その四 一日目おやすみまでのよしなごと
1 臨時個人面接の時間
2 サスペンスドラマを見ながら一言
3 てさぐりのクラスミーティング
4 めにみえる危険性
その四 一日目おやすみまでのよしなごと
1 臨時個人面接の時間
上総は貴史と共に、自分たちの部屋に戻るつもりでいた。一度、クラス全員で大部屋に集合し、そこで夏休みなにをやらかし、どこらへんで遊びほうけたか、最後に宿題はどこまで進んだかなどを報告しあう予定だ。どうせ、三十分くらい余裕があるのだからと思っていた。
まあ、一応は、研修らしきことも、まぜておかねば。
上総なりの考慮点だった。菱本先生も待ってましたとばかりにOKを出した。
「おい、立村、ちょっと来い」
「なんでしょうか」
奥歯をかみ締めて理性を保つよう、自分に鞭を入れた。
気付いているのかいないのか、菱本先生は時計をちらりと見て、次に貴史の方に軽く頷いてみせた。
「悪い、羽飛、ちょっと立村とふたりっきりにしてくれないか?」
「先生、まさかそういう趣味だったのかよ」
からりと貴史が言ってのける。
「ばかだなあ。俺は完全なノーマルだ」
よくもまあそんなことがいえるもんだ。貴史に救いの目を向けたが、あっさりと階段を昇ってしまった。
こんなはずじゃなかったっていうのに。
ただでさえ車酔いが消えていないっていうのにだ。
一体何を言いたいんだろう。
また予定変更して外に出ようなんて言うんだろうか。
たまったもんじゃない。
真っ正面に坐ろうとした。菱本先生は首を振って、隣のクッションを軽く叩いた。
要は、隣に来いってことか。
冗談じゃない。
耐えているのは自分が二年D組の評議委員だというプライドだけだった。冷静沈着でありたいという意地でもある。
上総はかばんを、菱本先生との間に区切り線代わりに置いた。
「立村、お前、夏休みはどうしてたんだ?」
言葉はいきなりがらりと砕けた。いつものようにしかりつけたり頭ごなしに怒鳴りつけたり、そんなもんではなかった。
ぞっとする。気持ち悪い。
「いえ、別に」
そっけなくも、礼儀は忘れないように答えた。
「お父さんと、どこかに行ったりしなかったのか?」
「別にそういうことはありません」
ぴんときた。
もっとも上総の嫌っているパターンだった。
防御しなくては。
「大変だなあ、お前のうちも、野郎がふたりだったら大変だろう?」
「たまに母が来ますからそのへんは」
本当のことを言ってやった。
「そうか、お母さんも心配なんだなあ。そりゃそうだな。一人っ子だったもんなあ、お前は」
だからそう、お前なんてなれなれしい呼びかけするなよな。
胸焼けで倒れそうなのに、ますますひどくなる。
一人っ子と、心配と、どう関係があるのかわからかった。
銃があったらぶっ放してやっているだろう。
一時期、巷では「教師を殴る生徒たち」という現象が取りざたされたことがあった。青大附中ではあまりそういうのを見かけないが、他の学校では今でもなんとなく起こっているらしいという。菱本先生に対してだけは、そうしてやりたい。
少しずつ離れようとした。
「まあ、いいだろ。少しくらい。ところでだ、最近立村は、何か悩んでいることとかないのか?」
「別にそういうのはありません」
「ほら、清坂のこととかあるだろ」
やっぱり来たか。
クラスで公認カップルになったのは事実だった。でもクラスの連中はさほど変な目で見ていないはずだ。要は一番色眼鏡で除いているのが、菱本先生だってことだ。上総は答えを探して軽く指同志を絡めた。あれかこれかと、迷っていた。
「別に、そういうことはありません」
「まあ逃げるなよ。初めて付き合ったんだろ。清坂は面倒見いいからなあ。気持ちはわかる」
だからなんだっていうんだよ!
