過去ーご主人様
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私がご主人様に出会ったのは十年前。ご主人様がこの世界に召喚されてすぐのことです。出会った場所は王都の奴隷売り場。
「おら!さっさと歩け!」
バチンと、鞭を打たれる。その鞭に押されて私はおろおろと歩き出す。歩いた先は腐りかけの木でできた舞台。観客席には下卑た顔の客たち。
私は魔王軍の侵攻によって滅ぼされた町の唯一の生き残りでした。魔族と魔物の群衆によって村は焼かれ、魔法で破壊され、村人たちは嬲り殺しにされる。
泣き叫ぶ女の声や怒り狂う男の声。そしてケタケタと愉悦をにじませて笑う魔族の姿は今でも忘れられません。
村で一番幼かった私は両親や村人たちの手で一人逃がされましたが、幼い私が町を離れて生きていけるわけがありません。ほどなく奴隷売りに捕まって、私は売られることになりました。
ですが文字が読めるわけでもなく、見た目が特別いい訳でもなく、それどころか逃げる最中に顔に大きな傷を作ってしまった私を買ってくれる人なんて誰もいませんでした。奴隷置き場には同じ年頃の少女が何人もいましたが、見た目のいい女の子が優先して売られていき、捕まって一年経っても醜い私は売れ残りました。
ツギハギすら当てられていないボロボロの服に、家畜のエサがよっぽどましというような食事を与えられ、代わりに鞭と心を引き裂くような言葉を与えられました。押し込められた部屋は臭く、狭く、奴隷同士の暴言や暴力が当たり前に飛び交いました。
両親を失い、逃亡生活で心をすり減らした私にとって、この奴隷生活は心を削り切るに十分すぎた。
ドブ水を煮詰めたような目をして、私は淀んだ心のまま死ぬ時を待っていました。殴られても、蹴られても、ナイフを突きつけられても心は少しも揺れない。
このオークションで買われなかったら私は口減らしで殺すと言われましたが、それでいい。両親や、村の人たちには悪いけれど、苦しいままで生きるくらいなら死んだ方がいい。
そう、思っていました。
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「次は安売りの使い捨て奴隷だぁ!」
そんな品性のない司会の言葉と共に、私は他数人の奴隷と共に舞台の上に立たされました。
他の人間も手足が欠けていたり、私のように傷物だったりして売れ残った者たちばかりです。それだけに安い。新品のナイフ一本程度の値段から売りに出されます。
そんな奴隷たちばかりですから、当然客の反応もよくない。先ほどまでのような熱狂はありません。ポツリ、ポツリと手が上がり、安値で売られていく中で私を買おうとする人は誰もいませんでした。
一人減り、二人減り、舞台に立っているのは私だけ。乾いた笑い声すら漏れない。涙もこぼれやしない。
「他にいないか!ならこれで……」
(これでようやく死ねる)
オークションは終わりを迎えようとしていました。汚れた顔に小さな、小さな笑みを浮かべる。生きていることが辛かった。それが終わる。安らぎが心に満ちて、
でもその時でした。
「買うよ。その奴隷」
群衆の中から挙がった手。私はパッと顔を上げる。手を上げていたのは黒髪の若い男。そう、ご主人様が私を買ったのでした。
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「どうして」
「何?」
「どうして、私を買ったの?」
私を買った当時のご主人様は、私に負けず劣らず淀んだ目をしていました。
古びた革の胸当てに粗末な鉄の剣。いくら安いとはいえ奴隷を買う余裕があるようには思えません。奴隷そのものは安くとも、奴隷を扱う時は反抗できないように真名を使った契約魔法が結ばれます。実際ご主人様は私を買うために、有り金全てを使ってしまっていました。
私の質問にご主人様は困ったように頭を掻きました。それからため息を一つついて、こう言ったのです。
「君が僕と同じ目をしていたから」
それは同情や共感とも言うべきものだったのでしょうか。それとも憐憫か、傷の舐め合い。でもそんなことが私たちにとっては大切だったのです。
ともあれ、荒んだ目をした元勇者と澱んだ目をした奴隷。私たちは底辺の底辺から始まりました。
*
