魂
壱.人を運ぶ箱
太陽の光が海面にあたり、燦々とした輝きを見せる。二、三羽の鴎が一斉に沖から飛び立ち空で綺麗な三角形を作る。ゴールデンウィークだ。陽太は準備してあったカメラをバッグから取り出し、車窓の外のどこまでも広がる海と空の景色に向かって何枚も撮った。メモリを喰うからそんなに同じものを何枚も撮るなと父親に注意されても、陽太はビクともせず、ファインダーをじーっと睨み続ける。鴎を狙っているのだ。
カシャッ
「よし」
仕事上がりの大工のように語尾を伸ばしながら、自慢げに写真の出来を妹に見せつける。
「目で見たほうが綺麗に見える」
妹は思ったより冷たく、学年目標の将来の夢の欄に「写真家」と書いた陽太には厳しい言葉であった。
「そんなこと言わなくったっていいだろ。俺だってもっとちゃんと撮ればいいの撮れるし」
小学六年生らしい言い訳を撒き散らし、ぷいと顔を窓の外に向けた。海と空はどこまでも広く、いつか地平線のはるかかなたでくっついてしまいそうであった。
そもそもこの旅行を計画したのは陽太自身であった。電車好きな陽太は、親に駄々をこねて買ってもらった電車図鑑から一番お気に入りの電車を選んで、ゴールデンウィークを利用して乗ろうと言い出したのだ。もちろん父親からは大バッシングであったが、心優しい母親と、どうでもいいから早く決めてという妹の冷たい目線により、この旅行が決行したのであった。特急スーパービュー踊り子は勢いよく海沿いを走り抜けていく。
小学生で電車好きな男の子はそこそこいるが、陽太が好きになった理由は他とはちょっと違った。陽太は電車に乗ってくる人たちを観察するのが大好きだった。土日に行くショッピングモールがその機会を与えてくれる。東京の中でも利用者数の少ない駅を最寄りとする陽太一家は、車はほとんど使わず、基本的に電車移動だ。扉が開くと、陽太はすかさず一番端っこの座席に腰を下ろす。そして扉から流れ込んでくる人の服装やら表情やら、持ってる手荷物やらを一個ずつチェックしていく。それに気がつくと陽太の父親はいつも注意するが、陽太もいつもそれを聞かずに乗客を見続ける。母親はと言うと、何も知らないような素振りで、ただ目を線にして微笑むだけであった。それゆえ、陽太は基本母を自分の隣に置いておく。乗客の観察はコツが必要で、ただ見てるだけだとすけべと思われてしまうので、目線が合わない足元からだんだん顔をめがけて、ゆっくりと目を動かすのである。それが終わると全体像を確認するために、広告を見るふりして観察対象をチラ見する。履いてる靴下の長さとズボンの裾までの距離であったり、サングラスをかけているのにさらに帽子をかぶっているだの、ありとあらゆる点をファッションデザイナーのようにピックアップする。それを目の前の乗客から一人ずつやっていき、それが終わると自分が座ってる側の座席も極力やる。なぜそのようなことをするのかは、陽太の妹ですら知らない。今日の踊り子でも座席に向かう通路で既に座っていた他の客を素早く確認した。それくらい陽太にとって電車に乗るときの人間観察は特別なものらしい。
陽太は過去にもいろんな電車に乗ってきた。新幹線ときでは窓から一遍の雪景色、スカイツリートレインでは日本が誇る世界で二番目に高いタワーの全貌が見渡せた。けど陽太にはそれらはなんともないもので、そういった電車に乗る人がどのような人物なのかを知ることの方がよっぽど興味深かった。それほどいろんな人を見てきた陽太だ、変な人もたくさんであって当然。裸足で乗り込んできたおじさんや、カメラをずっと構えて、意味のわからないところをずっと撮るサラリーマン、夏休みなんかは上裸の人が乗ってきたりもした。
結局今日の踊り子も陽太の自己満足に終わった。陽太の父は終始顰めっ面で、優しい母が気を遣って沢山話しかけた。妹はというと、母のスマホでゲームばかりをしていて、それに満足しているのか、いつもは知らんぷりする父の指示に全て応えた。
