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その十四 計画遂行までのよしなごと

1 バス前列懐柔作戦

2 計画実行第四段階

3 先手をとられて

4 計画実行第二段階

5 一世一代の名演技を




その十四 計画遂行のためのよしなごと


1 バス前列懐柔作戦


「一般的に女子同士って部屋の中でどういう話してる? 例えばさ、やっぱり音楽のこととかテレビのこととか、そういう感じなんか? 俺たちだとやっぱりさ、本とか、あとそうだな、洋楽のインストロメンタルとか」

「無理してるの見え見えだよ、本当にあんたガキなんだから」

 約一時間の間、テンションを高く保つため、自分の持てる力を振り絞りしゃべりつづけてきたけれど、さすがこずえにはかなわなかった。通路にいる菱本先生は相変わらず貴史、美里としゃべっているけれども、一日目のような盛り上がりには欠けている。窓際で貴史と笑顔で語り合っている美里。ごくごく自然に見える。でもたまに、上総の方をのぞき込んではすぐ目をそらす。貴史が菱本先生の間に入って、昨日の「間一髪・高校生との修羅場」を再現してみせたりと、一列目に限ってははしゃいでいる、かに見えた。

 黙っていると車に酔うだけでなく、計画がばれてしまう。

 演技と言い聞かせていた。

 こずえもさすがに三日目となっては疲れていたのかもしれない。はいはいと流す程度で、まだ強烈な下ネタを振ってはこなかった。

「どうせ男子のしゃべってることって言えば、エッチネタばかりでしょ。知ってるよ。そのくらい。羽飛たちといったい何盛り上がってたのさ。まさか、エロ本なんて持ってこなかったでしょうね」

「定義はなんだよ。写真集か?」

 普段なら「ばかばかしい」の一言で無視することなのだが、今回はそうも行かない。話に乗ってきた上総を再び、あきれるようなまなざしで見て、こずえは反り返った。

「あんたひそかに、本屋で売ってないエッチ本持ってるって聞いたことあるよ」

「誰だよそんなこと言ったのは。第一証人いるのかよ」

「一年の三学期くらいかな、本条先輩と、もういっこ上の評議委員の先輩が教室でなんかしゃべりながらエッチ本をあんたのために、選んでいたの、見たことあるんだから。美里には言わないであげたけどさ」

 思い当たる節がある。どつぼにはまりそうだ。でもやめられない。

 上総はこずえにしか聞こえないように、周りを気遣いながら、

「結城先輩とだろ。まあいろいろあるさ」

「へえ、否定しないんだ。ったく、あんたも変なとこだけ大人になったねえ」

「姉さん、実際の経験はどうなんですか、古川さん」

 間を持たせるために、もう一回ドロップの缶を振って差し出す。当然のごとく受け取るこずえ。目ざとく見つけてか貴史も、菱本先生の前を遮るように手を伸ばしてくる。緑色のドロップを二つ、落とした。

「お、二粒もくれるのか」

「お隣りさんに渡してくれ」

 そのお隣りさんたる美里は、完全に無視の姿勢だった。貴史が美里の肩をつついて、

「ほら、立村からの差し入れだ」

と指差しているのだが、一切返事をしない。仕方ないかのように、貴史が二粒、一気に口にほおりこむ。

「騒いでるのって、うちらだけだよね。後ろの席なんてもう、静かだよ。美里、もうカラオケ大会やらないの?」

 こずえは上総の相手をするのにうんざりしたかのように、大声で尋ねかけた。

「やるわけないでしょ! 騒ぎたい人だけ騒いでりゃいいのよ!」

 貴史とは、何気ない拍子に笑い声が出る。こずえは振り返り、ちょっとだけ素の表情に戻る。上総と漫才かましている時とは違う、淋しげなまなざしだった。気付いていた。

 羽飛の奴、本当に一年の女子と付き合う気なんだろうか。

 二学期になってから結論出すって言ってたよな。

古川さんは、傷つくだろうな。

 こんなことさえなければ、俺は古川さんと羽飛を隣同士にしてやっただろうな。残酷かどうかわからないけれどさ。俺は清坂氏と、さんざんひゅうひゅう言われることを覚悟すると。

 きっと喜んでもらえるって宿泊研修の計画を練ってきたんだ。

 結局俺は役立たずのままなんだ。

 菱本先生の言う通り、自分の能力を超えたことばかりやろうとして、失敗してる情けない奴なんだ。

「ほら、もう一個やろうか」

「いらないよ。もっと美味しいものだったらいいけどね」

 目を閉じていた菱本先生がはたっと身を起こした。

「配りたいなら俺にもよこせ。立村、今日は一段とハイテンションだなあ。夜、いいことでもあったのか? 昨日はロビーで長電話してたって噂聞いたが。秘密の恋人でもいるのかな?」

