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その十五 明星美術館でのよしなごと

1 探し探して

2 我、目的を完遂せり

3 『楽屋裏』

4 それぞれの事後処理


その十五 明星美術館でのよしなごと



1 探し探して


 雑草が緑に生い茂る道。白い円錐形のオブジェが指し示す場所は直線、百メートル先だった。最初の五十メートルを全速力で走ったのはいいが、クラスで四番目の中途半端な脚では無理だった。いったん呼吸を置いて走った。バスはすでに見えなくなっていた。ようやくたどり着いた煉瓦畳の道に入る。向かって左側には芝生が滑らかに伸びていた。菱本先生が話していた通り、虹色のビニールシートを敷いて語らっている家族連れが目立った。大きな風見鶏がにらんでいる鋼色のゲートをくぐり、上総はまず、四人のかたまりを捜すことにした。

 銀縁めがねをかけている、痩せ型神経質そうな男性。

 同い年の女子三人。

 見つかりそうだった。

 芝生を一通り巡った後に、美術館に入ろうと決めていた。幸い、貴史から借りた五百円があるので入場料はなんとかなる。時計を見ると、ちょうど十一時半を少し過ぎた頃だった。運転手さんがたぶんわざと時間稼ぎをしてくれたのだろう。

「時間がねえよ……」 

 煉瓦畳からざくざくと、上総は芝生に乗り込んだ。奥には白い倉庫のような建物がどかんと建っていた。玄関のガラスが光を跳ね返していた。美術館に来たという気がしない。工場見学で行ったことのあるパン工場を思い出した。


 四人、四人、と人の顔をのぞき込んで早足で廻った。たくさんいるわけでもないのにどうしてだろう、見つからない。バトミントン、ドッチボールに興じている親子連れに頭を下げながらすり抜けた。

 早く見つけないとまずい。ゆっくり遠回りしたとしても、バスなんだからそろそろ到着している頃に違いない。もしかしたら降りているかもしれない。菱本先生を始め、貴史たちは猛烈に血を昇らせているのは想像に難くない。狩野先生たちを見つける前に捕まって怒鳴られるのだけは避けたかった。  頭の中から血が退いていく。わんわん響き出す。

 すべては上総の頭の中で出来上がった想像でしかないと、わかっているし言われるに違いない。菱本先生の言う通り、自分だけで決め付けているだけで、他の人たちは何にも思っていない。

 切って捨てられるだろう。誰もわかっちゃいない。自分の中に響く言葉だけを信じて計画を立ててきた。

「どこ行ったんだよ。いったい」

 独り言だけが増えていく。薄いジャケットが暑苦しくて脱ぎ捨てたかった。こんなんだったら、脱いでバスの中に置いてくればよかった。

 脱ごうとした。左のポケットが重たいのにはっとした。手を入れた。金具らしきものが、人差し指にひっかかった。

 そっと引っ張ってみる。ちょうど握って隠れる程度の、小さなもの。黄色い線の入ったタータンチェックがちらついた。

 一緒に思い出すものは誰かの髪飾りだろうか。ドアのノブのようなものだった。

 切符に似た長方形の、プラスチックだった。もし落としていたら、名前をローマ字で彫りこんでおくことなんて、できやしないだろう。鍵をぶら下げておくことなんてできやしないだろう。

 まだ美里に礼を伝えていない。

 上総はキーホルダーをひっぱりだして、目の前にぶら下げた。手鏡のように手のひらを見つめた。中指にちょうどぶら下がったままの、タータンチェックキーホルダーがぴたりと納まった。

 

 もしも菱本先生が怪しんで尋ねてきたら、本当に外から落とすしかないだろう、とは思っていた。そんなへまは絶対にしないと決めていた。すぐに外へ手を出して、振りをした後に握ってポケットに戻した。

