その十一 下準備をめぐるよしなごと
1 白菊のテレホンカード
2 たよりになるのはおないどし
3 数学の先生が好きな理由
その十一 下準備をめぐるよしなごと
1 白菊のテレホンカード
あまり人をにらまないように、箸の先をかじりすぎないように、あえて菱本先生および女子の方を見ないように。いろいろ心がけながら夕食を終わらせた。なんとなく女子同士の間に流れる空気が、べとついているような気がしたけれど、そんなのは女子評議委員にまかせとけばいい。いつも行動を一緒にする連中からは、散策にかんするいろいろな出来事の説明を受け、ふんふんと聞いていた。あえて菱本先生に噛み付こうとは思わなかった。
次にすることが、決まっていたからだ。
部屋に戻ってからかばんの奥から、「あこがれのハイスクールライフ・どきどきゲーム」のボードと説明書を取り出した。親戚からもらったもの。クラスの連中にも声をかけて、すごろくとかボードゲームとかカルタとか百人一首とか、そういうものを持ってきてもらうよう頼んでいた。
食事中に確認したら、すでに三名がその類を用意してくれていた。
自分も入れて四つ、そういうゲームがあれば、三十人の2D連中はきっちりと分かれてもりあがれるだろう。その中に割り込むのがおそらく、菱本先生だろう。たぶん、みんなで盛り上がれるから機嫌がいいだろう。
「三十分後に菱本先生の部屋へ集合。ゲームも持参のこと」
内線電話で連絡を、男子にのみ入れた。窓のカーテンは開けたままだった。青みが残る藍色。夏の空。星はまだ見えなかった。上総は貴史がくれた、星座盤コースターを掲げてみた。
なにはともあれ、一番星を探せってとこか。
となりでテレビアニメに見入っている貴史には、聞こえないようにつぶやいた。
「ちょっとジュース買ってくる」
返事はなかった。そりゃそうだろう。貴史の見ているアニメは例の『砂のマレイ2』だった。たぶん美里とこずえも食い入るようにして観ていることだろう。
ロビーに下りた。誰かがいたら黙ってジュース買って帰るつもりだった。
幸いいなかった。
不気味なくらい静かだった。
フロントには手鈴が置いてあるだけ。当然、となりの公衆電話も、誰もつかってはいなかった。
上総は財布を取り出した。ほとんど中身が小銭のみだった。カードを入れるところを触ると、度数が半分くらいしか残っていないテレホンカードを見つけた。白菊のイラストだった。この前父が葬式でもらってきたものだった。
受話器を取る音が響く。周りを見渡し、滑り込ませた。
真っ正面には階段が見えた。手帳のアドレスを探して、ボタンを押した。
2 たよりになるのはおないどし
電話に出たのは本人だった。2A男子評議委員。同じく二年連続持ち上がりである。ほっとして名乗った。
「あれ、立村、今日って宿泊研修だろ? 黄葉市だろ? どうしたんだよ」
評議委員同士、お互いのクラスがどういうところに行くかをすべて把握済みだった。上総に限らず、評議委員としての義務だった。本当は菱本先生に関するぐちをこぼしたいところだった。でも手元のテレホンカードは度数が少ない。しかも、勢いよく減っていっている。やはり遠距離通話になってしまうんだろう。
「申しわけない。テレカが切れるまえに用件だけ聞いていいか?」
「いいけど、土産なんかよこせよ。食い物がいいな」
「なんなりとご要望にこたえるから、それより」
上総は息を整えて、ゆっくりと話した。
「A組の宿泊研修は先週だっただろう? その時何か変わったことなかったか?」
「変わったことったって、もともとうちは団結力ないからなあ。ふつうに宿とってふつうに盛り上がって、それで終りだよ」
「その時、もう一度合宿やろうって話になった奴とかいなかったのかな。例えばさ、狩野先生の家に泊りに行こうとかそういう話になったりとか」
「別にうちの担任、クールだから、そんなべたべたしたことしたがらないとは思う。けどな」
言葉を切って、A組評議委員はためらうようにつぶやいた。