言葉にならない言葉で口がねばねばしてきた。
「夏休みは、ふたりっきりで会ったりしたのか?」
よかった。これなら答えは用意されている。
堂々と答えてやった。
「はい、羽飛と三人で、宿泊研修の計画を練っていました」
「ほお、羽飛かあ」
にやけだした。何を言いたいのかがおぼろげにわかる。
「羽飛と清坂は仲がいいもんなあ。お前、妬けるだろ」
「別にそういうことはありませんから」
早くこの不毛な会話を終わらせたい。上総は必死に席の立ち方を考えた。思い切ってぶっ倒れてしまおうか。でも介抱されるのは絶対にいやだった。周りには誰もいない。みんな自分の部屋に戻ってしまっているんだろう。
羽飛、一生恨むぞ。
上総の本音を気付かぬかのように菱本先生のお言葉はさらに続いた。
「まあなあ、お前からすると、あの二人は親みたいな存在だろうなあ。羽飛はやんちゃだが性格はあったかいし、清坂は清坂で面倒見がいいもんなあ。立村、お前もあの二人みたくなりたいから、必死に評議委員をやっているんだろうとは思っていたよ」
顔をほころばせてで上総を見つめてきた。
うっとおしい。吐き気がする。身をかわそうとした。
「でもな、人間にはそれぞれ向き不向きってものがある。いくらお前が懸命に努力しても、受け入れられる部分とそうでない部分それぞれがあるものなんだ。立村、お前、青大附中に入学してから無理してないか?」
「別にそういうことはありません」
目を逸らせたまま上総は答えた。
「自分に不釣合いな立場に立ってしまって悩んでなんかいないのか?」
「別にそういうことは全くありません」
もう耐えられなかった。これ以上菱本先生の側にいたら、自分が何をしでかすか分からない。それこそ、手元にあるバックで殴りつけるか、ソファーをひっくり返すか、握りこぶしで頬を張り倒すか。そのどっちかだ。今まで、自分の手で人を殴ったことは一度もない。大人に対して怒鳴り返したこともついぞない。必死に押さえてきたからだ。
しかし、この状態、この現状。
「ありがとうございました。少し気分が悪くなったので、先に戻ります」
「おい、立村、逃げるのか」
頭の中で何かが破裂するような音がした。
上総は一気に立ち上がって、まだ微笑みを絶やさずに見上げている菱本先生に一礼した。
どういう顔をしていたのかは想像がつかない。きっと泣きそうな顔をしていただろう。
みっともないくらい、顔がゆがんでいただろう。
上総が自分の中で理想とする、「青潟大学附属中学二年D組評議委員」の、端正な表情では、決してなかっただろう。
「言いたいことがあるんだったら、はっきり言うんだ。俺はなんでも答えるぞ。ほら、何が言いたい」
「別に何も言いたくありませんから」
殺意すれすれの感情を胸元のあたりに貼り付けたまま上総は背を向けた。
こんな言葉に他の連中は感謝したり感動したりできるんだ?
どうして誰も、一発殴りつけようとかしないんだ?
第一、どうして二年D組の担任としてあいつは評判いいんだ?
絶対、絶対殺してやる。
それともなにか? そう思う俺の方がおかしいのか?
なにが「親のような存在」なんだ?
「逃げる」だと?
階段を昇って後、ホテルの部屋をノックするまでの間、誰にも顔を見られないですんだのが救いだった。独り言をつぶやきながら、げんこつを握り締めていた自分の姿は即座に抹殺してやりたいものだった。それは自分がよく知っている。永遠に見せたくない表情だった。
2 サスペンスドラマを見ながら一言
「どうした、立村。菱本先生としゃべっていたんだろ。なにつっこまれた?」
テレビをつけたままベットにねっころがっている貴史がいた。
こいつのことを、なんで「親」と思わなくちゃいけないんだよ!
