五章 約束された死 まだ見ぬ緑竜と見えない未来
いしょ? ニコはその言葉の意味を理解するためしばらく時間がかかった。
まさか遺書のことだろうか? もちろんニコは死ぬ気などは全くない。
いくら姫様たちでもまさかそこまで……。
三人の美少女たちは、ニコの方を見て、美しく穏やかに笑っている。
ニコはすさまじい恐怖にとらわれ、おもわず腰を抜かしてしまった。
アイラ姫が声をかけてくれる。
この部屋の外で声をかけてくれるのと同じような優しい調子だった。
「ニコ、何を怯えているの? 私たちが大切な従者のニコをどうこうするわけないでしょう。私たちはニコが立派な従者になるように、苦労して躾をしているのに。ちょっと誤解させたようね。ほら、紙とペンを持ってしゃんと、立ちなさい」
ニコは何とか気を取り直して、よろよろと立ち上がる。
リズが話し始める。
「ニコ。私に対する愛を証明する為の試練の件なんだけど、色々考えても、どうしても絶対安全なものってないのよね。それでね、万が一の為にニコの遺書があった方がいいと思うのよ。ほら、まるで私たちが強要したように誤解されたら困るじゃない。ニコも死んだ後で私たちに迷惑をかけるのは本意じゃないでしょ?」
ニコはガタガタ震えている。
やはり誤解なんかじゃないじゃないか。
本当に遺書を書いたら終わりだ。
それはわかっているのだが、ニコは抗う術も言葉も持たない。
「リズ、ニコをいたずらに怖がらせるのはやめなさい。リズだってニコが本当に死んでしまったら悲しくて泣いてしまうくせに。ニコ、大丈夫よ。本当に万一の為なんだから」
「あら、セーラ。やはりセーラにはお見通しね。確かに、もしニコが死んでしまったりしたら、私、悲しみで胸が潰れて目玉が溶けるくらい泣いてしまうに違いないわ。私を愛してくれたニコを失うのですもの。想像するだけで胸が張り裂けそうよ」
絶対嘘だ。
リズがそんな人間らしい感情を持っているわけがない。
「ニコ。文章は私たちが考えてあげるわ。ニコは私たちの言う通り、文字を書けばいいだけよ。簡単でしょ」
アイラ姫が話の内容は実に恐ろしいのだが、口調だけは本当に優しげに話しかけてくる。
ニコはずっと黙っているわけにはいけない。
何とか口を開く。
「あの、わ、私は、遺書を書いたとして、何をやらさ、いや、何をすれば、リズ様への愛を証明できるのでしょうか?」
アイラ姫がリズに促す。
「リズ、ニコが愛の証明の試練の説明を求めてるわよ。どうもニコは待ちくたびれているみたいね」
決して待ちくたびれているわけではない。
ニコだって少しでも長く生きていたい。
どうかそれほど難しいことを言わないで欲しいのだが、リズのことだ。
期待はできないだろう。
リズが話し始めた。
「ニコ。私はね、綺麗な物が大好きなの。特に宝石ね。それでね。西のトルトナ山に緑竜が住みついているのは聞いたことがあるわよね。その緑竜は私と同じように宝石が大好きなので有名よ。竜は長生きなのでどれ程たくさんの宝石を溜め込んでいるかわからないわ。それでニコには最初の試練として、その緑竜のところに行って、私の為に宝石を取ってきて欲しいの。邪魔だったらその緑竜を退治してもらっても構わないわ。ね。簡単でしょ」
トルトナ山の緑竜! 人間は食糧にしないと聞くが、幾多の冒険者が挑戦して殺され、トルトナ山の魔獣や獣たちの餌になったと言われる伝説の暴虐の緑竜じゃないか。
しかし暴れていたのは昔のことで、ここ五十年程は山に引きこもって大人しくしていると聞いているのに、何でわざわざ寝た子を起こすようなことをしなければいけないんだ。
トルトナ山の緑竜を退治しに行くとなれば、確かに遺書を書く必要がある。
何が万が一の時の為だ。
生きて帰る方が万が一じゃないか。
ニコは今まで耐えに耐えてきたのだが、逃げることを脳裏に浮かべてしまう。
このままでは間違いなく殺される。
その前に父親と妹に事情を話し、一緒に出来る限り遠くに逃げることはできないだろうか?