 こずえには見抜かれそうだったけれども、最後までごまかせた。そんなへまするもんか。

「誰が落とすかって!」

 思いっきり叫んだ。

 弁当を広げている群れががやがやしているせいか、誰も気にとめない様子だった。声はふかふかした雲にすべて吸収されてしまったのかもしれない。夏の光線に溶けてしまったのかもしれない。頬に降りかかる午前の太陽。まぶしかった。白かった。気持ちよかった。

 もう一度廻ってみていなかったら、今度は中に突撃だ。


 四人だけというのにこだわったのがまずかったのかもしれない。もしかしたら家族の人もいるかもしれないし。

 今度は早足で敷物の間を縫っていった。美術館の中に入ったとは、どうしても考えられずさらにいうなら、中の喫茶店でお茶をするとも思えなかった。絶対この中にいて、お弁当を広げようとしているはずだ。素早く予定変更を行い、上総は呼吸を整えた。

 もう一度芝生の上を眺めた。

 左手をぎゅっと握り締め、目に力をめいっぱいこめた。

 半径五メートル、十メートル、十五メートル。何度か見渡していると、なんとなく頭の片隅に赤いものがちらついた。視界の隅、だろうか。気になって、身体ごと斜めにねじった。一番奥に、神社の鳥居が右半分壊れたようなものが飾られていた。現代美術の最たるもの。上総にはその良さがたぶんわからないもの。門に納まるように、家族連れらしき一組が座り込んでいた。滑り台の変形のような赤いオブジェ、影にひっそり背中を向けている集団がいた。

 めがねをかけたシャツ姿の男性ひとり、同い年の女子が三人、そして、花柄のふわふわした服を着た女性が、ひとり大きなバスケットを開こうとしていた。

 ひとり、ふたり、さんにん、よにん……、五人。

 合計五人だった。

 間違いない。

 見つけた。間に合った。

 片足をうまく使い、上総は弾みをつけて走った。足下の芝がつるつるする。転びそうだ。


2 我、目的を完遂せり


 人のいないところをわざわざ選んで座っているくらいだ。誰かが駆けて来るのを見たら、そりゃ驚くだろう。

 女子のひとりと、目が合った。

 バスケットを開いている花柄ドレスの女性にしがみつくように、見つめ返された。驚かせてしまったようだ。

 息を切らせながら、上総は敷物の芝生に、片膝立ててしゃがみこんだ。

「狩野先生、いきなり申しわけありません。2Dの立村上総です」

 言ったところで咳き込んだ。気が付かない振りをしていた心臓が、ぱくぱく言い出した。右手で雑草を握りしめ、振り返った銀縁めがねの男性に向かい表情を伺うのが精一杯だった。

「立村くん、大丈夫ですか。顔色が悪い」

 かなりびっくりしているようだったけれども、狩野先生の口調は落ち着きを失っていなかった。女子三人が上総の方をにらみつけ、そそそっと隅の方に場所をずらしていた。なだめるように、花柄のドレスを着たあどけない感じの女性が肩をぽんぽんと叩いていた。大丈夫、大丈夫という風に。

「そういえば、二年D組の宿泊研修は、今日が最終日でしたね」

「今からうちのクラスの連中が、美術館に来ます」

 上総は白い建物に指を差しながら続けた。

「今ならまだ、間に合います。場所を移ってください」

 女子たちの様子はさらに不安そうなまなざしに変わっていった。三人のうちひとりは顔を見たことがあったけれども、あとの二人は見覚えなかった。たぶん上総のことも知らないのではないかと思った。ぶしつけにじろじろ見るしか、今は出来ないのだろう。女子三人の視線が痛かった。寄るな、近づくな、言いたげにかたまっていく。

「立村くん、それは菱本先生からの指示ですか?」

「僕自身の意志です」

 初めて、狩野先生の表情が険しく変わった。

 銀縁めがねを軽く押し上げ、外した。めがねなしの狩野先生の顔を初めて見た。いつか雑誌で見た若手歌舞伎俳優の、化粧をしていない顔にそっくりだった。つるんとして、それでいて真摯なまなざしと薄い唇。

