その七 青雲をみあげながらのよしなごと
1『規律委員会コレクション・秋のファッションブック』
2「理科準備室告白事件」における行動記録
3 絵画にかんするつれづれに
その七 青雲をみあげながらのよしなごと
1 『規律委員会コレクション・秋のファッションブック』
たいてい南雲と交わす話題は、洋楽のヒットチャートだとか、中古レコード店での掘り出し物とか、あとは双方の親が所蔵しているレコードの貸し借りが中心だった。会計事務所を経営している南雲の両親は、かなりの音楽好「唄が全く入っていない、インストロメンタル系の、哀愁っぽいもの」をリクエストしてずいぶんテープに録音してもらったもののだった。お返しに上総も、父の持っているクラシック系のものを大量に持ち出している。仕事に忙しい父はたぶん、勝手にいじられていることを知らないだろう。
外は青空。うすい黄金色の山々が、そそりたつように窓につきささってくるようだった。遠慮なくカーテンも窓も開けた。クーラーはかけなかった。黙っていても風がするすると入ってくる。ちょうどいい温度だった。
「おもいっきり、写生会日和だよなあ」
「ほんとだ。俺もそう思う」
思い出したくないことをつつかれたようで、寝返りを打った。
「さて、金沢くんはどのような傑作をものとするんでしょうな」
「昨日は一生懸命、虫のいろいろを虫眼鏡で観察しながら、何かを写していたよ。とにかく、普通でないものを描きたそうな顔、してた」
その場では筆でうっすらとまとめていたはずだ。帰ってから完成させると楽しそうに話していた。
「自由研究の提出物は完成なんだ。いいなあ」
南雲はふうっとため息をつきながら、膝を抱えてごろごろと回った。ゆりかごのようだった。
「りっちゃん、今回の自由研究は完成したか?」
「一応。もう夏休みの段階で英語の先生からこれやれって言われてたし。イギリスの児童文学で短いのを、自分なりに訳してみろって。ほんとは普通の文学書みたいなのやりたいって、先生に言ったんだけどな」
「そんな難しい奴やりたいって言ったのか?」
「お前には早すぎるって、却下された」
『グレート・ギャツビー』の原書はペーパ^バックスで手に入れていた。暇があると単語を調べて、書き込んだりしている。自分で現在ひとり、訳してノートに写している。本当はそれを提出するつもりだったのだが。
好きな作品だったら、いくらでも熱中できる自分。
「それはそうと、なぐちゃんは何にしたんだ?」
答えず、南雲は天井を見つめたままひとこと、答えた。
「『規律委員会コレクション・秋のファッションブック』原稿」
わざわざ部屋に戻って、スケッチブックを持ってきてくれた。
B5程度で、自由研究提出用のラベルを貼ってあった。印刷するだけであとはOK。受け取って上総はぱらぱらっとめくった。 絵の前後にはちゃんと、南雲の直筆ファッションコラムもたくさん記入されていた。南雲の文字は、英語の筆記体を日本語に写したような、斜めががったものだった。
その後はしばらく、とりとめもなく、音楽ねたを振っていた。本当は南雲も、もう少し絵の話をしたいようだったけれども、上総が乗ってこないのを察してかすぐにそらしてくれた。
洋楽チャートトップ100の傾向についてひと段落し、南雲はもう一杯サイダーを注いだ。だいぶ気が抜けているようだった。甘ったるい、砂糖水になっている。
「でもな、こんないい天気だったらふつうは、外に行きたがるんだろうな」
だんだん太陽が白く、輝いてきている。窓辺からもやのように流れてくる。空の青さだけが歯切れ良くて、上総は身を起こし、眺めながら言った。南雲もつられてか、立ち上がり窓辺に立った。
「ふつうは、たぶん海とか山に行きたいって思うよ。俺もたぶん、そう思う」