電車は今日も走る。日本全土に伸びる線路に乗っかって、様々な行き場を求める人々を運ぶ。
弐.不思議な発見とやり甲斐のターミナル
山手線は東京駅周辺の起伏激しい路線を必死に上り下りする。それを見飽きた目で陽太は京浜東北線の窓から眺めていた。今日は電車の展覧会があって、それに家族を連れて行こうと誘ったものの、全員に断られたので仕方なく一人で来ている。都会の景色に目が慣れてきたのか、陽太は目の前に座ってる人に視線を移した。スーツ姿の男で、バルタン星人のようなとんがった革靴を履いている。膝の上にノートパソコンを乗せ何か作業している。
ピンポーンピンポーン、プシュー
カラータイマーのような音とともに電車の扉が開く。ドアの近くに立っていたトラ柄のスカーフを羽織ったおばさんが降りていき、数人の人がぞろぞろと入って来た。その中の一人のお爺さんに陽太の目は釘付けにされた。その人は夏にもかかわらず、乳白色のセーターに白い長ズボン、少し黄ばんだヴェストを着ていて、コンクリートのような手に高そうな杖をついていた。日の当たらないベンチの下の蝉の抜け殻のような顔色の悪さで、電車の扉から陽太の隣の座席の僅かな距離をゆっくりと歩いてきた。その一歩一歩は重苦しく、しかしどこか浮ついているようで、見ている人が手に汗を握る不安や緊張感があった。明らかに他の人と違った空気がそのお爺さんの周りには流れていた。陽太は目が乾くくらいに見開いて、老人の不思議で誘惑的な足取りをじっと辿った。お爺さんは陽太の隣に腰を下ろし、ふーという長い溜息と同時に持ってた杖を体の前に構えた。ネイビーに近い色をしたゴルフ帽を深くかぶったその目元ははっきりと見えない。だが陽太はある確信を持った。
「この人に魂はない」
そう心の中で囁いてから、そっと隣の老人から目を背けた。途端、自分の隣に居座る「亡霊」がとてつもない恐怖を自分に与えていることに気づいた。早まる鼓動を落ち着かせるために何回も唾を飲み込むが、無論、効果は微塵もない。
陽太は完全に自分の思考によるパニックに陥った。子供ながらに色々と想像を膨らませた結果、あの日見た「亡霊」が陽太の中でますます恐ろしいものへと変貌していった。そんな陽太によって作り上げられた恐怖の塊は、トラウマとなって陽太を苦しめ続けることになる。
その後の数日間、夜になると陽太はいつも部屋の電気全部をつけて、寝るときも布団で自分をぐるぐる巻きにしてから寝た。陽太は自分が亡霊に取り憑かれたかもしれないと思い込むようになり、睡眠不足も相まって、精神的に苦しい日々が続いた。何もかもやる気が起きなく、学校にすらろくに行かなくなってしまった。陽太の父はそんなことを一切知らず、ただただ陽太の不登校を叱った。母がどうかしたかと聞いても陽太は口答えしようとせず、クマのひどい目をこすり、布団に蹲るだけだった。妹はそんな兄を構おうともせず、自分なりに毎日を楽しんでいた。
陽太は自分の大好きな電車によって自分の人生が壊されていくのをただただ怯えながら見るしかなかった。小学六年生で人生最初にして最大の裏切りをされた。陽太は、もう、人生を捨てようとしていた。
参.信じられないし信じたくない
「亡霊」に出会ってから一ヶ月ほどが経ち、陽太はお母さんに連れられ、町中のカウンセリングやら、精神病院、除霊できる場所に行った。その効果もあってか、陽太は次第に回復してきた。もう亡霊なんていないと言い張れるようになったし、夜も布団にくるまわずに済むようになった。学校にも行けるようになり、再び電車を乗る勇気も出て、かつての生活を取り戻すことができた。「亡霊」の忘却に成功したのだ。
そんなある日の夜、いつも通り陽太は自分の部屋で最新刊の漫画を読み終えると眠そうに布団にぐだっと倒れた。そのまま眠くなった陽太は、電気を消すのも忘れ深い眠りの中に落ちた。