「かのこ、うちのお嬢さんたちを車に乗せてくれないか。場所替えだ」

 花柄ドレスの、ふわふわパーマをかけた女性ははっとしたように狩野先生を見つめた。片手でバスケットに、出しかけていたサンドイッチや揚げ物などをしまい始めた。手伝おうとする女子のひとりに、やさしく手を触れ

「さ、早く行きましょ」

と笑顔でささやいたのが聞こえた。

「僕もあとで行く」

 言葉少なに指示をした後、狩野先生はゆっくり上総の方に向き直った。

「立村くん、菱本先生の合意あってのことですか」

「いいえ、今、裏門から無理やり入ってきましたけれど、D組の人間は表門から入ってくるはずです」

 急に変わった狩野先生の口調が怖かった。

 かのこさんという女性に指示を出して、引き上げる準備をしていたということを考えると上総の読みが異なっていたわけではないだろう。花柄ドレスのかのこさんは、上総の方に心配そうな視線を投げながら、バスケットを抱えた。女子三人はみな、靴を履いてぼおっと立ちすくんでいた。言葉は出てこなかった。しゃがみこんでいる上総を、犬じゃないかと言いたげな顔で眺めていた。退学するのがどの子なのかはわからない。べたっと三人で、おびえている風にくっついている。

「では、かのこ、頼むよ。敷物だけは僕が持っていくからね」

 かのこさんは黙って頷き、

「さ、行きましょう」

と女子三人の背中を押した。早足で離れ、五メートルくらい離れたところで一気に走り出した。指差しているようすだと、近くに車を駐車しているのだろう。


 黄葉の近辺ではかすかだったせみの声も朗々と響き渡る。女性の気配がなくなり、上総と狩野先生の二人だけが向かい合っていた。言うことを伝えた以上、上総はもう何も口にすることができないままだった。力が抜けていく。膝をついていたせいか、緑色の汁らしきものがスラックスにべったりくっついていた。つま先をぺたりとつけ、膝を抱えたまま、狩野先生の言葉を待った。汗が渇いて頬がひりひりした。

「立村くん」

 一言、ゆっくりと発せられた。

「どうして、僕に連絡しようと思ったのですか? 菱本先生にはきちんと話をしておいたはずですが」

「知ってます。狩野先生がうちのクラスと合流するのを迷惑だと思っていることも、わかってます。うちの菱本先生に通じてないんです。どうしてかわからないけれど、絶対にみんなで楽しい思い出を作ってやろうって、そればかり考えているようでした。僕もその辺はよくわかりません。でも僕がA組の人たちだったとしたら、絶対に耐えられないことだから」

 狩野先生は何度も頷きながら聞いてくれた。

「後で菱本先生にはあやまります。覚悟はしてます」

「覚悟って?」

 例えば停学とか、と口にしようとしたが出来なかった。

 大げさすぎる、と言われそうで怖かった。

 狩野先生のことを、二年次数学の授業を通してしか知らないわけなのだから、本当のところは分かる由も無かった。菱本先生よりはずっと、上総と同じ感情を理解してくれるんじゃないかと信じてきた。すべての思いをぶちまけてしまったら裏切られた時、何倍もの打撃を受けそうだった。あとはたくさんの罵声を待つだけだとわかっているだけに、言い訳は絶対したくなかった。

「後悔はしてません。ありがとうございます」

 今度は狩野先生が逃げる時間がなくなってしまう。上総は立ち上がろうとした。狩野先生がやっと表情をやわらげた。一学期、数学の小テスト後呼び出されて、お茶を出してくれた時と同じ微笑だった。

「立村くん。誉められたやり方ではないけれど、気持ちは僕が彼女たちの分も受け止めます。今日のことは、自分で責任を取る覚悟を持っていますか」

「もちろんです」

 今度こそ、停学、退学という言葉を使おうとした。

「立村くん。君はこれから、鋭すぎる自分の感覚を飼いならしていくすべを、覚えていけばいいんです。数学の問題と同じです。自分の感覚を大切にすることと、守るために問題の答えを暗記してゆくこと、それは一緒なんですよ」

