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辺境の空は今日も晴れ  作者: 宝蔵院 胤舜
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第五話 アルバドの最後の息子

辺境の空は今日も晴れ 5

The periphery’s sky is still fine 5




アルバドの最後の息子  Albad's Last Son



【1】



フラブール祭が終わって、教会は静けさを取り戻した。これから、八月の収穫祭まで、教会はしばし休息を取ることになる。二週間後、六月四日にある「建国記念日デントラント・デール」は、教会とは無関係の行事なので、教会は何もする事がないのだ。

フラブ教会エイフ支所の司祭、イグロウは夕方のお勤めを終えると、大あくびをしながら長椅子に座り込んだ。二ノースに近い彼の体を支えて、椅子が小さく悲鳴を上げる。

「今日も無事に終わった。やれやれだ」

一人でいるには広すぎる教会で、イグロウは一人言を言った。森の中に建つここは、街の雑踏も、他のどんな生活音とも無縁であり、圧倒的な静けさが建物全体を支配している。ふと気がつくと、恐ろしいまでに寂しくなる事がある。そんな時、彼は十ディボノ一ス離れた兵営まで赴き、隊長と酒を酌み交わすのである。

五月の暮れとはいえ、辺境の陽の暮れは早い。辺りは薄い闇に包まれて行く。

暗くなる前に出掛けようか。

そう思って腰を上げかけたイグロウを、轟音と震動が襲った。思わずよろける。

「何だ?」

火薬の破裂する音とは違う鋭い音に、イグロウは首を傾げつつ、窓から顔を出した。と、教会の裏手の森がやけに明るいのに気付いた。次いでまた鋭い破裂音。こげ臭いにおいも届いて来た。

「山火事だ!」

イグロウは慌てて表に飛び出した。


その火事は、麓の兵営からも見えた。

「隊長!教会の裏が燃えてるに!」

マーカス伍長の悲鳴に近い声を聞いて、ミラールは他の兵隊と共に外に飛び出して来た。夜のとばりの降りて来た空が、赤く照らし出され、教会の森がシルエッ卜で浮かび上がっている。

「大変!アベル、馬を人数分引いて。トールとデントン、ホブは斧を、リスキンは火薬をあるだけ用意して。急げ!」

ミラールのてきぱきとした指示で、またたく間に準備は整った。馬上の人となったミラールが森へと目をやった時、その上空を飛び去ろうとしている、あるものに気付いた。リスキンも「それ」を見たようだ。

「あれ、ドラゴンじゃない!」

ミラールは大声で言った。彼女らの耳に鋭い破裂音が届いた。ミラールは、その音に聞き憶えがあった。ドラゴンのブレスによる空気爆発だ。

「急ぎましょう。ヘタをすると大惨事になるわ」ミラールはそこまで言って、ふと思いついた。「カーツ、バスターも呼んで来て」


ミラール達が現場に着いた時、森は火の海であった。ドラゴンは既にどこかヘ飛び去った後で、新たな火災の心配はないが、このままでは教会のみならず、このイウリアスの森全体が名の通り死の森になりかねなかった。

「うわー。こりゃすげえ」

途中から合流したバスターが、呑気に言った。

「司祭様、司祭様は無事?」

ミラールの問いに、すすで黒くなったイグロウ本人が答えた。

「まあ、何とか大丈夫ですよ」

「よかった」ミラールは一息ついて、次にてきぱきと指示を出した。「ピート軍曹の分隊は、周りの木の枝を落として。トール軍曹の分隊は、井戸から水を汲んで、周りにかけて回って。これ以上の類焼は、何としても食い止めるのよ。リスキンは私について来て。残りは司祭様の言う事を聞いて。解散!」

皆、まるで訓練された将校のように動いた。軍事行動以外なら、彼らは有能な働き手なのだ。

兵隊達がそれぞれの仕事をしている間に、ミラールはリスキンと共に、火薬を樹木に仕掛けていった。火がそこまで来ているので、決死の作業である。

最後の一つをつけ終わった時、一個目の火薬が火事の熱で爆発した。次々と誘爆する。

「うわあっ!!」

ミラールとリスキンは、悲鳴を上げて逃げ出した。その背後で最後の一個が爆発し、二人とも吹き飛ばされた。

ミラールは爆風にひっくり返されながらも、自分の作業の手際を見直した。火薬をつけた樹々は皆火事場に向かって倒れ、森と火事場を一本の線で区切った形となった。

「ピート!線に沿った樹々の枝を落として!」

ミラールの指示を聞くか聞かないかのうちに、彼らは素早く木に登り、枝を落としにかかった。火がすぐ近くまで来ているので、危険この上ない作業である。ロウ伍長のマントに火が燃え移り、彼は慌ててマントを引きちぎった。

