六話 鳥の声が鳴く頃に
六話 鳥の声が鳴く頃に
朔夜が桃也から勉強を教わって数ヶ月が経過した。
最初は自分の名前を書くのも大変だったが、今では自分の名前どころか自分の意思に沿って文章を書けるようにもなった。朔夜の努力なのか、はたまた天性の才能なのか分からないが上達が目に見える。
「朔夜。うまいぞ」
「ありがとうございます」
朔夜の成長にも桃也は目を見張るものがあり、どんどん教えてしまう。
勿論、蘭丸もそれを教わる。
朝から勉強をしていたせいで、時間を忘れてしまう。しかし、腹時計は正確なようで空腹を蘭丸と朔夜の腹は音を鳴らして知らせてくれた。それを聞いた桃也は笑った。
「昼にするか」
「うん!」
「って言ってもだ。飯がねえ」
桃也は唸っていた。
今日、青葉は一時的に実家に戻っている。夜になるまで帰ってこない。桃也はそこまで料理が得意でない。できなくはないのだが、不出来なものを育ち盛りの蘭丸と朔夜に食べさせたくはない。
「お母さんは今日いないんでしょ? どうするの?」
蘭丸が聞いてくる。もう考えている余裕がない。蘭丸と朔夜はこうして腹を空かせて待っている。ついに桃也は最終手段を繰り出す。
「蘭丸。朔夜。外へ食べに行こう」
「外ですか?」
朔夜が聞いた。そして目を輝かせている。朔夜はその貧しさゆえ、外食などできない。蘭丸もあまり食べたことないため、嬉しそうだ。桃也はすぐに出かけるぞ! と言う。蘭丸と朔夜も準備して屋敷の外へ出る。
朔夜には町の活気もなかなか見られない。心を踊らせる。
「珍しいかい?」
「はい! たまにしか町にはこないので!」
朔夜が子供らしいところを垣間見せた。
桃也に連れられて蘭丸と朔夜がやってきたのは大衆食堂。時間はちょうどお昼時。たくさんの人々がお昼ご飯を求めて食堂に集まっている。
「うわあ。人いっぱい」
「お昼だからね。さ、席に座ろう」
桃也たちは席に座り、お品書きを広がる。朔夜は今までの学びを実践する絶好の場だった。料理が決まり、人を呼んだ。
「ご注文、お聞きします!」
声が比較的若い。まだ小さい少女の声だ。目を移すとそこには蘭丸たちとそう変わらない少女が紙の束と筆を持って立っていた。髪の毛を一つに束ね、それを桃色の長い紐で結んでいる。とても可愛らしい少女だった。
声を出したのは朔夜だった。
「鶏ガラ水餃子三人前をください」
「あ、あと野菜炒め一つで」
朔夜が生まれて初めての注文をした。そしてみんなで食べられるように野菜炒めを桃也が追加した。
「かしこまりました!」
少女はサラサラと書いて厨房のある奥へと走って行った。朔夜は初めての注文の余韻に浸っていた。
「それにしても、注文を受けてくれた子可愛らしいお嬢さんだったな」
「あの子、すごく可愛かった!」
さすが男の子だ。話題は先ほど注文を受けてくれた可愛らしい美少女へと移る。桃也が推測ではあの子は蘭丸と朔夜と同い年ではないかと言う。もしそうなら驚きだ。
「でもすごいね。僕たちと同い年なのにもう働いているなんて」
蘭丸は言った。
食堂の中はうるさいくらいに賑わいを見せていて、そしてどこからともなく美味しそうな香りが届く。朔夜にとってみればこのうるささも新鮮だった。
厨房では体ががっちりとできた男が鍋を振るっていた。できた料理を皿に盛り付ける。大きな声で言う。
「野菜炒めあがり!」
「持ってくわ」
やってきたのはがっちりとした男とは対になるほど美しい女性がやってくる。整った顔立ちに印象的な瞳。香国にはあまり見られない茶色の髪の毛。そしてどこか顔立ちも香国に暮らす女性たちとは異なっているように見える。
まさに美女と野獣の組み合わせた。
女性は野菜炒めをお盆に乗せて、桃也たちの元へと運んできた。
「お待たせいたしました。野菜炒めです」