「感覚を飼いならす」

「自分の中にどういう感情があるか、じっと見つめていけばいいんです。君にはいわゆる『ふつう』の人が持っていない、フィルターのかかっていない感情を受け止める能力が備わっています。だから、来てくれたんでしょう。今度はもっと『ふつう』の人たちを刺激しないような方法を見つけるためのマニュアルを覚えていけばいいんです。時間は掛かるけれど、大切なものを守るためには少しずつ」

「先生、いつ、そういうことに気付かれたんですか」

「そうですね、大学を卒業する頃かな」

 狩野先生は片手を差し出した。わからずぼんやりしていると、上総の右手をそっととって、軽く握手した。

「ありがとう」

 幽霊になってしまったようだった。足下がおぼつかなくなる。痺れた感覚が残っていた。上総はもう一度狩野先生の目をじっと見つめ、一礼した。背を向け、ゆっくりと建物に向かって歩いていった。

 もう、走る必要はなかった。


3 『楽屋裏』


 裏口からも入場券を買うことができた。たぶん問題ないだろう。一応は館内に入ってうろうろするようなこともバスの中で聞いていたし、ということで上総は三百円払いロビーに入った。

 もう表門からみんなが入ってくる頃だろう。上総のいきなりの逃亡劇に絶句しているか、もしくは激怒しているか。大目に見てくれるなんてことだけは、絶対にないだろう。あとで菱本先生にけじめをつけなくてはならない。言い訳しないで怒鳴られよう。念じながらざっと油絵をながめていった。壊れた鳥居のようなオブジェのイメージで、てっきりわけのわからない現代美術の集合体かと予想していた。

 飾られている絵はほとんどが油絵で、花やら建物やら、ごくごくわかりやすいものばかりだった。油絵は遠くでみるときれいだと思えるのに、どうして近くでみると汚く感じてしまうのだろう。貴史や美里には言ったことがない、正直な感想だった。

 ロビーには、青大附中の制服を見かけなかった。


 ひとりの画家中心とは聞いていた。さすがに埋め尽くせなかったのだろう。思っていたよりも違う名前の画家が多かった。ささっと眺めるだけにした。芝生の上には人が集まっていたのに、館内はこうも静かなのだろう。

 肩に引っかかったままのネクタイを下ろした。

 座っている館員の女性が、不思議そうに上総の顔を眺めていた。外は暑いのになぜひざ掛けをしているのだろう。居心地悪くなってすぐに離れた。


 もう、狩野先生たちは車に乗り込んで移動しているだろうか。

 かのこさんという、ふわふわした花柄ドレスの女性は、狩野先生の奥さんなんだろうか。

 A組のおびえきっていた女子たちは、自分のことをどう思っただろうか。

 なによりも、D組の連中はいきなり飛び出した自分のことを、どう受け止めているだろうか。

 

 さあっと絵を流して観ている時に感じるやすらかな空気が心地よかった。絵が好きな人はもっと詳しいことを知っていたり、説明したり、感じたりするのだろう。貴史や美里はきっと、感じたことを語りまくったりするのだろう。そのたび上総は落ち込んで、ひとりで美術書をひもといては自己嫌悪に陥っていた。どうしてこいつらと同じ感覚で、絵を見られないのかわからなくて、悔しくて。

 ただぼんやりと穏やかな空気を感じているだけでよかった。

 印象派だとか現代美術だとかどうでもよかった。

 フィルターのかからない感情を見つめていたかった。


 二階展示室の階段を上がり、上総はぼんやりと眺めていた。一階がありがちな風景画中心だったとするならば、人物や動物、馬などのわかりやすい絵が多かった。上総に合うのはこの空気だろう。