ミラールとリスキンの作業で、炎を直接かぶらなくなり、すぐ類焼する危険はなくなった。しかし、火勢は今だ衰えず、予断を許さぬ状境ではあった。

「隊長、井戸の水じゃとってもおっつかないだよ。このままじゃ教会も危ないに」

トールが言った。その通りなので、ミラールは唇を噛んだ。彼女の目は、いつしかバスターを見据えていた。バスターは、すぐに気がついた。

「何だよ、ミラール、その目は?」

「ねえ、バスター。あなたの力で、何とかしてくれない?」

「バスターの力を借りるんですか?」

イグロウはあからさまに嫌な顔をした。黒魔術を禁ずる教義を教え込まれた彼にとっては、バスターに救けられるのはしゃくなのだろう。

「別に、嫌ならいいんだぜ」バスターはにべもない。「俺は、森が燃えようと教会が燃えようと、どうでもいいからな」

「まあまあ、そう言わずに」ミラールが、バスターとイグロウの間に入る。「お願い。この火を消し止められるのは、あなただけなのよ」

ミラールはそう言って、バスターの手をそっと取る。不本意ながら色仕掛けで出た。掌で優しくバスターの頬をなでる。

「ね、お願い…」

バスターの耳に唇を近づけて、囁くように言った。ミラールほどの美女にそうされては、どんな男でも嫌な気はしないものである

「判ったよ。やってやるよ」

果たして、バスターも動いた。

「マホー使いも、やっぱり男か」

そんな生意気な事を言うベンをひとにらみで黙らせると、バスターは印を組んだ手を差し上げた。

「ラ=ス・トーラン・ナーカス。水の精ウンディーヌと水の支配者ラ=スに告ぐ。我が召換に応じ、我が意に随え」

と、今まで晴天であった空が、瞬く間に厚い雲に覆われた。

「瀑布墜(ルヴァ=カー)!!」

呪文が完結した瞬間、厚い雲の中から、巨大な水の塊がボコッと飛び出した。ものすごい速さで落ちて来る。

それは、火の勢いの最も強い部分に、地響きを立ててぶち当たった。更にその衝撃で四方へ飛び散る。数十ヴィラ(トン)もの水は、燃えている樹、無事な樹を問わず、炎ごと押し潰した。大量の水蒸気を上げながら、火事は鎮まった。

「ふんっ!どうだミラール、俺の呪文の威力は。あれだけの火事を一発で消したぜ」

「ええ、本っ当に大したものだわ」

飛んで来た灰混じりの泥を頭から浴びて、真っ黒になったミラールが応えた。

「それ!最後の仕上げしまい。行くでぇや!」

やはり泥だらけになったリスキンが、珍しくエイフ弁を丸出しにして指示を出した。かなりヤケになっているようだ。

手斧で焼けぼっくいを砕いて行く。これをしないと、再燃の可能性もあるからだ。

一番外側の焼けぼっくい処理をしていたアベル伍長は、何かを感じてふと立ち止まった。バスターの呪文で倒れた樹が、わずかに揺れたように思えたのだ。しばらく樹とにらめっこをしていたが、樹は動かない。

「おかしいやあ。(いご)いたような気がしただけんがなあ」

アベルがそう呟いた時、今度ははっきりと樹が動いた。何か動物のうめき声のようなものも聞こえた 。

「何だいやあ、こんなところに…」

アベルは呟きながら樹の下をのぞき込んだ。と、ビクリとして素早く身を起こした。目を丸く見開き、顔は真っ青になっている。

「隊長ーっ!隊長ーっ!こっち来てよー!」

アベルは内心びびって大声で叫んだ。

その声は、鎮火作業をしている全員の耳に届いた。

「どうしたの?」

ミラールが、イグロウと共に真っ先に駆けつけて来た。

「隊長、これ、これ!」

アベルが指差すままに、ミラールは樹の下をのぞき込んだ。

そこには、体長七十クレグラノースほどの白いトカゲが横たわっていた。前脚よりかなり発達した後ろ脚にはケガをしており、血を流している。まるで何かを訴えるように、ミラールを見つめた。

「ありゃー、おっきなトカゲですねぇ。何ですか、こりゃ」

後ろからのぞき込んだイグロウがそう言うのにも答えず、ミラールは自分のマントを外すと、トカゲをそれでくるんで取り上げた。

「うわー、おっきいなー。隊長、なんだいや、それ」

ロペルの問いに、バスターが代わって答えた。

「そいつは、ラフト・ドラゴンの幼生だ」

一瞬、兵隊達全員が静まり返る。

「ラ……、ラフト・ドラゴン、ですか…」

しばらくして、イグロウがようやく口を開いた。

ミラールは無言で頷いた。

「ラフト・ドラゴンって言ったら、『偉大なる神の騎馬』の事だら?」

マーカスの問いにも、ミラールは無言で頷いた。ミラールは、ラフト・ドラゴンを見るのはこれが初めてではない。しかし、その幼生を今、腕の中に抱いている、という事実は、彼女をひどく緊張させた。謎の多い『ドラゴン』という生物の中でも、ラフト・ドラゴンは最大の謎である。さすがのミラールも、その処理には頭を抱えるところであった。


【2】


とにかく、ミラールはドラゴンの幼生を兵営に連れて来た。何であろうとケガの手当てが先決である。

かと言って、ドラゴンの傷の手当てなど、おいそれと出来るわけもない。

バスターは、

「俺の知った事か。ま、がんばれよ、ミラール」

と、心強いアドバイスを残して帰ってしまった。

「とりあえず、人間用の軟膏でいいんじゃないでしょうかねぇ」

イグロウが腕組みをしながら言った。

「多分ね」ミラールは頷いた。「カーツ、薬箱を取って来て」

カーツは部屋を飛び出し、すぐに薬箱を持って帰って来た。ミラールに箱を渡すと、逃げるように壁際まで下がった。広い食堂の壁に、十四人の兵隊達がずらりと張り付いている。ドラゴンに近付くのが恐いのだ。近くにいるのは、ドラゴンを抱いているミラールと、イグロウだけである。