 息が詰まった。口の中のつるつるしたドロップを飲み込み損ねて激しく咳が出た。こずえが露骨に身体を離した。吐かれたら困るとでも言いたげだった。

「お、図星か。じゃあ、立村の相手について追求してみるか。昨日は羽飛と清坂の関係についてたっぷり聞かせてもらったしな。古川、お前も聞きたいだろ?」

 強くうなずくこずえ。いきなり顔をのぞき込んできた。

「そうだよねえ、浮気してるんだあ。美里だけじゃないんだあ。本条先輩の真似してるってことかなあ?」

 違う、違うと首を振るのが精一杯だった。貴史と美里の席を見るのが怖い。何かとんでもない勘違いをされているような気がする。息を整え、こずえの方にだけ顔を向けた。菱本先生は当然無視した。

「あのな、人が電話しているだけで勝手な想像するのはやめろよな。俺にだってうちってものがあるんだ」

「へえ、ホームシックにかかっちゃったの?」

「だから違うって。たまたま本条先輩に用事があって」

「あ、わかった! 本条先輩に女子の口説き方を緊急レクチャーしてもらったんでしょ。本条先輩、すごいよね。ふたり彼女がいるんだよね」

 はたして担任の近くで色恋沙汰の話題を振っていいのだろうか。

 上総はごまかすことにした。

「知らないってさ。評議同士いろいろ報告することがあるんだよ」

「報告ってなになに? ははん、美里との喧嘩で、仲直りできるかどうか相談してたのかなあ」

「関係ないだろ!」

 次の台詞に上総は危うく叫びそうになった。

「そうかお前ら、夫婦喧嘩してたのか。熱出してぶっ倒れるくらい落ち込んでたんだな。清坂、どうする? 許してやるか? 羽飛のところに戻るのか?」

「いいかげんにしてください! 先生には関係ないでしょ! だいっ嫌い!」

 もう何を言い返しても無駄だ。上総はおとなしく、窓を見ながら次の会話を何にするか考えた。外の景色は山々からだんだん、赤い三角屋根、平べったい青い屋根、四角い建物に置き換えられていく。見慣れた青潟の空気が空から降りてきた風だった。 

 あと一時間もない。計画実行第四段階に突入だ。


2 計画実行第四段階

 

 明星美術館までは思ったよりも遠かった。予定では十時半に休憩が二十分入り、十一時半に明星美術館に到着だ。前日調べた「明星美術館案内」によると、かなり広い。名の知れた有名画家が揃っているわけではないのだが、ひとりだけ地元出身の著名な画家がいるとか。個人画所蔵の保管スペース扱いされているらしい

 重要なことはただ一つ。

 いかにして先にバスを降りるか、だ。

 全く地理勘のない場所というのが、さらに頭を悩ませる。

 降りたはいいが、すぐに美術館にもぐりこめるかどうかというのも問題だ。裏門から入ればすぐだとは思う。入場料も三百円だ。貴史から借りた分でぎりぎり賄える。二年D組連中が到着するまでのわずかな間に狩野先生を探し出すことができるだろうか。天気がいいからきっと芝生で弁当を食べている可能性もある。美術館内で鑑賞しているかもしれない。美術館内の喫茶店で何か食べているかもしれない。

 考えれば考えるほど、わけがわからなくなる。

「ほらほら、立村、無理して騒いでいるからエネルギーなくなるんだよ」

 貴史と美里たちが降りた後、上総も立ち上がった。隣りのこずえが大きなため息をついて見上げた。菱本先生もいない。運転手さんがいるだけだ。本当はこずえがいなくなってから運転手さんに、時間をもらおうと考えていた。

「先に下りれば」

「はいはい。あまり無理するのは身体によくないよ。わが弟よ」

 見抜かれているのか。

 へらへらしてごまかすしかなかった。

「ありがとう、やっぱり持つべきものはお姉さんってとこか」


 こずえが降りた後、上総は通路に立ちざっと見渡した。まだ誰も酔って苦しんでいることもないし、意外なほど静かだった。トイレに寄ればすぐに戻ってきてもかまわない。お土産を買う場所がかなりあるので、時間をつぶすにはちょうど良かった。

 一服、といった風に運転手さんは煙草の封を切った。

「昨日は、ご迷惑かけてしまってすみません」

 話のとっかかりとして謝った。詳しいことは知らないが、修羅場だったとだけは聞いている。評議委員としての礼儀だと思った。

「いや、ちょっと時間がかかったから仕方ないですよ」

「本当は僕がきちんと、クラスをまとめないといけなかったんだけど、本当にすみません」

 にこやかに運転手さんは首を振った。上総が降りてからでないと動きようがないようだ。ひとまずトイレに行ってきてから、もう一度アタックだ。一礼して外に出た。ガソリンのにおいが、バスから離れるにしたがって薄れていった。