りっちゃんは?と聞いてこないのが、南雲のいいところだった。
これが貴史や美里だったら
「どうしてなの?夏って体を動かすと気持ちいいよ。だから立村くんって、軟弱だって言われるのよ。すこし鍛えなくちゃだめよ」
とあきれられるのが落ちだ。言ったことがなかった。
どうしてみんな、夏が好きなんだろう。
外に出れば頭が痛くなるし、汗をかかない代わり熱が出て途中でしゃがみたくなるし、大抵貧血起こしてぶっ倒れる。海に行くともう駄目だ。潮風をかいだとたんに胸がむかむかして、何も食べられなくなる。水着に着替える場所の、ぬめぬめした足の感触ががまんできなくて、小学校時代からほとんど、プールや海に行ったことはなかった。
そういうことを、周りでは「変わっている」とか「不健康」とかいう。
口には出せなかった。
「なぐちゃんは、夏、海に行ったりしたのか?」
「行ったよ。でも泳いだのは家族旅行でだけ。じいちゃんの墓参りもあって、この前行ってきたんだ。やっぱり、青潟の海とは違うぜって感じ」
ふと、突っ込んでやりたくなった。口元までシーツを持ち上げて、小さな声で訊ねた。
「あの、例の「青潟大学附属中学ファッションブック」に、水着バージョンっていうのは入れなかったのか?」
「描いたよ。もちろん。そりゃあ、ビキニもあれば、ワンピースもあるしさ。提出する時の反応が今から楽しみだな」
イラストというよりも、少女漫画の少年キャラクターを、大判にしてファッションモデルのようなポーズを取らせている。顔はほとんど描かれていない。鉛筆でさらさらと線が入っている。それにクレヨンか何かで輪郭を取り、華やいだ色合いを持たせている。
「『ビキニは基本として、体型がずんどう型の日本人には向いているので、太目のお嬢さんもどんどん着るべし』って、結構すごいこと描いているな」
そのほかにも、
「制服は基本として着崩すとまぬけに見える恐れがあるので、家の中のみでチャレンジすること。学校では、おしゃれなつもりが一気に、コメディアン化する恐れがあるので、悪いこといわない、校則に従っていた方がいい。もしその形がおまぬけだったら、規律委員会に直訴してください。センスの素晴らしい規律委員一同が、頭をひねって話し合いに持っていきます」
などと、南雲ならではのしゃれた書きぶりが笑えた。
そういう南雲がだ。どうしてだろう。
どうしてよりによって、奈良岡彰子と付き合っているのだろう。
しかも惚れるだけ惚れぬいているっていうのは。
昨日だって見るに耐え難いくらいのいちゃいちゃぶりを見せ付けていた。
「南雲は奈良岡のねーさんにに惚れ薬を飲まされたんだ。さすが保健委員」とか
「なにか奈良岡の家と南雲との間に密約が交わされているんじゃないか。借金かなにかで」
ありとあらゆる噂が流れていた。
「あのさ、なぐちゃん」
思い切って聞いてみた。
「これ、奈良岡さんには、見せたんか?」
南雲はもちろん、という風に、青空を満面にうかべたがごとく頷いた。
「りっちゃんは二番目。最初はやっぱり彰子さんですがな」
「で、感想はどうだった?」
「『あきよくんは才能があるよね』だってさ。向こうは俺のこと、『あきよくん』って呼ぶんだ」
聞きたかったのはそんなのろけじゃない。上総はためらった。窓の向こうを見た。青空の色が後押ししてくれた。
「それだけか?」
うまくいえなくて、それだけ搾り出した。どうかわかってほしかった。南雲にだったら伝わるかもしれないという勝手な思い込みが、突然噴出したかの、ようだった。
「お前の好みとか、露骨にここに描いてあるだろ。それ見て、つらそうな顔とかしなかったんか」
急に胸が締め付けられるようだった。
心臓が苦しくなったのはなぜだろう。