「さあ、ラフト・ドラゴンちゃん。ちょっと染みるかも知れないけど、我慢するのよ」

ミラールはドラゴンにそう話しかけた。ドラゴンは、二度頷いた。ドラゴンの知能は、人間のそれを遥かに上回っているという。人間の言語ぐらいは理解出来るのだろう。

兵営特製、秘伝の軟膏を指でたっぷり掬い取ると、それをドラゴンの傷口にすり込んだ。

<ギャッ!>

ドラゴンは、口も裂けよと大口を開けて、悲鳴を上げた。しばらく体を震わせて耐えていたが、ついに耐え切れなくなったか、尾をバタバタと振り出した。

その尾が、たまたまミラールに向かって振り回された。思わず左腕で受けたミラールの上体が大きく泳いだ。

「だ、大丈夫ですか、隊長」

イグロウの問い掛けにも、ミラールは答える事が出来なかった。全身が痺れており、右の脇腹が重く痛んだ。幼生の尾のー撃だけで、その衝撃は体の反対側まで突き抜けていた。

凄い!

ミラールは口の中で呟いた。彼女は、その昔ドラゴンに襲われて、何とか逃げ切った、という奇跡の人物である。ドラゴンについてはひとかたならぬ興味と畏怖とを 抱いている。そのドラゴンを自らの腕で抱いている、というのは緊張と同時に感動を呼び起こすものであった。

「ほら、動かない!ガマンするの。いい?」

ミラールは息子を叱る母親の口調で言った。ドラゴンはせわしなく頷いた。それを見て、ミラールは手当てを続けた。しかし、かなり痛いのだろう、ドラゴンは無言で尾をバタバタと左右に叩きつけ続けた。

ミラールが傷の手当てを終えた時、食堂のテーブル三つと、椅子六つが粉々になっていた。


朝の五 (グン)。朝の早いミラールも、この時間はまだ夢の中である。が、何やらガサガサいう音で目を覚ました。隊長居室の下は、使った事さえない武器をしまい込んだ武器庫であり、昨日そこに場所をとって、ドラゴンの寝床としたのだ。音はそこから聞こえて来る。

「早いわねぇ、あのコ…」

ミラールがそう呟き、もうひと寝入りしようとした刹那、ドンッと下から突き上げられ、彼女はベッドから跳ね上がった。

「なっ…?」

驚いて飛び起きたところへ二度目、更に三度目で、彼女はベッドから転がり落ちてしまった。

ミラールはガウンを羽織ると階段を駆け降りた。武器庫のまわりには、既に兵隊達が起き出して取り巻いていた。誰も中までは入れないでいる。その中へ、ミラールはずんずん入っていった。

ドラゴンは、尾で壁を叩き、跳ね上がって天井に頭突きをしたりと大騒ぎであったが、ミラールの姿を見ると、ピタリと暴れるのをやめた。寂しそうな目でミラールを見る。

「どうしたの?そんなに大騒ぎをして。傷が痛むの?」

ミラールの問いに、ドラゴンは激しく首を振ると、彼女に向かって突進して来た。

「危ないっ!!」

思わず兵隊達が声を上げたが、ミラールは動かなかった。そんな彼女に、ドラゴンはひしとしがみついた。ドラゴンは立ち上がってもミラールの腹くらいまでしか高さはない。その彼女の腹に顔をうずめて、すがりついている。

「ど…、どうしたの?」

ミラールは目を丸くして尋ねた。大暴れされては大事(おおごと)なので、取り押さえてやろう、と思っていただけに、思いっ切り拍子抜けしたのだ。

ドラゴンは、ただ顔をすりつけただけであった。

「やいやい、どうしただいやあ?」

壁の向こうに隠れていたロペルが顔をのぞかせた。

「どうしたの…?もしかして、ひとりで寂しかったの?」

そのミラールの言葉に、ドラゴンは一際強く顔をすりつけた。

「えー」と、マーカス。「あれで甘えてただかいやあ。ドラゴンのする事は見当もつかんやあ」

「そうだったの」ミラールは微笑んだ。「何だかんだ言っても、かわいいところがあるじゃない」

「スケールのでかい甘え方だ」

リスキンがぼそっと呟いた。

「よし、決めた!」

いきなりミラールが大きな声を出した。皆、ドラゴンも含めてミラールの顔を見る。

「何を決めたのですか?」

リスキンの問いに、ミラールは明るい声で答えた。

「このコの名前よ。ドラゴンちゃん、今日から君の名前は『ラクソン(やんちゃ坊主)』よ。判った?」


それから寝るには時間が少なすぎるので、皆いつもより早く起きる事となった。兵隊達が朝食の用意をしている間に、ミラールはラクソンを連れて隊長室へ入った。リスキンも同行する。