 少しゆっくりめに歩いていった。でも歩は留めない。

 真っ黒い馬の全身図、ピアノを弾いている金髪の少女、習字をしている少女。女性を描いたものがほとんどだった。社会科で鹿鳴館について習った時、見せてもらった写真に載っているようなドレスをみな纏っていた。

 畳三枚分の大きさで、金の派手派手しい額縁に囲まれている一枚の絵が、突き当たりの展示壁につるされていた。一番のメインらしい。ここにもひざ掛けをかけた館員が座っていた。

 足が止まった。

『楽屋裏』と、金の文字が掘り込まれていた。

 吸い込まれるように見つめていた。


 どのくらい時間が経ったのだろう。

 呼び戻す声が聞こえた。聞き覚えのある、心が痛くなりそうな声だった。

「この絵が好きか」

 振り返れずに、上総は頷いた。

「『楽屋裏』はこの画家の最高傑作として有名な作品だ。ある日本舞踊家の舞台裏にて、『幻お七』という舞踊を観賞した時のものだそうだ。どういう舞踊か、知っているか?」

 もう一度頷いた。

 うちに並んでいた小説のひとつに、「近松物語」が入っていて、かなり前に読んだことがあった。惚れた男に会いたいゆえに放火した挙句、火あぶりの刑に処せられた八百屋お七の物語を、あらすじだけは知っていた。

「ばかばかしいことだとはわかっていても、お七は惚れた男のために禁じられたやぐらの太鼓を叩こうとしたんだ。それがどんな罪になるかも知らんうちにな。結局それで火あぶりの刑になるわけだが、お七は後悔しなかった。そこまで思いつめることのできるお七はすごいことだと思う。だがな」

 後ろの人物は言葉を切った。近づいてくる熱気のようなものに身体がじわじあわした。

「火事のために家族を失った人たち、なによりもお七を育ててきた家族の悲しみはどんなものだったか想像つくか? 一時の激情で自分を滅ぼし、周りの人たちを傷つけ、それが美しいだけですむと思うのか?」

 やっとの思いで言葉を搾り出した。

「停学は、覚悟してます」

 

 肩を掴まれ振り返った瞬間、ふわっと身体が浮いたようになり、腰からすとんと落ちたことは覚えている。頬に響いた音と耳に響いた激音は、入り交じっていて何がなんだかわからなかった。かろうじて両手で身体をささえ見上げた絵は、水色と赤の交互に入った衣装と、時代劇の鬘をかぶっている役者が、羽子板を抱きしめて崩れ落ちている図だった。真横からのアップで描かれていた。それを囲む黒子が三人ほど。まだ響いている耳鳴りを押さえるようにして、上総は菱本先生の顔をにらみつけた。上げた手はまだ震えているようだった。ぎゅっと唇をかみ締め、上総の腕を引き上げた。

「来い、弁当はこっちだ」

 仰天している館員の女性に「すみません、うちの息子なんで」と頭を下げ、菱本先生は上総を引きずるように階段まで連れて行った。横顔をのぞいた時、鼻をすすりあげるように天井を見上げているのにぎょっとした。


4 それぞれの事後処理


 その後のことはほとんど覚えていない。館内からひっぱりだされた後に、無理やり頭をクラス全員の前で下げさせられ、弁当を押し付けられたことくらいだろう。とにかく、泣かなかったことだけは確かだった。青大附中の制服姿の集団。うろうろと芝生の中をさまよい、それぞれがベンチ、敷物を敷いたりして弁当を広げていた。塩焼きチキンがたっぷり入った、ほかほか弁当だった。サービスに煎茶のパックもついていた。

 誰の輪にも入る気になれず、貴史とも顔を合わせられず、ひとりでベンチに座り膝に広げた。頬がまだひりひりして、奥歯の感覚が鈍くなっている状態で、言い訳するのもみっともなかった。さすがに菱本先生は寄ってこなかった。走り回ったせいかおなかはめちゃくちゃ空いていた。さっそく食べることに専念した。