一瞬扉の方に目をやり、無意識に足を一歩踏み出してしまう。
「ニコ! どこへ行こうとするの? まだ話は終わっていないのよ」
リズがきつく声をかけてくる。
大失態だ。
逃げられるわけがないじゃないか。
ニコは冷静になるが、今の自分の行動に対しての言い訳が思いつかない。
「も、申し訳ありません。わ、私はただ……」
「ただ、何よ?」
「リズ。ニコは一刻も早く、トルトナ山に行こうとしたのよ。あなたに宝石を届ける為にね。愛されているわね。リズ」
セーラ様が助け舟を出してくれる。
果たして助けになっているかどうかは不明だが。
「何よ。そうだったの、ニコ。そんなに焦らなくてもいいわよ。まだ準備ができてないんだから。まず、ちゃんとした遺書を書かなきゃね」
機嫌を直したリズは、最高に愛らしい笑顔で恐ろしい言葉を吐く。
もう駄目だ。
調子を合わせるしかない。
「そ、その通りです。リズ様。行かなければいけない場所が判明しましたので、つい、気が早ってしまい、その、申し訳ありませんでした」
「ありがとう。やる気満々ね、ニコ。嬉しいわ。ご褒美をあげる。いつもの格好になりなさい」
いつもの格好とは、両手両《ひざ》膝を床について、背筋を伸ばし椅子の格好になることだ。
ニコは屈辱を噛み殺し、表向きだけは、はいわかりましたと返事して、紙とペンを床に置く。
そして素直に両手両膝を床につけ背筋を伸ばす。
リズやアイラ姫たちはどういうわけか、椅子になったニコの背に座ってあげることが、ニコに対してのご褒美になると本気で思っているようだ。
なぜそういう風に思えるのかまったくわからない。
リズたちの思考回路を理解することはニコには永遠に不可能だろう。
ニコが椅子の格好になり、ほんの少しだけ、いつもの屈辱の言葉を言う心の準備をしていると、アイラ姫がきつい口調でニコに注意する。
「ニコ、何をぐずぐずしているの。リズ様、むさ苦しい椅子ですがどうぞお座り下さい。でしょう。何回言わせれば当たり前の挨拶ができるようになるの? ぐずぐずしてると、リズに座ってもらえなくなるわよ」
アイラ姫は少しの躊躇いも許してくれない。
ニコが大急ぎで屈辱の言葉をリズに言う。
「リズ様、むさ苦しい椅子ですがどうぞお座り下さい」
「ニコ、姫様にいらない注意をさせて、私に恥をかかせないでちょうだい。今度からもっと早いタイミングで言うように。姫様、すみません。今のは私の責任だわ」
「リズ、いいのよ。ニコの躾は私たちの責任じゃないの。気にしないでちょうだい」
リズはニコの背に当たり前のように座る。そしてニコの髪の毛を掴んで引っ張り、命令する。
「ニコ、姫様に謝罪しなさい」
「姫様、申し訳ありませんでした」
ニコが謝罪をすると、アイラ姫は席を立ち上がりニコに近づく。
そして前にリズがやったように、上品にしゃがみ込み、その美しい顔を近づける。
「いいのよ。ニコ。ニコはこれからいくつもの愛の試練を受けなければいけない大切な身だもの。少しぐらいの行儀の悪さは寛大な心で許してあげるわ。さあ、ニコ、遺書を書いてくれるわよね?」
駄目だ。抗えるわけがない。
ニコはアイラ姫の通常より少し低くした声を聞くと、恐怖に身がすくみ、逆らう気など全くなくしてしまう。
ニコは死を覚悟した。
父さん、ミア、すまない。
先だつ俺を許してほしい。
「は、はい。遺書を書かせていただきます」
セーラが一冊の本を持ってくる。
「ニコ。今日はその格好で遺書を書きなさい。絨毯の上では書きづらいでしょうから、この本を下敷きにするといいわ」
「セーラ様、あ、ありがとうございます」
ニコは反射的に礼を言ったが、両手両膝を床につけてリズを背に乗せたまま、強制的に遺書を書かされるというシュールな状況に、これは果たして現実なのか、という思いにかられる。
リズはニコの上で馬乗りの体制に座り直した。どうもこの体勢が気に入っているようだ。
意味もなく、強くニコの髪を引っ張る。痛い。
「あは、馬みたい。そうだわ。ニコ、今度この部屋に来る時は、馬用の鞭を持ってきなさい。わかったわね」
「え、そ、それは」