ご主人様が異世界から召喚された勇者であり、そして誰よりも非才であったがゆえに城を追い出されたことはその日の夜に知りました。
「ひどい、話ですね。強引に呼び出しておいて、無能だと思ったら放り捨てるなんて」
「うん。だけどそれはもういいんだ。僕はあいつらを見返したい。けど僕は弱い。協力してくれる人を探していたんだ」
荒んだ中にもご主人様の目には強い光があって、力がありました。それは私にとって強い希望でした。だから私はご主人様の手助けをしたいと思ったのです。何としてでも彼の力になりたい。彼のためになりたいと。
*
それから私達は場末の冒険者として、魔王軍の手先であり、人々を無慈悲に殺して回る魔物たちを倒し始める日々が始まりました。
装備はオンボロ、技術も経験もない。華やかな英雄譚なんてものはなく、地味で泥臭い騒乱の日々。しかし堅実に、できるところから少しずつ。その努力が実を結び、私たちは徐々に力をつけていきました。
でもそれはあくまで一般的な冒険者としての話。全属性に適性があるだけで強い魔法なんて使えないご主人様と、魔法適正すらなく、体格にも恵まれない奴隷の女。成長にも限界がありました。
私はご主人様に命を救ってもらった。希望の光をもらった。暗闇の世界に光が射した。だというのに私はご主人様に何もお返しできませんでした。だから。
*
……ご主人様は繊細な人です。男の人でありながら、闘技場の戦いや武骨な剣の輝きよりも花や景色のような綺麗で美しいものを好みました。
「ねぇ知ってる?メリィ」
休憩の合間にそう言って始まるご主人様の話を聞くのが、私は好きでした。
「なんですか?」
「僕の世界ではさ、花に意味のある言葉をつけるんだよ。花言葉って言うんだけど……」
この世界とご主人様の世界の花は違うものです。けれど似た形の花は多いのだとご主人様は言います。
「これはシロツメクサに似ているね。花言葉は『約束』。こっちは月下美人かな。花言葉は『儚い恋』や『強い意志』」
「花言葉は花に一つだけではないのですか?」
「そうだよ。一つの花に一つだけじゃなくて、もっとたくさん、色んな意味があるんだ。シロツメクサにだって『約束』以外にも『復讐』、『私を想って』なんてのもあるしね。……そうだね。例えばマリーゴールドって花があるけれど、これは『嫉妬』や『絶望』、『悲しみ』みたいな怖い花言葉がある。だけどね。それ以外にも『勇者』や『変わらぬ愛』『真心』なんてものもあって、結構面白い。『嫉妬』する『勇者』なんてまさしく僕じゃん」
そう言ってご主人様は笑います。日に焼けて泥にまみれたその笑顔は、底辺の暗闇の中にあって何よりも綺麗でした。自嘲しながらも強い意志があった。だから。
「そうだ。この花なんだけど、これはスノードロップって言って」
ご主人様は一つの花を手に取ります。白い、3枚の花弁で作られた小さな花。吊るされたランタンみたいな様子が可愛らしい花です。
「この花言葉は『希望』や『慰め』。でもね……」
ご主人様は内緒話をするように私の耳元に口を寄せて、囁きました。この声はくすぐったくも心地いい。
ご主人様はスノードロップに隠された秘密を教えてくれました。私はそっと息を飲みます。
「……そうなんですか。それは……怖いですね」
「うん。だからスノードロップを人に送る時は注意しないと駄目だよ」
ご主人様は子どもに教え諭すように言いました。
「花を贈る人なんていませんよ」
ご主人様の世界では違うようだけど、花を贈るということはその相手と対等でありたいということを表す行為です。奴隷とご主人様ではそれは成り立ちません。奴隷と主では、決して対等にはなりえない。
だから、誤魔化すみたいに笑い合いました。
空は憂鬱な灰色。しかし穏やかな時の流れの中で、ご主人様からそんな話を聞く。それだけの些細な時間が大好きでした。だから。
だから私は。
*
それは私がご主人様に買われて一年が経った頃。城から華々しく勇者が飛び出して、各地で魔王軍と戦い始めました。そのことを知って、ご主人様は苛立ち始めました。
王族が紹介した勇者の数は三人。その中にご主人様はいないし、その存在を匂わせることもありません。
そして勇者たちの戦果は毎日のように耳に入ってきました。やれ奪われた町を解放しただの、やれ魔王軍の幹部と戦っただの。
