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その十二 夜の帳のよしなごと

1 ゲームにいそしむ若人たち

2 機密情報用手帳

3 信頼できる情報筋情報

4 もうひとつの夜

5 作戦会議



その十二 夜の帳のよしなごと




1 ゲームにいそしむ若人たち


 相変わらずテレビにかじりついている貴史を連れて部屋を出た。三つ折りにたたんだボードゲームを抱え、隣りの菱本先生部屋に入ると、すでにクラスの連中はみなたむろっていた。菱本先生だけがどこか出かけたようだった。トランプを持ってきている奴もいれば、女子で占い用のカードを広げているのもいた。ひとり部屋だから狭いはずなのに、みなベットやらじゅうたんにそのままま座ったりしていたので、二十五名無事、納まっていた。もっとも女子の幾人かは、具合悪くて寝ているらしい。そりゃそうだろう。美里じゃないが、相当大変だったらしいから。

「ほっといてあげなさいよ、ね、美里」

 上総の方を見ながら声をかけるのはこずえだった。

「そこまで俺が常識なしと思ったか」

「小学生の常識はあるかもしれないけどね、ほんっとあんたっては弟だもん」

「悪かったな」

 流して上総は人数を数えた。正確ではないが、二十五人くらい。ボードゲーム別に十人、十人、五人と割り振ってみた。男女混合で、わりと仲のいい連中を中心に独断で決めた。一応、貴史と美里とこずえ、この三人は同じグループにした。自分は南雲たちと同じところに入ったが、それは訳あってのもの。貴史がぶうぶう文句を言っているようだったがいつものように、無視した。駒を、手元の要らない紙でこしらえたり、カウント表を用意したりばらばらしながら結局、菱本先生が登場したのは二十分後だった。

「先生、遅すぎ!」

 こずえがすっとんきょうな声で叫びむかえた。

「なあに言ってるんだ、古川。これみたら、許してくれるだろ?」

 見ると、両手にはペットボトルのジュースに大きなケーキ箱。さらに白い袋に入ったお菓子包み。人数分は余裕であるだろう。

「あ、食べたい早く早く!」

「お前らほんと、色気よりも食い気だなあ」

 甘いものが大好きな女子一同は大騒ぎしているけれども、男子はひたすらゲームに熱中していた。菱本先生を待つのも面倒で、上総の一存、さっさと開始してしまったのだった。

「おい、立村、もうやってしまったのか」

「はい、先生が遅いものですから」

 つらっと答えてやる。上総は小さなさいころを振りながら、駒を進めた。南雲をちらりと見やった。

 浮かない表情だ。

 わざと、奈良岡彰子を貴史たちと同じグループにまわしたからだろうか。

 ちゃんと考えはあるっていうのに。

 他の奴の番の間、上総はささやいた。

「なぐちゃん、このゲームが終わったら、俺は抜ける。それが合図だ」

「合図ってなんだよ」

「昼のこと、もう忘れたのかよ」

 ちっと舌打ちをしてみせる。

「具合わるい振りして、お前も抜けろよ。どうにか相手には連絡つけて、さっさと抜け出しちゃえよ」

「お前本気かよ」

 南雲の顔はだんだん、緊張で引き締まってきた。上総が本気で言っていると、この時まで思っていなかったのだろうか。ちょっとしゃくだった。背を向けてペットボトルからジュースを組んで飲んだ。窓から風が入ってきているはずなのに、やたらと暑苦しかった。

 そのお相手である、奈良岡彰子の方を眺めやる。

 意外や意外、結構盛り上がっているようすだ。男子たちはルーレットを回す前になにやらあやしげなポーズを取っている。貴史が座禅の時するような感じであぐらをかき、手を合わせている。奈良岡はにこやかに拍手してやっていた。何か意味があるのだろうか。わからなかった。ゲーム盤の駒がどこまで進んでいるか見ると、黄色い折鶴が一羽、ゴール手前に留まっていた。