エンジンがかかっているのは頭の中だけ。心臓の音がこめかみに響いていた。


 することをすませるとすぐにバスに戻った。一日目の休憩時間では、運転手さんは近くのベンチに座って煙草を吹かしていた。風がかすかに揺らいでいるせいか、煙が消えていた。声をかけようとする前に、向こうから笑顔で招かれた。かすかに頷き、ベンチを軽く叩いた。紺の帽子でぱたぱた仰ぎながら、煙をよそにやった。

「すみません。少しだけいいですか」

 上総は奥歯同士がちょうどいい具合に合うように、かみ締めた。笑顔に見えるのだと、小さいころ母に仕込まれた。表情で勝負をかけるときは必ずこうしていた。上総の計算を気付いているのかいないのか、運転手さんはやさしい表情で空を見上げた。

「クラスの学級委員っていうのは、大変ですよ。僕も経験がありますからね。担任の先生たちはみな、クラスをまとめろとか、協力させろとかいうけれど、簡単に出来たら中学生じゃねえよって、いつも思ってましたからね」

 嘘じゃない気持ちで、頷いた。

「でも、青大附中さんの運転を担当することが多くなってから、やはり違うなあと思うんですよね。僕はふつうの公立だったから、青大附中というと超エリートの集団だとばかり思ってましたが」

「青大附中の宿泊研修って、いつも担当されて、おられるんですか?」 

 少し安心しつつも、タイムリミット二十分以内というのに上総は、焦りを覚えた。

「修学旅行や遠足なども、いつもそうですね。毎回、というわけではないですが、やはりガイドとかも学校別に専門の人がいたりします。日時なども選びますが僕は学校関係を担当することが多いですね。ここ三年は青大附中さん中心かな」

 詳しい事情は意味不明だった。単に青大附中の宿泊研修はなれているってことだろう。上総は相槌を打ちながら、話を切り出すタイミングを計った。菱本先生や貴史がもどってこないうちに。

 

「おととい、やはり青大附中の宿泊研修で、礼儀正しい、やたらと仕切り屋の評議委員がいた話してくれましたよね」

「はいはいはい、覚えてますよ。あの時は面白かったなあ。思い出話になることがどっさりありますよ。言えないけれど、先生なんて目じゃないって感じで盛り上がっていたことを」

 本条先輩のクラスは本条里希色に染まっていたのだろう。楽しそうにあれやこれや思い出そうとする様子だった

 寝ている間に考えた言葉を上総はなんどか繰り返した。

 本条先輩に対してしてくれた何かを、どうか上総にもしてほしいということを伝えればいい。明星美術館の裏口で、僕が騒ぎを起こしたら、すみませんが下ろしてもらえますか? 決して悪いことをするわけじゃないんです。ただ、どうしてもしなくてはならないことがあるんです。言うだけでいい。

 でももし、問い詰められたらどうしよう? 

 両手を握り締めた。こつこつとベンチの端をたたいた。不思議そうに運転手さんが上総の方に首を傾げた。

 チャンスだ、話そう。

 唇を何度も動かした。

「あの、それで」

 途中で言葉が出なくなってしまった。

 身体の方が勝手に言葉を吐き出させてくれなかった。

 

 早く、何とかしなくちゃいけない。

 でも、どう切り出せばいいかわからない。

 断られるかもしれない。

 菱本先生に告げ口されるかもしれない。

 手の平に汗をかいていた。さっきトイレに行ってきたくせに、また行きたくなってきそうだった。本条先輩に昨夜言われた、

「俺と違ってお前、押しが弱いだろ。人を説得なんてできやしないって」

という言葉、耳を離れなかった。

 肝心要のところで出てきてしまう、弱虫な自分がいる。

 散々計画を立てておいたくせに、腰がひけてしまう。

 絶対やると決めてるのに、腰砕けの自分がいる。

 上総は半開きのまま唇を動かした。

 気付いていないのだろうか。運転手さんはさらに続けた。


「すごいですよね、あの、本条くんだったかな? 女子にもかなりもてるタイプですね。頭も切れるしいざという時には頼りになるなあ。僕が青大附中の評議委員というのに関心を持つようになったのは、あの時からです。単なる学級委員と違うんですね。本当にクラスのことを考えて、懸命に努力して、それでひっぱっていける人がなってるんですね」

 目の前にふうっと、評議委員会中教壇に立って黒板を叩いている本条先輩の姿が目に浮かんだ。評議委員長。来年はたぶん、自分が評議委員長になるはずだった。重ねてみようとした。できなかった。