隊長室は、バスターの呪文で壁が吹っ飛ばされたので、今は木材で応急処置をしてある。石造りの重荘な部屋が、まるで材木置場のようで、しかもすきま風が入り肌寒い。

ミラールは、ラクソンを自分の机の上に坐らせると、どっかりと椅子に腰を降ろした。リスキンは応接用ソファに腰を沈める。

「さて、ラクソン。どうせ早起きしてしまったんだから、この時間を使わせてもらうわ。あなたは、なぜあの森にいたの?」

ミラールの問いに、ラクソンは小さな翼をパタパタと打ち、火を吐く真似をして見せた。更に、足で蹴るしぐさをする。

「ははあ、なるほどね」ミラールは微笑を浮かべた。「あのレッド・ドラゴンにさらわれて来たっていうのね」

ラクソンは大きく頷いた。

ラクソンの身振り手振り、ミラールとリスキンの謎ときにより、彼の生い立ちとその境遇が判明した。

ラクソンは、エイフの東に高々と聳えるラウアー山脈の最高峰、ラフト山で生まれ、母親の巣の中で暮らしていたのであるが、たまたま母親が散歩(と、ミラールは判断した)に出掛けて留守の時、巣をレッド・ドラゴンが襲撃したのだ、という。『偉大なる神の騎馬』と讃えられ、地上の生物の中で最強の名を欲しいままにするラフト・ドラゴンといえど、幼生ではレッド・ドラゴンの成体には敵うはずもない。後ろ足で鷲掴みにされ、エイフの村まで拉致されて来たらしいのだ。

「なるほど…。誘拐されて来てしまった訳だ、君は」ミラールの目は優しい。「かわいそうに、心細かっただろうねぇ、母親と離れて」

「まあ、このケガでは、こいつ一匹だけではラフト山まで帰りつけんでしょうな」と、リスキン。「ケガが良くなって、一匹で帰れるようになるまで、うちで預かっておくしかないようですな」

それを聞いて、ラクソンは翼をパタパタいわせた。何やら喜んでいる様子である。

「ラクソン、聞きなさい。あなたの身柄は、私達が責任を持って面倒を見るわ。でもね、悪さをするようだったら、遠慮なくぶちのめすから、良く憶えておいてね」

ミラールはそう言うと、ニコリと笑った。優しい口調と態度の割に、言っている事はきつい。だが、ラクソンは大喜びで頷いた。


【3】


ラクソンは日に日に良くなって来て、それに相応してイタズラがひどくなって来ていた。知能は、幼生でも既に兵隊達より高いくらいであるが、行動は全くの子供である。

パンを焼いているカマドへと顔を出した彼は、懸命に風を送るマーカスを押しのけ、大きくなってきた自分の翼で風を送り出した。手伝ってやろうというのである。しかし、彼は途中で自分が今、何をしているのかを忘れてしまった。彼は、その力強い翼であおぎ続け、遂には台所中を灰まみれにしてしまった、という事もあった。

また、彼は無類の怪力の持ち主であったので、扉を壊したり、柵を壊したり、と、とにかく何かを壊してしまうのである。

六月に入ってから、物を壊す程度が更に悪化した。しかし、ミラール以外の人間は、怒る気にすらならないので、彼はますます増長させる原因となって行ったのである。

ミラールは、口では叱るものの、誰も怪我をするでもなし、この程度ならまあ可愛い方だ、とかなり寛容な心でいたが、さすがに物を壊されまくって、苛立ちが募っていたのも事実であった。

会計係のトール軍曹が、

「ひゃー、今月はがんこ出費がかさんで参るやー。ヘタすりゃ赤字が出るにー」

と悲鳴を上げたのも、納得が行くというものである。

今日も今日とて、ミラールと兵隊達は、ラクソンの壊した扉や窓、柵の修理で、一日中大工道具を放せなかった。お陰で、かなり腰に来てしまっていた。

「あいたたた…。こりゃ歳を取る前に腰痛になりそうですな」

朝から大工仕事を手伝っていたイグロウが、そう言いながら客間のソファに腰を下ろした。

「まったく」ミラールは答えつつ、腰を左右に捻った。小気味よくボキボキと鳴る。「今に兵営の全ての物が新品同様になってしまいますよ。本っ当にあの子には参ったものだわ」

最後の方は、溜め息まじりである。

「司祭様、ワインでも一杯どうですか?」

ミラールはそう言うと、グラスを二つ机に置き、後ろの棚からボトルを取った。

「いいですねえ。さぞかし美味いでしょうね、労働の後の一杯、というものは」

イグロウがそう言いながらグラスに手を伸ばした時、二階の娯楽室あたりから、何やら怒鳴り声のようなものが聞こえて来た。その直前には、何かが割れた、高い音も聞こえていた。

「まだ何かあるの~っ!いい加減にして欲しいわっ!」

ミラールは注ぎかけたワインを一気に飲み干して、立ち上がった。イグロウもそれに続く。

二人が階段を登りかけた時、今度はもの凄い音が響いた。大きな家具が倒れたような音だ。兵隊達のワアワア言う声も聞こえて来る。二人は一気に階段を駆け登った。

娯楽室は惨憺たる有り様であった。娯楽室には兵隊達の替えの軍服を入れてあるタンスが二竿置いてあった。その一つがひっくり返っており、その下にデントン伍長が押しつぶされていた。