「ほら、そろそろ誰か上がるみたいだよ」

「ああ、そうだなあ」

 なぐちゃんご機嫌斜め。

 なんでかは言うまでもあるまい。

 横目で口を尖らせている南雲を無視して、上総は自分の駒に目を向けた。

 上がりまでにはまだ時間がかかりそうだった。

 もうひとつのグループで「おっしゃああ!」と叫んでいるのは菱本先生だった。きちんとプレスされたベットの上に、トランプもどきのものを広げて何かやっている。ぶたのしっぽだろうか。


 なんとか三番目に上がった。ゲームの進行状況をざっと見ると、貴史たちのグループはゲームが終わったところでだべりに熱中しているようだった。もう一度やるのも、面子変えてからでないと、ってことだろうか。美里と貴史のふたりが相変わらず騒いでいるところに、奈良岡彰子と古川こずえが割り込んで、けらけら笑っている。会話の内容は聞こえなかった。

「ではもういちど組替えするからじゃんけんするか」」

「もういいよ。あとは何となくで」

 美里の声だった。

「先生、今度はこっち来いよ」

 貴史が誘っている。

「わかった、しっかし俺が中学生になるのかあ。羽飛たちと同学年かあ。若いよなあ」

 ちらっと上総の方を見やるが、何も言わなかった。

 上総も無視した。

 南雲が何をしているか様子をうかがうと、なにやら雰囲気が甘くない。

 奈良岡に向かって何か、真面目な顔でまくし立てている。

 いつもとは反対ににこやかな奈良岡の表情が気にかかった。アンバランスだった。どうしたのだろう。気にはなったけれど、言うことは言ったし、上総はそっと部屋を抜け出した。ちらっと南雲がドアの方を見たけれど、それも無視した。



2 機密情報用手帳


 空気がにごっている。やたらと汗臭くて、早く部屋から抜け出したかった。何度経験してもなれない集団の雰囲気。上総は素早く部屋に戻ると、バックから手帳を取り出した。

 秘密の計画および、二年D組に関する細かいことがすべて綴られている。

 父からもらったものだった。結構分厚い。


『宿泊研修 三日目予定変更』


 一番後ろの何も書いていないメモ欄に、ボールペンでしっかり書いた。

 

 朝九時にバス出発。その後最初の予定では「羽原公園 十一時到着」の予定だった。しかし、そこから離れた「明星美術館」なるところがあって三十分くらい長くバスに乗ることになる。

 予定を決めるのは菱本先生だ。いくら評議とはいえ、所詮自分は中学生なんだということを思い知らされた。いくら評議委員ふたりにまかせられたとはいえ、最後のチェックはみな菱本先生の手によって行われた。どうして、マイクロバスの予約までやらせてもらえなかったのだろう。ホテルの予約電話だって掛けたかった。全部細かいことを経験したかった。予定を立て、ホテル名を挙げ、バスの席順を決め、しおりをつくり。自分では精一杯やったけれども、結局細かいことは菱本先生が片付けた。

 たぶん、明日の朝、予定変更なども菱本先生が仕切るのだろう。

 わかっている。担任は二十才以上の大人。自分は結局中学二年生。

 

 どうすればいいんだろう。

 このままだと黙っていてもそうなっちゃうよな。

 俺の方には十分過ぎるくらい、予定変更を阻止する理由があるのにな。

 結局ガキのままかよ。

 

 「予定変更」に何度も下線を引っ張った。ひとりごと、つぶやいた。

「本条先輩、本条先輩、本条先輩……」

 呪文のようだった。クラスの出来事で困り果てた時、上総は無意識のうちに「本条先輩だったらどうするか」と考えるのがくせだった。美里にも「立村くんって、いつも本条先輩にべったりだよね」と言われる。本条先輩の頭脳が、自分の中に入ってくるような気がした。呪文を唱えれば、担任よりもいい案が見つかりそうだった。

 上総はもういちど、息を吸いなおした。つぶやいた。

「本条先輩だったら、どうするか、だよな」

 ベットに腰掛け、カーテン開けっ放しの窓を眺めた。

 さわさわと響く木々のざわめき、その間を縫って、針をつきさしたような星がひとつ、見えた。枕もとのコースターをもって、日にちを合わせ、窓辺で掲げた。生の目で見据えた。取り落とし、腰が抜けそうだった。