「先輩は、評議委員長なんです。すごい、本当にすごい人です」

「君だって、一生懸命にクラスのみんなを気遣っているじゃないですか。自信もって大丈夫ですよ。立村くん」

 苗字を呼ばれたとたん、掛け金が自分の中で外れたような気がした。

 違う、俺は本条先輩みたいになれない。

 運転手さんの言葉が上総の中にずぶずぶ突き刺さっていった。

 俺は本条先輩みたいに、なんて、出来ない。

 本条先輩の言う通りだ。

 さっきまでは堂々と演技して泣き落とそうとして、覚悟していたくせに。

 もう限界だった。


 菱本先生のように気持ち悪いやさしさで撫でまわされた時も、貴史に問い詰められた時も、南雲の前でも、なんとか人前で泣かないように耐えられた。絶対に学校では泣かないようにしようと、毎日誓って通っていた。自分の記憶している限り、人前で泣いたことは中学に入ってから全くなかった。男のくせに女々しいと言われたくなかった。

 自分がまだまだ、小学校の頃と同じ泣き虫だってことは、一番よくわかっている。上総の部屋にかかっている鏡、ベット、机みな、口が利けたらきっと証言するだろう。

 咽からこみ上げてくるのは熱い塊のようなものだった。頬によじ登ってくる。


「どうしたんですか? なにか、嫌なことがあったんですか?」

 声はまったく変わらない、穏やかな調子だった。

「俺はそんな、青大附中の評議じゃない。本条先輩のように、なれない。本条先輩のようになんて」

 顔を隠すとかえって泣いていることを認めるようでいやだった。

 ベンチの板をを両脇握りしめた。支えがほしかった。自分の声が震えているのが分かった。

「今日これから、明星美術館に行くということ。俺は絶対やめさせたくて。昨日の反省でその話が出た時、俺は反対したけど、結局、ガキ扱いされてしまっただけで」

 話したところで咽が詰まった。運転手さんの顔を見上げることができなかった。一気にしゃくりあげてしまいそうだった。背中をさすってくれた。軽く、とんとんと叩いてくれた。

「どうして、反対したんですか?」

 尋ねると同時にまた、首筋をさすってくれた。薄手のシャツから直接響いてきた。

「たぶん俺が神経質すぎるだけだと思います。他のクラスの先生と女子三人が、別行動で明星美術館に来るから、一緒に合流しようって菱本先生は考えてます。ふつうだったら、面白い、と盛り上げれるかもしれません。でも、その三人がなんで旅行しているかを考えないで、ただ、集団でいればいいからって決め付け」

 頬に勢いよくつたうものがあった。止められなかった。目をこすったが効果なかった。つばでこすった時に感じる、匂いだけだった。

「旅行の目的はなんですか?」

「退学する女子がいるからお別れ会らしいって聞きました。青大附中にもういたくないから、退学するってことらしいです。ひっそりと誰にも気付かれないようにしたいのが本音だと思います。俺だったら絶対そうする。菱本先生はそんなことを全然考えてくれない。どうしてか、どうしてかわからないけど、退学する女子の気持ちを全然考えないで、ただみんなで一緒に盛り上がろうとばかり、そればっかり。クラスの連中もみな、同じ考えみたいで、俺の考えはただのガキっぽいわがままだって言われ」

 歯を食いしばった。ますます自分が壊れそうだった。

「そうなんですか。いきなりの予定変更が多い先生だと思っていましたが」

 考え込むような口調で、運転手さんは手を離した。


 さほどの時間でもなかったのだろう。運転手さんがポケットティッシュを一枚くれたので、目をぬぐい鼻をかんだ。目のところがすうすうする。きっと目が充血していて、恐ろしい形相だっただろう。

「落ち着きましたか?」

「はい。すみません」

 上総がこういう状態になると、相手はひくか怒るか慰めるかのどちらかだった。運転手さんはどちらでもなく、変わらぬ笑顔でずっと見守っているだけだった。

「もう一度、バスの中で説得しますか。先生を」

「いいえ」

 今度はきっちりと唇をかみ締め、首を小さく振った。

「もういまさらどうしようもないです。ただ」

 顔に涙の後が残っているかもしれない。顔を上げ、目一杯の力で運転手さんを見つめた。吸い終わった煙草を灰皿の上につぶさぬまま置いていた。

「裏門のところで、僕だけ降ろしてもらうってことはできませんか」

「裏門?」

 ひょっと、手を浮かせた。

「明星美術館には確か、裏門と表門というのがあると聞いたことがあります。僕ひとりが先に入っていって、あとから菱本先生たちが表門から入っていくってことは、できませんか」

 空をもう一度見つめなおし、運転手さんは唇を尖らせた。時間がない。一人、また一人とバスに乗り込もうとする女子の姿が見えた。美里、こずえももどってきたらしい。土産らしきビニール袋をぶら下げていた。

