二章 激化する虐め 望まぬ懇願と取り返しのつかない愚行
三人でしばらく労りあってから、アイラ姫は席に戻る。
アイラ姫の座っている椅子がほんの少し軋むような音をたてた。
アイラ姫が思い出したように話し始めた。
「そうだわ。最初ニコに声をかけたのは、私の座っているこの椅子がどうも古くなっているようなので、新調するように言いつける為だったのよ。すっかり忘れていたわ」
アイラ姫が再度体を揺するように動かす。
また軋むような音がした。
セーラがアイラ姫に答えるように言う。
「本当ね。少し古くなっているみたい。いきなり壊れたりしたら危ないわ」
ニコが立ち上がる。この機会しかない。
「私、すぐに姫様の椅子を新調してもらうように手配してきます」
部屋を逃げるように出ようとして、扉に手をかけた時に声をかけられる。
「ちょっと待って。ニコ」
リズだった。
ニコは今まさに部屋を出ようとしていたのだが、扉の前で固まる。
リズの口調は心なしか偉そうになっている。
「こっちに来なさい」
嫌だ。
この場を少しでも早く離れたい。
「いや、でも、姫様の椅子を」
「いいから早く、また、口答えをするの」
ニコは仕方なく、重い足取りでテーブルの方に行く。
三人が座っているテーブルの近くに来てから、リズが話し始める。
「姫様、そんな今にも壊れそうな椅子にいつまでも座っていては危ないわ。私が今すぐに臨時の椅子を用意して差し上げます」
ニコは不思議に思った。
この部屋はそんなに広い部屋ではない。
代わりの椅子などないことをニコは知っている。
どうするつもりだろうと思っていると、リズは当然のようにニコに命令する。
「ニコ、両手両膝を床につけなさい」
セーラが声を上げる。
「あら」
アイラ姫もリズの考えが理解できたようだ。
「まあ」
期待して次の展開を待っているようだ。
リズが再度ニコに命令する。
「ニコ、私の言うことが聞こえなかったのかしら。早く両手両膝をついて背を床と平行にまっすぐ伸ばすのよ。いつまで姫様にあんな、いつ壊れるかわからないような椅子に座らせておくつもりよ。姫様の体のことを何も考えていないの? 椅子が壊れて姫様が怪我でもされたら、一体どのように責任を取るつもりなの?」
ニコに命令した後、リズは姫様に向かって話しかける。
「姫様、もし背もたれのないこの臨時の椅子がお気に召さないようでしたら、私が今座っているこの椅子にお座り下さい。私は臨時の椅子に座らせて貰いますので」
「リズ、ありがとう。でもリズがせっかく私の為に用意してくれた、臨時の椅子を断るほど私は野暮じゃないわ。喜んで座らせて頂きます」
そう言った後、アイラ姫は今まで座っていた椅子を自ら持ち上げ、壁際に持っていった。
「椅子って結構重いのね。疲れてしまったわ。あら、私の座る椅子はどこかしら?」
ニコはあまりのことに、まだ立ったままだ。
嘘だろう。
ニコをそのまま椅子の代わりにさせるなんて。
リズは一体どこまで、この俺を貶めるつもりだ。
今度はセーラがニコに声をかける。
「ニコ、姫様が疲れていらっしゃるわよ」
リズが苛立ったように言う。
「ニコ、いつまでぼんやり突っ立っているの? 姫様に椅子を持ち運ばせたりして、貴方の仕事は何? もういいわ。早く両手両膝をついて椅子になりなさい。一体どこまで反抗的なの? 温厚な私も最後には怒るわよ」
リズはニコを容赦なく追いつめる。
ニコは自らの心を殺すことにした。
ニコは覚悟を決め、床に膝をつける。
そして両掌を床に当て、背を伸ばす。
しかし顔は床の方に向けている。
とても真っすぐ前を見ることはできない。
リズが近寄ってくる。
リズはニコの髪をつかんで顔を上げさせ、自らの顔を近づける。
相変わらず顔だけは天使のようだ。
「ニコ、何を黙っているの? 姫様、どうかむさくるしい椅子ですがお座りください、でしょう。一から十まで教えてあげないとわかんないんだから。位置もそこじゃないわ。もう少しこっちよ」
リズはニコの髪をつかんだまま移動させようと髪の毛を引っ張る。
ニコは膝をついたまま這うようにして移動する。
一体、今の自分はどういう風に周りから見えるのだろうか?