 クラスの連中たちの反応を見るに、ある程度どういう目的で上総が動いたのか、想像はついていたようだ。決して腹を下して間に合わないとか、本当に美里のくれたキーホルダーを落としたのか、そういう理由ではないということに気付いているらしい。

 証拠に、あちらこちらから

「A組、やっぱり逃げられたな」

「立村って思ったより足が早いんじゃないの」

 割り切った会話が聞こえている。

 その辺は安心した。菱本先生も気付いてくれたらいい。どうせ来週から一週間くらい、停学だろう。もしかしたら高校に推薦してもらえないかもしれない。

 きつい一発を食らったのにも関わらず、頭はすっきりしていた。

 めずらしくひとりぼっちでいるのに、淋しくなかった。

 こっそり貴史たちのグループの様子を見ると盛り上がってはいるようすだった。貴史だけがむすっとして割り箸を噛んでいる。上総のたくらんだことを見抜いている可能性が高い。もう、友達でいるのは無理だろう。前から重々覚悟していたことだ。

 もうひとり、気になる美里たちを探す。

 女子グループは思ったよりも細かく分かれていた。最近の傾向として、美里はこずえと奈良岡彰子、その他数名と遊んだりすることが多いようだ。女子同士派閥が出来てきているようだった。今日のところは上総に背を向ける格好で、こずえと話をしている。

 こずえが

「立村のことを美里は認めているんだよ」

と言ったけれども、今回の逃亡劇でその思いも覚めただろう。同じく、覚悟の上だった。 

 上総は弁当の蓋を閉じて、ごみ箱に捨てた。カラスが残飯を漁ろうと二羽跳ね回っている。つつかれたくないので場所をずれた。乗車時間まで、ぼんやりとしていたかった。


「りっちゃん」

 振り向くと、南雲が相変わらずさんさんとした笑顔で立っていた。

 こいつだけだ。上総のことを自然なまなざしで見てくれる奴は。

 上総は表情を変えず、答えず、じっと見上げた。

「昨日は、ありがとさん」

「目的は果たせたか?」

「うん、もちろんだよ」

 照れのない、あっさりした答えだった。

「じゃあ、定期入れ見せろよ」

「ほいな」

 ポケットから黒い定期入れを取り出し、すいと渡してくれた。

 見た目、気のせいか薄かった。

 開くとやはり四月現在まだ乱れていない格好の南雲写真が納まっていた。緊張したような、歯を食いしばった様子。表側にはバスの定期券、これはおととい確認したことだった。

 つぎにカード入れを指先で触ってみた。

 貸しレコード店のメンバーズカード、テレホンカード、名刺型カレンダー、たくさん紙切れは入っているけれども、もっと膨らんだものは見つからない。

 なぐちゃん、まさか。

 あの闇の中で。

 でも外だって、まさかだよな。

 思わず奈良岡彰子の姿を探してしまう。すぐに南雲の顔をうかがってしまう。最後にもう一度カード入れの上をなぞってみるが、ない。

「なーに、悩んでるのかな、りっちゃん」

 いたずらっぽく南雲はしゃがみこんで上総の顔を横からのぞいた。

「悩んでなんて、ないけどさ」

「あるべきものがないって顔、してるなあ」

「まさかお前」

 見つめすぎて手がお留守になった。ゆるんだ指先にぎゅっと押し付けられるものがある。かしゃりと、ビニールっぽい音がした。

「大丈夫、未使用さ」

 両手で手の中の、正方形包を覆い、上総は楽しそうに手を振る南雲を見送った。もちろん定期入れは取り返された。残っているのは透明ビニールに包まれた丸いゴムだった。俗にいうコンドーム。持っているのを見られたらたぶん、違反カードの一枚二枚は切られるだろう。評議委員の面目も丸つぶれだ。

 ひとりでよかったと思う。

 そっと左ポケットにしまいこんだ。


、集合の時刻となり、みなそれぞれにバスに乗り込んだ。全員整列の後に乗り込むやり方でなくて、本当によかったと思う。特にとんでもないことをやらかした後だけに。上総が戻ってくると、すでに席についている連中がひゅうひゅうと騒ぎだした。