 もう心臓はとくとく言わない。涙で洗い流した。

 もう望みは断たれる。

 菱本先生が戻ってきた。缶ジュースを握りしめていた。

「どうした、立村、お前も早く乗れ」

「わかりました」

 怒鳴り返した。もう一度、運転手さんの顔を見つめた。

「無理ならいいです」

 立ち上がった。同時に運転手さんは上総の方にポケットティッシュを一枚差し出した。

「拭いてから席に戻った方がいいでしょう」


3 先手をとられて


 最後に乗り込むと、前列四人がなにやら会話を止めた。上総の顔を見上げては何か言いたそうな様子で、飲み込まなくてはという風に。他の連中はちょこちょことお菓子をつまんだりしていた。ジュースを飲む奴もいた。窓際の席に戻ってガラスの向こうを眺めた。前髪が思いっきり乱れていた。ガラスに映っていた。

「あんたも典型的な反抗期だねえ」

 こずえがぼそっとつぶやくと、隣りの菱本先生に話し掛けていた。

「ねえ先生、明星美術館にほんとに、A組の人たちいるんですか?」

「ああ、確か十二時半くらいには青潟に戻るって話だったからなあ。明星美術館は中身がたいしたことないわりに、座るところがたくさんあるんだ。天気もいいし、ハイキングかわりに使ったりしているらしいぞ」

「あ、じゃあさあ、バレーボールとかできねえのかなあ?」

 貴史が耳ざとく、しゃしゃり出る様子。

「許可を得ないとな。春には花見の時に使ったりしているんだから弁当を広げるくらいはかまわないだろう」

「じゃあ、お弁当はどこで買うんですか?」

 美里の声だ。神経に響く。聞かないふりして窓を見つめつづけた。

「俺がちゃんとその辺は手配してあるから安心しろ。美術館に直接届けてもらうように頼んであるからな。人数分三十人」

 これは初耳だ。会話に混じってもっと詳しく聞きたかった。そっと振り返ると、四人の視線が上総一点に集まっている。ぎょっとした。

「なんですか、いったい」

「お前、昨日大反対してたよなあ」

 菱本先生がにやりと笑った。

「ほんとは、俺をもう一度説得したかったんだろう?」

 首を振った。まぬけに見えたかもしれない。言葉が咽にひっかっかって出てこなかった。

「朝から変だとは思ってたんだよなあ。立村があんなにばか見たく明るいのは見たことないって、羽飛も古川も話していたからな。でもな、世の中はそう甘くないんだぞ。さっき、美術館の方に連絡して、弁当を三十個、用意してもらうようにしてあるんだ。お前のことだ、また『いきなり集団で弁当を広げるのは問題があるんではないか』とか言い出しそうだったからなあ。悪いが、先手を打たせていただいたってわけだ。あきらめろ。潔く」

 信号でいったん停止している。ちらっと、運転手さんが上総のいる方に視線を投げ、すぐに元に戻した。全身に鐘の音が鳴り響くようだった。表情だけは変えたくなかった。唇を噛んだまま、菱本先生、こずえ、貴史、最後に美里の顔を見つめ返した。さっきまでけらけら笑いこけていた三人が、上総の様子にただならぬものを感じたのだろう、様子をうかがうような見上げ方をしていた。

「別に、そんなこと考えていません」

「そうか。ならよし」

 菱本先生は三人の顔をひとりひとり眺め、ほっとしたように伸びをした。やりきれない。他の連中も上総とのやり取りに決着がついたと思ったようで、ふわあっとため息が漏れてきた。緊張していたのかこずえも、やっとジュースにストローを差し込み、すすっと飲んだ。

「いいじゃない、美術館に行くくらいさ。立村、あんたって変なとこで頑固だからねえ。誰も絵を見たいなんて思ってないよ。みんなで盛り上がろうってだけじゃない。あと一日もないんだよ」

 アーモンドの入ったチョコレートをひとかけら差し出して、

「いいこと教えてあげようか」

「なんだよ」

「さっきね、美里がね、あんたのこと探してたんだよ」

 今度はささやき声、美里たちにはもちろん、菱本先生にも気付かれない声だった。

「何があったか知らないけど、あんたももう少し大目に見てやりなよ。美里昨日なんてすごく元気なかったんだよ。昼行灯って言われていても、美里にとってはあんたが一番なんだから。ほら、バスの中で昨日ばたばたしたでしょ、美里言ってたんだから。『立村くんがいたら』って」

「俺がいたらもっととんでもないことになってたよな」

 吐き捨てるようにつぶやいた。チョコレートをそのまま口に放り込んだ。

「ほらほらまたいじける。立村のことを美里だけは、ちゃんと『評議委員』として認めてるんだから。貴重な相手と縁が切れるなんて、もったいないよ。さっさと仲直り、しちゃいな」


 菱本先生は上総に「担任」としてのだめを押しておきたかったのだろう。大人には逆らえないものだということを、教え込みたかったに違いない。来年青大附中の次期評議委員長を任命されることもあって「これ以上天狗になるなよ」と言いたかったのかもしれない。教師に逆らってはならない、わがままを言ってはいけない。みんなと協力しあって、中学生らしく努力しなくてはならない。

