見えたのは怨念感じたのは地獄
『──ぁ────ア───』
声が遠くなるまで振り返らずに走り続けた。階段はなかなか長く、体力には多少の自信があるが、僕はもうすでにへばっていた。
無理、脇腹痛い。
「ぐうっ……」
「あ…………ごめ………」
「だ、大丈夫」
追いかけられなくなって落ち着いたか、女の子は歯を食いしばりながらそんな事を言った。
「…………あ……ー……げほっ………ぐ………」
「そっちこそ大丈夫?」
「体力切れ……、今襲われた……ら対して逃げられず……に死ぬ………自信ある」
「それは嫌………」
「にしても……ほんと、まっく……げほっぐほっ」
「取り敢えず黙って深呼吸して、ほら、吸ってー吐いてー」
言われたとおり、深呼吸をする。寧ろ咽せた。
「…………落ち着いてきたかも」
脇腹がまだ痛むが、そんな事気にしていられない。
進むしかないんだ。
「………」
先が暗闇。何も見えない。
「ねぇ、引き返そうよ」
「………ねぇ、もしかして黒いの、見えてないの?」
「?? 黒いの、ってさっきから言ってるけど何のことなの?」
「今後ろに着いてきてる、この集団だよ」
正直さっきまで気付かなかった。黒い紐が一本から十本程度の輪郭の人型が各々変な動きをしながら降りてきている事に。
気付いた後やっと寒気が来たが、遅いと思う。あと数十秒座っていたら掴まれていただろう。
「なんも……いないよ……? なんか、見えてるんだ」
女の子も怖気を感じたようで声が震えていた。
「やっぱり、見えてないんだ」
「どんなのなの?」
「………いやぁよく見たらスッゴく可愛らしい縫いぐるみだよ、見れないのが可哀相だ」
「……寧ろ怖いよ」
「あー、うん。ごめん」
兎に角無駄な動きが、黒紐の集団には異様に多かった。歩いてでも追いつかれたりはしないだろう。
……あのくねくねする奴は何なんだ。見続けたら気が狂いそうだ。
「お、追い付かれない? 諦めた訳じゃないよね??」
「死にたくねぇから、大丈夫だから」
「私は君に置いてかれたら死ぬしかないからホント頼むよ??」
「頼まれた」
「怖いなぁ、すごく怖い」
この女、慣れてきてない?
扉だ。
「なんか、着いたね」
「何の教室の扉かは知らねーけど………」
黒い紐がうようよ出ている。中には数本の白い紐が混ざっているのが、妙なところだ。
背後を振り返った。一直線になっていない階段なので、後ろには何も居ない。黒紐集団は何段も上に置き去ってきたから、ひとまずは後ろは平気だろうが。
「真面目に、開けたい扉じゃないね」
「……………あぁ、まあ」『アァァァア!!! マテ!! ミルナァァア』
「時間は、ない。開けるぞ」
僕は、扉に手をかけた。黒い紐と白い紐が一気に手に絡みつく。
────来るな──お前はここで───見るな────立ち去れ───赤い壁───白い肌───赤い瓶────体の感覚が───朱い肌───肉の塊───千本爪楊枝────鋭い刃────眩しい光───羨ましい──あれはなに───
「あ、あぁぁぁぁあぁぁ!!!?!?」
なんだ 歯が
爪が 痛い
なんだ 痛い
痛い 肌が
なんなんだ なにが
痛い
足が
手が
『ウデヲヨコセ』
「ひっ!? 何なのよぉ!!」
────寄越せ───羨ましい───五体満足───羨ましい────許せない───羨ましい───
「っ─────ぁぁあ!!!」
激痛が、目の前を舞う幻が、あり得るはず無い景色が僕を襲う。短い記憶の中でも襲われたことない感覚に気が狂う。これはなんだ、あれはなんだ、いまはどこなんだ。
あぁぁぁ………あ?
これは………暖かい─────?