なぜ、そんな恐ろしい、自分を苛むのが目に見えているようなものを、自ら持参しなけりゃいけないんだ。
ニコは思わず躊躇いの言葉を発してしまった。
すかさず、アイラ姫から叱責が飛ぶ。
「ニコ! 貴方は何度言ったらわかるの。貴方を一生懸命躾けてくれようとしてくれるリズに口答えをするなんて、しかもリズは貴方の愛する女性じゃないの。私は情けないわ」
アイラ姫の美しい顔が怒りのため涙目になっている。
なぜここまで叱られるのだろう? しかし、どうやらまたとんでもない失態をしてしまったことだけはわかる。
セーラが口を出す。
「ニコ、今のはよくないわ。鞭なんて本来はニコが自ら思いついて、どうぞこれで私を躾けて下さいと、私たちに献上して当然のものじゃないの。それをリズに言わせて。その上、口答えをするなんて。ニコ、失望させないでちょうだい」
駄目だ。
言っている内容はとても納得できないが、セーラ様までも失望させてしまった。
「リズ様、申し訳ありませんでした。鞭は必ず持って参ります」
すかさずニコは謝罪したのだが、リズがその程度で許してくれるわけがない。
「ニコ、また私に恥をかかせてくれたわね。姫様を泣かせて、セーラを失望させて、そして私を怒らせて、どういうつもりよ。破滅願望でもあるの? ちょっとご褒美をあげたらすぐに調子に乗って。そういうところよ。ニコの駄目なところは」
リズはさらに強く髪を引っ張ってくる。
痛さと、押さえ込んでいた悔しさで涙が溢れる。
「申し訳ありません。申し訳ありません」
「リズ、もういいわ。ニコへの罰は保留にしましょう。今はニコにちゃんとした遺書を書いてもらわなくちゃいけないわ」
「でも、姫様、ニコったら姫様を泣かせて……」
「リズ、ニコへの罰はニコが私たちへ鞭を持ってきてからにしましょう。罰にはメリハリが必要よ。あなたが上に乗ったまま、ニコの髪を引っ張ったってニコにとって、罰になっているかどうかわからないわ。罰なら罰でちゃんと与えなきゃ、ニコは反省しないわよ」
ニコの髪の毛を掴んでいるリズの手が少し緩んだ。
「それもそうね、セーラ、確かに罰なら罰でちゃんと与えなきゃ駄目ね。ニコ、ちゃんと今度、私たち全員の分、三本の鞭を持ってくるのよ。自分のしたことの罪を、体に刻み込んであげるわ」
リズははっきりと鞭で打つと予告している。
ニコは恐怖と屈辱で震えあがるが、それどころではない。必死で謝罪する。
「必ず、必ず、持ってきます。リズ様、姫様、セーラ様、申し訳ありませんでした」
アイラ姫が声をかけてくる。
「ニコ、貴方は従者なのよ。それもかなり未熟な。そのことを常に自覚して、そして私たちに躾けてもらえることの感謝を、片時も忘れないようにしていればそんな言葉は吐けないはずよ。気をつけなきゃね」
「は、はい。肝に命じます」
ニコは必死にそう言うしかなかった。
もう、自分の気持ちは二の次だ。
大人しく言うことを聞いておいて、早く時間が過ぎるのを願うしかない。
セーラが親切にも紙とペンをニコに渡してくる。
「さあ、準備はできた? ニコ」
セーラがとても優しい声で、話しかけてくる。
ニコは機械的に、はいできました、と返事をする。
何も考えるな。心を殺すんだ、と腹を決める。
しかし両手と両膝を床につき、リズを背に乗せて、右手にペンを持つ。
そして両膝と左手でリズの体重を支えて、下を向き文章を書くのは思ったよりも重労働だった。
遺書は何通も書かされた。
心も体も心底疲弊してしまい、遺書の内容はよく頭に入ってこない。
姫様やセーラ様に言われるまま、脳を働かせずに書いたからかもしれない。
ようやく書き終えた遺書にサインしてアイラ姫に渡すと、ニコ、ご苦労様。と労いの言葉をかけてくれた。
ニコは朦朧とした意識でその声を聞いた。
こんなことまでされているのに、少しだけ嬉しかった。
背中に乗せているリズの体重を意識する。
リズが自ら降りてくれないと、永遠にこの時間は続くのだろうか、などと考え、今更絶望的な気分になる。
何でもいいから早く自分の部屋に帰りたい。
アイラ姫が話し始める。