深呼吸をした後、上総はゆっくりと首を振った。
口元だけは笑うように。
「羽飛、あのさ」
「なんだ?」
「噂に聞いたんだけどさ、うちのクラスは父兄およびよそのクラスからも人気が高いんだろ。菱本先生のクラスになりたいと願うやつらがいっぱいだって聞いたことある」
貴史はゆっくりと寝返りを打ち、身を起こした。テレビの音量を低くするため、スイッチをひねりながら、
「ああ、そうだってなあ。だってA組みたくさ、成績と進路の話しかしないとこもあるだろ。盛り上がらなくて一人、退学する奴が出たって話を聞いたぞ。学校行事に全然燃えないところとかも、ほら、B組なんてそうだったらしい。部活に入っている奴がほとんどだから、委員会活動にも情熱がもてねえとか言って。C組はC組で、女子が死ぬほどうるせえだろ。それ考えたら、D組ってさあ、妙に仲いい。俺は好きだぜ。このクラス」
「そっか。羽飛は好きか」
口の中で舌打ちし、ベットの上にバックを投げた。時計を見て、まだ余裕があることを確認した。
「立村は嫌いなのかよ」
「嫌いじゃないよ。たださ」
言ってしまおうか、隠しておこうか、迷った。
テレビの画面をちらりと眺めた。
ちょうど二時間ドラマの山場らしく、探偵と犯人の対峙シーンが流れていた。ナイフを持って脅している女と、冷静に答えを出そうとする男。ストーリーは終盤に入っていると分かる。
「なんていうか、とにかく、こうしてやりたいって思うのは俺だけか?」
指差した。犯人の女に向けた。貴史も画面に改めて目をやり、ほおとため息をついた。
「菱本さんにか」
「あったりまえだろう。どうして羽飛、お前冷静でいられるんだ?」
「へえ、何か言われたのかよ、また。美里と付き合っていることでからかわれたんだろ。まったく、立村はそういうところがうぶだよなあ」
「お前にしょっちゅうつっこまれているから慣れてるさ。それより」
言いたいことを口にするのははばかられる、何かがあった。
貴史の顔を正面からにらみつけてしまったらしい。ぎょっとした表情をして、身を引かれた。
「ごめん、別にお前のことを言ったんじゃ」
「驚いたぜ。立村すげえ目でにらむんだもんな。ま、落ち着けよ」
貴史はガムを一枚差し出した。枕もとにおいてあったらしい。今朝もらったミントではなく、なぜかブルーベリー味だった。すぐに口に入れた。甘いものを舌先で感じると、なぜだか落ち着いた。つばがちゃきちゃき音をさせる。ふたり、その音だけが響いていた。
「犯人、どうなるかな」
「たぶん包丁で自殺すると思うよ」
上総は、予想通りの場面を眺めながら、ぼんやりと血しぶきを見つめていた。絶対に言えないことだけど、たまにこうやってしまいたくなる時がある。人からは大げさすぎると言われるかもしれない。こんなことを考えるお前が悪いと言われるだけだろう。
でも、菱本先生の話を聞いていた時。
もし、刃物を持っていたら押さえられていたか自信がない。
3 てさぐりのクラスミーティング
結局、十分くらいしか部屋にいられなかった。部屋から出て、一階の大広間に向かった。第一日目のクラスミーティングだ。菱本先生には説教をしないよう、遠まわしにお願いしておいたのだが、果たしてどこまで通じているだろうか。
誰か反抗しろよ、とつぶやきながら畳に上がった。
すでに女子全員、男子の半数以上が足を伸ばしてわやわややっていた。
菱本先生が上座である。
背後にはカラオケセットを始め、敷き板がやたらと光る小上がりの舞台。幕の端っこには「祝・浜松組」と金の刺繍が施されていた。
「おい、ここなにか『組』の何かなのかよ」
貴史が耳元でささやいた。明らかに勘違いしている。
「建設会社の名前だよ。まかりまちがってもまずいとこからじゃないって」
上総は紫色の幕側にすわり、片膝立て、片膝は伸ばしたまま落ち着いた。全員が揃うまで始められないけれども、たぶん大丈夫だろう。仕切り役は一応自分でやらなくてはならないけれども、たいしたことではない。
夏休み、みんな何処に行ってましたか?
何をしてましたか?