『ウァァァァア!!!』
右手が光る。違う、右手の御守りに白い紐が絡みつき、光を放ったのだ。
暖かい光だ。後ろにいる黒紐の人型もおぞましい本数の黒紐の集合体も、この光を浴びて後退する。
扉の黒紐は千散となって消え去り、おぞましいほど痛い感覚が嘘のように消え去る。もう何も見えはしない。
「何が……」
女の子は呟いた。気が狂ったように叫びだして、この子には迷惑をかけただろう。
しかし、光はほんの少し弱くなった。ずっとついているものではない、と言うことだ。
僕は扉を開けた。
────助けて
「これ、何?」
「……ここは。多分」
────苛めないで、虐めないで
「彼女の、記憶じゃないかな」
───おとうさん、わたしに何をするの
「何あの黒いのは」
「彼女から見た、お父さんじゃない?」
───やだ、やめて、腕が……
「っ!?」
───いやぁ、いやぁ!!
「なにこれ……惨い……」
───あし、なくなっちゃった
「…………」
───針千本? うそ、うそなんてツいてナいよっ!?
───ぁ………ぇ………
「…………酷い」
『あぁ、これは私だ』
「この声!!」
「…………」
気が付けば少女の死体がそこにあった。肌は剥がされて、腕は散々切られた後に完全に胴体から離れて腐っていて、足はぐしゃぐしゃに潰れて骨だけで死体に繋がっていた。
所々に傷があるというのに顔と胸と股にだけは傷一つなく、この少女の『おとうさん』が何らかの作為を持って傷つけていたのは僕にでも分かった。
何とも直視しがたい死体は起き上がった。
『この体の欠けた、物は私だ』
「………」
『お前達が羨ましい』
「羨ましい、って」
……女の子は呟いた。
腕を切られ、足を潰され、肌を剥がされ、楊枝を何本も飲まされる、そんな虐待を受けた少女が言う羨ましいという言葉が、僕たちには重すぎた。
『お前達のような体があればおとうさんと一緒に、外に出られた』
「は?」
僕達のような体があれば? 全く以て理解できない。奪ったのは紛れもない、こいつの言うおとうさんだぞ。
『私はおとうさんにあいされていた。そうしそうあい、だって』
「なんだ、それ。なんだそれ!! あの、おぞましい、痛いアレが!! 愛!? ふざけんなよ!!」
『なにか、おかしい?』
「あぁおかしいね!! あんなの! 虐待だ! 愛じゃねぇ!!」
『そんな事無い、私あいされてた!!』
「お前は、おとうさんに何をした! 何をされた!!」
『私はおとうさんにあいを貰った!! 私はおとうさんに…………あれ?』
「愛って言うのは!! 一方的じゃ駄目だろ!! 何よりもお前は愛ってなんだか分かるか!?」
言ってることがぐちゃぐちゃで、何かが違うことはよく分かるが、僕にとって今重要だったのは、ただひたすらの否定。
少女の言う『あいされている』事の否定だった。心を突き動かされるような感覚が
「……わかんねぇだろ? 分かるはずあるか、分かってたまるか。僕にだってわかんねーからな!!」
『じゃあ私のあいを否定するな。お前達の腕を。足を。体を奪って、私はおとうさんに会いに行く』
「嫌だね、僕はな、今とっても怒っているんだ。お前のおとうさんとやらにな」
『何でおとうさんに怒るの?』
「おま、本当に………」
『怒るの。止めないと──』
部屋の所々に転がっていた凶器が、カタカタと鳴り出す。刃物だけでなくペンチやら何やら雑多なものがある。
「………っおい!!」
何をすればいいんだ、この少女は。生半可な怨念でここにいるわけではないんだ。それをどうやって止める。
『───殺す』
駄目だ、死ぬ。
「えいっ」
ガツッ────
鈍い音と共に視界が白んだ。そして、ドスドスと刃物や何やらがぶつかる音が連なり重なって響いた。