目の前には出来立ての野菜炒めが白い煙を上げて目の前に置かれる。桃也が野菜炒めを見て美味そうだろ? と話しかける。しかし、二人の目線は別の方向に。
「綺麗な女の人だぁ・・・」
「うん・・・」
野菜炒めを運んできた綺麗な女性に見とれていた。桃也は普通子供なら野菜炒めの方に意識が向くかと思っていた。しかしその予想は的外れだった。
「ほら、温かいうちに食べなさい」
「はーい」
二人は箸を持って、手を合わせて「いただきます」と声を出す。そして野菜炒めを口の中に入れると一瞬で笑顔になった。
「美味しい!」
桃也はどんどん食べろ、と言って野菜炒めを蘭丸と朔夜の前へ移動させる。遠慮しがちの朔夜にもいっぱい食べなさい、と促す。朔夜は遠慮することなく野菜炒めを口の中に入れた。今まで食べたことのない味に笑顔がほころんだ。
「ここはな、お父さんのお気に入りなんだよ」
「お気に入り?」
「そうだ。時期的には朔夜と蘭丸がまだ生まれる前だな。厳密に言うとちょうど蘭丸と朔夜がそれぞれのお母さんたちの腹の中にいた時かな」
桃也は野菜炒めをつまみながら話し始める。
青葉が蘭丸をちょうど妊娠していたときのことだった。青葉は身重でありながら家事をこなしていた。そんな青葉を気遣って桃也はよく外へ出かけていた。その時に見つけたのが、今蘭丸たちがいる食堂だった。
「そうなんだ」
「元はお母さんを楽にするためだったんだけど、いつの間にか常連になってたよ。蘭丸が生まれた後もお母さんを連れて一回だけ来たよ」
「お母さんも?」
「そうだ」
蘭丸が聞くと桃也は笑った。そして桃也は朔夜の頭を撫でた。
「朔夜。君も大きくなって立派に稼げるようになったら、お母さんにいいものをご馳走してあげなさい」
桃也の言葉に朔夜は「はい!」と声をあげた。そうこうしているうちに頼んでいた鶏ガラ水餃子が運ばれてきた。
蘭丸と朔夜は目の前の料理に思わず喉を鳴らす。お椀に入ったスープが揺らめいてキラキラと輝いているように見えた。食べることもそっちのけで鶏ガラ水餃子を見ている。桃也は少し呆れながらも二人に話しかけた。
「こら、蘭丸、朔夜。早く食べないと冷めてしまうよ」
桃也に言われて蘭丸と朔夜は手を合わせた。箸で水餃子を掴み、口の中へ運んでいく。口の中で水餃子を噛むと肉汁が溢れて、それが鶏ガラとうまく絡み合って旨味が溢れ出す。
「美味しい!」
「初めて! この味!」
鶏ガラ水餃子を食べた蘭丸と朔夜は自然と笑顔になる。その様子に桃也も嬉しそうだ。すると三人の座っている席に黒い装束に白い前掛け、額には鉢巻。ガタイのいい男がやってきた。
「桃也さま。久しぶりですね。また来てくださったんですか?」
「今日はうちの妻が実家に帰っていてね。久しぶりに大将の飯が食いたかったんだ」
蘭丸と朔夜はえ? と口を開けて呆然としている。箸で掴んでいた水餃子がそのまま鶏ガラスープの中へポチャンと落下する。すると朔夜が蘭丸に耳打ちする。
「知ってる人?」
蘭丸は首を横に振った。蘭丸も知らない。桃也は改めて蘭丸と朔夜に紹介する。
「この店の大将でここの料理人をしている蔡詩鶴さんだ」
「桃也さま。もしかして、息子さんですか?」
桃也は自分の息子の蘭丸とその蘭丸の友達朔夜のことを紹介した。朔夜は詩鶴に鶏ガラ水餃子を指さして言った。
「すごく美味しいです!」
「そうかそうか。それは嬉しいな!」
詩鶴は額に浮かんだ汗をぬぐいながら言った。桃也は忙しい時間帯にこのように来てよかったのか? と聞くと詩鶴は心配いりません! と首を横に振った。
詩鶴によると、ちょうど桃也たちが店にやってきた時が忙しさのピークだった。料理が運ばれて口の中が天国だったときに落ち着きを取り戻し始めたという。だからこうして料理人として腕をふるう詩鶴が自由に動けるのだと言う。