小学校レベルの内容だ。菱本先生が知りたがってるんだからしかたない。前もって電話連絡で
「ちゃんと、一応もっともらしいこと、作っとけよ」
と伝えておいたから、みなそれなりの『思い出』を捏造しているはずだ。
南雲がひとりで入ってきて、ふすまを閉めた。
ということはもう全員ってところか。
すでに奈良岡との行動は別々らしい。
当然だ。
まさかホテルの中までも、部屋の中までもべたべたしていたら大迷惑だ。
さすが次期規律委員長、本能より理性を優先している。
坐る場所もちゃんと野郎連中と一緒だ。
数えようと立ち上がり見回すと、美里も一緒に腰を上げた。
ざっと見渡し、上総に向かって大きく二回、頷いた。
何を言いたいのかわからなくて近寄ろうとしたら、手を振って押しとどめるしぐさをした。
「いるよ、全員。始めて大丈夫」
「数えたのか?」
「当たり前でしょ!」
美里はすぐに古川こずえたちと混じり、膝を抱えてさえずりだした。
菱本先生にそう言ってくれればいいのに、なんであっさりと。
疑問はあっさり貴史が解いてくれた。
「お前、数えるの苦手だろ。人にしろ物にしろ」
「ああ、確かに」
「去年の遠足の時、お前何回、集合した奴らの頭数、数えなおしたか覚えてるよな。立村」
答えるしかない。あっさりと。
「五回、よおく、覚えてるさ」
「だろ。その時美里もいたよな」
思い出した。隣でじっと見ていた様子だったが何もあの時は言わなかったはずだ。黙って、ようやく数が合ってほっとした上総の後から乗り込んでいったはずだ。
「つまり、あいつお前の行動を、頭の中にひとつひとつインプットしてるんだなあ。やっぱり美里は怖い女だ」
要は、よく出来た彼女がいて幸せだなって言いたいんだろ、羽飛。
「よく出来た評議の相棒がいて、俺は幸せだって思うよ」
言い捨てて、上総は菱本先生に声を掛けた。まだ声がくぐもっている。響きが荒い。咽がちくりとする。
「先生、全員揃いました」
いわばなおざりに、菱本先生の指名により答えていく形。円陣で適当、一応はみな旅行もしていたようだし、ネタに尽きることはなかった。
「そうか、じゃあ、清坂、お前はどうしてたんだ? 夏休み」
こそっと一声、
「デートでしょ、デート」
と響き、ほとんどの視線が上総と、なぜか貴史の方に向いた。笑っちゃいけないけれど、笑いをこらえられない、そんな雰囲気だった。首から上の空気がぼこっとふくれてあわ立ったみたいだった。隣り合った貴史と顔を見合わせ、すぐによそを向いた。意識してるなんて、思われたくなかった。それは貴史も同じようで、反対方向の天井を見上げあくびをした。
そんな雰囲気を無視できるのが清坂美里たるゆえんだろう。
ちらっと視線を男子一同に投げかけた後、
「小学校の時の友達と、泊りがけで海に行きました。みんな思ってるとおり、羽飛くんとも一緒ですよ。ええ、みんな、期待してたでしょ!」
確信犯。お見事だ。
毒気を抜かれた格好で、みなぼそぼそと隣同士でつぶやき始める女子たち。男子はあまり反応がなかった。
もちろん、清坂美里の彼氏が誰であるかを、よおくわかっているからだろう。
「ほお、そうか。じゃあ、羽飛も一緒か」
「そうです。でも、ちゃんと、大人もいましたから安心してください。うちらの両親と、あと別の友達の両親と」
「つまりなにか? 家族旅行か?」
菱本先生が身を乗り出して訊ねた。
「うん、だよね」
貴史もはっと気がついて、こくこくと頷いた。
恐るべし。この二人に照れとかはにかみとかは無縁のようだった。いまさら気付いたというわけでもないけれど、上総からしたら貴史と美里とのつながりは、想像を絶するものがある。気を遣っていないくせに仲がいいなんて、上総の感覚ではまず理解しがかった。
「そうか、お前ら仲がいいなあ」
「だっていつものことだもんね」
普通だったら貴史がここで、冷やかされる羽目になっていただろう。ひゅうひゅう攻撃だって仕掛けられるはずだ。なのに男子のみ、知らん振りを通している。そんなのどうでもいいから早く終わろうぜ、と言いたい男子達の本音が、鼻息、吐息、鼻水の音でよく、わかった。
上総はふと、古川こずえの方を覗き見た。
