六章 かすかな希望とその喪失 重ねる嘘 絶望からの生還
「ニコ、お疲れ様。遺書はこれでいいわ。緑竜を退治しに行って、ニコに万が一のことがあっても、残された人たちにはこれで納得行く説明ができるわね」
ニコは思う。
姫様は確実に俺が死ぬことを前提に準備をしている。
「緑竜の退治の際だけではなく、準備段階の修行の際に万一のことがあった時もこれで対応できるわ」
アイラ姫は機嫌よく言葉を続ける。
準備段階の修行? 疲れ切った頭でニコは疑問に思う。
すぐに緑竜退治に行かされるのではないのか?
修行なんかするのか? 一体どんな修行をさせられるのか?
ニコの顔を見たセーラが発言する。
「何を不思議そうな顔をしているの? ニコ。今の貴方がそのまま緑竜退治に行ったって、ただ餌になるだけじゃない。貴方は剣が使えるの? 体力に自信はある? 旅に出る準備として厳しい修行をして、少しでも生きて帰る確率を高めるのが当然じゃないの」
言われてみればその通りだ。
ほとんど死ぬ気でいたのだが、少し希望が湧いてきた。
それにニコだって男だ。強くなりたい願望はある。
良い師匠について厳しい修行をすれば強くなるかもしれない。
生きて帰れるかもしれない。
両手両膝を床につき、背にリズを乗せているニコの目に光が戻ってきた。
「わかりました。セーラ様。精一杯修行させていただきます。それで私の師匠は誰になるのでしょうか?」
「私よ。ニコ」
ニコの背の上からリズの声が聞こえた。
ニコの目から光が消えた。
「私の修行は厳しいわよ。果たしてニコについてこれるかしら」
リズの得意そうな声を受け、アイラ姫が発言する。
「最初は、高名な剣術家にでも預けようとも考えていたのだけど、それだと私の従者の仕事をおろそかにしたり、ニコにとっても何事にも代えがたいリズとの時間が削られてしまうかもしれないじゃない。それはニコにとっても耐え難い苦痛でしょう。ニコのことを考え、どうしたものかと悩んでいたところ、リズが自ら申し出てくれたのよ。感謝しないとね」
セーラも話を合わせる。
「そうよ。リズが自らの貴重な時間を使ってニコに修行をつけてくれるというのよ。愛する女性に修行をつけてもらえるなんてニコは幸せ者ね。たくさんの思い出を作れるわね」
リズが師匠になり、修行をつける。
ニコは考える。
リズに剣が使えるなど聞いたことがないし、実際使えないだろう。
修行などといっても、鍛錬にかこつけていじめ抜かれる未来がはっきりと想像できる。
それに今のお茶会の時間だけでもリズと一緒にいるのはそれこそ耐え難い苦痛なのに、それ以上に修行の時間までもリズと一緒なんて、想像しただけでも目の前が暗くなる。
何としてもリズを師匠につけ、修行するなどという、狂気の沙汰は取り止めにさせなければいけない。
ニコは働きづらくなっている頭を必死に回転させて、言葉を必死に絞り出した。
「リズ様、私の師匠になって修行をつけてくれるとのこと、本当にありがとうございます。しかし、私ごときの修行の為にリズ様の貴重な時間を使わせてしまうのは何とも心苦しく、申し訳がたちません。もちろんリズ様が私の修行の為に、師匠になっていただけると自ら名乗り出て下さったのは溶けてしまいそうな程、幸せな思いです。そんな私にリズ様自ら修行をつけてくださるなどということが現実になったら、あまりに幸福過ぎて修行に身が入らないかもしれません。リズ様のお言葉は、本当に、本当に嬉しいです。しかし出来得ることなら、別の師匠をつけていただけないでしょうか? それが難しいのであれば私一人でも修行させていただきます。何卒ご再考をお願い致します」
ニコの背中に乗ってるリズの表情はニコにはわからない。
まず無言で髪を引っ張られる。
不機嫌そうな声でリズが話し始める。
「ニコ、色々もっともらしいことを言っているけど……」
ニコの髪を引っ張る力が強くなる。とても痛い。
「私の下で修業するのが嫌なのね。はっきりとそう言ったらいいじゃない。何が幸福過ぎて修行に身が入らないよ。わかったわ。のんきにそんなことを感じさせないくらい厳しい修行をつけてやるわよ。それにニコの修行内容はすでに色々考えてあるのよ。貴方の為に私自ら時間を使って考えたのよ。その私の時間までニコは無駄にするつもりなの?」
リズ自ら考えた修行内容? 想像するだけで恐ろしい。
ニコはリズの怒りを浴びたのと、未だ不明の修行内容とやらの恐怖に、思わず震えてしまう。
アイラ姫もニコに厳しい口調で語りかける。