ご主人様が得られなかった力を使って輝かしい光の下に立つ勇者たちのことを聞いて、見返すより先にずっと遠くへ行ってしまった勇者たちの話を聞いて、ご主人様は冷静ではいられませんでした。
飲みなれない酒を飲み、酔いつぶれて周りに当たる。らしくないその姿に、私の心も引き裂かれそうになりました。
「ご主人様。眉間にしわが」
「うるさい」
「駄目です。その依頼は私達にはまだ……」
「命令だ。黙ってろ」
「うっ……はい」
奴隷である私はご主人様に服従の魔法を刻まれています。刻んだのは奴隷商人ですが、そのせいで私は命令されれば逆らうことができません。使われたのは初めてで、それだけに繊細なご主人様の傷つきようが分かりました。傷ついたご主人様と同じくらい、私の引き裂かれそうな心も痛みと悲しみでもっと辛くなりました。
首が絞まるような感覚がして、私は膝から崩れ落ちます。ご主人様はそれに構うことなく、一人先に行ってしまいました。まるでご主人様が遠くへ行ってしまうような。そんな気がしました。
行かないでほしくて、私はご主人様に手を伸ばす。けれど私の手がご主人様に触れることはありませんでした。
*
私たちは今まで大きな失敗もせずどうにかやってこられたのは無茶をせず、できることをやっていたからです。確実にできる依頼、そうでなければもう少し実力があればできる依頼。
今日受けた依頼は明らかに私たちの身に余るものでした。
無茶をした対価は当然のように支払われました。
*
「あ……ぐぁぁぁ!!」
「ご主人様!」
魔族がいると噂される古代遺跡。そこで私たちは魔王軍の幹部に出会いました。
ご主人様が念動力で弾き飛ばされ、固い壁に叩きつけられる。やったのは賢者のような姿をした老人。しかしその肌は紫色で、額に三つ目の目があります。その姿はまさしく話に聞く魔王軍の大幹部『強欲』でした。
『強欲』は強大な念動力と町一つを簡単に破壊する大魔法を使うことができる。そんな化け物じみた相手に勝ち目なんてありません。
ご主人様は勇者である証の光属性の力を使うこともできず、羽虫でも払うかのように倒されました。私も同じように指先一つで遺跡の壁に叩きつけられました。
『強欲』からして見れば低位の冒険者である私達なんて、手で払える小さな羽虫以下の存在でしかないのでしょう。
「ご……主人、様。わた、し」
朦朧とする意識の中、私はご主人様に向かって手を伸ばしました。でも遠い。地面を這いつくばる私にはご主人様がどうしようもなく遠い。さらに私の手は『強欲』に踏み潰されました。
「あぁぁ!」
グシャリ。骨が粉々に砕かれる痛みに、私の口から悲痛な叫びがもれました。でも私はご主人様に向かって砕けた手を伸ばしました。助からないと思いました。もう死んでしまうと思いました。
なら、助からないのなら、死んでしまうならせめてご主人様の隣で。砕けた手など気にすることなく、私はご主人様の所へ這い寄ろうとしました。
「む?」
そんな私に『強欲』は愉悦に満ちた顔で、足をまた振り上げました。その時です。『強欲』が声を上げました。そして足を下ろし、私の髪を掴んで乱暴に顔を上げさせました。『強欲』の三つ目が私の顔をまじまじと眺め、おぞましく蠢きました。
その三つ目が動きを止めた時、『強欲』は今までにないほど凄惨な笑みを浮かべました。
「面白い。そして素晴らしい。まさか生まれたままの人の身で、闇属性の適性を持つ者がいたとは」
「え……」
乱暴に顏を上げさせた状態のままに、『強欲』は一方的に語り始めました。その声はひどく興奮していました。
『強欲』は言いました。魔王軍の幹部はそれぞれ大罪の名を冠している。それは魔王から『大罪』を受け取るからである。しかし魔族の誰もが大罪を受け入れることができるわけではない。
必要なのは魔王と同じ闇属性の素質と強靭な意志。大罪を受け取ってもなお壊れない強さを持っていること。
本来闇属性は魔族にしか発現しないが、人であるはずの私にはなぜか闇属性の適性があるらしいと。
「これもまた何かの巡り合わせだろう。お前に二つの選択肢をくれてやる」
『強欲』は指を二本立てました。
「一つ目は今ここで無様に死ぬ選択。まぁ、慈悲ぐらいはくれてやる。お前の望み通り、あの男の隣で殺してやろう」
指を一本折る。そして残った人差し指から暗い闇を放ちながら、『強欲』は醜く顔をゆがめました。