美里の隣で思いっきり唇をかみ締めている様子だった。上総と一方的下ネタ漫才をかましている時とは大違いだった。もちろん隠しているつもりなのだろうし、立場としては美里と一番の仲良しだ。言いたいこともあるだろう。しかもクラスの大多数は、貴史への片思いを重々知っている連中だ。
どうでもいいけどさ、入り組んだ人間関係だよな。
海辺の思い出や、拾った貝殻でこしらえたアクセサリー自慢やら、いろいろ説明する美里の声。
すでにふたりから聞いていた。
妬く必要なんて、さらさらない。
周りだけが上総のいる方に向けて、吐息攻撃をかけてくる。
意識はしていないだろう。でもなんとなく、「ふわあ」という、様子をうかがうような音。
別に関係ないだろ、人のことなんだから。
上総は空気に、色をつけてみたかった。男子から来る吐息と、女子から来る視線の色は、果たしてどんなものなんだろう。円陣の真中に空気がたまって球になり、やがて光りはじめる、そんなSFドラマを観たことがあった。その球がゆっくりと上総の前に近づいてきて、やがて頭の上に乗っかる。そこでうわっとばかりに液体となってこぼれおちる。頭の上にマーブル模様の液体が零れ落ちる、またそこでぐるぐると首の周りを浮遊しはじめる・・・・。
俺が感じているのはまさにそれなんだけどな。
でもそんなこと言ったって、変だと思われるだけだよな。
「立村、どうした、妬いてるのか?」
かしいでいた頭を建て直し、上総は空気の妄想から抜け出した。まだ首筋にはもやもやとした視線がまつわりついている。声は、菱本先生だった。許されたとばかりに、周りから笑いが小さく沸いた。
下手に答えるとどつぼにはまりそう。無視した。
「まったくなあ。ほら、立村、お前の番だ。どこ行ったんだ? さっき答えなかっただろ」
マーブル状の空気の輪で、咽を締められたようだ。苦しくて痛い。
「どこにも行きません。家にいました」
「海には行かなかったのか?」
「いいえ、ほとんどこの合宿の準備でした」
海なんて大嫌いだからなんて、ことはさすがに言えなかった。
暑いだけならまだしも、咽が渇いて熱が出て、動けなくなって、食べられなくなってと、ろくなことがない。一日中ベットにひっくりがえっていて、麦茶を飲みつづけていたなんて絶対に。
「そうか、そうか、だからお前いまだに焼けないんだなあ」
「妬ける」は「焼ける」と同じ発音だった。
掛詞ってやつだろうか。
悔しいことに、上総はそういう言葉の当てこすりについては非常に敏感な性格だった。
感じたくないのに、かっとなってしまう。
言葉がみつからないのに、怒鳴りたくなってしまう。
ねじを巻かれたように、じきじきと音が体中からするのはなぜだろう。
右手を開いたり閉じたりして、なんとか体の響きを落ち着けた。
「ほら、先生、俺と立村と、美里と三人でさ、やってただろ。宿泊研修の準備をさ。結構大変だったんだぜ。ほとんどこいつが電話掛けたり、ホテル調べたり、観光案内取り寄せたりしてさ。悪いけど、遊んでる暇ねえよな」
貴史がのほほんとした顔で、割って入った。
ほうと、菱本先生も反応する。
貴史は上総にちらっと目をやってから続けた。
「あ、でもさ、立村。お前と一緒に行ったよな。あそこ、青潟市立美術館。ほら、観光するとこ決める時に、美術館に行こうって話になっただろ。あれもどっか行ったってことにならないのかなあ」
美術館。
ちろりと何かが火を噴いた。
咽と、そして目の裏で。
上総は目を閉じてうつむいた。思い出すようなふりをした。
がっと閉じると、買った絵葉書と、静かな館内の冷たい空気がよみがえる。
そして思い出したくないことまで思い出してしまう。
「ああ、行ったな。やたらと直線が多い画家のだよな」
かろうじて言葉を搾り出すと、貴史は頷いて答えた。
「現代抽象画展示会っていう、あれ。先生も観にいかなかったのか? な、あれすげえおもしれかったよなあ。いろんな線がさ、変なものいっぱいこしらえてて見ているうちにいろんなことが思いついてくるんだよ。な、美里、お前もああいうのり、好きだろ」
「だからといって美術館の中でやたらとしゃべりまくるのはやめようね貴史」
いかにもうんざりといった風に、美里が答えた。貴史のほうに人差し指をさし、数回振りながら続けた。
「なんでだよ。誰もいなかったじゃねえか」