「ニコ、リズが貴方の師匠になり修行をつけるのは、もう決定事項なのよ。わがままばかり言わないでちょうだい。幸福だったらそれでいいじゃない。それとも何? リズの言う通りリズの下で修業するのが嫌なの? おかしいわね。愛する人の側にいるのは理由がどうあろうと嬉しい筈よ。それを妙な理屈をこねくり回して、身の程も知らずに断る? ねえ、ニコ、貴方本当にリズのことを愛しているの? まさかリズを愛しているというのは嘘で、リズの純真な心を弄んでいるのではないでしょうね。もしそうなら許さないわよ。私を本気で怒らせたらどうなるか思い知らせてあげましょうか」
床に両手両膝をついているニコはさらに震え上がる。
「そんな! 決して嘘などではありません。私は本当にリズ様を愛しています。本当です。ただリズ様の貴重な時間を使っていただくのが申し訳なくて、ただそれだけです。本当に、本当にただそれだけです。どうか信じて下さい」
ニコは必死に大嘘を吐き、叫ぶように訴える。
もうなりふり構ってはいられない。
「ちょっとニコ、ぶるぶる震えて座りにくいわ。私の時間のことなら気にしないでいいわよ。私のことを愛してくれているニコの為ですもの。それくらいの労力は気にしないわ。そんなことより……」
言葉を途切れさせたリズは、ニコの髪の毛をこれ以上ないほど引っ張り、ニコの顔を上に向けようとする。
ニコの首の関節の可動域には限界がある。
背中に座っているリズの顔を見ることはできない。
それでもこれ以上ない程顎は上がり、髪の毛は容赦なく引っ張られてとても痛い。
「私への愛を疑わせるような発言はやめてもらえるかしら。女として不安になってしまうわ」
ニコは涙目で必死に謝罪する。
「申し訳ありません。申し訳ありません」
「リズ、それくらいにしておかないとニコがその年齢で禿げてしまうわよ」
セーラが見かねたのかリズを嗜める。
リズはもう一度ニコの髪の毛を強く引っ張った後、ニコの髪の毛から手を離した。
髪の毛をリズから解放されたニコは涙目のまま、下を向き、床の絨毯の柄を見ながら必死に息を整えている。
「でも、セーラ。ニコったらせっかく私が師匠になってあげるってのに、あんまり嬉しそうじゃないんだもの。もっと飛び跳ねるくらい大喜びしてくれるかと思っていたわ。つまんない」
「そうね。それはニコが悪いわ。リズが自分の時間を使ってニコを鍛えてあげようってのに、ニコはそのリズの気持ちを踏み躙ったのだもの。ニコ」
「はい、セーラ様」
セーラから呼びかけられて、ニコは必死に息を整え返事する。
「ニコ、貴方は自分の言葉の何が悪かったのか本当に理解してるの?」
ニコは必死に考える。言葉を間違えたら破滅が待っているのだけはしっかりと理解している。
「はい、私がリズ様の厚意を素直に受け取れずに、リズ様が師匠になっていただけるという、とんでもなく良い話を妙な理屈で断ってしまったことです」
「そうね、でも、それだけではないわ。貴方はリズを師匠にして修行するくらいなら一人で修行する方がいい、とまで言っていたのよ。リズは貴方への修行内容まで考えていてくれたのに。その言葉がどれだけリズを傷つけたか貴方は本当に自覚しているの?」
セーラの言葉を聞いてニコは恐怖に身が縮みあがった。
そんなことは言っていない。いや、言ったかもしれない。
少なくとも本心ではセーラの言うように考えていた。
とすると、セーラはニコの本心を正確に読みとっていたことになる。
ニコは目に見えるほど動揺して上手く言葉が喋れない。
「え、いや、決してそんなつもりでは……」
「やはり、わかってなかってなかったのね」
発言したのはアイラ姫だ。
「ニコ、貴方はリズが自分の労力と時間を使って、修行をつけてくれるという有難い申し出をあっさり断ったのよ。それが自分の愛する女の子に対する仕打ちなの。リズが貴方のためにどれだけ一生懸命修行内容を考えてくれていたか、貴方には想像できる?」
その修行内容自体が恐ろしいニコは、恐怖で言葉も発することができない。
「姫様……」
背の上からリズの泣きそうな声が聞こえてきた。
「姫様、ありがとうございます。私の気持ちをそこまで理解していただいて……」
リズが言葉を続ける。
「わたし、わたし、ニコを強くさせるために一生懸命修行内容を考えたのです。いくつも、いくつも、ニコの為に。それなのにニコったら、私を師匠にするくらいなら一人で修業する方がマシだとまで言って断ってきて」
本心はともかくそこまでは言っていない。
完全に涙声になったリズは言葉を続ける。
「わたし、ニコの気持ちがわからなくなってしまいました。私が師匠になると聞いて大喜びしてくれると思ったのに。本当に私を愛してくれているのか不安です。わ、私、もしかしてニコに騙されているのかもしれません」
それ以上は泣きじゃくってうまく聞き取れない。
人の背の上で、一体何をしているんだ?