「二つ目。お前、『嫉妬』の座を受け取るつもりはないか?」
素晴らしい力が手に入るぞ?その言葉を聞いて私は……。
*
「ご主人様!ご主人様!」
「う……メリィ?」
「良かった。無事で……」
「僕は一体」
ご主人様が目を開ける。そして虚ろな目で辺りを見渡しました。
「忘れてしまったんですか?古代遺跡に入ってタチの悪い罠にかかってしまったんですよ。それでご主人様は気を失ってしまって」
「そうだったんだ。……そうだっけ?」
「はい。そうなんです」
私はご主人様にそれが真実だと告げます。ここでは罠にかかっただけで何もなかった。魔族なんていなかったし、『強欲』とも出会っていない。油断して気絶しただけ。それだけだと、ご主人様に言い聞かせます。
ご主人様は頭を押さえながら私に怪訝な顔を向けたけれど、私の言葉を信じることにしたようでした。コクリと頷きます。そのことに罪悪感を覚えましたが、この隠し事を知られるわけにはいきません。
*
「さてどうする?」
「わかり、ました。私を『嫉妬』の座に」
その答えを聞いて、『強欲』はまたニタリと嗤い、そして私の胸に腕を突き立てました。私の心臓に『強欲』の腕が突き刺さり、ポタポタと温かい血が滴り落ちました。
激痛とともにこみ上げてくる命が失われる感覚。だまされたのかと思いました。けれど違いました。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「こらえよ。痛みはすぐ引く」
黒く蠢く何かが私の中を蹂躙して、侵していく。心臓から血液を通じて、“よくないもの”が巡っていく。『強欲』の言う通り、痛みはすぐに引いていきました。
私が私でなくなる感覚。“よくないもの”によって私の中の大事な何かが踏み潰されて、黒々としたものに塗りつぶされていく。
幼い頃村で過ごした幸せな記憶も、ご主人様から聞いた花言葉の話も、ご主人様に買ってもらった時のことも、全てが黒い何か覆われて、色褪せてしまう。色づいて見えた過去が灰色に、覆い隠されてしまう。
そしてそのことが嫌だとも思えない。そう思う私の心が作り変えられてしまう。『強欲』から与えられた闇で……違う。
この闇の正体は私だ。私の奥底から、真っ黒な闇がコンコンとこぼれ出てきているのです。
人間性の喪失と共に、私の中に私でない何かが根付いていく。私の闇と結びつく。それは背徳的な快楽と共に私に馴染んでいきました。
“よくないもの”が私の中に入りきったとみると、『強欲』はズルリと私の胸から手を引き抜きました。力を失い、私はそのまま倒れ込みます。でも私からこぼれたはずの血はどこにもなく、胸にも傷がありませんでした。
「ほほぅ。ますますもって素晴らしい。お前の『闇』は『嫉妬』の力と深く結びついた」
『強欲』は嬉しそうに、楽しそうにケタケタと嗤います。私自身、『強欲』の言ったことがどうしようもなく理解していました。どうして今まで気づかなかったのか。そう思ってしまう程に、私の抱える闇は大きく、深かった。
それこそ、底なんて到底見通せないくらいには。
「もうお前とは会うこともなかろう。もっとも悪辣にして、凶悪にして、矮小で醜悪な『嫉妬』の力。上手く使いこなせるといいな」
そう言って『強欲』は去っていきました。そして去り際に背を向けたまま「大罪を背負うことの意味をよく知るといい」と言い残しました。後に残されたのは魔王軍幹部『嫉妬』になった私と、倒れ伏したまま動かないご主人様だけ。
すまない、と。小さな声が響きました。それはあるいは幻聴だったのかもしれませんけれど。
私は自分の手を眺めます。私の中の闇を意識すると、ズルリと漆黒の闇が手の平から這い出てきました。靄のように立ち上る暗黒。『嫉妬』の力を証明する私の「闇」。まとわりつくように漂う黒より黒いその闇を見ていると、深い安堵感と共に吸いこまれてしまいそうになります。
今この安堵感に呑まれてはいけない。闇を収め、頭を振って払いました。
おぞましい闇の力。ですがこの力は私たちの助けになる。私は本能に近いところでこの力の使い方を理解していました。私は倒れたまま動かないご主人様の元へ歩み寄り、ご主人様に手を伸ばす。
伸ばした私の手はご主人様の額に届き、私はご主人様の頭を闇で覆いました。