勝手に自分の想像力が膨らみすぎたせいだ。
「りっちゃんその辺、よくわかんないけど、なに?」
「だからつまり」
顔を隠して表情を見せないようにした。
「この中に奈良岡さんはいないんだろう」
南雲は、最初とまどったように上総の方に近づいた。が、腰を浮かせかけたとたん、言葉を見つけたらしい。すぐに坐りなおしてつぶやいた。
「水着のところのコメント、読んでもらって、誤解解いてもらったけどさあ、うまくいったかな。俺、好きな相手にはきちっと好きだと伝えるのが筋だと思ってるからさ、できるだけオープンにしたつもりだけど、彰子さんのことは描けなかった。一般大衆に受けるようにって選んだんだけど。ちょっとやばかったかもなあ」
「『ビキニは基本として、体型がずんどう型の日本人には向いているので、太目のお嬢さんもどんどん着るべし』、か」
上総はそっと首筋までシーツを引き下げた。無理やり口元をほころばせようとした、うまく行っているか自信はなかった。
南雲は上総の方をにこにこしたまま見つめていた。 タオルケットのすみにおいてあった、スケッチブックを手に取った。表情を変えることがなかった。大抵だったら、
「なんか、やばいことしたんじゃないか」
と心配そうに覗き込むか、
「なに一人でいじけてるんだよ」
とつっぱねるか。そのどちらかだろう。
どうしてこういうばかみたいなことを聞いてしまったのか、わからなかった。たまに自分が止められなくなる時がある。たまにがまんできず、意味不明な言葉を吐き出してしまうことがある。
「別に、意味なんてない。なんとなく、そう思っただけだって」
小声で答えた。年齢が一気に下がってしまい、幼稚園児になってしまったみたいだった。みっともないったらない。押さえられなかった。顔を隠しっぱなしにしれもでもいいように、頭をまくらにつけて、あお向けになった。足もとが汗でしめってきて、気持ち悪かった。
「なぐちゃん、サイダー、もう一杯ほしいんだけど、ある?」
「オッケー、余裕ですぜ旦那」
飲みたかったわけではないけれど、会話を続けるのが苦しくなってしまった。南雲には気付かれたくなかった。でも、見え見えだってことも分かっていた。
空の青さはまだ光を帯びている。どうしてこんないい天気なのに。
どうしてこんなに夏は明るいのに。
俺はいつもこう、ばかなことばっかりしゃべってしまうんだろう。
2 「理科室告白事件」における行動記録
南雲はもう一度、貴史のベットに寝転んだ。
もともとは腹を壊して休んだ奴なのだ。炭酸なんか飲んで、ちょっとまずかったんじゃないだろうか。しばらく口を利かずにいた。
上総も窓の方に寝返りを打って、じっと空を眺めていた。
ガラスが白く反射して、目を刺した。しかたなく、目をつぶった。
向こうのベットで寝返りを同じく打つ気配を感じた。
背中に聞こえた。
「りっちゃん、返事しないでいいからさ。寝てるなら寝てていいからさ。俺、ひとりごと好きなんだ。聞き流してちょうだいな」
よけいな響きのない、さっぱりした声だった。
上総は目をかたくつぶった。
「俺さ、すげえ軽い奴だと思われてたんだろうな。りっちゃんとも一年の頃はあまりしゃべらなかったからなおさらそうかなとは思ってたんだ。まあ、音楽のこととかりっちゃんやたら詳しかったし、真面目なようでいて結構遊び人だしさ。あの本条先輩に気に入られてるってことからして、ただもんじゃないとは思ってたんだ。だから、しゃべってみたいとは思ってたよ。そう、二年に入って同じ班になって、やっぱり俺の思っていたとおりだってさ。でもやっぱし、あの時は驚いたよ」
あの時って、いつだろう?
奈良岡への「理科室告白事件」のことだろうか?
上総は素早く記憶を巻き戻した。
俺は何をしたっけ?