「ちょっと、デントン、大丈夫?」

ミラールがそう言いつつタンスに手をかけた。リスキンとモルタ伍長も手を貸すが、タンスはなかなか動かない。

「ふんっ!」

それを、イグロウが一人で起こした。

「あいたたた…」

フラフラしながらデントンが立ち上がった。彼の体の下に、粉々になった青磁の花瓶と、それに生けてあった野草の花が落ちていた。

「そ、それは、前々隊長、ラーマント翁が置いていった、手作りの青磁器の一つ…」

ミラールは思わず口ごもった。ラーマント老中佐は、磁器職人としてもその名が通っており、彼の作った作品は、貴族階級にしか買う事が出来ないほどの高値がつく物なのだ。

「この、このラクソンのばかっつらめ!ラーマント隊長の花瓶をこわいて…。何て事するでーや!」

デントンが、ポタポタと涙を流しながら言った。彼にとっては、ラーマント隊長はおじいさんのようなものであった。そんな彼にとっては、花瓶も大切な思い出の一つであった。

「ラクソンがそれを壊いたで、デントンが怒っただよ。」と、ロペル。「そいたら、ラクソンが急に暴れてタンスを倒いただよ」

「ラクソンーっ!」

ロペルのことばで怒りがぶり返したデントンが、ラクソンに飛び掛かろうとした。それを慌ててイグロウが止める。

「何で止めるだぁ!」

「勝ち目がないからです」

イグロウは静かに首を振った。

「ラクソン」ミラールが静かに呼び掛けた。「ちょっと降りてらっしゃい。悪い事をしたんでしょう?だったら、あなたが謝るのが当然の事でしょう。あなたはね、自分で思ってるより悪い事をしたのよ。それなのに、謝らないのはおかしいわよね。さあ、降りて来て、デントンに謝りなさい」

それに対し、ラクソンはただ翼をバサバサとさせただけであった。

ミラールの眉がピクリと動いた。しかし、彼女は感情を押し殺す事に成功した。

「ラークソーン。お前、自分が悪い事をしたって判ってるんだろ?だったら素直に自分の非を認めて、ここへ降りて来て謝りなさい」

“あなた”が“おまえ”に変わってしまったのに、彼女自身気付いていなかった。ミラールは、何とか穏便に済ませたかったのだ。しかし、ラクソンは挑発しているのか、と思わせる程小憎たらしく、プイとそっぽを向いた。“我関せず”といった風情で翼をパタパタさせる。

「ラクソン」

ミラールは、再度静かに言った。それに対し、ラクソンはひと声ギャアと鳴いただけであった。

「ラクソンっ!降りといで!」

遂にミラールは大きな声を出した。ラクソンも、兵隊達も飛び上がった。ラクソンは「ぼくは悪くない」とでも言いたげに、翼をバタバタと打ち振った。

「ンギャアッ、ンギャアッ」

まるで、ミラールが怒ったのをなじるような声で、ラクソンは泣き喚いた。

「降りて来なさい!」

業を煮やしたミラールが、ラクソンの足を取って引きずり降ろそうと、タンスの上に向かって手を伸ばした。

それを見たラクソンの表情が変わった。追い詰められた獣のような表情である。鼻にしわを寄せ、牙をゾロリとむき出した。それは、地上の獣の王者、ドラゴンに相応しい表情だった。怒り心頭のデントンが、思わず引いてしまう程に、その表情は凄みがあった。

しかし、ミラールはひるまずに手を伸ばした。

「ハァッ!!」

猫が敵を威嚇するような声を立てて、ラクソンは尾を振り回した。ミラールの左顔面あたりを狙って来る。ミラールは咄嗟に左肩を上げて、腕と肩でブロックした。そのブロックごと、ミラールの上半身は吹き飛んだ。文字通り、床に打ち倒される。

苦痛に顔をゆがませながらも、ミラールは無言で立ち上がった。

「黙り込んだ時が一番怖いぞ」

ポツリとイグロウが呟いた。それを聞いたロペルがミラールの顔を覗き込んで、震え上がった。彼女は凄まじい表情をしていた。

ミラールは素早く飛び込んで、暴れ回るラクソンの尾を掴んだ。ラクソンは凄まじい力でそれを振りほどこうとする。

「フンッ!」

ミラールは、気を尾を掴んだ右手に送り込み、握力を倍増させた。ラクソンが、掴まれた尾の痛みに悲鳴を上げる。

「ンギャアッ!!」

ラクソンの翼が、両側からミラールの頭を狙って来た。ミラールは身を沈めてその一撃をかわしながら、ラクソンを引っ張った。ラクソンの体がタンスの上から落ち、重たい音と共に床に叩きつけられた。

「ギャオーッ!」

痛みと怒りに吠えるラクソンの頭を、ミラールの掌が撃った。表裏の連打である。が、骨・皮共に厚いラクソンにはあまり効いていない。牙を剥いて突進して来た。

「この、馬鹿者ーっ!」

ミラールが吠えた。真っ直ぐに右掌を突き出す。ラクソンの腹に掌が当たった瞬間、イグロウの目に、白い“気”のしぶきが見えた気がした。

ラクソンは舌を突き出して、部屋の奥まで吹っ飛び、壁に激突した。ドスンと床に転がる。

「いくらドラゴンでも、死んだんじゃねーかな…」

思わずイグロウがリスキンに漏らしたほどの、凄まじい一撃であった。

「ラクソン!起きなさい!」

ミラールは容赦なくラクソンを引っ張り起こした。ラクソンは、思いっ切り頭をはたかれた子供のような表情をしていた。

「ラクソン、おまえ、あずかりっ子だからって、甘えんじゃないよ。おまえが誇り高い白い(ラフト)ドラゴンの一族だろうが何だろうが、あたしには関係ない、ただの手の掛かる子供ってだけだよ。困ってるから全てが許されるなんて虫が良すぎるわよ。おまえも頭はいいから、本当は判ってるんだろ?判ってるんなら、悪い事は悪い、と素直に認めて、きちんと謝りなさい。『どうもすみませんでした』ってね」