リズの椅子になったままのニコは泣きじゃくっているリズに対してどういう行動を起こすこともできない。
ニコが黙って恐怖に震えていると、アイラ姫が近づいて来た。
「リズ、可哀そうに。泣くのなら私の胸で泣きなさい」
リズはニコの背に跨ったままアイラ姫の胸に顔をうずめる。
アイラ姫はそんなリズをそっと抱きしめているようだ。
いい加減に降りてもらえないだろうか? あまりの恐怖に麻痺してしまっている頭で、ニコはぼんやりとそんなことを考えていた。
「リズ、可哀そうに」
セーラまでもリズに同情し、少し涙声になっている。
ニコはどうすればいいかわからない。
しばらく泣いているリズに胸を貸していたアイラ姫が、いつもより低い声でニコに話しかける。
「ニコ、私の可愛いリズをよくも泣かせてくれたわね」
ほとんど現実逃避していたニコは、ぼんやりした頭に恐怖が膨れ上がってきた。
「わっ、私はそんなつもりで……」
「何がそんなつもりで、よ。もう修行なんてどうでもいいわ。リズを傷つけて泣かせた罪は、それに相応しい罰によって償ってもらうことにします。ニコはともかく、ニコの家族が気の毒だと思って、今まで我慢に我慢を重ねてきたけどもう限界よ。リズがせっかく師匠になって修行をつけてあげると言っているのに、一人で修業する方がマシだとまで言ってあっさり断るなんて。どれだけ調子に乗って傲慢になっていればそんなことが言えるの? 少なくとも愛している女性に向けて出来る発言ではないわね」
ニコは絶望というものを体感していた。
視力はあるが周りが暗闇になり、床に両手両膝をついたまま底なし沼にゆっくり沈んでいくような感覚だ。
まだくず折れていないのが奇跡だろう。
「ニコ、姫様が言ったのは本当なの? 私を愛しているといったのは嘘なの? 今までずっと私を騙してきたの? 恋文まで書いたくせに。ねえ、何とか答えなさいよ!」
ようやく泣き止んだリズがニコに問い詰めてくる。
恋文は無理やり書かせたんだろうが。と、遠くなりゆく意識の中、ふと思うが適切な返答を声に出して言えるほど、絶望から立ち直ってはいない。
ぼんやりと家族との思い出などをとりとめもなく頭に浮かべて現実逃避していたら、強く顔に平手打ちをされた。
「ニコ! 呆けてないでちゃんとしなさい!」
ニコはなんとか自分を取り戻した。
目の前にしゃがんだ格好の黒髪の美少女がいる。セーラ様だ。
「ニコ! 貴方は本当にリズを愛しているの?」
「あ、愛しています」
ニコは条件反射的に答えた。
「それならそうはっきり言いなさい。ちゃんとリズに向き合い、自分の言葉で、誠実に!」
絶望的な状況に変わりはないが、ニコは少しずつ冷静さを取り戻していった。
おそらくセーラ様は俺を助けようとしてくれている。
「それに、まだリズを師匠にするのが嫌だなんて思っているの?」
「嫌ではないです。むしろ私の為にリズ様が修行内容を考えていて下さったと知って、こちらからお願いして弟子入りしたい程です」
今日を生き延びるために、言葉を選ぶ。
心にもないことだが言わなければいけない。
「そう。そう考えているなら何故はっきりリズに言わないの?」
セーラは立ち上がって、アイラ姫に話しかける。
怒り狂っていたアイラ姫も幾分冷静さを取り戻している。
「姫様、大変申し訳ありませんが、ニコがリズにどうしても言いたいことがあるようです。少しだけ時間を頂けないでしょうか?」
「わかったわ。セーラ。ニコに罰を与えるのは話を聞いた、その後にします」
次いでセーラはリズに話しかける。
「リズ、ニコがリズにどうしても言いたいことがあるそうよ。少し話を聞いてやってもらえないかしら? それに事によってはこれが最後になるかもしれないわ。できれば顔を見て話を聞いてあげて欲しいの。お願いできる?」