目がさめるとそこは自分が見たことない場所で、霧のかかった深い谷底のようなところだった。山肌に生えてる木々はほとんどが枯れていて、幹が真っ黒になっていた。
「ママ〜?パパ〜?ここどこ〜?」
陽太の出した大声は谷の奥深くまで反響し、それからまた元の静けさに戻る。
「ここはね…」
突然、後ろからやけに低く、不気味な声がした。陽太は人がいるとは知らず驚いて、慌てて声の方向に顔を向けた。
「うわぁ!」
陽太の後ろにいたのは明らかに人間の顔をしていない「人間」だった。
「そんなに驚かなくたっていい、やがてお前さんはわしの所に来るのだから」
その人間は灰色の伸びきったカピカピの髭を骨のように細い手で触りながら言った。
「僕が?なんで?」
「お前さんにかかわらず、この日本という国に住む全ての人はいずれわしに出会う。わしは死を司る神、つまりは死神なのだ」
「え…」
陽太は目の前の極度に痩せ細い老人が死神だとはとても信じれなかった。
「証拠を見せてください」
「いいだろう」
死神は陽太についてくるよう指示し、谷に沿ってゆっくり歩き出した。
「ここはどこなんですか?」
「ここは地獄でも、天国でも、人間世界でもない、常の間というところだ」
「つねのま?」
「ここでは時間が流れていない。時間とは人間の記憶と関係する。人間が覚えてさえいなければ、その時間は存在しなかったことになる。お前さんもここから出たらここにいたことを忘れる」
「なんだか難しいや。今からどこ行くんですか?」
「これからお前さんを命の洞窟に連れて行く。そこではお前さんやその他この国に住む人間の寿命がわかる」
「寿命…」
陽太は自分のおじいちゃんを思い浮かべた。陽太のおじいちゃんは今年で九十二歳になる。陽太が小学生低学年の時、陽太のおじいちゃんはしょっちゅう陽太を連れてスーパーに行った。「何か欲しいおやつはあるか?」そう言いながら微笑むおじいちゃんの優しそうな顔を陽太は今でも覚えている。だがそんなおじいちゃんも今は病院で寝たきりになっている。脳溢血で倒れてしまったのだ。
命の洞窟に行く途中、陽太はいろんなことに驚きを感じた。山から湧く泉は彫刻のようにピクリとも動かない。雲も、雨水も、風に流される草木も…木から落ちる柘榴ですら空中に止まったままになっている。本当に時間は止まっていた。陽太が驚いたのはそれだけでない。さっきから死神以外の人が一人もいないのだ。それ故か、家も、工場も、車も自転車も、全てない。陽太はなんだか寒気を感じ、身震いをした。
しばらく谷の底を歩くと、下り坂が現れ、そこをたどって行くと今度は大きい渓谷に入っていった。渓谷自体は真っ暗で、高くそびえ立つ両脇の壁に掛けられた松明の明かりで、辛うじて鈍色や生牡蠣色の岩肌が見えた。陽太と死神は渓谷の奥深くにどんどん入っていき、やがて渓谷に岩の天井が覆いかぶさり、洞窟になった。洞窟の壁はぬめぬめしていて、所々に鍾乳洞のようなものが出来ていた。
「ここだ」
そう言うと、死神はついていた杖で洞窟の壁に掛けられていた小さな木の看板を軽く二度叩いた。看板には死神の言う通り「命之洞窟」と書かれていて、その横にはちょうど大人一人が通れるくらいの穴が空いてあった。穴からはビュービューと冷たい隙間風が吹き、近寄りがたい雰囲気をしていた。
「わしについて来い」
陽太は着ているTシャツの丈を強く握り、死神の後をついていった。穴を抜けると、そこはちょっとした広場みたいになっていた。陽太たちが入ってきた穴と同じものが色んな方向に空いていて、どれも陰湿な感じで、ビュービューと音を立てていた。広場の床には一面の蝋燭が立てられており、どれも盛んに燃えていたが、長さにはばらつきがあった。
「これは何をするためのものですか?」
陽太は近くにあった蝋燭の灯りを見つめながら死神に聞く。