 でも、と、上総は思う。

 何にもわかっていないんだ。

 何に腹を立てているのか、なんもわかってない。

 美術館に行きたくないからじゃないんだ。

 いきなりの予定変更に頭に来たからでもないんだ。

 

 突然、運転手さんがバスガイド用マイクを手に取った。

「それでは明星美術館に向かいます。あと三十分くらいですが、裏門の方を通っていきます。進行方向左手側が入り口ですが、バスは表門の方から入ることになります。混んでいる可能性もありますのでよろしくお願いいたします。裏門に近づきましたら改めて連絡します」

 マイクを通すと、運転手さんの声は堅かった。上総の側で話をしてくれた時とは違い、伝えようとしているかのようだった。耳もとに響いた。

「いきなりアナウンスしてくれるなんてね」

 向こう側で貴史と美里が不思議そうにしゃべっている。

「今までこんなことなかったよね」

「サービスかな」

 誰も気付いていない。

 菱本先生も、他の連中も。

 気付いているのは、俺だけだ。

 上総はもう一度運転手さんの手元、およびハンドルをじっと見つめた。念が通じるとするならば、ありがとうと伝えたかった。知らんぷりして運転に専念している。上総にティッシュを渡してくれた手。手袋で覆われている手。馬鹿見たく泣きじゃくってしまった時に、落ち着かせるようにさすってくれたものだった。

 

 ありがとうございます。

 たとえ、もう二年D組から追い出されたっていい。

 俺は、自分の中の感じるものを信じて、計画を実行してやる。


 市街地に入った。道路はほとんどコンクリートで舗装されていた。朝のすがれた空気が残っているせいか、入ってくる風は冷たかった。振動がきついのはいつものことだけど、こずえに頼み込んで窓を広くあけさせてもらったので、それほど酔わずにすんだ。

「めずらしいねえ。あんた一日目吐きそうな顔していたくせに。ほら、エチケット袋、いる?」

「大丈夫。古川さんと話していると刺激的で、なんだか楽だよ」

「ははん、この夏で成長したんだねえ、わが弟よ」

「ばかばかしい」

 上総はちろちろと向こう側の貴史、美里コンビを眺めながらつぶやいた。

 最初はいやがっていたくせに、あっという間に二人の世界を作り出している。髪につけた布のタータンチェックが目に入るたび、時計の針が進むたび、こずえの言葉を聞くたび、ためらった。

 やらかしていいのか。

 本当に後悔しないのか。

 すべてをなくしてしまうだろう。

 停学だけでない、退学になったらどうしようか。

 悪夢漂う本品山中学に転入になったら、また地獄の日々が始まるのだろうか。かつて上総のことを散々おもちゃにした連中と、また戦うのだろうか。それもよし。小学校時代の泣き虫じゃないのだから。やられた相手には徹底してやり返すことを覚えた。一度は自分の味方でいてくれる人がいることも知った。信じられないことだけど、自分のことを好きだといってくれた女子だっていたことも。

 上総は左ポケットに指を差し入れた。金具っぽいものを探り当てて、指にはめた。いつ美術館裏門に差し掛かるのだろう。アナウンスを待った。


 運転手さんが手にマイクを取った。電気が走る。ポケットの手をぎゅっと握り締めた。

「みなさん、そろそろ明星美術館に差し掛かります。あと五分くらいでしょうか。目の前に白い円錐のようなものがたくさん並んでいる道が見えます。そこは狭いので、少しゆっくりめにスピードを落としていきます。一方通行です。少し時間がかかります」

 声は抑え目だ。アナウンスというよりも、脅迫しているような響きだった。

「それはそれはすみません。そうか。明星美術館ってな、ほとんどひとりの画家しか入っていないってきいたからなあ」

 菱本先生の間の抜けた声を耳にしながら、上総は表情を悟られぬよう窓ガラスに向けた。力いっぱい開いた。勢い余って全開になってしまった。ぎゅうと風が車内に落ちた。

「ちょっと、立村何やってるんだ」

「す、すみません。ちょっとなんとなく」

 嘘がつけないのが悔しい。勢いよく左手を外に出した。すでに一方通行の道に入っている。細い通りには運転手さんの話していた白い円錐形のオブジェが大小取り混ぜて飾られていた。現代美術なのだろうか。そんなのはわからない。中にはとがったところの先をきゅっとひねって、クリームケーキのような形をこしらえているものも並んでいた。

 狭い通りをバスが走るなんて、本当は無謀なはずだ。ふつうは絶対、しないはずだ。なのに。

 奥歯をかみ締めた。

 腰を浮かし、片手を開いてすぐに握り締めた。

 手を引っ込めた。

 ポケットにもう一度戻してから心でつぶやいた。

 演技開始だ。


5 一世一代の名演技を

 