「いきなりクラスの野郎どもに指示、出し始めた時。本当にびびったよ。まあ、覚悟はしていたよ。あんなおおっぴらにやっちまったら、ばれねえわけねえわな、って思ってたけど」
ああ、あのことか。
五月の終わり、想いを募らせた南雲が、たまたま理科準備室で二人っきりになった折、いきなり奈良岡彰子に告白したという事件だった。たまたま忘れ物を取りにきた奴にその現場をもろ見られてしまい、二年D組始まって以来の色恋沙汰に発展した。
先生たちに片をつけてもらうような問題ではなかった。
本当にただの、付き合いかけるかけないの話だった。
陣頭指揮をとって上総は、なにげない日常の出来事に治めることに成功した。あの時取った行動は絶対には間違っていないと、信じている。
寝たふりをしばらくしたまま、上総は目をあけた。瞬きした音が聞こえていないかどうか、心配だった。
空の青さの中、白い雲が細く切り裂いた。
この辺に飛行機が飛んでいたのだろうか。
「俺は軽いって言われてたし、ほとんど冗談だって言う奴もいたし、人間として最低だっていう奴もいたし、今だから言えるけど、ほんっと俺、参ってたんだ。もっと別なことで言われるだろうとは思ってたけど、まさか、人間の価値みたいな、そんなことでつっこまれるなんて思わなかったし。それにさ、向こうのことを、あそこまでひどく言われるとは想像してなかったんだ」
言葉を切った。上総の様子をうかがっているのだろうか。聞いていると思っているのだろうか。
南雲には見られないように、目が乾きそうなほどかっと見開いた。
「理科実験室告白事件」直後の二年D組は、そりゃもうすさまじい騒ぎだった。
南雲の友達ですらも、
「なぜ、あの女に?」
「なぜ、よりによってあのビール瓶女に?」
の連呼。
ましてや対して付き合いのない連中の言葉は遠慮がなかった。
クラスで相性の合わない貴史は、、
「自分が持てていることを自慢したいのかよ。気がないくせに、からかうために付き合いかけたのかよ。最低だな」
元の彼女がいたC組にいたっては、
「なぜ、彰子ちゃんにあの南雲くんが?」
「いったい何が不満だったわけ?」
騒ぎはいっそう膨らんだと聞く。
「あの後、授業中にいきなりりっちゃん、貧血起こして倒れたっけ。掃除の時間に戻ってきて、俺と一緒にごみ捨てにいったろ。覚えてないかもしれないけど、言ってくれたんだよ」
何を言ったっけ?
首を傾げたいのをがまんした。
「『大丈夫、絶対うまくいくから安心しろよ』って」
上総は人差し指の先を軽くなめた。
空の青がスクリーン、雲がキャスト。思い出した。鮮やかに。
事件発覚の直後、上総はD組の様子がぎこちないことにすぐ気付いた。妙なところで鈍感な上総は、それが南雲の告白からだということを知らず、美里と貴史を通じて詳しい事情を聞き出した。理科実験室での酸化鉄製造実験が終わった段階で、なぜこんなにクラスがざわめいているのかを理解した。努力したのではない。
勝手に、自分の感情に答えが響いてきてしまっただけだった。
ただ、告白したされただけではない。
南雲は全学年の女子から人気の高い、次期規律委員長候補。
先生、同級生のほとんどに好かれて、人懐っこく、幼さときざっぽさが同居している顔立ち。女子からの告白も、一度や二度ではないはずと聞く。C組の彼女と言われていた女子も、それなりの子だったはずだ。
しかし、一ヶ月でその子と別れ、間をおかずになぜ、ビール瓶体型の奈良岡彰子を選んでしまったのか?
性格か、それとも趣味か?
そりゃ、奈良岡のねーさんはいい奴だけどさあ。
でも南雲だぜ。まだ南雲だったらいくらでも選びようあったろ?
たぶん二年D組の男子には理解できないことだったのだろう。
そして別の意味で暴露してしまったのだろう。
男子も、そして女子も、奈良岡彰子の見栄えより上だと、信じてきたことを。
南雲の言葉によって、あっさりとくつがえされてしまったことが、ショックだったのだろう。
次の授業中、上総はずっと南雲の様子を観察しつづけた。南雲の表情は青ざめていて、いつものすかっとした笑顔が消えていた。奈良岡の姿は教室に
なかった。
「たぶん、保健室に行ったんじゃないかなあ。彰子ちゃん保健委員だから。それに、今この状態で、戻ってくるなんて、できないよ」
美里から聞いた。