ラクソンは最後の抵抗を試みた。牙を剥いて、威嚇の声を上げた。しかし、再度ミラールの掌の二連打を浴びて、尾を股間に巻き込んで首をすくめた。

「ほら、デントンに謝りなさい!」

ミラールにそう言われて、ラクソンはデントンに向かって、何度も頭を下げた。まるで泣きべそをかいているような表情である。

「まあ、こんな訳だから、デントンも、この子を許してやって」

ミラールが、まだペコペコしているラクソンを見ながらそう言った。その表情は、母親が我が子を見るそれであった。

「はい、判りました」

デントンは、ようやく怒りの収まった顔でそう言うと、ラクソンに近付いた。ラクソンは、今だにペコペコとしている。

「もういいに、ラクソン。判ったで、ここらで仲直りしよまい」

デントンはそう言って、ラクソンの頭に手を置いた。ラクソンの動きが止まり、その口が笑うかのようにニーッと裂けた。

デントンが殺気を感じた時は遅かった。ラクソンはパクリとデントンの手に噛みついた。

「こっこのバカッつら!せっかく許してやろうっつーだに、何てことするだあ!?」

またもや大騒ぎである。

「出来の悪い子供を持った気分だわ」

ミラールは額を押さえて呟いた。


【4】


「ギャハハハハッ!愉快、愉快!」

夜明け。朝もやの中をついてバスターの高笑いが響き渡った。一夜明けて、平静を取り戻した兵営に、バスターがひょっこり顔を出したのだ。

「何よ、何にも手助けもしてくれなかったくせに、一段落着いたら笑いに来るなんて。卑怯もいいとこだわ」

ミラールは頬を膨らませた。彼女の膝の上には、聞き分けの良くなったラクソンがちんまりと座っている。

「まあまあ、そう怒るなって」バスターは尚も笑いながら言った。「それにしても、ラフト・ドラゴンをぶん殴るたあ驚きだ。そんな奴、今まで見た事もないぜ。恐らく史上初だろうな」

「何とでも言いなさい。それでラクソンがちゃんといい子になったんだから、それでいいじゃないの」

「てめえのガキじゃあるまいし、何をそんなに入れ込んでんだい、お姐さん。いい歳して子供もいないんで、その代わりに可愛いがろうってのか?」

バスターがそう言った途端、ミラールの表情が変わった。凄まじい眼でバスターを睨むと、すぐに視線を逸らせた。

「ま、まあ、とにかく」横で二人のやりとりを黙って聞いていたイグロウが、間に割って入った。「かねてからの懸案だった、このラクソン坊やも聞き分けが良くなって、とりあえず当面の問題は片付いたんですから、ま、みんな、仲良くいきましょう。大人がケンカしていたんでは、ラクソンに笑われますぞ」

ミラールはそれに弱々しい笑顔で答えた。バスターはしばしの間、指で額をかいていたが、すぐにミラールに向かって口を開いた。

「すまねえな。俺は昔から『ひとこと多い』ってのがクセなんだ。まあ、悪気はねえんで、今日のところはカンベンしてくれ」

そう言って手を差し出す。

「別に」

ミラールはそれだけ言うと、バスターの手を握る。次に腕を立てて握り変え、更に手を離してこぶしを打ち合った。傭兵スタイルの握手である。

「それはともかく、ケガは治ったものの、この子がどうやって家に帰るか、が問題なのよ」

ミラールは、ラクソンを見ながら言った。ラクソンは何を考えているのか良く判らない目で、ミラールを見返している。

「子供とはいえ、こいつはドラゴンでしょう。飛んで帰れないんですか?」

と、イグロウ。

「あんた、何にも知らねぇんだな」バスターが高慢な態度で囗を開いた。「ドラゴンったって、万能じゃねえんだ。しかも、ラフト・ドラゴンと来た日にゃあ、なまじ成年の個体がずば抜けて優秀だからよ、それなりに弱点もあるって訳よ。ラフト・ドラゴンの最大の弱点は、繁殖能力の低さと、成長の遅さなんだ。他のドラゴンは、三年もすれば成体になるが、ラフト・ドラゴンは、十年はその弱々しい大トカゲの姿から脱皮する事は出来ない。幼生のドラゴンは、狼にすら勝てないんだからな。これが、ラフト・ドラゴンの数が少ない訳なんだよ。少しは勉強になったかい?え、司祭様よ」

「ありがとうございます。あなたには教えてもらうばかりで」

イグロウはあくまで低姿勢を崩さずに答えた。

「何だよ、人がせっかく挑発してるのに、乗ってこねえ。つまんねー奴だな、お前はよ」

そうイグロウへ毒づいたバスターの体が、ビクリと動いた。ミラールの膝の上でコロリとしていたラクソンも、ガバと跳ね起きる。どちらも、どこを見るでもなく目を空にさまよわせ、何かに耳を澄ませているようである。