「この蝋燭は人の命を表している。ほら、長いものもあれば、短いものもある。長いのは生まれたばかりの赤ん坊の、短いのはもうすぐ死にゆく老人たちのだ」
「へぇ〜」
陽太は蝋燭のそばにしゃがみ、勢いよく燃える炎を吹き消そうとした。
「おいおい!待っておくれ!」
死神が慌てて止めに入る。とても死神らしくない大声と慌てぶりで、陽太はなんだかそれに面白みを感じて吹き出してしまった。
「何を笑っとる!これは人の命なんだぞ、燃え尽きるにしろ、吹き消されるにしろ、人は死ぬ。炎が消えればその人は死ぬのだ!」
「なんで死神なのに、人が死ぬのを止めるんですか?」
真ん丸な陽太の目には疑問が詰まっていた。
「わしはあくまで死を司る、つまり管理する神であって、人を死なせるために存在する訳ではない。人間は皆、わしのことをとても怖がるようだが、そんな心配は一切しなくて良い。だから頼む、蝋燭の火だけは消さんでおくれ」
「うん」
陽太は死神の本来の役目を聞いて一安心したのか、元気な返事を返した。
「それでだ、お前さんはちょっと前に魂の抜かれたおじいさんを見たとの話だったな」
「なんで死神さんはそのことを知ってるんですか?」
「それは神様だからだ。そんなのはどうでもいい。お前さんが見た人間は本当に魂が抜かれておった。それを見てから、お前さんの蝋燭がだんだん短くなってきてるんだ。いまではもと通りの生活をしているようだが、蝋燭の減りの早さは相変わらず尋常でない。死神としても、人を早く死なせるのは良くないことだ。だからこれを機にお前さんに魂とはどんなものかを見せて、本当は残っている、お前さんの心の中の不安を解消し、これ以上お前さんの心の傷を広げないようにする」
「本当ですか!ありがとうございます。では僕は一体何をすればいいんですか?」
「お前さんに選択肢を与える。その中からお前さんが良いと思った方を選べ」
「わかりました」
「では言うぞ。一回しか言わないからよく聞いておけ」
「はい」
死神は陽太に二つの条件を言い渡したが、それを聞いた陽太は戸惑った。
「僕が地獄に落ちて自分の魂が消えるのと引き換えに、僕の記憶からその日あったことを消すか、僕の身の回りの誰か一人が死んで、その人の魂と引き換えにあの日の記憶が消えるか…結局人死ぬじゃないですか。何が心の傷の広がりを止めるですか!」
「何回も言った通り、わしは死神だ。できることは人を死なせることだけ。お前さんみたいな人を救うにはこうするしかない」
陽太は考えた。散々に考えた。常の間では時間が流れ流れないので、日が暮れることもないし、お菓子の時間もない。だから陽太の思考を阻害するものも何もない。今の陽太には生きる活力がある。それを陽太自身もも噛み締めている。さらに死神と言っても、火を消そうとしたら慌てて止めに入ったし、きっといい人だと陽太は思った。そこまで考えて、陽太はようやく口を開いた。
「決めました」
「言ってみろ」
「知ってる人を死なせてください、その人の葬式に行きます。」
なぜ陽太が自身の死を望まなかったかは問わないルールになっている。
「本当にそれでいいんだな?公開など許されない、なんせ、お前さんが選択したのだから」
「はい。わかってます。その人の魂が抜かれるのと引き換えに、本当に僕の記憶の中にあるあの日が消えるのであれば」
陽太は契約を交わす社会人のような真剣な眼差しをしてみせた。死神もその表情に納得したのか、陽太を元世界に戻してやった。
肆.存在しない筈の「存在しない」
目がさめると陽太は自分の部屋のベッドの上にいた。お母さんが朝食の準備をする音が聞こえてくる。時計を見てみるとまだ朝の六時。普段より一時間半も早く起きてしまった。再び寝る気もしないので、陽太は学校に行くために着替えを始める。今日は校外学習の日だと知ったのは連絡帳に書いてあるのを見てからだった。