他の人たちにはたぶん感じられないような感覚が、上総の場合異常なほど発達しているらしく、他の連中がつぶやいた言葉がひとことひとこと、ずんずん飛び込んできた。
「奈良岡さんになぜ?」
「どうしてC組の子を振って?」
「あんなデブと付き合うなんて南雲も狂ってるぜ」
「いったい何が奴をそうさせたんだ?」
「計算が働いているんだろ」
「からかっているだけなんだぜ、最低だ」
自分が好きな子をもし、そういう風に言われたら。自分にそういう経験はないけれど、でももし。そう、言われたら。しかも、自分よりも相手の方をさんざん馬鹿にされていたら。
唇をかんでうつむいている南雲の感情が、勝手に自分の中に入ってきた。
いつものくせだった。
もし、自分だったら、どう感じるだろう。
辛くないわけなんて、絶対にないって。
授業中、上総は自分の中で南雲の分身のようなものが、激しく自分を責めているのを感じて息苦しくなった。その拍子にめまいがして椅子から崩れ落ちた。いつもの貧血だと、診断されて保健室に行った。
たまたま保健委員の奈良岡彰子が、委員の特権を利用して保健室に避難していたからといって、追いかけたわけではない。
また、付き添ってくれた男子の保健委員が、
「あれ、ま。奈良岡のねーさん、ここにいらしたんですか」
と、気軽に声を掛けていたのも、ちょっとしたきっかけにはなっただろう。さすがに二年D組の男子が二人、保健室にやってきて、ひとりがベットを占拠してしまった以上、奈良岡も教室に帰らざるを得なくなった。
「じゃあ、教室に戻ろうかな。久しぶりに保健委員の仕事もしたことだし」
「やっぱりおさぼりはまずいっしょお」
表向きはさらっとした調子で、二年D組の保健委員ふたりは出て行った。
上総は保健の先生から額をぬらしてもらいながら、何かを口走ったはずだ。頭が重かったことと、めまいがひどくてろくな会話をした記憶がない。ただ、奈良岡彰子に向けて、何かを伝えようとして、果てたはずだった。朦朧とした意識の中で、まずこれだけはやらなくてはと、思っていたはずだった。
「だいぶたってから聞いたけど、りっちゃん、ぶっ倒れた時、言ってくれたんだってな」
南雲は言葉のトーンを全く変えずにつぶやいた。
「『南雲が、真剣に心配してたよ。隣で感じたあいつの気持ちは、本当だよ』って」
言葉が出ない。自分でも覚えていない。ただ、おぼろげに必死に、伝えなくてはと口を動かしただけだった。
「彰子さん、それまで俺が冗談言ってるって思っていたみたいでさあ。でも、りっちゃんの言葉でなんとなく、もしかしたらって思ったらしいんだ。俺がやらかした直後、そういうこと言ってくれた奴は、りっちゃんだけだった」
ばたっと、ベットに倒れこむ気配がした。
「いろいろ手を回してくれたこととかそういうことがどうとかいうんじゃないんだ。あんときにりっちゃんが俺のことを気付いてくれたってことが、すげえ嬉しかったんだ。俺は、りっちゃんのするどすぎる感覚がすげえ、うらやましいよ。他の連中が気付かないところをすくいあげてしまうとこって。お前自身が思ってるほど、りっちゃんは、嫌な奴じゃ絶対ないって」
ふわあ、とあくびをしながら、最後は締めくくった。
3 絵画にかんするつれづれに
しばらく黙っていたのは、言葉がいつ冗談で交わされるかを試したかったから。
眠ったふりをしていようか、それとも振り向こうか。
どう答えればいいのだろう。上総はタオルケットの裾を何度か握りなおした。
俺はするどすぎる感覚なんて持っているのか?
いきなりあふれでそうな言葉を、止められなかった。
「俺はするどすぎる感覚なんて、持ってないよ」
それだけがこぼれた。
「どうして?」
波長は変わらなかった。南雲の声はやわらかく響いた。
「ただ、神経質すぎるだけだって。なぐちゃん。だったらどうして俺は絵がわからないんだ? 美術館に行ってたくさん絵を見ても、ただきれいだとしか思えない俺の感性の、どこがするどいっていうんだ?」
思いっきり弾みをつけてベットから起き上がった。南雲に振り返った。きょとんとした、表情はさっぱりしたままの顔が見えた。驚いてはいなかった。
「絵、好きじゃなかったっけ?」
「わからない。でも、なぐちゃんは描くことができるから、絵は好きだろう? 絵を見て、きれいだってこと以外に何か言いたくなるか?」
首をかしげて、目をふせ、すぐに南雲は答えた。
「言いたくなる、うん、なるな」