「噂には聞いてるだろ。うちのクラスから退学する奴がいるって」
「退学?」
そういえば貴史も前の日にそういうことをちらりと口にしていた。
ぴんとくるものがある。
「もっと詳しく聞きたいんだけど、急いでしゃべってくれると嬉しい。ほんと、テレカの度数がまずいんだ」
「せわしないやつやなあ」
わざとのんびりした関西弁をのぞかせて、あとはふつうどおりに話しはじめた。
「一年の時から、名簿には載っているんだけどほとんど顔を出したことがない女子っていうのがいるんだ。俺も顔見たこと、ほとんどないな。女子の何人かが遊びに行ったり、うちの担任が様子を観にいったりして、なんとか二年には進級したんだけど、もう全く、机だけの存在」
「なんか噂には聞いたことあるな」
「だろ? でも、夏休みいっぱいで青大附中をやめて、公立の中学に戻るんだと。結局、雰囲気が、合わなかったってことらしいんだ」
「当然のこと聞くようだけど、その子は宿泊研修には来なかったんだな」
「当たり前だって。ただな、うちの担任も気を遣ったんだろうな。その女子のために、仲のいい女子ふたりと一緒に、どこか旅行しようということを持ちかけたらしいんだよ」
話のピースがぴたっと当てはまっていく。
「女子三人と狩野先生とか」
「狩野先生の実家、黄葉市だろ。せっかくだったらってことで」
「でも担任の家に泊まるなんてうれしいもんか?」
「なぜかわからんけど、狩野さんにはなついてたみたいなんだ」
上総はカード度数の減り方をちらちらチェックしながら、電話の向こうに菱本先生の「みんなで一緒に遊びましょう」プランを伝えた。
「せっかくD組の連中がこんなにいるんだから、狩野先生と一緒に遊びましょってか。おいおい、それはまずいぞ、立村」
思ったとおり、A組評議委員の声は曇った。
「だよな」
「当たり前だって。ただでさえあの女子、他人と口利かない奴だったんだぜ。仲のいい女子二人以外とは全くしゃべらないんだぜ。よく狩野先生の誘いに乗ったよな、って俺たちも不思議がってたんだ。たぶん、集団でわあっとやるのが嫌いなんだろうなあ」
「だろうな、話聞いている限りはそう思う」
強く頷いた。
「もし狩野先生ご一行と合流することになったら、うちのクラスはうるさい連中がほとんどだから。特に女子はな」
「あ、清坂とはどこまでいったんだ?」
そういう余計な話題で度数を減らさないでほしい。上総は無視して続けた。
「その人にとっては、地獄だろうな。A組評議としてのご意見をいただきたい」
「別に俺はその女子がどうのこうのってわけじゃねえけどなあ」
前置きした後、答えた。
「ただ、俺だったら絶対止めてほしいって思うよな」
「そんなことされないほうが、絶対嬉しいよな」
強気で上総も確認した。
「絶対、絶対。もし俺とかが仲間と一緒にいるというんだったらすげえ盛り上るだろうとは思う。でも、あの登校拒否少女は絶対に嫌がると思うなあ」
ぶうぶうと、カード度数が切れる音。
「悪い、ありがとう。ご期待に添えるようにやってみる」
「幸運を祈る。グットラック」
同時にカードが出口から舌を出した。ぴいぴい泣いている。なだめるために引っこ抜いた。ざまあみろだ。
3 数学の先生が好きな理由
だいたい自分の思っていた通りだった。
以前から、A組にひとり、登校拒否をしている女子がいるとは聞いていた。顔も名前も知らないが、入学してからすぐに学校に来なくなったという。担任の狩野先生が心配して何度も家庭訪問したらしいが、効果は全くなかったという。
よくも、二年に進級できたものだと思う。
青大附中の場合、出席日数をかなり細かくチェックされるので、みな休む時は日数を計算しておくものだった。上総もしょっちゅう熱を出して休むことが多いので、その辺は神経を使う。
その後二年に進級したはいいが、相変わらず学校には来ない有様。結局、貴史が話していたように「夏休み明けに退学」するらしいということになったそうだ。