「どうしたのさ。立村、青ざめた顔をしてさ」

「とんでもないことになってしまったかもしれない」

 こずえがすっとんきょうな声を上げた。

 上総の手ががたがた震えているのに気付いたらしい。右手は浮いたまま脇に置いていた。

「今、とんでもないものを落としてしまったかもしれない」

「はあ?」

「どうしよう、本当にまずいことになってしまったかもしれない」

「なあに落としたのよ」

 最初のうちは冗談めかしたようにあしらってくれた。まずい。上総はもう一度、唇をかみ締める風にして、こずえを見上げた。母に頼みごとをする時、小さい頃よくこうやったものだった。

「古川さん、恥をしのんで言うよ。俺、たぶんこれから生きていけないかもしれない」

「何大げさなこと言ってるの。美里に言いなよ、そんなこと」

「お姉さん、あんたにしかこういうことは相談できないんだって!」

 ゆるゆるとスピードが落ちる。隣りに自転車が危うくすり抜けていく。死角に入っていきそうだった。声をさらに上ずらせてつぶやきつづけた。

「さっき俺が手を出してた時、気付かなかったんだけど、指にひっかかっていたらしいんだ」

「何が? 鍵かなんか?」

「限りなく近い」

 早く気付いてほしい。ぐっと気合を込めて上総は答えた。

「キーホルダー、って知ってるだろ?」

「キーホルダーって、鍵じゃなければいいじゃない。どうせあんた、美里からもらったのがあるでしょ」

「その肝心要の、もらったばかりのキーホルダーなんだって!」

 反対側の美里がぎょっとした表情で上総の方を覗き込んだ。

 一緒に貴史も重なった。

 最後に菱本先生が身体を折り曲げて、尋ねてきた。からかい調子を隠しているかのように。

「おい、お前、もしかして彼女からもらったものを外に落っことしたなんていわないよなあ?」

 一番心配しているように見えるのはこずえだけだった。貴史と美里の表情はさほど変わっているようには見えない。

 勝負は、菱本先生とこずえの二人に賭けるしかない。

 上総は見切った。勝負に出た。

 

「菱本先生、申しわけありません。理由を聞かないでください。僕が悪かったと思ってます。僕がさんざんわがままを言い続けた天罰だと思ってます。だから反省します。だから、だから」

「何いきなり自己批判してるんだ? 顔色真っ青だぞ」

「ちょっと立村、あまり私の足のにおいかがないでよ」

 こずえの膝に頭がつくくらいに、上総は頭を下げた。

「さっきの裏門のところで、たぶん落としたんだと思います。今から、拾いに行かせてください。お願いします。ばかみたいなことを最後の最後でやらかすなんて、しょせん、僕の程度はそのくらいしかないと思ってます。菱本先生にばかみたく反抗していた自分が、馬鹿だとつくづく思います。だから、お願いします。自分のわがままを押し通したりしません」

 菱本先生が背をそらした。上総も自分のことばが菱本先生にどういう感触を与えているのか、見当がつかなかった。かなり驚いていることは確かだろう。全くの大嘘をついている自分。全く反省なんてしていない自分。

 突き動かしているのは、降りなくちゃいけないという気持ちだけだ。

 後ろの方にいる連中が少しざわめき出した。

 女子の声で

「どうしたんだろ、立村くん、また切れてしまったのかもよ」

 男子の声で

「なんで立村の奴車から降りたがってるのか? 腹の具合でも悪いのか?」と。どう誤解されるだろう。二学期、どういう空気の中過ごすのだろう。バスの中の不穏な空気。まんま、教室に流れるというのも覚悟の上だ。上総はただ、ひたすらに泣きそうな顔をこしらえながら繰り返した。

「お願いします。裏門のところまで走って戻ります」

「お前、こんなところで降りるのは無理だぞ」

 貴史も間に入って、ぶっとばす調子でかき回した。

「ばかやろう、何やってるんだよ。よりによってあれを落としたのかよ」

「羽飛わかるか?」

「わかるってよ。あんなに立村、宝物みたく扱ってたくせにな。ほんっと馬鹿野郎だぜ」

 美里の表情はあえて見なかった。壊れたくなかった。エスカレートすると、また泣きじゃくりそうだった。泣き落としだ。運転手さんを前に思いも寄らない「泣き落とし」をやってしまったこと。ハプニングだった。

 鼻をすすり上げ、もう一度、菱本先生の顔を見上げた。言葉を発しようとした、


「先生、こいつ何とかしてやろうって。こいつな、たぶん美里からもらったキーホルダーをさ、すげえ喜んでたんだ。そりゃ、落としたらパニックになるって。降りられねえのかなあ?」