「あぁ!」
すっかり忘れていた陽太は、急に色々思い出してつい大声を出してしまった。お菓子はたくさん持ってもいいこと、行き帰りのバスの席が気になっているマチ子ちゃんの隣だということ、写真の係になっていること…陽太は興奮を抑えきれなくなって二階に駆け上がった。お母さんが作っているお弁当の中身を確認するのだ。
「ママ!お弁当の中身何?」
「あら早いわね。今日は遠足だから、特別にタコさんウィンナー入れてるわよ」
「よっしゃあ!ありがとうママ!l
こんなにはしゃいでる陽太を久しぶりに見た陽太のお母さんは料理をする手の動きを早めた。
陽太はまた自分の部屋に戻り、荷物の準備をする。一つ一つ丁寧に連絡帳と照らし合わせていく。
「あっ」
連絡帳に書いてある文字——洞窟探検——を見て、陽太の手が止まる。
「洞窟探検…どっかで見た気がする…まぁいいっか」
何かに引っかかったが、後回しにした。なんせ、今日は校外学習なのだから。陽太は持ち物を詰め込んだ鞄をひょいと背中に背負い、お母さんの準備した弁当を片手に学校に向かって一直線に走り出した。
学校に着くと、既に自分より早く来てた子が何人かいて、旅行用の大型バスの周りをグルグル走り回っているのが見えた。陽太は辺りを少し見渡し、マチ子ちゃんがまだ来ていないことを確認してから、持ってきてた最新刊の漫画を開いて読み始めた。漫画は最近出た新しいシリーズで、主人公は冒険家。世界各地を旅して、宝を見つけてはそれを自分の基地に保管し、その宝のエネルギーを使って宇宙からやってくる侵略者に対抗するといった話だ。内容自体はかなりごちゃごちゃしているが、陽太は表紙の格好良さと主人公の開発する新しい武器に惹かれてこのシリーズを買っているから、内容なんてどうでもよかった。陽太はやはり人を観察するのが好きだった。
「はい、じゃあ集まって〜おい、もう走り回るのをやめなさい」
担任の先生の声がして、陽太含め、クラスのみんなが集まってきた。バスの周りを追いかけっこしてた連中は既に疲れ果てた様子で、息を切らしていた。女子たちはお互いの髪型を褒めあったり、着てきた服の自慢をしあっていた。陽太はそれら全てを無視して、マチ子ちゃんだけを探したが、マチ子ちゃんの姿はそこにはなかった。
「いいか〜今から洞窟に着いた時に係員に渡すチケット配るから、バスの座席順に並んで」
クラス内の真面目な子たちが先生の代わりに指示を出し、二分以上かけてやっと列が整った。陽太の隣はやはりポツリと空いたままであった。陽太はチケット配りで回ってきた先生に聞いてみた。
「先生、マチ子ちゃんってどうしたんですか?」
「あれ、本当だ。おーい、こん中で草田さん(マチ子ちゃんの苗字)について知ってる人いるか?」
どうやら先生も把握していなかったらしい。マチ子ちゃんはおとなしめな女の子で、普段クラスの中でも特に目立つ方じゃ無い。しかしいつも決まった時間に何かを唱えながら、手を擦り合わせる、とても不思議な子でもある。噂によるとマチ子ちゃんのお母さんがイスラム教信者で、家族もそれに合わせて祈りを捧げるようにしているらしい。真面目で話もきちんと聞くマチ子ちゃんが寝坊やら聞き逃れをするはずがない。陽太は少し顔を強張らせながら何度も何度も校門を目で確認した。
プルルルル
「ちょっと待っててくれ」
そう言いながら先生は少し離れた所に行きポケットから携帯を取り出した。最近「機種変」というのを初めてした先生は、未だに操作がぎこちない。
「はい、はなまる小学校です。はい、あ、草田さんのお母さんですか?はい、ええ…」
相槌からは何もわからないが、それでも陽太は真剣に聞いた。
「え?!…はい、えぇ…どこの病院ですか?」
「え?」という声とともに何人かの生徒が先生の方を向いた。もちろん陽太もだ。
「わかりました。今すぐ向かいます」