「どうしたの、バスター、ラクソン」

ミラールの問いに、バスターはかすれた声で答えた。

「凄い力の思考波だ。『ドラゴンの庭』へ来い、と言っている。どこだか判るか?」

「ええ。この兵営からなら四十ディボノースほどの所にある城の遺跡よ」

「よし、行くぞ。あの声は、多分アルバドだ」

「アルバド?」イグロウが聞きとがめた。「誰です?そのアルバドっていう人は」

「司祭様、人じゃなくて、ラフト・ドラゴンの名前ですよ」

ミラールが、バスターが余計な減らず口を叩く前に言った。

「隊長、良くご存知ですね」

「アルセア戦役中に、出逢った事があるんですよ」

「大したねえさんだな」バスターが珍しく本気で感心した。「それだけの体験をした人間なんて、滅多にいないぜ」


三人とー匹は、馬に乗ると『ドラゴンの庭』へ向けて出発した。兵営から『ドラゴンの庭』までは、ほぼ一直線にゆるい下りの牧草地が続いている。空は一点の曇りもない晴天である。ミラールは時々雲一つない空を見上げてみたが、どこを飛んでいるのか、ドラゴンの姿を見る事は出来なかった。

『ドラゴンの庭』へは、四 (グン)過ぎ頃に到着した。西の彼方にたなびく雲が、苺色に染まり始めた頃である。

『ドラゴンの庭』は、壮大な平城(ひらじろ)の遺跡である。古文献にあるように、ここはエイフの村にある『封印の城』と同じ建築様式を持った、ロウドロン族の遺構である。その規模は『封印の城』を遥かに上回る巨大さで、もし現存していれば、史上稀に見る文化遺産であったことだろう。だが今では、礎石と、ごく一部崩れた壁が残るだけの、風化しつつある遺跡でしかない。

「バスター、アルバドは、ここへ来いって言ってたの?」

ミラールは、広大な遺跡を見渡して言った。

「『ドラゴンの庭』がここなら、間違いない」

「確か、ここはドラゴンが海上へ抜ける為の中継点として使用するから、たまにそれを目撃する事がある、という場所ですよ。今から百年ほど前までは、ドラゴンも頻繁にここへ来ていたそうです。私がこの土地へ赴任した年にも、ドラゴンを見た、という噂がありましたよ」

イグロウも同じように見渡しながら言った。キョロキョロといつになく落ち着きがないように見える。

「どうしたんです?司祭様、ソワソワして」

「いやー、判りますか」ミラールに指摘されて、イグロウは頭を掻いた。「何せ、ドラゴンを見るのは初めてなもので…」

「ドラゴンぐらい、どうってことねーぜ。ただ巨大なトカゲってだけだ。特別扱いしてると、奴らつけ上がるぜ」

バスターはそう言うと、鼻で笑った。

その時、ふと辺りが暗くなった。何かが夕陽を遮ったのだ。

〈オ コロス ノロムロク バスター(相変わらずですね、バスター)〉

古代神聖語であった。上を見ると、巨大な皮翼を広げた一頭の白金色のドラゴンが、ゆっくりと降下して来るところであった。ミラールもイグロウも、思わず硬直する。特にドラゴンを初めて目にしたイグロウは、息も止まらんばかりであった。

「ったりめーだ、バーロー」バスターのみ威勢が良い。「五万年だか十万年だか知らんが、長生きしてるってだけで偉そうな口を利くなってんだ」

〈ソー ターラ ノル スポカ ロス エグラヌファ…(別に偉そうな口など利いていませんが…)〉

アルバドは笑って(そのように見えた)答えた。駄々をこねる子供をあやす母親のような目で、バスターを見る。

「それだ!その余裕たっぷりの目つきが気に食わん。しかも、どう足掻いてもお前には勝ち目がないってのが、もっと気に食わん」

バスターはそう言って、憮然として腕を組んだ。

ミラールとイグロウの二人は、今のやり取りにはついて行けなかった。ただ、イグロウは古代神聖語は学んでいるので、アルバドの言う事は何とか理解出来た。

(ドラゴンとケンカするとは…。人間沙汰じゃない)

彼の常識を遥かに越えたところで行われているやり取りに、彼の思考は麻痺状態である。

〈ラ フィナス(お嬢さん)〉アルバドは、遺跡の石柱の一つにフワリと降り立つと、ミラールを見て言った。〈ラ フィナス、ヴァ ラ クィノス ロ オ メス マクタ ナン ターブ サン(お嬢さん、私の息子を世話してくれて、どうもありがとう)〉

そう言われても、ミラールには何も答えられない。何と言っているのか理解出来なかったからだ。

〈オイ ロヴァム(おい、バアさん)〉と、バスター。しっかりと古代神聖語である。〈ミラール ノル ベン オブ タン(ミラールには、お前が何を言ってるのか判らねえとよ)〉

〈ノル マノ アカス ロヴァム(バアさんとは失礼な)〉

アルバドは小さく呟くと、今度は念話を加えてミラールに話しかけた。

〈ミラール、ありがとう。息子のアヴァルナの世話をしてくれたそうですね〉

「そ、そんな、とんでもない!」ミラールは、緊張の為、必要以上に大きく首を振りながらも、しっかりと答えた。頭の中が真っ白になっているどこぞの司祭とは、少々違う。「この子にとっては、とんだ災難だったと思うわ。レッド・ドラゴンに捕まるわ、私には叩かれるわで…」

〈叩かれる?〉アルバドが聞き咎めた。〈この子は、叩かれるような悪さをしたのですか?〉

「そうなのよ、聞いてくれる?」

ミラールはそう言うと、ラクソン(=アヴァルナ)の悪事を、残らずアルバドに暴露した。その為に思いっ切り殴った事も話した。悪事がばらされている間、ラクソンはミラールの腕の中で小さくなっていた。