「そうね、セーラ。確かに最後になるかもしれないものね。ニコの話を聞くことにするわ」
リズはずっと馬乗りになっていたニコの背から降り、ニコの正面に移動した。
リズは仁王立ち。
ニコは両手両膝を床についたままだ。
「で、ニコ、何? 話ってなによ」
リズが偉そうにニコに問いかける。
ニコは顔を上げてリズを見る。
リズの顔には涙の跡が見える。
本当に泣いていたのか、などと思う。
しかし、見た目はいつもの傲慢な態度を取り戻している。
ほとんどニコがこれからする話の内容が、わかっているせいなのかもしれない。
だがニコにとっては千載一遇の生き延びるチャンスだ。
セーラ様が場を作ってくれた。
ここが正念場だ。
ニコは勇気を絞り出す。
「リズ様」
「なに?」
「私はリズ様を愛しています。本当です。この気持ちだけは信じて下さい」
いきなり大嘘だが生き延びる為には仕方がない。
「ふん、嘘よ。口だけのくせに。私をからかっているんだわ。本当に愛しているなら私が師匠になると言ったときに大喜びしたはずよ。それなのに喜ぶどころか断ったりして、私はもう騙されないわ」
「リズ様の厚意を無下にするようなことを言ってしまって申し訳ありません。しかしそれは私がリズ様を単に愛しているだけではなくて、神聖視しているからなのです。私にとってリズ様は決して手の届かない天上の神と同一の存在なのです。そのリズ様が私如きのために、直接修行をつけてくれるなど、あまりに恐れ多く、勿体なく、私にとって幸福の許容量を超えてしまい思わず断ってしまいました」
ニコは必死だ。
自分でも何を言っているのかよくわからないが、リズを持ち上げて少しでもその心を溶かさなければいけない。
リズは黙って聞いている。
「でも、私は自分の間違いに気付いたのです。リズ様が私如きのために、自ら師匠として修業をつけてくださると仰って頂き、修行内容まで考えて頂いたのに、それを断ることこそ最大限の不敬だと悟りました」
「そうよ。私は傷ついたのよ」
「申し訳ありません。それについては申し開きのしようもございません。しかし開き直るようで恐縮ですが、リズ様にお願いがあります」
「なによ」
リズは短く言葉を返す。
「この私をリズ様の弟子にして下さい。そして厳しく鍛えて下さい。何卒宜しくお願い申し上げます」
本心とは正反対の言葉だが、今日を生き延びるためだ。仕方がない。
リズは何も言わない。
しばらく沈黙が流れる。
場の緊張感が飽和状態に達した時、リズはやっと話し始める。
「ニコ、貴方は本当に私のことを愛しているの?」
「愛しています。天地神明に誓って本当です」
ニコは嘘をつくことを何とも思わなくなってしまった。
「信じていいのね?」
「はい。どうか信じて下さい」
リズの機嫌が良くなっているようだ。口調でわかる。
「ニコ、私の修行は厳しいわよ」
「はい、覚悟しています」
「弟子は師匠に絶対服従よ。どんな命令でも逆らうことは許さないわ。わかってる?」
ニコは内心、恐怖に震える。
しかし、ニコには選択肢はない。
「そ、そんなことは当然のことです」
リズはしばらく時間を置き、尊大にニコに声をかける。
「わかったわ、ニコ。弟子になるのを許します」
「ありがとうございます」
ニコは安堵のあまり力が抜ける。
セーラが声をかけてくれる。
「良かったわね。ニコ、これから頑張るのよ」
「はい、ありがとうございます。セーラ様」
アイラ姫も声をかけてくる。
「ニコ、私は貴方がリズを傷つけたことを完全に許した訳じゃないわよ。ただリズ自身が弟子入りを許したので、今は何も言わないわ。せいぜいこれから信頼を取り戻すよう努力することね」
「はい。精一杯努力いたします」
声を震わせながら答える。
ニコは今日をなんとか生き延びることができた。