ニコは考えないことにした。
「よし、位置はこの辺ね。ニコ、早く姫様に呼びかけなさい」
いくら心を殺そうと思っていても、リズは決して許してくれない。
常にニコに自らの立場を思い知らせてやろうと残酷に追い詰めてくる。
見た目は天使だが、内面は悪魔だ。
ニコは覚悟を決めた。
「ひ、姫様、どうかむさくるしい椅子ですが、お、お座りください」
三人の美少女たちが一斉に笑う。
アイラ姫が発言する。
「わかったわ。せっかくリズが用意してくれたんだもの。ありがとう。リズ」
「どういたしまして。気に入って貰えるといいんですけど」
ちょっとはにかむような口調で、恥ずかしそうにアイラ姫に答えている。
ニコは考える。
リズは俺の気持ちなど想像してみたこともないのに違いない。
早く時が過ぎてくれればいいのにとニコは祈る。
アイラ姫が近づいてくる。
そして両手両膝をついたニコの背中に遠慮なく腰を下ろす。
アイラ姫はさほど重くない。
しかしその屈辱感でやはり目に涙が溜まった。
ニコは下を向く。
俺は一体何をしているんだろう。
リズがアイラ姫に問いかけている。
「どうですか、姫様、座り心地は?」
アイラ姫が位置を調整している。
「そうね。悪くはないわ。今度からたまにこの椅子でもいいくらいよ」
セーラが発言する。
「姫様、良かったら次に私に座らせてもらえないでしょうか? どんな座り心地なのか興味があります」
「もちろん、いいわよ。私が充分座った後ならね」
リズが発言する。
「姫様、私も座りたい」
「あらあらリズったら、ちょっと待っててね?」
ニコは心を殺しているつもりだったが、アイラ姫たちの会話はどうしようもなく聞こえてくる。
リズだけには座らせたくない。
年下の子供ということもあって、一番屈辱を感じる。
それにまた、どんな残酷なことを言い出すか、とても怖い。
しばらく周りの会話も意識して聞かないようにして過ごしていたが、アイラ姫に後ろから髪の毛を掴まれ顔を引き起こされる。
「ニコ、何を下を向いているの。私の椅子になれたことを誇りに思い、前を向いていなさい」
リズがまた、椅子から離れ顔を近づけてくる。
あまりの容姿の良さに、ニコは今更ながら見惚れそうになる。
中身を知っているニコは顔を背けたいが、アイラ姫に髪をしっかり掴まれていて背けることが出来ない。
「あれ、ニコ、もしかして泣いてるの?」
ニコが返答できず黙っていると、セーラが答える。
「嬉し泣きなんじゃないの。姫様の椅子になれるなんてこの上もない名誉なことだもの」
「そうよね。ニコの家族も、ニコのこの立派に椅子になっている姿を見たら、涙を流して喜ぶと思うわ」
リズは何がおかしいのか一人で笑っている。
ニコは家族のことを持ち出され、心が乱れる。
ニコは父親と、妹のミアの事を心に思い浮かべてしまった。
リズがアイラ姫に話しかける。
「姫様はニコの家族に会ったことはあるんですか?」
「ええ、あるわよ。父親はなんてことない、ほとんど記憶に残らないような男だったけど、妹は私たちには遠く及ばないけど、なかなか素直そうな可愛い娘だったわ」
「へえ、そうなんですか」
リズの目が残酷に光ったような気がした。
可愛いと聞いて対抗心を燃やしたのかもしれない。
「ニコ、貴方の妹と私、どっちが可愛い?」
セーラがたしなめるような声でリズに言う。
「リズ、悪いわよ」
「セーラ、私はニコに聞いているの」
ミアはお前なんかより、千倍可愛い。と言いたいのだが、言えるわけがない。
ニコは黙っていると、リズは執拗に答えを求める。
両手両膝をついているニコの正面にしゃがみ込み、顔を覗き込み頬をぺちぺちと叩く。
「ねえ、早く、答えを待ってるんだけど」
ニコは諦め、不承不承答える。
まだアイラ姫から髪を掴まれている。
「リズ、様の方が可愛いです」
リズは嬉しそうな顔も見せず、珍しく真剣な顔をニコに見せる。
「ニコ、今、私に反抗的な目つきをしたわね。許さないわよ」
変に勘が鋭い。
ニコは慌てて否定する。
「そんな、誤解です。反抗的な目つきなどしていません」
アイラ姫がリズに質問する。
ニコはさらに髪を強く掴まれる。
「本当? リズ。本当だったら許せないわね。私の可愛いリズに敵意を向けるなんて」
姫様の雰囲気が変わった。
まずい。姫様を怒らせては本格的にまずい。
家族が壊される。
ミアの身が危ない。
もう恰好などつけていられない。
リズに哀願する。
「リズ様、反抗的な目つきに見えたのなら謝罪させていただきます。でも本当にリズ様に向けて、他意はありません。信じてください」