「おいおい、お前なあに、発作起こしてるんだよ!」

「立村ストレス溜まりすぎなんじゃねえの?」

「ったく、常識外れることもたいがいにしろよなあ」

 声ではっきり聞こえる分は潔く受ける

 まだこずえはもどってきていなかった。すばやく窓際に座り込み、窓を眺めていた。運転手さんの姿もまだ見えない。貴史も、美里もいなかった。

 次に戻ってきたのは菱本先生だった。殴った後というのもあってか、言葉は少ない。

「大丈夫か」

 じっと見下ろす感じだった。どう答えればいいのだろう。頷くしかなかった。

「すみませんでした」

「まあいい」

 そのうちにまたひとり、ひとりとばらばらに戻ってくる女子の集団がいた。たぶん中に美里がいたのかもしれない。こずえが帰って来たところをみると。でも声がなかった。こずえだけが腰を浮かせて貴史、美里たちに身振り手振りをしているようすだった。背中で大体わかるものだった。

「もう、どうだっていいでしょ!」

 一言だけ美里の声が聞こえた。


 最後に運転手さんが戻ってきた。初めて上総は人と目を合わせることができた。ちらりと上総の方を見てほっと安堵の表情を浮かべた。

「すみません」

 同じことばかり言っている。自分の身体は目に見えないロープで縛られている。さらし者のようだった。

「では、青大附中までノンストップで行きます」

 再度、アナウンスが流れた。エンジンの掛かる音。窓から流れる風、クーラーの入り交じった埃っぽいにおい。やたら汗臭い空気。行きのバスにはないものばかりだった。上総はもう一度、貴史と美里に目を向けた。もう一度、振り向いてほしかった。でも二人はなにやら深刻そうに語り合っている。顔を見せなかった。表情も隠したままだった。菱本先生は目を閉じているままだった。

「ほら、一口飲みな」

 ひょいと、差し出してくれたのはこずえだった。

 ちいさなオレンジジュースの缶にストローを差し込んであった。

「まだ私口つけてないからね」

 こずえは制服のリボンを結びなおすしぐさをしながら、うんと伸びをした。その間一気にすすって、隣りに返した。

「ありがとう。さっきはごめん」

「あやまるのは別の相手でしょ。ったく、あんたってほんと」

 ガキなんだから、と続かなかった。

「得な性格なんだから」

 意味がわからなかった。その後黙ってしまったこずえは、ストローを抜いて直接ジュースを一気飲みしていた。甘いものがちょうどほしかった。ふうっと力が抜けていき、窓際に頭を乗せたまま上総は目を閉じた。


「立村くん、立村くん」

 今度は夢ではなかった。だるくなってやたらと頬が腫れた感覚が残っていた。目やにがたまっているようだった。

「いいかげん目を覚ましなさいよ。ほら」

「清坂、氏?」

 窓からのぞくと、すでに二年D組の連中はバスから降りて一同整列の準備をしていた。見慣れた青大附中の真っ白い校舎が見えた。わかっているけれど怖い隣りに目を移した。

 美里が、さっきまでこずえのいた席に座っていた。

「古川、さんは?」

「降りたに決まってるでしょ。ほら、最後の挨拶と確認は評議の仕事だって、立村くん言ってたじゃない」

 ぴしばしと責め一方の言葉で叩いてくる。

 そうだった、評議委員として最後に、バスの中をチェックして、ごみが落ちてないかを調べるようにという風に組み込んだはずだった。言い出したのは上総自身だった。

「あのさ、清坂氏」

「あとで言い訳たっぷり聞かせてもらうからね」

 言おうとしたのを遮って、美里は一番奥の席をとんとんと叩いた。

「誰よ、こんなところに缶置きっぱなしにする人。南雲くん? ああ、今度はなによ、空のペットボトルなんて持ってこさせるからみんな捨ててるじゃないのよ。全く、何考えてるのよ、本当に」