 天の声なり。

「な、そうだろ? 立村」

 上総はゆっくりと貴史を見据えた。

 言葉を貴史にぶつければ、すべてが嘘になってしまう。

 嘘を重ねていけばもう二度と、友達でいられなくなる。

 あこがれていた、ふつうの友達でいられなくなる。

 自分の中の掛け金が外れそうでぎしぎし言っている。

 菱本先生を相手にぺらぺらやるのはかまわなかった。自分を最初から相手にしていない連中だったら、何をやったって後悔はしない。

 貴史と美里は別だった。入学式の時からずっと、仲のいい友達だったのに、自分が受け入れられないというただそれだけで、裏切ってしまうなんて。首を締められたら息が苦しくなるんだろう。言葉が途切れてしまうんだろう。本当は自分が何を考えているか、いやというほと分かっているのに。青大附中の居心地の良さに甘えている自分がいる。

「羽飛、頼む」

 搾り出すのがやっとだった。美里は微動だにしなかった。上総が観察しなかったせいかもしれない。一緒に貴史が菱本先生の腕をゆすってくれた。

「あの、もしよければ、裏門まででしたら戻れますよ」

 ゆるゆるしていたバスが止まった。運転手さんが、いかにも聞いていましたよ、という態度で振り向いて、菱本先生に声をかけた。上総の方をそっと流すように見て、笑顔でだった。

「大馬鹿もんが。ったく、お前はほんとにガキだっていうんだよ」

 軽く頭を叩かれた。しばらく苦みばしった表情のままだった菱本先生は、「うん」

 と両膝を叩き、運転手さんに答えた。

「すみません。うちの馬鹿息子のために、ちょっと裏門まで戻ってもらえますか?」

 

 泣く寸前まで行っていたはずだった。力が抜けた。こずえの膝元に手がすべり、思いっきりはたかれた。

「なあに、すけべなことやってるの。ほんとあんたってガキだよ。なさけない! 立村、本当にあんた、泣きそうな顔してるよ」

「わかってくれればいい」

 ここで崩れてはいけない。自分に言い聞かせた。

 菱本先生にもう一度、演技をしなくては。

「ありがとうございます。ほんとに、ごめんなさい」

 苦い味のする言葉を搾り出した。咽がひりひりしてきた。振り返って窓から様子を見ると、バスはいったん大通りまででて、もう一度円錐の待つ裏門に戻るらしかった。

「裏門は、まっすぐ走ればすぐですよ」

 運転手さんのマイクの言葉に頷いた。美里の様子は全くうかがえなかった。貴史の

「ほら、俺に感謝しろよ」

と言わんばかりの鼻高々な顔だけがはっきり映った。

 こずえだけ胡散臭そうな目で上総の方にささやいた。

「立村、本当に美里のキーホルダーを落としたわけ?」

「でなかったら恥ずかしい真似しないって」

「あんた、本当にほんと?」

 じいっと見つめ返されて上総も答えに困った。

「だったらどうだっていうんだよ」

「ってかさあ、そんなにあんた、美里のこと、好きなわけ? ごくごくふつうの顔して美里としゃべってたじゃない。キーホルダー落としたくらいでそんな慌てるのってどうかと思うよ」

「そんなわけないだろ!」

 ぼろが出るのはまずい。会話をシャットアウトすると、上総はバスが留まるのを待った。もう一度廻ってきた場所には、白い円錐形のオブジェが並んでいた。道を示すように点点と並んでいた。一方通行の道のりだった。

「この辺か? 落としたところは」

「そうです」

「もし見つからなかったら、あきらめて戻ってこい。他のみんなにちゃんと謝るんだな」

「はい」

 小路に入る寸前のところで、バスが留まった。

 菱本先生の小言を聞き流して立ち上がった。上総の方を見ながらげらげら笑う集団が後ろにいる。

「なあに、ばかやってるんだよ、立村の奴」

「あいつもやっぱり、惚れてる女には弱いんだなあ」

「美里ちゃん、愛されてるよね」

 いつもだったら聞くに堪えない言葉ばかりだろう。気が狂いそうになる言葉だろう。もう二度と、戻れないこの世界。評議委員としてのプライドを捨てた瞬間。頭の中をよぎる美里と貴史とのおしゃべりの時。すべてが終わった、そう思った。

 タラップに立ち振り返った。運転手さんはやはり、休憩所の時と同じ笑顔だった。ありがとうと言いたかった。遮られた。

「降りたらバスは、まっすぐ、表門から入りますからね。まっすぐですよ」

 急いで、裏門に入れということだろうか。

 上総は頷いた。ポケットには財布だけ忍ばせていた。空気がぼわっと暖かくまとわりついた。

「わかりました。ありがとうございます」

 ドアが折りたたまれた。飛び降りた。

 振り返らなかった。ネクタイが肩に流れていく。走り出した。同時に後ろの方のバスがゆっくりとバックして、とろとろと走り出しているのがわかった。左側を通り過ぎていった。わあっと窓からかすかなざわめきが聞こえた。上総の名前を呼ぶ声も聞こえた。上総はひたすら、丈の長い雑草と円錐に囲まれた歩道を走り抜けた。


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