先生は明らかに様子がおかしかった。
「先生!マチ子ちゃんに何かあったんですか?」
何人かの女子が先生のところに駆け寄って行き、マチ子ちゃんについて質問した。
「草田さんは今日、来れないそうだ」
「どうしてですか?」
「それは…」
「何かあったんですか!」
陽太も駆けつけて来た。
「まぁ、とにかく大丈夫だ。先生ちょっとマチ子ちゃん所行ってくる。今日の遠足は代理の先生に頼むから、大人しくするんだぞ」
「僕、行きます!」
「何を言ってるんだ陽太。今日は遠足だろ?マチ子ちゃんは大丈夫だから、ついてくる必要はない。それともあれか?遠足が嫌いなのか?」
「遠足は好きですけど、それよりもマチ子ちゃんが好きです!だからどうか行かせてください!」
陽太は顔を真っ赤にして言い張った。まさかあの陽太がこんなに興奮するなんて思っていなかった先生は少し戸惑いながらも、なるべく陽太を引き止めようとした。
「マチ子ちゃんが好きなのは十分わかった。クラスの大事な仲間だからな。先生もとても好きだぞ。でも陽太は遠足に行かなきゃいけないんだから、先生について来てはダメだ」
「嫌です!絶対行きます!」
「先生!陽太がこんなに本気になってるんですから、行かせてあげてくださいよ」
周りの女子たちの支援も加わり、ますます陽太は譲らなくなった。
「絶対行きます!」
「仕方がないな…もう時間ないから急いで行くぞ」
陽太も、周りにいた生徒も全員少しホッとした。
それから陽太を除いた他の生徒は旅行用バスに乗り込み、遠足に出た。先生は陽太を車に乗せ、病院まで制限速度ギリギリのスピードで飛ばした。
病室は緊迫感ある嫌な静けさが漂っていた。急いで駆け込んできた陽太と先生は少し息切れしながら、医者の説明を聞いた。話によると、車との衝突により、頭部を強打し、それが原因で多量出血していて、意識はない状態だそうだ。ドラマでしか聞いたことないような単語が医者の口から連発し、陽太はこんがらがってしまい、余計心配になってしまった。いわゆる緊急手術が始まった頃には、陽太はすっかり疲れ切っていて、廊下の長椅子で眠りに落ちてしまった。
「おい」
「………」
「おい、お前さん」
「………」
「おい、起きろ、お前さん!」
「うーん」
目が醒めるとそこには見たことあるような、無いような、おどろおどろしい老人がいた。
「誰ですか?僕と会ったことありましたっけ?」
「会ったことはあるが、お前さんは忘れているに違いない。わしは死神だ。ここは…」
死神は以前陽太にしたように「常の間」と「命の洞窟」の説明をした。陽太はやはり納得するのに時間がかかったが、死神が一個一個丁寧に説明したおかげで、再度この事実を飲み込むことができた。
「じゃあ、死ぬ運命に選ばれたのはマチ子ちゃんってことなの?」
「ああ、そうだ。誰が死ぬかはわしにも決められん。全て最初から決まり切っていることなのだ」
「そんな…」
陽太の目にはすでになみなみの涙が溜まっていた。唇をプルプル震わせ、いまにも泣き出しそうな声で陽太は続けた。
「そんなの卑怯じゃないか!僕を救ってくれるんじゃないのか?やっぱり死神を信じるなんて最初からおかしな話だった。こんなことになるんだったら僕が死ねばよかったのに!」
陽太の大粒の涙は目から飛び出たものの、常の間の影響で頬の上に止まったままで、それ以上は動かなかった。
「これがお前さんの運命だったんだろ?わしに文句を言うな。誰が死ぬかを決めるときだって、お前さんは不公平だの、割りに合わないだの言とったが、これがお前さんの運命なのだ!受け入れるしかないんだ…」
目一杯のことをしてやったのに、文句を言われた死神は少し腹が立った。