「あのさ、あんたが芸術的感性に目覚めたのはよっくわかったのよ。それは認める。でもでもね。なんで見張っている美術館のお姉さんたちの前で、『これは野良猫の家』『ここは青大附中の影にある謎の銅像に似てる』とか『これは鈴蘭優が歌う時のセットに使うといい』とか、意味不明なことをしゃべりまくるのはやめてよね。人がいなかったからよかったけどさ、ひざ掛けかけて坐ってた美術館の人たち、ずっと私たちを変人って目で見ていたよ」
上総も含まれているはずだ。何にも話していないのに、貴史と美里だけがひたすら騒ぎ立てていたので、上総の方に「少し静かにしなさいや」といわんばかりの、冷たい視線を覚えていた。
「いいじゃねえか。素直な感想を言ってるだけなんだからなあ。そうだろ、立村」
「立村くんはああいうのり嫌いでしょ。あまり関心なかったみたいだもんね」
いつもそうだった。貴史と美里が話し出すと、まわりがなくなってしまう。最初は「羽飛くん」と、ご丁寧に「くん」付けをしていたのに、関心のあることになるやいなや周りの視線も気にせずにしゃべる、語る、身を乗り出す。
隣には複雑な気持ちでいるであろう、こずえがいるのにだ。
わけのわからなかった幾何学模様の絵画や、現代美術と呼ばれる針金をぐしゃぐしゃにした「オブジェ」。ただキャンバスを真っ黒く塗りたくったよう絵。ペンキをぶちまけたような、見た目手抜きにしか見えないもの。文字だけを耳なし法一のようにずらっと書き並べたもの。
上総は何も言わなかった。
口にするとすべてが壊れてしまいそうだった。
いつものように、無表情のまま、膝を抱えて坐っていた。
4 めにみえる危険性
大抵黙っていると噛み付きたくなる気持ちも落ち着き、冷静沈着な自分に戻れるはず。だがミーティングが終り、夕食時刻を迎えても、上総はまだ、元に戻れなかった。
もちろん人前で怒鳴り散らしたりとか、菱本先生に味噌汁をぶっかけたりはしない。精一杯の努力でもって、普段どおりの自分で振舞ったつもりだった。あくまでも、つもりだが。
でも隣の貴史をはじめ、離れた席の南雲、さらには美里とこずえまでもが帰り際、寄ってきたのはどういうことだろう。
廊下で呼び止めた美里は、
「どうしたの? 私立村くんが何かしでかすんでないかと思って、気が気でなかったんだから。あんたが菱本先生嫌いなのはわかるけど、でもああまでにらまなくたっていいでしょが」
うなずくこずえの姿もあった。
「全くいつものことながら、立村、あんたはほんっとガキだねえ。菱本さん、思いっきり勘付いていたよ。さっき私たちにもね、聞いてきたんだよ。『立村の様子、なんだか怖くないか?』って」
いいかげんにあしらって部屋に戻ったら、別部屋の南雲から内線電話が入った。貴史が風呂に入っている間だった。
「あれ、りっちゃんさあ、これから夜の散歩ってやるらしいけど、行く気あるのか」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
上総の疑問にあっさり南雲は答えてくれた。
「いや、なんとなく菱本さんに闇討ちくらわせたさそうな顔して、ずっと箸の先、かじってただろ。先、はげてないか?」
まずい、完全に見られている。
整髪剤であらためて前髪をつんつんさせた貴史は、ぼんやりと坐っている上総に向かって一言。
「まさかと思うけど立村、お前凶器とか、持ってきてたりするか?」
なぜ、と訊ねる前に答えが返ってきた。上総のかばんを軽く持ち上げ、ちろりとにらみ、
「気持ちはわかるけどな。何でも言っちまえばいいのになあ」
なにをだよ、と言いたいけれど、図星を指されていることはわかっていた。
貴史の言葉には投げやりだけど柔らか味もこもっていることを知っている。
気持ちいいかどうか、許せるかどうかは別としても。
言い返すなんてことはできなかった。
すぐに風呂に入りたかった。ユニットバスだ。頬骨のあたりが妙に熱くてならないけれど、きっと日焼けしてしまったせいだろう。頭がまだわんわんと鳴っているけれども、ちょっと熱が出た程度だろう。これから夜九時前に、菱本先生と一緒の夜のお散歩があるのだ。シャワーを浴びた。
血が氷付けになってしまったようだ。
これって寒いってことじゃないだろうか?