「あんなの、星じゃねえよ……」

 星座盤なんて役立たなかった。上総の目の前に繰り広げられていたのは、青潟で見慣れた分かりやすい星じゃなかった。黒い紙に針を何千本と突き刺したような、白い光の束だった。突き刺されそうだった。あいている片手を握り締めた。勝手に声が出るのはなぜだろう。

 部屋の中でひとりいるのが、上総は突然怖くなった。

 樽の中に詰め込まれ、銀の剣に打ち抜かれた海賊の気持ちに近いかもしれない。

 自分の中にあるなにかを、星たちが処刑しようとしている。

 幾千もの視線にも見えた。  

 幾千もの刀にも見えた。

「あんなの、星じゃねえよ……」

 上総は窓を締めた。がたがた震えてくるのがわかる。とにかくこの部屋から逃げ出したかった。手帳を抱え、廊下に出た。隣りの部屋では笑い声が漏れる。あの部屋以外のどこか、星の見えない場所に行きたかった。

 階段を下り、ロビーに向かった。



3 信頼できる情報筋情報

 

 もっと誰かうろついていると思ったのだが、予想に反して気配全くしなかった。ポケットには財布を入れたままにしていた。じゃら銭ばかりなので、重たい。本当はテレホンカードがほしかったけれど、さっき使ってしまった。上総は時計を見て、遅すぎないことを確認した。本条先輩の家は四人兄弟ということで、両親がいない。なんでも両親が諸般の事情で引っ越しているのだそうだ。気を遣わないですんだ。

 小銭入れを開いてみたところ、幸い十円玉はたくさん詰まっていた。ほっとした。上総は素早く公衆電話を占領し、十枚一気に硬貨を流し込んだ。


 すぐに電話口にでた本条先輩へ、硬貨の落ちる音を気にしつつまくし立てた。普段の「沈着冷静」なんて、金銭的問題には負けてしまう。とにかく、時間がない。言葉を挟む間もなく、たぶん受話器の向こうでは頷いているのかあきれているのかなにかしているのだろう。上総にはそんなこと考えている余裕なんてなかった。

 だから遠距離で宿泊研修やるなんて、嫌だったんだ。

 よりによって小遣いのない時に限ってさ。

「お前、俺にも一言くらいしゃべらせろよ」

「すみません」

 一通り話し終えて、上総は大きく息をついた。ちょっとした沈黙すら、もったいなくていらいらする。片手で小銭入れをいじりながら、十円玉、百円玉を探した。くやしいくらい薄っぺらい、一円玉五円玉ばかりが多いのはなぜだろう。ゆったり間を置く本条先輩の言葉がいらだたしかった。

「A組のミニ宿泊研修に紛れ込もうとする菱本先生のことはよくわかった。お前がそれにぶっちぎれてぶんなぐりたい気持ちだってこともよくわかる。でもな、肝心なこと言ってないだろ」

「なんですか、肝心なことって」

「つまり、お前が何をしたいかってことだよ。それがわからねえと、立村、俺は何も言えないぞ。確かにな、菱本先生の「寝込みを襲う」やり方は無謀かなあという気がするが、でもまあ、そんな立村ひとりが目くじら立てなくてもいいだろ?」

 この人も一緒か。ちゃりちゃり落ちていく十円玉の音に腹が立った。

「じゃあいいです。もう頼みません」

「なあにお前すねてるんだ。おい、切るなよ」

「だったら、本条先輩言ってください。もし俺の立場だったら本条先輩はどうしますか? このまま黙って見過ごしますか? うちの脳天気な担任の言う通り、黙って美術館に向かって、いやがる狩野先生ご一行に襲い掛かるのがいいと思うんですか?」