「運命運命って、そんなんじゃあ生きてる意味ないじゃないか!最初から決まっているんだったら生まれてくる意味なんてないじゃないか!僕の魂にしろ、マチ子ちゃんの魂にしろ、いつか終わりが来るのを知っているんだよ。だから今を一生懸命に生きるんじゃないのか!死神みたいなね、永遠の命を持ってるやつなんかにはわからない、怖さと希望が詰まってるんだよ!あんたの一日なんかよりも僕らの一秒の方がずっとずっと大切なんだよ!」
陽太の頬は涙だらけになっていた。それを拭い取り、空中にまき散らした。流線を描いて涙の粒たちが空中を無重力状態のように突き進む。夢ですら見れない綺麗さだった。散々陽太に言われて、少し落ち込んでしまって黙っていた死神が独り言のようにブツブツ言う。
「お前さんの言う通りだ。確かに最初から決まってちゃ、生きる意味などない」
死神は近くにあった葦をむしゃり取り、手の中でこねくり回した。乾燥しきっていた葦からは少し屑が飛んだ。葦の屑もまた宙に散らばった。
「しかしわしは、運命を変えられないとは一言も言っていない。所詮神が七日間しかかけないで作ったこの世界。欠点があってもおかしくない。お前さんが心からそう望み、行動すれば、いつかは叶うかもしれない」
バラバラになった葦を投げ捨てて、死神が長い溜息をつく。
「だが今回ばかりはもう遅い。一回死ぬと確定した人間というのはわしですら救い出せない。許しておくれ。草田の魂は葬式の日に抜かれる。お前さんはその葬式に出席してこい。心に安堵が戻ってくるだろう」
熱くなっていた陽太も少し落ち着きを取り戻した様子で、地面の砂粒を掬っては、それを高い位置から指の隙間を通して落としていた。当然、空中に止まった。
「もういいです。死神さんには感謝してます、ありがとうございました。僕を現世に戻してください。心の安堵も、マチ子ちゃんがいないと意味ないですし…」
何かを隠すとき、陽太は決まってほっぺたを膨らます癖がある。今の陽太はまさにそうなっている。
「本当にいいのか?言い忘れていたが、常の間は一生に二回しか来れないんだぞ?お前さんがここから出たらもう二度とわしに会えないんだぞ?」
「大丈夫です。一回死ねばまた会えますし」
死神に会ってから、陽太は随分と大人になった。
「そうかい。じゃ、気をつけてな」
そう言って、死神はゆっくりと指を鳴らした。途端、あたりが黒い煙に巻かれ、陽太は瞼が重たくなるのを感じた。
「陽太?起きてるか?」
先生の声がする。
「…はい」
陽太は寝ぼけた頭を叩き起こす。
「手術終わったぞ?」
「え?本当ですか?」
陽太の眠気が先生のその一言で全部吹っ飛んだ。
「成功はしたんですか?」
「いや…その…マチ子ちゃん」
「え?」
陽太の表情が硬くなった。どんな回答が来ても耐えられるよう、奥歯をしっかり噛み締めた。
「マチ子ちゃん、残念だけど、本当に残念なんだけど、亡くなった」
先生の顔は病院のライトとちょうど逆光の位置にあり、表情がよくわからなかったが、声のトーンがいつもより二、三倍暗かった。
「え…」
もう寝ぼけていないはずの陽太だが、何も言葉が浮かばない。
ついさっきまで他の誰かといたような感覚がした。その人とすごく熱い論争した記憶もある。でも誰なのか思い出せないし、何をそんなにも必死になっていたのかもわからない。そして今、マチ子ちゃんが死んだ。陽太の心の中は空っぽになっていた。まるで魂が宿っていないように。
伍.奏でられる狂詩曲
マチ子ちゃんの死から数日が経った。陽太は未だに抜け殻のような心境のまま過ごしていた。小学校の卒業式を迎え、中学用の制服や教科書、その他諸々が家に届いた。小学校とは違い、何もかもが統一されていた。また、髪型や履く靴、女子なんかは髪を止めるためのバンドや下着の色まで指定された。それら全部が陽太にとって違和感しかなく、まるで個性をかき消されたように、どれを挙げても他のみんなと一緒だった。
「全て最初から決まり切っていることなのだ」
「これがお前さんの運命なのだ!受け入れるしかないんだ…」