 独り言、というよりも、一人で上総に聞かせるようにしゃべっている。嫌味の嵐だった。

「ごめん」

「わかってるなら、早く手伝ってよ」


 へばりついた体を起こして、上総は男子側のごみを拾って歩いた。また南雲の定期入れが落ちていないかもチェックしながら、そっと運転手さんの側によった。停止させて、エンジンを一度切っている様子だった。

「あの、すみません。さっきは」

 美里に気付かれないように、小さな声で、

「うまくいきました。ほんとに、感謝してます」

 運転手さんも帽子を脱ぎながら、ちらりと美里の後姿を見つめつつ、

「今回の実感を一言で言うと?」

 一呼吸おいて答えた。

「我、目的を完遂す」

「お見事」

 今度は上総の方から手を差し出した。ぱちっと音がした。やわらかい笑顔がいつのまにか、堂々とした男の共感に変わっていたかのようだった。ぎゅっと握り締めた。

「がんばれよ」

「はい」

 ビニール袋のごみをぶら下げて、上総は素早くタラップを降りた。待ちかねている菱本先生は戸惑ったようすだった。

「先生、バス内のチェックは終わりました。あとは点呼だけです」

「わかった、早く数えろ」

 いつものように男子連中の肩へ手を置きながら「いち、にい、さん」と声を出して数えていった。

 貴史の肩に触れた時、何か言われるかと、緊張した。

 下を向いたまま答え一つ返さなかった。

 点呼OKの報告をした後、上総はすぐに整列した。貴史のひとつ前だった。


 皆疲れ果てていたこともあり、菱本先生の挨拶は一言

「お疲れさん。明日はちゃんと学校に来いよ」

だけだった。みな、自転車を置きっぱなしにしていたのでそこに群がっていった。上総も向かおうとした時、ぎゅっと肩を捕まれた。

 貴史だった。

「なんで落としてねえキーホルダー、落としたなんていったんだ?」

「ごめん。今はちゃんと持ってるから」

「そんなこと聞いてるんじゃねえよ。立村。お前、俺に一体何させようとしたんだ? お前、俺に言ったよな。ほんとの目的が美里と仲直りするためだって」

 大嘘だった。言い訳できない。上総は黙った。

「要はお前、俺に嘘ついたってことだろ。答えろよ」

「その通り。殴ったっていい」

「ばかやろう」

 貴史の手がネクタイを掴んだ。苦しくて前かがみになった。されるままでいようと今は決めていた。

「じゃあなんだよ。本当の目的って」

「ごめん、それはいえない」

「なんで言えねえんだよ!」

 上総は数回ひっぱりまわされた、突き飛ばされた。抵抗はしなかった。周りに野郎連中は見えなくなっていた。女子の数人が遠巻きに眺めているだけだった。仲裁に入られないうちに一発殴ればいい。立ち上がった。

「言えないんだ。覚悟はしてる」

「ったく立村のばかやろう。何考えてるんだよ。俺、お前の考えてることが全く読めねえよ!」

 手が緩んだ。怒鳴った。

「どうして何に言わねえでなんでもやっちまうんだよ! ほんとお前、停学になっちまうぞ」

「覚悟の上さ」

「俺が手伝えねえと思ったのか?」

「本当にごめん」

 鸚鵡返しにくりかえすだけだった。自分の顔が能面になっていくのがわかった。貴史はあきらめたのだろう。もう一度

「ばかやろう!」

とつぶやき、自転車置き場に走っていった。しばらく立ち止まったまま上総は見送っていた。

 ちょっとだけ信じられない言葉が混じっていて、ショックでふらついていた。

 ほんとお前、停学になっちまうぞ。

 貴史から飛び出した言葉は絶交宣言ではなかった。たまらなく羽飛貴史のままだった。上総の覚悟をあっさりと遠のけてしまう貴史が怖かった。


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