「あのな、お前が嫌なだけなのかもしれないぞ。相手はそれほど嫌がっていないのかも」

 言いかけている本条を遮った。

 静かなフロントに声が響いて、自分でもびっくりした。

「嫌がらないわけない! なんでわかってくれないんですか!」

 そっと周りを見渡して、誰もクラスの連中がいないことを確かめた。

「何怒鳴ってるんだよ」

「もういいです。切ります」

「ほらほら、何一人で切れてるんだよ。わかったわかった、立村、俺だったらどうするかってことを言えば、お前泣かないですむんだな」

 思わず受話器を切ろうとした瞬間に、本条先輩は優しい声を出した。どきりとしてすぐに耳に当てた。

「誰が泣くかって!」

「ほらほら。言うから聞いてろ。もし俺だったらな、第一段階として菱本先生に話を付けに行く。ああいう一直線のタイプは、純情な顔してひたむきに説得すればうまくいくパターン、多いんだ。俗に言う「泣き落とし」って奴か」

 ぞっとする。上総は瞬時に却下した。

「あいつの前で泣きまねするなんて、死んだっていやです」

「演技しろよ。ポーズくらいしろよ。ま、それが嫌なら第二段階。誰か仲間を集めて、途中で具合悪くなった振りをするとか、トイレに行きたいといって騒いだり、忘れ物をした振りをして、バスを止めたり遅らせたりする。お前車酔いは慣れてるだろ」

 仲間、それは無理だった。頼むとすれば貴史か南雲だが、どちらも協力してくれそうにない。貴史は先ほどのクラスミーティングをみても分かるとおり、菱本先生の計画変更に大賛成だった。南雲も話せばわかってくれるかもしれないが、所詮夏の青空を気持ちいいと感じる、ずれがある。

 第一、何を頼んでやってもらえばいいんだろう。ひと演技して、バスを遅らせて、時間稼ぎして、美術館に到着できないようにするってことだろうか。

「無理です。俺ひとりでやらないと、意味がないです」

 本条先輩に腹を立てるのは理不尽だと分かっていても、止まらなかった。

「ったく、お前、何ひとりで反抗期やってるんだよ」

 また十円が、ちゃりんと落ちた。

「ひとりで反乱やらかして、うまくいくと思っているのかよ」

「思いません。でも、ひとりでやらなくてはならないってこともわかっています。同じ考えの奴なんて、今誰もいないんだから」

 があっと、雑音が響いた。歯を食いしばって本条先輩の言葉を待った。一言でもいい。何でもいいから、ひっかかりがほしかった。本条先輩はいつも、さりげない言葉で上総にヒントをくれることが多かった。

「ひとりですねるなよ。あのな、お前、本当に誰も味方がいないのか?」

「そういうわけではないけど、でもいません。今回に限っては」

「じゃあ作れ。去年俺がそういうことをするならば、まずはバスの運転手のにいちゃんを狙う。俺の時、運転手のにーちゃん、いい奴だったんだ。三日間、かなり俺の無理な注文を、うちの担任に気付かれないようにやってくれたんだ」

「どういうことですか?」

 初耳だった。まだ、その運転手さんが本条先輩の時と同じ人とは言わずに置いた。

「ま、もう時効だろう。例によって女子がらみだ」

「どこかの女子高生に声かけて騒ぎになったんですか」

「いや、ちょっと違う」

 深いため息をつき、本条先輩は小さくささやいた。

「バッティングしちまったんだよ。俺のあれが」

「あの、つまり、本条先輩」

「そう、両方が顔を合わせちまった」

 

 本条先輩の話をかいつまんで聞くに、つまりは「本妻と愛人」が顔を合わせてしまい、かなり緊張した空気が流れたという。その辺はさすがにあいまいにぼかす本条先輩だが、結局運転手さんに頼み込んで早く出発してもらったという。本当だとしたらこれはすごいことだ。ふつうバス会社の運転手さんは、そんな勝手な行動ができると思えない。ちゃんとスケジュールが決まっていて、その中で行動すると聞いている。本条先輩はそれこそどうやって運転手さんを説得したのだろうか。

「それこそ、泣き落としですか」

「彼の、ささやかながら感じているであろう、青春時代の思いに訴えかけるように、名優本条里希一世一代の名演技を見せて、結局手伝ってもらったってわけだ。ま、お前も俺の跡を継ぐ気あるならば、そのくらいの演技はできるだろ?」