聞き馴染みのある声が脳内で反響する。陽太は、自分の精神状態を考慮した上できっと幻聴だと思い込んだ。
マチ子ちゃんのお通夜は中学の入学式の三日前に行われた。陽太の住んでる町は小さかったので、ほとんどの子が同じ中学に進学する。それ故、お通夜に来ている陽太の同級生はみんな同じ制服を身に纏った。
焼香が始まった。殆どの同級生がお葬式やらお通夜やらに参加したことがなかったから、自分の親のやり方を見よう見真似にやった。陽太はお婆ちゃんの葬式の時に一回やったことがあったから、特に困ることもなく普通にこなした。 マチ子ちゃんの遺影はとても可愛く写ってた。なんで死んじゃったんだろう。罪なき人がなぜこんなにも早く死んじゃうのだろう。合掌しながら、陽太はずっと考えた。脳内でまた幻聴のような声が聞こえる。
「お前さん、魂と引き換えに心の傷を癒すのではないのか?」
「魂?」
陽太は思い出した。マチコちゃんの死は自分の抱いていた恐怖を振り払うためのもの。それは自分と死神が交わした約束が原因で起きたものであり、死神は忠実にそれに償ったのだ。
しかし、いくら陽太が自分の過ちに気づき、不安に思っていても、陽太の心は取り戻した安堵で一杯で、鼓動すらがゆったりとしていた。自分がマチ子ちゃんを殺したんじゃないかと疑心暗鬼にもなれなかった。周囲を見渡してみると、その場にいる人たちと自分とでは表情が明らかに違うのだ。泣いてる人や、嘆いてる人、知らない人がたくさんいることに少し戸惑ってる人や、ただただ下を向いていて、何も喋らない人…陽太はというと、これといった悲しみも、恨みも憎しみもなく、ただその場にいるだけであった。自分がなぜあんなにもマチ子ちゃんのことが好きだったのかも、なぜあれほど必死に、一生懸命になっていたのかもわからなかった。その時間がまるでなかったように感じている自分に対しても、怒りを抱けずにいた。
「陽太、悲しくないのか?落ち込みすぎて涙も出ないか?」
担任の先生が声をかけてくる。この人も自分と一緒になって必死に病院に駆けつけた人だ。なのに、やはり自分とは何か違っていた。
「ん?なんか喋ろよ」
「いや、そういうのじゃないっす」
「え?」
「そういうのじゃないっす」
「お、おう。あまり考えすぎるなよ」
考えすぎというよりかは何も考えられなさすぎて困っている陽太であった。だんだん視界の端が暗くなっていく。瞳の真ん中に向かって焦点が集中するように歪み、瞳孔が潰れそうな、激しい会場の門をを思いっきり飛び出し、夕日が沈んでいく鉄道沿線上をどこまでも走った。陽太の脳内では、昔音楽の時間に聴いた『ラプソディ・イン・ブルー』が激しく鳴り響いた。狂詩曲、ラプソディ。その時隣に座ってたのはマチ子ちゃん。今でも鮮明に覚えている。
ピンポーンピンポーン、プシュー
酒臭い三人組の若者が電車に乗り込んでくる。そのうち二人が茶髪で、それぞれ黒いTシャツに銀色のネックレスをしていて、もう一人は黒髪だが、こちらは白いジーンズを履いていて、やはり派手であった。どれほど飲んだのか一目瞭然なくらい覚束ない歩きを見せながらも、ようやく席にたどり着き、若いくせによいしょと声に出しながら大きく尻餅をついた。電車は春日部駅に入っていく途中だったため大きくカーブした。車体がかなり斜めを向き、不安定な揺れがしばらく続いた。
「ちょっと気持ち悪いわ」
「本当に大丈夫かよ」
「吐くんじゃねぇぞ〜」
真ん中に座っていた茶髪が前かがみになった。我慢しきれなくなり、ついに嘔吐してしまった。吐瀉物は車内の床一面に広がり、近くにいた乗客はすぐさま避けた。
「俺らも少し離れたところに行こう」
先輩は不機嫌そうな顔で陽太に話しかけてくる。
「そうしましょ」
スーツを着崩したサラリーマン二人は座席を離れ、別の車両に向かった。
電車という箱は今日も人を乗せて揺れる。魂を乗せて揺れる。