今は八月だっていうのに。
水を浴びるまでは熱っぽいくらいだったっていうのに。
「羽飛、なんか寒くないか?」
風呂から上がり、上総は靴下を脱いではだしになっている貴史を探した。いないと思ったらなんのことはない、歌謡ベストテン番組を見ているのだった。当然、愛する鈴蘭優のデビュー曲を聴くためだ。たぶん前もってチェックを前もってしていたんだろう。邪魔するなという風だった。
上総はジャケットを羽織りなおした。
「寒い? どこがだよ、立村お前やっぱり感覚狂ってるぜ。それよかほら、優ちゃん、可愛いよなあ。ああいう女子がどうして青潟にはいないんだろうなあ」
上総からしたら「音程が微妙にずれているのはどういうことなんだ?」くらいだろうか。そんなこと言ったら殺される。熱狂的ファンには、不要に逆らうべきではない、ということを、上総は評議委員会で経験していた。お元気だろうか。結城先輩。相変わらず女性アイドルグループの追っかけしているんだろうか。
「まだ時間あるか? ちょっとだけ横になりたい」
答えを聞かずに上総は布団にもぐりこんだ。格好は昼とほぼ同じだったけれども、開襟シャツだけは替えておいた。一枚だけでは寒すぎる。ジャケットを羽織っても温まらない。しかたない、薄くてもタオルケットに包まって落ち着きたかった。
蓑虫感覚でもぐりこんだけれども、体温の感覚が冷え切ったままだった。
骨だけがアイスキャンディ状態になってしまっているんじゃないだろうか。小学校時代氷に塩をかけて、試験管でアイスキャンディーを作る実験をしたことがある。塩をかけた氷には触れてはいけないと、きつく言われたことがある。手がくっついて大変なことになるからと。
まさに今は、氷の身体に塩をびっちり塗りこめられたようだった。
「羽飛、悪い、なんかタオルかなにかあるか?」
「あるけどどうするんだよ」
「頼む、寒すぎる、俺このままだと、凍え死ぬ」
鈴蘭優の黄色いフリルミニスカートに見とれていた貴史は、めんどくさそうな返事でかばんの中を探していた。まだ上総に背を向けたまま、下半身をベットに残したまま、上半身をかばんの上に傾けたままだった。
「ほいな、お前寒いって言葉、八月に使うもんじゃねえだろ」
寝返りを打って貴史があらためて、上総のベットに投げてよこした。
受け取った時、急に貴史が身を起こしはだしのまま、上総の顔を見下ろした。靴は履いていなかった。タオルケットの上からさらに貴史のタオルを巻いて暖を取っている上総の様子は、そりゃ変だろう。自分でもそれはよくわかっていた。
手を置き、貴史は上総の頭をかるくたたいた。
響く、やめてほしい。
「立村、お前、それって、風邪ってやつじゃねえの」
「かもしれない」
歯を鳴らしながら上総は答えた。
「それでこれから夜のお散歩、行こうなんて、思ってねえよな」
「休めたら休みたいに決まってるだろう」
「そいじゃ、休めよ。ほら、俺のも使えってば」
自分のベットにかかっている、まだ形崩れないままの薄っぺらいタオルケットを貴史は一気にひっぱがした。二つ折りにして、ざくっと上総にかぶせた。
顔が隠れた。
光が隠れて、視界が橙色に染まった。
遮られたからだろう。
まだ濡れている髪のぬめりが頬に触れて、気持ち悪かった。
「じゃあ、行くぜ。菱本先生には言っとく。どうせお前、朝から死んだ魚の目してただろ。誰もが納得するってばよ」
「羽飛、助かる」
顔をかろうじて出し、再度タオルケットを巻きつけなおしつつ上総は感謝の一礼をした。
全く寒さを感じていないであろう、貴史。ふと、ドアの前にある鏡をちらとのぞき、前髪をもう一度つんと上げた。一言。
「今の立村、何やらかすかわからねえもん。怖えよ」
いつも通りの沈着冷静な自分は、もう演じられないってことだった。 二枚重ねると、少しはましだ。
上総は鼻を覆うくらい深く、タオルケットを巻きつけた。
勝手に唇からもれた言葉はひとつだった。
「情けないよな・・・・・・」