 残念ながら本条先輩の名演技を再現してもらうことはできなかったけれど。

「さすが、『赤穂浪士』の主役を勤められるだけの名演技」

「松の廊下の刃傷沙汰をあれだけリアルに演じられる立村にはかなわねえよ」

 お互い、恥ずかしいことの多かった「ビデオ演劇・赤穂浪士」のことをちょこっと持ち出してみた。

 演技か。

 一世一代の名演技か。

 あの本条先輩がそこまで追い込まれていたのか。

 今抱えている問題に比べたらずっと本条先輩の話、軽いけれどでも。

 それでもか。

 見えてきたものがある。上総は口の中で「演技、演技」とつぶやいた。

「そうですか、演技ですか」

「ま、その時はたまたま俺がうまく演じきれたから運転手のにーちゃんも大目に見てくれたのだろうけど、お前がそれをやってうまく行くとは思えない。第一、どうなんだ? 運転手は若いのか?」

 しばらく沈黙した。答えるべきか否か。

「言ってましたよ。本条先輩って、礼儀正しいすごい奴だったって」

「はあ?」

「やたらと煙草を吸うこと以外は、すごくいい人です」

「おい、もしかして」

「そうです、本条先輩の過去をよく知っている運転手さんのようです」


 ほおっと、長いため息。と同時にぽんと手を打つらしき音。

「そっか、あのにーちゃんか。お前よろしく言っとけよ」

「もっと詳しく聞けばよかった。先輩の知られたくない過去をもっと握れたのに」

 指先で小銭入れの十円玉をかき回しながら、上総は答えた。女関係の華やかな本条先輩だから全く何も無かったとは思えないにせよ、そんな楽しい事件があったとは。まずいネタを知っておくと、あとあと助かるものだ。ジュースを一本おごってもらえたり。本当はもっと詳しい状況を聞きたかった。悲しいのは財布の中身だけだった。

「先輩、あとで教えてください。今後の参考にしますから」

「おいどうした。何あせってる?」

「ないんですよ。十円が」

 本当にまずいことになってきた。指先に触れるのは、ちりちりした一円玉ばかりになってきた。

「先輩、ちょっと待ってください。もう一度電話します」

「早くしろよ」

 いったん受話器を置いた。十円一枚だけがかちゃりと落ちた。かろうじて残っている。しかし、これだけでどうやって話せっていうんだろう。金の貸し借りは友情を失うからやめとけと、父には言われているけれどもしかたない。貴史か南雲を頼って五百円分のテレホンカードを分けてもらおう。


4 もうひとつの夜


 ちくりと首筋に刺激が走った。蚊に刺されたらしい。痒いのをがまんしながらひょいと階段の方を見上げると、なにやら人の気配がする。じっと見据えてみる。音にはならないけれど、なんとなく熱がふうっと流れてくるような感じ。何度か目をやってはそらし、そらしては見たり、をくりかえした。

 やがて、カーキ色の裾らしきものがちらりとのぞき、上総の真っ正面に立ち止まった。

「奈良岡さん?」

 間、約三メートルもない。奈良岡彰子が無表情で上総の様子を見つめていた。

 隠れたいけれど、気付かれたからどうしようもない、そんな表情で。

 もう一度、上総は声をかけた。

「どうかしたんか」

 はにかむように軽く首を振る奈良岡の様子が気になってしかたなかった。

「もしかして、電話使うのか?」

 しかたない、という風にもう一度奈良岡は首を振った。

「なんでもないよ。立村くんも早く、部屋に戻りなよ。羽飛くんたちが待ってるよ。探してたよ」

「あとで戻るけど、電話使わないなら、俺まだかけるところあるからさ。どこか行くのか?」

 そこまで言いかけたところではっと気付いたものがある。


 上総に訴えかけるようなまなざしは、電話のことじゃないかもしれない。

 汗ばんだような奈良岡の頬はてかてかと光っていた。ふと見ると、唇の色がライトの下、ぬめりを帯びていた。女子がよく使う、「光るリップクリーム」というのがあるらしい。それだろうか。