〈そう…〉ややあって、アルバドが答えた。〈親というものは、種を越えて大変なものなのですね〉

「全く、その通りだわ…」

そう言ったミラールの言葉に、妙な間があった。その間を、イグロウもバスターも理解出来なかったが、念話で精神感応情態にあったアルバドには、全てが見えたようだ。

〈そう…、それは気の毒に〉それは、バスターでさえ初めて見る、ドラゴンの人間への同情の感情だった。〈あまり心を閉ざしてはいけませんよ。あなたはまだ若い。私のような老体ではないのですから〉

「ありがとう」

ミラールは、何かを振っ切るように元気よく答えた。

〈それにしても、"ラクソン"とはうまい名前をつけましたね〉アルバドが笑った。〈実は、"アヴァルナ"というのは、私達の言葉で"やんちゃな"という意味があるのですよ〉

「はー、それはそれは、偶然の一致というやつですな」

イグロウがミラールに言った。ミラールは、イグロウへの答えを兼ねて、アルバドに言った。

「親の考える事は一緒、という事ね」

〈まったく〉アルバドが小さく溜め息をつく。〈子供というのは、何とも世話のかかる生き物ですね〉

ンギャアッ!

二人の会話を非難するように、ラクソンが鳴いた。


【5】


〈では、私はこれで帰ります〉

アルバドはそう言うと、石柱から降り立った。ラクソンは、まだミラールから離れ難いらしく、ひしと彼女の胸にしがみついていたが、アルバドが目で呼ぶ迫力に負け、ようやくミラールから離れた。

ミラールは、そんなラクソンの頭をなでて、言った。

「ラクソン、いやアヴァルナかな。とにかく楽しかったわ。元気でね。気を付けて、もう二度とこんな事にならないようにね」

ラクソンは、彼女の手に顔をすり寄せて、まだ名残り惜しそうにしていたが、やがてくるりと踵を返し、一目散にアルバドへ向かって走り出した。アルバドは、上体を屈めると、小さめの前肢でラクソンを取り上げた。

〈ありがとう、ミラール。――あなたは、以前逢った時より強くなったようですね。だけど、もっと強くならなくてはいけませんよ〉

「ありがとう」

ミラールは一言だけ答えた。アルバドは一つ頷くと、巨大な皮翼を広げた。羽ばたく音は、爆発音を思わせる凄さだった。ミラール達は、吹き飛ばされないように足を踏んばらねばならなかった。

飛び上がる直前に、爆音のような羽音を衝いて、よく通る声でアルバドが言った。

〈ホルァ ムフ ミラ ミラール、カサム バスター、イグロウ。エルネウス ラフィソート タウ。カサム バスター、ターラ ホルプ ロ オブ ディテクタ(さようなら、ミラール、そしてバスター、イグロウ。達者で。それから、バスター、早く探し物が見つかるといいですね)〉

〈ギガ マクタ ナ、アルバド(大きなお世話だ、アルバド)〉

バスターは憮然として答えた。

アルバドはミラール達の上空で二・三度輪を描くと、ラフト山へ向けて飛び去っていった。しばらく、ラクソンの鳴き声が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなった。

辺りはいつの間にかタ闇が濃くなっていた。

再び馬上の人となったミラール達は兵営に向かって進み出した。

「ところで隊長。一つ聞いてもいいですか?」イグロウが興奮して口を開いた。「さっき、アルバドが『以前逢った時』と言ってましたよね。一体、いつ逢ったんですか?伝説的なあの生き物と」

「前の戦争の時ですよ」ミラールは簡潔に答えた。「話せば長くなるので、また後日に」

「俺も聞きてえな」と、バスター。「あんたの体験談は、今どきの奴にしちゃあ珍しく豊富だからな。ちょっと、あのアルバドとのなれそめも聞かせて貰いてえところだな」

「何ですか、その"なれそめ"っていう表現は。聞こえが悪いじゃないですか」

「何だと司祭。お前がそのセリフを言うな。それはミラールが言うベきセリフだろうが」

「そんな事はどうでもいいんです。大体あなたは、どうにも言い方が失礼なんですよ。さっきも何ですか、ラフト・ドラゴンに向かって悪口雑言の類を言いつのって」

「そんなの俺の勝手だろうが」

「いいえ。事は今回ばかりに限らんのですからな」

「何だよ、うるせー奴だな。大体お前はなー…」

二人の言い争いは、いつ果てるともなく続いている。そんな二人のやり取りを見ながら、ミラールは一人物思いに耽っていた。

来る時にはあった両腕の重みは、もうない。

不意に寂しさが込み上げ、ミラールはアルバド、そしてラクソンの飛び去った空を見上げた。満天の星空である。細った月の光が、星明かりにかき消されそうである。

その月の弱々しい光は、ミラールの目に浮かんだ涙を照らし出す事はなかった。

辺境の空気は、涼しさの中にも、夏の予感を含み始めていた。





おわり


H6?頃


20170904改


おおもとの原稿(手書き)では、古代神聖語はハングルを当てていました。

この国の公用語「アルキス語」は、ラテン文字を当てています。


アルファベットを当てているだけです(笑)


ちなみに、バスターの呪文の一部は梵字です(こちらは本物です)。

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