リズはニコを無視してアイラ姫に訴える。
「本当です。姫様。ニコは私のことが嫌いなんだわ。私がこれほどまでにニコの事を考えて躾けてあげようとしているのに、あんまりよ」
リズが涙声になる。
リズはアイラ姫の胸に飛び込む。
アイラ姫はリズを抱きしめる。
アイラ姫はニコの背中に腰かけたままだ。
アイラ姫がそのままリズを慰める。
「リズ、可哀そうに。リズにこんな思いをさせたニコにはきっと、それに相応しい報いを受けてもらうわ。後悔させてやるから。だから、だから、どうか泣き止んでちょうだい。リズ」
ニコは両手両膝をついたまま恐怖に震えている。
ふさわしい言い訳も思いつかない。
同情してくれたのか、セーラが声をかけてきた。
「ニコ、リズに向かって反抗的な目つきをしたのは万死に値する行為よ。でも私はニコが本当にリズの事を嫌ってはないと信じているわ。リズが本当に優しい性格をしているのは知ってるでしょう。私もリズに謝罪のチャンスを与えてもらうよう頼んであげるから、もう一度誠実にリズに謝りなさい」
両手両膝をついたままのニコからはよくは見えないが、リズがアイラ姫から離れたのが分かった。
セーラがリズに呼びかける。
「リズ、ニコに一度だけ謝罪のチャンスを与えてもらえないかしら?」
アイラ姫もリズに言う。
「そうね。ニコにも一度は謝罪のチャンスを与えるべきよね。それでもリズが許さないと言ったときに、ニコの処分を考えるべきだわ。リズ、それでいい?」
リズがこくんと頷く。
「それでいいです。姫様、セーラ。ニコが心から私に謝ってくれるのなら、私は謝罪を受け入れます」
アイラ姫が感激したように答える。
「リズ、なんて優しいのかしら。ニコ、ちゃんと聞いてるの? お礼は?」
アイラ姫がニコの髪を強く引っ張る。とても痛い。
「セーラ様、姫様、リズ様、私に謝罪のチャンスを与えて頂き有難うございます」
ニコは泣きながら礼を言う。殆どが悔し涙だ。
アイラ姫は立ち上がり、ニコの背中から降りる。
「セーラ、悪いけど順番抜かさせて貰ってもいい? リズもニコの背中に座りたがっていたみたいだから」
セーラが答える。
「もちろんですわ、姫様。ニコも私なんかより、リズに座って貰いたいに決まっています。何やってるの。ニコ、貴方からもリズに頼みなさい。どうか私の背中にお座り下さいって」
セーラ様は助けてくれているつもりなのかもしれないが、やはりリズを背中に乗せるのは抵抗がある。
プライドをなくせる魔法が使用できればいいのに。などと思ってしまう。
「リズ様、どうか私の背にお座りください」
ニコが血を吐くような思いでリズに言う。
「ニコ、本当に私に座ってもらいたいの?」
「はい、ぜひリズ様に座ってもらいたいです」
ニコも必死だ。
自分だけではない。
家族の人生がかかっている。
「わかったわ。そこまで言うなら座ってあげる」
リズがニコの背に体重をかけ飛び乗るようにして座り、そして無造作にニコの髪の毛を掴む。
ニコは屈辱感を噛み殺す。
「なるほど座り心地はまずまずね。で、一体、ここからどのようにして私に謝罪してくれるのかしら?」
ニコの動作が止まった。
謝罪の方法などまったく考えていない。
大体、今、両手両膝を床につけている上、謝罪対象を背に乗せているのだ。
一体このような体勢から有効な謝罪の仕方なんてあるのだろうか?
口だけで申し訳ありませんと謝罪しても決して許してくれないだろう。
ニコは身体極まった。
アイラ姫がニコにきつく呼びかける。
「ニコ! 何をやっているの。早くリズに謝罪しなさい。今回ばかりは口先だけで謝ったって決して許さないわよ。例え心優しいリズが許したって、私が許さないんだから」
リズもニコを追い詰める。
体を揺すり、髪を引っ張りながら、嫌らしく話しかける。
「ニコ、待ってるんだけど。なんで黙っていて何もしないの? もしかしたら、謝罪のチャンスを与えたのは私たちの余計なお世話で、ニコは私に対して謝罪の気持ちなどないのかしら?」
ニコだって必死に考えている。
しかしどうしろと言うんだ。
ニコは今、両手両膝をつき、謝罪対象は背中の上で、ニコの髪を今も引っ張っている。
土下座すらできない。
口で何か言うしかないのだが、アイラ姫から口先だけの謝罪は決して許さないと予め釘を刺されている。
世界の賢者たちだってこの体勢からの、有効な謝罪方法を考えろ、などと言われたら悩むだろう。
あまりの絶望的な状況にニコは静かに泣き出してしまった。