 ああ、もしかしたら。

 鈍感な自分が馬鹿っぽく見えてしかたなかった。

 南雲をけしかけたのは自分だってことを、今の今まで忘れていた。

 ひとつ深呼吸をした後、上総はじっと奈良岡の目を見据えた。

「あのさ、奈良岡さん。今、テレカ持ってる?」

「持ってるけど、それが?」

「口止め料に一枚ほしいんだけどさ」

 笑わないように頬骨に力をこめながらささやいた。

「もちろん、学校始まったらちゃんと返すから。頼む」


 しばらくきょとんとしていた奈良岡だったが、にらめっこしているうちにおかしくなったのだろう。いきなり笑い出した。

「立村くんって、やっぱり本当は、変だよ。みんなの言うとおりだね。最高、おかしすぎる!」

「みんなって誰だよ」

「『口止め料』なんて言い出すなんて、もう最高! そのキャラクター、もっと学校で出しなよ。もったいないよ。こずえちゃんと漫才やってるだけじゃ」

 このさばさばしていて、誰にでも笑顔でいいところを見つけようとしてくれる、そういうところに南雲は惚れたのかもしれない。奈良岡は笑いが止まらないといった風に、ポケットからファンシー系の財布を取り出し、テレホンカードを抜いた。白い猫がボールにじゃれている写真入りだった。

「じゃあ、これは、おひねり。返さなくていいよ。全部使っていいからね」

 両手を合わせて一礼した後、受け取った。

「おひねりか、まあいっか」

 敬礼をおどけてした後、手を振りながら奈良岡は玄関を出て行った。一瞬、ドアを開ける時に立ち止まったが、すぐに闇へ姿を消した。



5 作戦会議


 たぶん外で南雲と待ち合わせをしているのだろう。南雲が奈良岡に上総のことをどう説明しているのかは知らないが、いわゆる二年D組の昼行灯扱いというわけではないだろう。上総にふつうの会話を笑顔で振ってくれる、数少ない女子のひとりではあった。

「ありがたやありがたや」

 もう一度両手を合わせた後、上総はテレカを滑り込ませた。


「おお待ってたぞ、何やってたんだ?」

「もう大丈夫です。それよか」

 いくら手付かずのテレカがあるとはいえ、度数が減っていく頻度は一緒だ。赤いデジタル文字を見つめるのは忘れなかった。

「本条先輩を助けてくれたその運転手さんには、どういう演技をしたんですか?」

「演技ったって、とにかく困った困ったって頭を抱えていただけだ。うちの担任は相手にならないからな。それににーちゃんとは三日間一緒だったからさ、結構話もしてたんだ。休憩時間も一緒に弁当食ったりしてたからな。その時に、『何かあったんですか?』と聞かれて、一緒にいた奴がべらべらとしゃべりまくって、ああ、それじゃあ、ってことになっただけだ」

「先輩それって演技じゃないでしょう。本気で悩んでいたんではないですか」

「大人を泣かせるには、思いっきり大げさに悩む方が効果的なんだ!」

 言い訳なのか、それとも本当なのかはわからなかった。上総は話を促した。

「それで運転手さんは、鉢合わせ寸前にして、大急ぎでバスを発車させてくれたってわけですか」

「話わかるぜ、あのにーちゃんは」

 それ以上言わなかったところみると、先輩としての威厳が傷つきそうな内容だったに違いない。上総は心に決めた。絶対、あとで聞き出してやる。ジュース一本分はおごらせてやると。

「だがな、立村。あくまでもそれは俺がやった時の場合だ。俺と違ってお前、押しが弱いだろ。人を説得するなんてうまいことできないだろ?」

「やれって言われたらやりますよ。冗談じゃない」

「とかなんとか言って、実は腰が引けてるくせにな。とにかく、お前が俺と同じことやってうまく行くとは思えないが。もし俺だとしたら、美術館の手前でいったん理由をつけて下ろしてもらう。逃げるかもしくは道に迷った振りをして、さっさと美術館に入る。2Aの連中四人か? そいつらを探しまくる。探しまくる。相手を見つけたらすぐにご注進ご注進して、さっさと帰るように促す。相手らが納得して姿を消したら、あとは言い訳つくってバスに戻るか、もしくは電話を掛けて謝るかどちらかする。ま、そうなったら担任ににらまれることは覚悟だな」