A組評議が話していたとおり、絶対に宿泊研修なんかには行きたくなかっただろう。また、狩野先生になついていたからということでよくくっついてこれたものだとも思う。その辺の事情は想像することしかできない。
ただ、気持ちはわからなくもなかった。
少なくとも、狩野先生の方がずっと、その女子のことを気遣ってやっているような気がしてならなかった。
ほとんど顔も知らないクラスメートとバスに閉じ込められ、神経を使い続けて息を詰まらせてしまう。もしくは話の合わない連中と一緒の空気を吸いつづけなくてはならない。登校拒否しているということで、好奇の目を向けられるかもしれない。いじめることはないだろうが、それでも言葉の端々に無意識の刺を見つけるかもしれない。
上総からしたら、それはちょっと考えればわかることだと思った。しかし、菱本先生を中心とする連中には想像もつかないことらしい。みんなで楽しく盛り上がって、素敵な思い出をつくってやることが、その当人にとって幸せなことなのだと決め付けている。
狩野先生は二年数学の担当だった。年はたぶん菱本先生と変わらないくらいだろう。銀縁めがねで細面の、いかにも理系、難しい数字を使って勉強してきましたといった風だった。大学の講師といった方が近いかもしれない。とにかく熱血漢の菱本先生に比べるとはるかに物静か、生徒ひとりひとりに「さん」をつけて呼ぶ。それがいささか他人行儀に感じられたのだろうか。A組は団結力の必要な行事にはめっきり弱かった。ひとりひとりが個人主義という考え方の持ち主だと、評議委員は言うけれども。よく「D組はいいよね。菱本先生のクラスって毎日笑いが絶えないって、楽しそうだもん」という声が出るのは、大抵A組からだった。もちろん上総は反論するのが常だった。
「俺は狩野先生の方が何十倍もいいな。余計なこと言わないからさ」
すると大抵の連中は問い返す。
「あのな、狩野先生、お前の天敵、数学教師だぞ」
「うん、数字が嫌いでも人間は嫌いじゃないから」
確か二年に上がって最初の数学小テストの時だった。
数学の点数は基本的に見ないようにしているので覚えていないが、いつものように赤点のはるか下だったはずだ。さっそく、個人面談室に呼び出された。思いっきり絞られるのだろうと覚悟して息をとめて入ったところ、狩野先生は日本茶を出してくれた。感情を不要に揺らさぬ風に、穏やかに。
「立村くん、本当は数学よりも英語をもっと勉強したいでしょう」
いきなり話が飛んだので口が利けなかった。
「この前、君の英作文を見せてもらいました。うちの大学でもこれだけ書ける人はいませんよ。僕もここまで綴れるかは自信がありません」
たいしたことじゃなかった。英米文学に関する簡単な論文を英語担任から渡され、その感想を好き勝手にかけといわれたのででっちあげた代物だった。
「立村くん。僕は数学の教師だけれども、君が語学や文学に長けていることはよくわかります。伝わってきます。だからその才能を伸ばしてほしいと思っています。ただ、そのためには最低限の数学知識をマスターしてほしい。理解しろなんていいません。難しい問題を解けとまではいいません。ただ、問題のパターンを暗記してください。ひとつの問題の解答集、それを丸暗記してください。それだけで十分です。英単語や英文を暗記するのと同じ感じで、何も考えないでただ丸暗記でかまいません」
使用していた問題集の解答集をコピーしておいてくれたのだろう。渡してくれた。
「では、来週から、小テストの時はこの問題の答えだけを暗記して、渡された答案に書き抜いてください。君には問題は出しません。とにかく、そういうパターンなんだってことだけ、覚えれば大丈夫ですよ。他の人がなんと言おうとも、立村くん、君は優れた能力を生まれ持っているのだから、それを信じてください。自信を持っていいんですよ」
呆然としたまま解答集を持って頭を下げたことを覚えている。
その後中間期末の試験をのぞき、上総に与えられたテスト用紙はみな、問題集の丸暗記部分を書き写すことのみだった。一部女子からは