「だろう? 頭の中にいろんなイメージ、浮かぶんだろう?」
「うん、そうだなあ、浮かぶよ。確かに」
南雲に問いかけたってどうしようもないってわかっているのに。
心臓からぶるぶる振るわせる何かが、自分に似合わない言葉をどんどんはじき出させている。
ぎゅっと握りつづけた。
「そうだよな、それが普通なんだ。他の連中と同じく、そう感じるのが普通なんだ。わかってる。俺だって、もっとそういうものを知りたいし感じたいよ。でも、わからないんだ。こんな奴がどうして、鋭いとかなんていえるか?」
穏やかに静かに、上総の知っている自分の通りにつぶやいたつもりだった。精一杯、押さえたつもりだった。絶対に、泣いてはいけないと思っていた。これ以上何もいえなくなり、ぐっとうつむいた。そうしないと、声がかすれてしまいそうだった。南雲に見破られてしまいそうだった。表情がひょいと変わるのを見たくなんてなかった。
南雲が立ち上がった。上総の方を見ないで、ふうっと深呼吸をした。
「それにしても、外めちゃくちゃいい天気だなあ。窓開けるだけじゃなくってさ、外してしまいたい気分だなあ」
窓辺に近づき、身を乗り出した。落ちそうなくらいに、上半身を外に傾けた。
「あの鳥どこの鳥かなあ。りっちゃん、鳥に詳しくないかな」
「俺が分かるのはすずめとカラスと四十雀くらいだ」
つられて上総も窓辺を眺めた。南雲は片手で上総を手招きし、指差した。
「ほら、なんでこんなとこに、来てるんだろう。あれって、白い鳩か、それともかもめか、それとも、なんだろうなあ」
見ると、すずめたちがちゅんちゅかやっている間に、ふたまわり大きな白い鳥が、うろうろしていた。一羽だけだった。遠めで見ると、鳩にも見える。羽根の裾が少し黒っぽかったところを見ると、かもめにも見える。普段、黄葉山の周りにはいないであろう鳥だった。
「はぐれたんだな、きっと。もしかもめだったら海はないから」
「うん、でもなあ、あれ一羽だけでうろうろしているのって、妙にめんこくないか? りっちゃん」
はぐれ鳥。
上総はためらいながら頷いた。言葉は出なかった。
「青い空に白い鳥、いいなあ。なんか、こういうのって絵になるよな。俺そういうのが好きなんだ。ほら、今、飛行機雲がどんどん消えかけてってるだろ」
斜めに一筆書きで、白い筋を立てていた雲が、だんだん震えるようにゆがんでいっている。窓に近づいて見る青空は、色をぼやかさないままの青そのものだった。
「俺、ああいうのは好きなんだ、りっちゃん」
「ああ、俺もそのまま、景色を見るのは好きなんだ。ただそれだけなんだけどさ」
「ああいう鳥とか眺めながら、山の景色見るのも、俺好きだよ」
「うん、おんなじだよ」
白い鳥は何度かはばたきをして、何かをついばんでいた。大きく羽をひろげ、見得を切るようなポーズをした後、ゆっくりと飛び立った。ちゃんと大空に舞い上がるところをみると、やっぱり空は飛ぶためにあるというタイプの鳥らしい。木々の陰からふわふわと、横一直線に飛び立っていった。
「あら、いっちまった」
「いつまでもはぐれちゃいられなかったんだよ」
南雲はしばらく白い鳥の去った場所を眺めていた。すずめたちが安心したのか、また同じ場所に集まってきて騒ぎ始めた。たぶん、なにかえさがあったのだろう。お米とかパンとか、撒いているんだろうか。あとで聞いてみよう。南雲にそういおうと思った時、先手を取られた。
「俺さ、りっちゃん。よくわかんないけど、空の青さはきもちいいなって思うし、白い鳥もすずめも見てるとめんこいなって思う。可愛い子の写真みたらおおって思うし、でも彰子さんのことは好きだし、りっちゃんはいい奴だって、思う。俺、美術関係の難しいことわからんし、知りたいとも思わないけどさ、でも、イラストは書きたいなって思う。俺はただ、好きなことを、好きだって言うだけで十分なんだ。絵だって音楽だって、語るだけが能じゃねえよ。ただ、好きだとかきれいだとか、それだけで十分だって思うんだ。しゃべりたい奴は、勝手にやってろっていうんだ」
空に目を向けたまま、上総の顔は見ないで続けた。雲がだんだん消滅していくのがわかった。
「南雲家では、ガキの頃から『好きなものは好きだとはっきり伝えること』が真実だって言われてきたんだ」
さっさと背を向けて、南雲はサイダーの量を、振って確認した。
「やべえ、ないや。なんか飲み物買ってくる」