「慣れてます。いまさら何も」

 つらっとしたまま上総は答えた。

「問題は、どうやってバスから降りるかだ。お前だったら、車に酔って今にもへどをあげそうだとかいいながら、頼み込むか、あとはトイレががまんできないとかいって担任に泣きつく。もしくは忘れ物をしたとかいって、一度戻ってもらうか。でもこれはリスキーだよなあ。立村、そこまで恥をさらす勇気あるのか? ないならやめとけ。ただでさえ恥の多い人生歩んできてるんだ、これ以上は嫌だろ」

「嫌に決まってます。でも」

 口には出さない。ひとつ思い浮かんだものがあることを。

 本条先輩はさらに話し続けた。

「お前が降りた後に少しだけ、別の場所で待っててもらえないかと頼んでおいて、向こうがOKしてくれればなおいいな。でもなあ、その美術館の位置関係がよくわからねえなあ。俺なら、素直に菱本先生に頭下げて、やめてもらうよう頼むのが手っ取り早いような気がするぞ」

「できればとっくにやってますよ。本条先輩。できないからこうやって、電話掛けてるんです」

「で、お前は何をやりたいんだ? まさか、俺と同じことを考えていたなんていわないだろうな」


 しばらく口をつぐんだ。度数が減っていくのが目立つけれどもしかたない。

「本条先輩。決めました。ありがとうございます。先輩の案、そのまんまいただきます」

「いただくって、何をだよ!」

「これから、美術館の位置関係を調べます。フロントから地図もらってきて見てみます。それから、運転手さんに明日、話してみます」

「ちょっと待て。お前、自分で何言っているのか理解してないだろ」

「してます。これしかないってわかりましたから」

 本条先輩の声は低く、どすを聞かせるような感じに静まった。

「立村、下手したら停学くらうぞ」

 一呼吸おいて、ゆっくりと上総は答えた。

「どうせ退学にまではならないでしょう。先輩がいまこうしているんだったら」

 黙りこくった本条先輩はさらにスピードを緩めて、つぶやいた。

「こういう甘い考えが、お前をいつもどつぼにはめていくってこと、理解してないだろ。だからお前はガキだって言うんだよ。全く」


 受話器を置いた。カードはまだ半分くらい度数が残っていた。小さな穴があいていた。猫の手のところだった。あとで奈良岡に返さなくてはならない。上総は自分の部屋に戻ってからすぐに、窓の外を眺めた。昼間に南雲と一緒に覗き込んだ池が見えるはずだった。空からは針山のような痛すぎる星が降るようだった。もう南雲は来たのだろうか。上総が電話を掛けている間は出入りした気配がなかったけれどあいつのことだ。わからない。闇の中で、ふたりは何を語りあっているのだろう。青空の下飛んでいった白いはぐれ鳥、その話もしているのだろうか。わからなかった。上総は人影のないのを確認した後、さっとカーテンを閉めた。遮られると、ひとりで怖さのあまり震えそうになることもなかった。


 あの星空を、ふつうの人はきれいだって言うんだ。

 あの星空を怖くないと言えるならば。

 俺はこんなことしないですむのにな。

 

 コースターを裏返しにした後、上総はベットの上でもう一度手帳を広げた。

 思いつくまま、ただひたすら思いついたことを綴っていった。

 頭の中もてんてんと細かい星が撒き散らされているようだった。言葉がどんどん飛び出してくる。どうすればいいかが形作られてくる。

 隣りの部屋ではまだ盛り上がる声。まだ貴史は戻ってこなかった。橙色の灯の下、書きつづけているうちに体がだるくなり、瞬きしないと辛くなってくる。横になり、読み返しているうちに輪郭がぼやけてきた。

 かすかに誰かの声が、会話するかのように聞こえた。

 誰かが「立村くん」「立村、起きてるか」と声をかけてきたのは記憶している。答えようとしたけれど、言葉が出ないうちに声そのものもぼやけていたのはなぜだろう。


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