「なんか立村くんだけずるしてるんじゃないの」
とささやかれたけれども、誰もが上総の数学能力のレベルを理解していたので何事もなくすんだ。
特筆すべきこととして、狩野先生のおかげでなんとか、一学期の評定は赤点から逃れることができた。上総の青大附中成績表において、数学の評定を黒い文字で綴られたのは初めてだ。
たぶん貴史や美里から見れば、他人行儀な存在感のない先生として映るのだろう。実際、A組の生徒達とも距離をおいているような感じだという。プライベートな話題もほとんど出さず、進路のことや勉強のことについて、やはり物静かに語るだけだという。
「うちの担任、とにかく俺たちに対して無関心。この前うちのクラスでさ、中体連の陸上800メートルで記録だした奴いるだろ。ふつうだったら大絶賛するだろ? すごい奴だと誉めてやるだろう? なのにさ、「よくがんばったね。おめでとう」の一言。奴はもう舞い上がってるんだからさ、もっと誉めろよ育てろよって、俺言ってやろうかと思ったぜ」
A組評議委員が委員会終了後、話していたことがある。
「いいじゃないかよ、十分だ。それだけ誉めてもらってまだ物足りないのかよ」
あきれて上総がつぶやくと、
「立村お前、菱本先生だったらどうだ? 一時間くらい実況中継やってくれるんじゃないか? それこそ青大附中の大スターって扱いしてくれそうだよな。あいつはそれを期待してたんだよ。なのに、つらあっとした態度で二言だけだぜ。やる気なくするぜ」
「俺がもしそいつと同じ立場だったら、大会の次の日は学校休むな。D組担任のうっとおしい言葉なんて一切聞きたくないもんな」
話は平行線を辿ったことを覚えている。
しかし、単なる無関心な教師が、救いようのないくらい数学能力の劣った生徒に対して、あれだけ心配りしてくれるものだろうか。
しかも、狩野先生は上総の能力が語学に秀でていることを、かなり事細かに知っていた。後日、他の連中に確認したところ、上総ほどではないにしても数学で苦労している男子もう一人にも、似たような呼び出しをかけて、そいつに向いた問題集のコピーを渡してくれたという。同じように、相手の得意分野を誉めた後に。A組の担任がである。D組の生徒に対してである。
もしかして狩野先生は。と上総は聞いてみたかった。
俺と同じ感覚を持っているんじゃないですか?
隣りで悩んでいる相手のことが、勝手に伝わってくる、そんなどうしようもない感覚を持っているんじゃないだろうか?
俺が、南雲の事件の時に貧血起こしたような、あんな息苦しさを。
もし、そうだとしたら、と仮定してみた。
何が理由かはわからないが、学校に来たがらない女子に対して、狩野先生はいろいろな手を尽くしたらしい。A組評議委員からもその話は聞いていた。しかし、結局退学ということになったわけだ。宿泊研修には当然参加したくなかっただろう。でも、せめてその女子にいい思い出を作ってあげたいと思ったのではないだろうか。想像してしまうのは、たぶん上総だったらそうしようとしたと思うから。できるならば仲のいい女子ふたりくらい連れて、心おきなく最後の思い出を作ってやりたい。そう思うのは、上総にとって自然だった。
なのに、菱本先生を始めとする二年D組軍団が、淡々としたひと時をぶち壊しにくるとしたら。上総だったら絶対に断るか逃げるかするだろう。その女子が繊細な性格だったらなおさらのこと。
ここで気付いた。
『無理なさらないで結構ですよ』って、言ってたはずだよな?
それってつまり。来るなってことだよな?
俺の感じ方ってやっぱり、変か?
狩野先生、断ってたじゃないかよ!
遠慮深いからとか言ってたけど、あれは遠慮じゃない。
はっきりしたい拒絶だって。
あの野郎、そこまで。
上総はテレホンカードを片手で折り曲げた。白い菊の柄がまっぷたつに分かれていた。葬式でもらったというカード。この菊を、菱本先生に供えてやりたかった。ごみ箱に投げ込み、走るように部屋へ向かった。