りと世話をするため牢番が一人雇われているだけの、うら寂しい場所である。
光り輝くようなプラチナブロンドの髪と、真っ白い肌に赤く色づいた唇が印象的なリーゼは、かつては公爵令嬢であった。しかし、たった十七歳の彼女は、婚約者だった第二王子に裏切られ、家を守るために親にも捨てられて、無実の罪でこうして牢に囚われてしまっている。
リーゼに与える食事は一日一回と決めたのは第二王子である。牢番はその命令を無視するわけにはいかなかった。もし命令違反を咎められて解雇されるようなことがあれば、リーゼに無体を強いるような男が次の牢番に選ばれるかもしれない。
そもそも、娘と妻を病気で亡くし、生活が荒んで騎士団を解雇されそうになっていた騎士を牢番に抜擢したのは第二王子だった。王子はリーゼが襲われてもいいと考えていたのだろうと牢番は思っている。
だからこそ、彼は牢番であり続けなければならない。
牢番は命令違反にならない範囲で、リーゼにできる限りのことをした。病気で亡くなった娘が生きていれば、リーゼと同じくらいの年頃になる。娘は救うことができなかったが、リーゼだけは助けたいと牢番は思っていた。
いつか天国に召され妻と娘に会えるのならば、彼女たちに顔向けできない行いだけはしたくない。
それに、流行病に対して何も対策せず、恋や愛などに浮かれている王家のことが気に食わないことも理由だった。リーゼへの暴行や虐待を期待されているのならば、反対の行動をとることが意趣返しとなる。
そんな中、元婚約者の第二王子が牢を訪れる。リーゼが牢に入れられてから既に二ヶ月が経っていた。
「私とリリアンヌの婚約が無事調った。これでリリアンヌは王子妃だ。お前は彼女に感謝しなければならない。本来ならばリリアンヌに対する数々の虐め行為のために処刑されるところを、彼女が嘆願したのでこうして収監するだけに留まっているのだぞ」
無力な女に向かって鉄格子越しに尊大な態度で言い放つ第二王子を見て、牢番は不快に思ったが見守ることしかできない。そんな無力な自分が情けなかった。
鉄格子の中のリーゼが振り向く。その表情には悲しみも憎しみさえも浮かんでいない。全くの無表情な美しい顔を第二王子に向けていた。
「ひっ! とにかくそこで反省していろ!」
まるで人形のようなリーゼの美貌に第二王子は驚く。
「ご婚約おめでとうございます。このような所からですが、殿下のお幸せを祈っております」
かすれた声でそう言うと、リーゼは痛々しいほどの笑みを見せた。その笑顔を見て怯えたように第二王子が去っていくのを、牢番はほっとしたように見つめていた。
ただの牢番の彼には、なぜリーゼと呼ばれる少女が収監されることになったのか詳しいことはわからない。しかし、先程の第二王子の態度から、リーゼには罪はないのではないかと感じていた。
「あの男が好きだったのか? 婚約者だったのだろう?」
先程のリーゼの笑顔があまりに痛々しくて、牢番は気遣うように声をかけた。
「いいえ。殿下とは国を支えていく同士のような仲でした。それでも情はありましたので、あのような愚かな方とは思いたくはなかった。せめて、結婚後は国のために尽くしていただきたいのですが……」
リーゼが俯きながら呟く。たった十七歳の少女が国を想っているのに、あの馬鹿王子は何をしているんだと、牢番はかなり不敬なことを考えていた。
その夜は満月だった。
月明りを頼りに、牢番が眠っている部屋に黒ずくめの衣装を着た男が侵入してきた。
妻と子に先立たれてから酒に溺れる生活をしていたとはいえ、牢番は元騎士である。微かな物音に目を覚まし、毛布をかぶったままマット下に隠していた剣を握りしめた。
元気そうなリーゼの様子に苛立った第二王子が、暗殺者を送り込んできたのだと牢番は思っていた。
リーゼが収監されている牢の鍵は、他の鍵と一緒に牢番が寝ているベッド近くの壁に掛けられている。襲撃者はそれを奪いに来るはずだ。牢番は眠った振りを続けて、じっとその時を待った。
足音を殺すようにして黒装束の男がベッドに近寄っていく。
牢番は狙いすまして男の首を狙った。彼の剣が月明かりを受けてきらりと輝く。
『獲った!』
牢番はそう思ったが、剣を抜いた男に軽々と止められてしまった。
襲撃者が思った以上の手練だったので牢番は驚いた。これほどの男を送り込んできたのならば、本気でリーゼを殺そうとしていると牢番は感じた。
戦闘の経験があるからこそ、絶対に勝てない相手だと牢番は悟った。しかし、リーゼだけは逃がせないかと思案する。
リーゼはたった十七年しか生きていない。第二王子のような不実な男に亡き者にされていいはずはない。
襲撃者を葬ることを諦め、牢番は鍵束に手を伸ばした。襲撃者も同じように鍵を取ろうとしたが、鍵を手にしたのは牢番が先だった。
牢番はベッドから転げ落ちるように降りると、出口に向かって走り出した。
鍵を狙ってベッドの奥に行っていた襲撃者が一瞬遅れる。
部屋のドアを勢いよく閉めた牢番は、急いで外から鍵をかけた。それほど堅牢な錠ではないが、中からは開けられないようになっているので時間稼ぎくらいになるだろう。
襲撃者は剣でドアを壊そうとしているのか、大きな音が外まで響いている。
「リーゼ、起きろ。襲撃者だ」
まともに戦っても絶対に勝てる相手ではない。そう悟った牢番はリーゼを牢から逃し、時間稼ぎに死ぬまで戦うつもりでいた。できれば相打ちを狙いたい。
若い女性が夜中に牢の外へ出ても危険であることには変わりない。それでも、あの凄腕の男に襲われるよりは生存の可能性は高いだろう。
牢番の声に驚いて飛び起きるリーゼ。扉にはめられた鉄格子から恐ろしい形相で走ってくる牢番が見えた。
急にあり得ないほどの大きな音がして、牢番の部屋のドアがはじけ飛んだ。そして、中からは黒い衣装を身に着けた大柄な男が顔を出した。手には凶悪にも見える大きな剣を手にしている。
やっとリーゼの牢にたどり着いた牢番が鍵を開けようとする。しかし、あっという間の追いついた襲撃者が牢番の襟を掴んで引き寄せた。そして、牢番の腹に膝蹴りを入れ、その手から鍵を奪い取る。
「お願い! 牢番さんには手を出さないで! 私の命は差し上げますから」
鉄格子を両手に持ってリーゼは懇願する。彼女と牢番しかいないこの監獄に襲撃者が来たのならば、目的はリーゼ以外考えられない。
男は動けない牢番を放り投げ、牢の鍵を開けようとしている。
「待て! リーゼは何もしていない。お前は罪もないか弱き女性を殺そうというのか!」
牢番は止めようとして必死で男の腕を掴んだが、振り払われて壁に激突する。
「止めて! 乱暴しないで」
リーゼは懇願したが、黒装束の男はゆっくりと鍵を錠に差し込んだ。大きな音がして錠が外れる。
「リーゼ、迎えに来た」
男はそう言ったが、思った以上に柔和なその男の顔にリーセは見覚えがなかった。