「そういえば、お嬢さんたちもお綺麗で」
「そうですね・・・。うちの子供は全員女なんで、全員家内に似てるんです」
詩鶴が照れて汗を拭う。そして詩鶴が片付けをしている女性に声をかけた。
「ツグミ!」
ツグミと呼ばれた女性がこちらへ歩いてくる。先ほど料理を運んできた女性だった。その美しさに言葉が出てこなかった。髪の毛の色からして香国の女性ではなさそうな予想がつく。
ツグミに見とれている蘭丸と朔夜のことを棚に上げて、詩鶴は桃也に紹介した。
「家内のツグミです」
「主人からよく話は聞いております。最初にいらした時は、ご挨拶できずに申し訳ありません」
ツグミは頭をさげる。
それに頭を上げてください、と桃也が言う。
ツグミはあの時、ちょうど三人目の娘を妊娠中で身重だったために挨拶ができなかったと詫びた。桃也は当時の自分の妻も同じ状況だったからそこまで重く受け止めなくてもいい、と言った。
猛スピードで展開していく大人同士の会話に子供の蘭丸と朔夜はついていけずにいた。完全な置いてけぼりをくらっている。二人にできるのは水餃子を口に運んで食べることだけ。
するとツグミが蘭丸と朔夜の元へ歩いてくる。
「じゃあ、三番目の娘と同い年かしら? この子達」
ツグミの言葉に詩鶴はそうかもな、と笑った。蘭丸と朔夜は呆然だ。ツグミは娘を呼んでこようと店の奥にある普段家族が生活する場所へと下がっていった。
話の意図がつかめない二人は桃也を見た。
「お前たちと同い年の女の子がいるらしいんだ。今、連れて来てくれるから挨拶だ」
二人は頷いた。
数分後、ツグミは一人の女の子を連れて来た。その子は最初に三人の元へ注文を取りに来た、あの愛らしい少女だった。
「さっきの・・・」
「そうだね・・・」
蘭丸と朔夜がそう言うと、ツグミは挨拶をするように少女に促した。改めて見てみると本当に母であるツグミに似ている。心なしか髪の毛も黒と茶色が混じっているように見える。色で例えるなら焦げ茶色と表現すればいいだろう。
「ほら、挨拶なさい」
「蔡雲雀って言うの。よろしくね!」
少女の名前は蔡雲雀。雲雀に朔夜が最初に切り出した。
「僕、史朔夜です」
そのあとに蘭丸が口を開く。再び、苗字のことは伏せた状態で。
「蘭丸です」
「へえそうなんだ」そう言ってくれることを蘭丸は願っていた。しかし、その願いはことごとく打ち砕かれた。
「苗字は?」
雲雀にとっては単なる興味本意の質問だった。しかしそれは蘭丸が是が非でも避けたい質問だった。初対面の時、朔夜はあまり詮索しなかった。蘭丸は頭が真っ白になって続きの言葉が出てこない。
「?」
雲雀が首をかしげる。それに反応できない。蘭丸が困っていると桃也が助け舟を出す。
「雲雀。こいつは孫蘭丸。こいつの友達になってくれないか?」
「友達?」
雲雀が繰り返した。蘭丸が桃也の顔を見上げた。そこには穏やかに笑っている桃也の顔があった。あんなに苗字を名乗ることに対して注意していた桃也があっさりと口に出したことに信じられなかった。
「うん! なる!」
雲雀は笑顔でそう言った。
食堂を後にして帰り道を歩いている。朔夜とも別れて桃也と蘭丸は家へと急ぐ。
蘭丸は桃也に思い切って聞いてみた。
「お父さん。どうして苗字を言ったの?」
「・・・どうだかな。俺も最初はドキッとしたけど、大将も奥さんも俺が孫家の出身であることはもう話してるからね。だから話してもいいかな、って思ったまでだよ」
そうなんだ・・・と蘭丸はつぶやいた。別に大きな不安を抱くような必要ななかったものだ。
蘭丸の中では口外してはならないものとして刻んでいるため、どこか拍子抜けだ。蘭丸は笑っている桃也の後ろを走ってついていくのであった。